シガー・カタログ<トリニダッド・ロミオ&ジュリエッタ・ダビドフ・コイーバなどの一般ブランド>   -8ページ目

GRIFFIN`S(グリフィン)

グリフィンは、ジノ・ダビドフの初期の弟子の一人、ジュネーブのバーナード・H・グロベットにより創設されたブランドだ。彼はヨーロッパで誰よりも早く、10年以上も前に、ドミニカ共和国産シガーの可能性に目をつけた。近年では、グリフィンの製造方法、マーケティングはともに、グロベットのかつての恩師の組織、ダビドフの影響を受けている。


コネチカット・ラッパーに包まれたシガーは見栄えもよく、作りも確かだ。味は、この種の外見のドミニカ産フィラーに期待する通りのもので、価格は一般シガーの中では比較的高い。

MONTECRISTO(モンテクリスト)

モンテクリストは最もポピュラーなハバナシガーで、毎年キューバから輸出されるシガーの約半分には、そのシンプルな茶色と白のバンドが巻かれている。だが皮肉なことに、1935年にこのブランドが誕生した当時、創業者のアロンソ・メネンデスとぺぺ・ガルシアは、モンテクリストを5サイズに限定し、流通量も制限しようと考えていた。両者はイギリスのJ・フランコウ社からH・アップマンというブランドを買い取ったばかりで、このブランドのバリエーションを広げることが二人の主な狙いだったのだ。当初、H・アップマン・モンテクリスト・セレクションと呼ばれたモンテクリストのシガーは、メネンデスのシガー作りの技とガルシアのシガー生産に関する知識を試すべく、ニューヨークのダンヒルを通じて高級サイドアイテムとして販売された。


単なるモンテクリストに名前が変更されたのは、イギリスでの販売代理店に選ばれたジョン・ハンターという会社のアイデアがきっかけだった。ライバルのフランコウ社がH・アッブマンを取り扱っているため、同社はモンテクリストを独立したブランドとして差別化したいと考えたのだ。目に鮮やかな赤と黄色のボックスのデザインや、その上に描かれた三角形の剣が交差した絵柄を考え出したのも、ハンター社だった。


第二次世界大戦中、ハバナシガーのイギリスへの輸入が制限されちめ、モンテクリストはダンヒル・ストアを通じて、主としてアメリカで販売された。初期のファンとして知られるアルフレッド・ヒッチコックは、戦時統制によって入手できなくなったイギリスの友人に定期的にモンテクリストを送ってやっていた。


戦後も、テュボスが加わった以外、モンテクリストのラインナップは変わらなかった。
カストロが権力を握ってまもなく、メネンデス及びガルシア一族はカナリア諸島に移住した。しかし、キューバに残ったあるある伝説的人物のおかげで、ブランドの一貫性はある程度保たれた。その人物とは「マンギラ」と呼ばれるホセ・マヌエル・ゴンザレスだ。ハバナでは今も史上最高のシガーローラーと考えられている「マシンギラ」は、監督下のローラーたちにとっては最も厳しい親方の一人でもある。安定した品質、そしてモンテクリストを特徴づけている独特のブレンドの大部分が彼の功績だ。


1970年代初頭、モンテクリストAに加え、コイーバのNo.1、No.2、No.3と同じサイズのシガーが、エスペシャル、エスペシャルNo.2及びジョイータとして仲間入りした。これと時を同じくして、モンテクリストは大きく飛躍する。歌手のトム・ジョーンズやイギリスの映画プロデューサー、ルー・グレードをはじめ、ショービジネス界に多くのファンを獲とくした。


この成功によって問題が生じたという見方もある。例えば、スペインに輸出される莫大な量のモンテクリストの質を一定に保つことは、確かに大変な仕事だ。市場規模がより小さいイギリスのような国でなければ、高い品質水準を維持することは難しいと考える人が多い。スペインの専売公社タバカレラとキューバタバコの間で商標をめぐる対立が生じたことから、モンテクリストが撤退することになると、スペインでは社会不安に近い大騒動が勃発した。


この商標をめぐる問題は、フランスはともかく、少なくともスペインでは解決の兆しが見え始めている。しかし、アメリカでドミニカ産モンテクリストが発売されたことは、これとは無関係だ。


独特のややオイリーなコロラド・クラロのラッパーを使ったモンテクリストは、繊細な香りとミディアム~フルボディの味にピリッとした辛みがアクセントとなっている。ピラミッドサイズのトレードマークといえばNo.2だが、多くの愛好家はNo.1(セルバンテス)に優るものはないと考えている。

DAVIDOFF(ダビドフ)

ダビドフの名は、スタイルとクオリティの代名詞として世界中に知れわたっている。製品は紳士用の香水からネクタイ、メガネ、コニャック、ヒュミドール、ブリーフケースに至るまで多岐にわたるが、そのベースはあくまでもシガーだ。タバコ製品中心で数百万ドルの企業を築き上げることは、現代の世界では驚くべき偉業と言えるが、それはジノ・ダビドフのインスピレーションと、エルンスト・シュナイダーのビジネスの才覚の賜だろう。


1994年1月14日に88歳で亡くなったジノ・ダビドフの生涯は、さながら20世紀の歴史の縮図だ。キエフに生まれたジノは、虐殺を逃れるため家族とともにスイスのジュネーブに移り住み、そこでタバコ店を開いた。その顧客にはレーニンがいたという。青年ジノは中南米のタバコ生産地を巡り歩いた末、最後にたどり着いたキューバの魅力に生涯取り付かれることになる。ヴィシー政権から大量のハバナ・シガーのストックを入手したジノは、第二次世界大戦が終了したとき、自分が類い稀なシガーの宝の山を手にしていることに気付いた。彼はシガーに対する深い知識と天性の人間的魅力を武器に、1947年、まずキューバのホヨード・モントレーのキャビネットをベースにしたシャトーコレクションを送り出した。続いて1969年、63歳のとき、ダビドフはキューバのタバコ産業からハバナ・ブランドであるというお墨付きを得た。


ジノ・ダビドフとエルンスト・シュナイダーの協力関係が始まったのは1970のことだ。スイスのベーゼルでオッティンガー・インメックス社というシガー輸入会社を営むシュナイダーは、ダビドフ・シガーの可能性に目をつけ、キューバタバコの協力を得て製品を開発した。ダビドフのハバナ・シガーには、それぞれ特徴的な味わいを持つ3つのシリーズがあった。最も重いのはシャトーシリーズで、最も軽いのはドン・ペリニョンNo.1、No.2及びアンバサドリスだ。その中間にサウザンドシリーズがあった。


だが、悲しいことにこれらのシガーはもはや手に入らない。これはオッティンガーとキューバタバコの中違いから生まれた悲劇で、この結果ハバナでのダビドフの生産は終了し、1990年3月以降、生産はドミニカに移されることになった。それまで非常にうまくいっていた両社の破局の理由については、様々な憶測が流れている。


ダビドフとシュナイダーは、その名誉にかけて、以前のシガーの味を再現しようとはしなかった。確かにコンセプトは踏襲されている。サイズはまったく同じで、それぞれ特徴的な味わいを備えた複数のシリーズを揃えるというコンセプトだ。だが、彼らは最高のドミニカ産シガーを作り出すことに挑んだ。全体的な味わいが軽くなるのは仕方ないが、そのシガーはきっと多くのスモーカーに気に入られるに違いない、と彼らの正しさを証明している。しかし以前のダビドフ・ファンの中には、心底がっかりしている人々がいることもまた事実だ。


クラロのコネチカット・ラッパーを使ったドミニカ産ダビドフは、非の打ち所のない完璧な作りを誇る。以前のシャトーシリーズに代わる「グラン・クリュ」シリーズは、最も深く重い味わいを提供する。No.1、No.2、No.3及びアンバサドリスはこのうえなく繊細かつマイルドで、サウザンドシリーズもマイルドな味わいだ。さらに「スペシャル」セレクションとして、スペシャルR(ロブスト)、スペシャルT(ピラミッド)、ダブルR(ダブルコロナ)、最新のスペシャルC(キュールブラ)といったより太いシガーも存在する。


最後に、アニベルサリオと名付けられた2つのサイズがある。この名称はもともと、ジノの80回目の誕生日を記念して作られたスペシャル・エディションのキューバ産シガーに初めて使用されたものだ。これらは、このサイズのシガーとしては驚くほどの軽さが特徴だ。