毎シーズンの恒例行事ですけれど、TVでは番組改編期とあって特番の嵐でありますね。

特段見たいものもないながら、まあ見てみますかねと思ったのが、

NHKのドラマ・スペシャル「神様の女房」でありました。

(どうもNHKばかりですが、ま、回し者でないことは褒めてばかりいないことかと…)


パナソニック(元・松下電器産業)創業者で、経営の神様とも言われた松下幸之助とその妻むめのの

二人三脚創業物語であります。

原作本の紹介にはこんなふうにありますね。


丁稚から身を起こし、後に松下電器産業(現パナソニック)を一代で築き上げた稀代の経営者には、数々のエピソードが残され、それらは今なお語り継がれている。だが、そんな幸之助の奇跡の成功ヒストリーを、陰で支え続けた“もう一人の創業者”がいたことは、意外に知られていない。その人物こそ、幸之助の妻、むめのだった。

なるほど、確かに奥さんの話というのはおよそ聞いたことがない。

そこで、「それにしても『Taroの塔 』に続いてまた常盤貴子さんかいね…」と思いつつも

昨日の初回を見てみたわけです。


見始めて思いますのは、昔ふうな言い方になりますが「内助の功」的な役回り以上のものを

果たしているようでありながら、それが外に聞こえてこない…逆説的にいえば、

それこそが「内助の功」なのかもですが。


てなことを思う一方で、ふっと考えましたのは「この番組、何で今なんだろう…」ということ。

もしかして、松下幸之助生誕○年とか没後○年とかいうタイミング?と思って検索してみたものの、

どうもそうこうことではなさそうなのですねえ。


検索の過程でたまたま行き当たったのが、

この番組のプロデューサーがドラマの魅力を語っているページ。

その中にあった「企画自体はいつごろから始まったのでしょう」という問いに対しての答えを引いてみます。

実は当初から企画を進めていた担当者から、私は途中で引き継いだんです。ちょうどクランクインの少し前でした。

企画自体は昨年の春くらい、もう一年以上前から進んでいたと聞いています。ところが、その間に震災があったり、政治がガタガタして日本が揺らいだりしました。とりわけリーダーについて、いろんな考え方が持たれるようになりました。

ですから、まさに新しい時代のリーダーが必要になっているときでもあり、これからのリーダー論ついても一石を投じられるものになるかもしれない、ということは企画を引き継いで思いました。

ここまで引いて「いったい何が言いたいのか」ということにお気づきの方は

初回をご覧になった方でしょうか。

リーダーに関してうんぬんされている状況はあったでしょうから、

それはそれで「ふむふむ」と思わなくはない。


ただ、若き日の松下幸之助が電気の大きな可能性を熱を込めて語る場面を見て「おや?」と。

松下伝説のドラマ化ですから、電気を抜きに語れるわけはないのですけれど、

今このときに「電気の可能性」か…と。


間違いなく幸之助が若き日を過ごした大正期から、

昭和、平成と電気の恩恵に浴しまくってきていますけれど、

今になって立ち止まって考えてる人が多いような気がしないではない。


これ以上、ドラマの制作意図やら受ける印象やらに立ち入ることもしませんけれど、

(まあ受けた印象もひとそれぞれでしょうし)

違和感とは言いすぎながら少し、すこぉししっくりこないものを感じたのでありました。


初回だけでとやかく言えるものでもありませんから、

たったの3回だけのシリーズとあれば全部見ちゃうとは思いますけど、

見終わってみると、また別の何かを思うことがありましょうか…。

映画「炎の人」にゴッホ 役でカーク・ダグラスが出演したときに、
「気が狂って騒ぐような、そんな役をやるもんじゃぁない」てなことを言った御仁がいたのだとか。


「おれたちはタフガイなんだから」というわけで、そのイメージを崩しちゃいけん!ということらしい。

この御仁というのがジョン・ウェイン でありまして、
なるほど「強いアメリカ」を体現する看板役者の矜持でありましょうかね。


てなふうに考えると、

蒸気船による威嚇効果を利用して強く日本に開国を迫ったペリー の姿と重なる気もしないでもない。
ペリーご本人も大した威丈夫だったようですし。


そう言えば「黒船」なんつう映画もありましたねえ、確かにジョン・ウェインが出ていました。
もっとも、ペリーでなくって
タウンゼント・ハリス の役だったようですが。


とまあ、そういう思いつきでジョン・ウェインの映画でも久しぶりに見るかと思ったのですね。
どうせなら
和田誠 さんの「お楽しみはこれからだ」に紹介されている作品にしようということで、
取り出だしたるは、ジョン・ウェイン主演、ハワード・ホークス監督による映画「赤い河」でありました。


赤い河 オリジナル・バージョン [DVD]/ジョン・ウェイン,ウォルター・ブレナン


何でもユナイテッド・アーティスツと松竹の提携作品なんだそうで、
1948年(戦後たったの3年)の制作ということを考えると「へぇ~」と思うところではあります。


ところで、この「赤い河」ですけれど、ハワード・ホークス監督作品ということで
思い込みとしては派手なドンパチもある娯楽活劇かと思っていたところが、さにあらず。
西部開拓の一面を伝える物語と言ってもよいのかなと思うわけです。


時は1851年。開拓民を乗せた幌馬車隊が西へ西へと向かっているところから始まります。
ここでまたペリーを出すのはどうかと思いますが、

ペリーが日本にやってくるのが1853年で、その2年前のようす。
西部開拓の人たちがこうして移動していったのだなと思いを馳せたりするのですよ。


わずかな牛を連れたトーマス・ダンソン(ジョン・ウェイン)は

相棒であるグルート(ウォルター・ブレナン)と共に西へ向かう幌馬車隊の一行から離れ、

良い牧草地を探して南へと進路を取るのですね。


家をインディアン に襲われて一人荒野を彷徨っていた少年マシューを途中で仲間に加え、
三人してようやくにして良い水、良い牧草がある土地を見つけ、牧場を作ることにするという…。
(今ではインディアンという言葉のみならず、こうした描き方も一面的なのだなという理解はありますが)


ここで「え?」と思うのは、見つけたこの牧草地はすでにしてダンソンの所有だというあたり。
まあ、見渡す限りの平原で誰一人いないし、通るものとてあるかないか…てな場所ですから、

それでも良かったのですね、きっと。


そして、瞬く間に14年のときは過ぎ去りまして、

そこには今や一万頭にも及ぶ牛を抱える大牧場主となったダンソンと、
立派な青年に成長したマシュー(これを若きモンゴメリー・クリフトがやってます)、
そしてすっかり老人になってしまったグルートがおりました。


ところが、この14年の間には南北戦争をあって、

すっかり疲弊した南部では牛を取引が成り立たない。
このままでは牛を抱えて野垂れ死というところで、

ダンソンは鉄道が通うミズーリまで牛を連れていけば流通経路にのるに違いないと踏むのですね。

やはり鉄道は西部開拓の大きな助けになっていたようで。


しかし、一万頭の牛をミズーリまで1,000kmもの道のりを越えて連れて行くというのは

並大抵なことではない。その苦闘の旅が今、始まろうとしているのでありました…。


だいたい西部劇を見るにあたって、いつ頃の物語という時代背景的なことを考えてみることは
あまり無かったように思うわけですが、改めていささかの注意を払いつつ見てみれば、
それなりに気付くことはあるなぁと思ったりもするのでありました。

幕末の開国にまつわる関心事は、

先の駿豆紀行で赴いた下田 のところで一旦落ち着きをみせたところでありますが、
先日来NHKの「さかのぼり日本史」なるTV番組で幕末が取り上げられたこともあって

俄かに急浮上したのですね。


折りしもいつもならフランス史に関連した本を書いておられる作家の佐藤賢一 さんが

黒船 来航の小説を書かれたと知り、読んでいたのでありました。

その名もずばり!「ペリー」というタイトルであります。


ペリー/佐藤 賢一


黒船の来航は、永きにわたって鎖国を続けた江戸期の日本を揺るがして、
そのままあれよあれよという間に明治維新にまで行ってしまうという大きな転換点だけに
日本史の中で注目されるのは当然なことではありますけれど、

これをアメリカ側から見た話というのはあまり聞かない…。


その真っ黒な威容ともくもくと立ち上る黒煙、

そして風もないのに海上を行き来できる外輪といったものの全てで、
黒船は当時の日本人に強烈な印象を残したものの、

当たり前のことながら「黒船」自体が勝手にふらりと現れたわけではない。
幽霊船じゃあないんですから。


当然に操船している人間、操船させている人間がいるのでして、
それが合衆国海軍大佐マシュー・カルブレイス・ペリーであったわけです。


ちなみに当時の合衆国海軍では大佐(Captain)が最上位階級だったそうで、
大佐という訳語よりもキャプテンというといかにも船長、艦長っぽい響きがありますから、

最上位というのもなるほどなと。


今ではさらに上位として将軍の階級があり、アドミラルと呼ばれてますが、
こちらはこちらで提督の訳語からすると「引退した感」があるような。
もひとつちなみに陸軍でキャプテンというと大尉になってしまうという…。


閑話休題。

(おお、久しぶりにこの言葉を使ったような。

和田誠 さんの装丁による狐狸庵先生遠藤周作 のエッセイでよく出てきました)


世界の海はキャプテン・クック そのほかの航海者たちによって

だんだんと謎の部分がなくなっていきましたけれど、
18世紀後半の海運国を代表するイギリス、オランダは共にヨーロッパにあって、
もっぱら大西洋、そしてインド洋を渡ることで広く世界とやりとりをしていたわけですね。


アジア地域に関してはインドに到着し、東南アジアを経て、ついには中国に到達します。
その先には再び広い太平洋が広がり、その先はアメリカになるという。


ヨーロッパからアメリカに行くなら大西洋を渡っていけば言い訳で、
アジアに来るにしても喜望峰廻りのルートの方が近いのでしょう。

探険航海で太平洋を渡ることはあったにせよ、

実利的な点ではヨーロッパから太平洋に繰り出す意味はあまりない。

そして、中国のちょっと先に日本という島国があったとして、多少ちょっかいは出すにしても、
広大に中国で得られるであろう権益に比べれば日本の魅力は薄いと思っても、まあ当然かなと。


そんな状況のところへ登場するのが、アメリカなわけですね。
東海岸から西へ西へと国を広げていったアメリカは、

米墨戦争の結果1848年にカリフォルニアをメキシコから割譲させるなどして、
ついに西海岸まで到達するのですが、西海岸のその先はといえば「太平洋だぁ!」と。


こうなるとアメリカにとって中国を目指すには
西海岸から太平洋を渡っていった方が近いではないかと考える人がいても不思議でない。
しかも、将来的には大陸横断鉄道となる鉄道網の敷設が進められていた状況でもあります。


となると、太平洋経由で中国に至る航路を考えると、
途中の日本にはぜひとも石炭、食料その他物資の補給基地としての役割を

担ってもらわねばとなるわけです。


ただ本書の場合には、こうした経緯も踏まえての日本開国要請は
ひとえにペリー個人の熱き思いによるものとされているところがありますね。


どこまでが史実に即したものかは分かりませんけれど、

本書はもっぱらペリー大佐の心持ちに沿って描かれていくのでして、
その感情露わな運びは「そんなんで日本に迫ってきたんかいね」という思いと同時に、
ストレートな人だなぁとにやりとしてしまう思いとを感じるのですよ。


秘書官として連れていった息子(さすがに海軍軍人ではありますが)が艦長室で二人だけのときに、
「父さん」と呼びかけようものなら、「船の上では、そう呼ぶな」みたいなことを言ってみたり、
威嚇に屈するばかりでないような日本側の接遇には

「さすがに私が来たいと思った国だけのことはある」的に妙に関心してみたり…。


とまれ、幕末の歴史はもっぱら日本史として見ていましたし、
攘夷の対象とされた外国船もヨーロッパ中心の大航海時代の

延長線上で捉えていたわけですけれど、もう一つの極としてあるアメリカを

考え合わせてみないことには「やっぱりいけんよなぁ」と思ったものでありました。

印象派ほどではないにしても、

どうやら写実(の作品を見ること)も流行りなのかなと思ったりするのですね。


千葉の方には写実専門のホキ美術館なる施設ができたりしたようですし、

このたび出掛けた練馬区立美術館で開催中の「磯江毅=グスタボ・イソエ」展も結構な人出で、
先日の「モーリス・ドニ」展 の空き具合とはずいぶん対照的だなと思ったわけです。

でもってその「磯江毅」展ですけれど、なるほど聴きしに優る写実であったなぁと。


「磯江毅=グスタボ・イソエ」展@練馬区立美術館


必ずしも「写実」という言葉通りの見た目を呈する作品かどうかは別として、
写実主義=リアリスムといえばクールベ あたりを思い浮かべるところでありますね。


ですが、もっともっと「スーパーリアリズム 」なんかにも近いような

「え?写真じゃないの?」と見紛うばかりの写実は、まさにスーパーリアリズムもそうですが、

例えば諏訪敦さんの作品 を見たりしたときにそのリアルさ、実物と区別が付かない迫真性に感嘆し、

そこにこそ見る価値があるかのように独り合点していたのですよ。

そういう意味では、写実は目的、それも最終目的だと思って見ていたわけです。


ところが、こたびの展覧会で作品の合間合間に掲示された作者の言葉を拾っていくと、
どうもそういうことじゃあなさそうだということにようやっと気付いたような次第。

私は、写実は出発点であって最終目的だとは思っていおりません。いうならば写実を極めることは、写実ではなくなってしまうことと考えています。物の成り立ちを見極め、やがてそれを解体・解剖することだと思うようになったのは、私の個人的な発想ではなく、長年住んだスペインで見ることを極めてきたヨーロッパ美術の歴史が教えてくれたことだと確信しております。

こうもはっきり「最終目的ではない」と言われてしまうと、そりゃあ考えるというものです。

そこで思い至るのは、「んじゃ、目的でなくって手段なんだぁね」ということ。


よくよく考えてみますと写実は「実を写す」のでして、

どれだけ実物の似ているかで勝負するようにも思いますけれど、

そもそも三次元の物体を二次元に写しかえる時点で限界ははっきりしてますね。


それでも、さも三次元の実物であるかのような迫真性に限りなく肉薄すること自体も

目的たりうるような気がしないではないですが、一見写実に徹して、徹しきっているようでいて、

「本物に似ててよかったね」ではない、作品としてのオリジナリティーを求めてこその作家なのかなと

思ったりするわけです。


迫真の写実!それはそれで凄い。

でも、作品をよぉく見れば、これは実を写したものを超えたところに

作品の意味があるてなふうにも考えられるような気がしてくるのですね。


「磯江毅」展フライヤーより


これは同展フライヤーより借りてきたほんの少々の作品ですけれど、

例えば裸婦における人体表現などは、後にスペインの大学で人体解剖学まで学んだこともあって、

作品によっては皮膚の下には青い静脈があるんだよね…ということを想起させるような書き込みよう。


ただそう書いてしまうと、「やっぱり写実が目的ぃ…?」とも思ってしまいそうになりますが、

部分部分でなくして全体を改めて見てみれば、とにかく実を写すだけでは窺いようもないであろう

リリシズムが感じられないでしょうか。


たまたまこのときに、こんな見方に気付かされたようなところがありますけれど、

何も磯江作品に限らず、写実といわれる作家たちの思いは

「似てる、似てない」で見られることを想定しているわけではないのではなかろうか…

と、例によっていまさらながらに思ったような次第でありました。

先に弥生美術館 から東大博物館の小石川分館へとてくてく歩いて行ったと言いましたけれど、
このときはさらに小石川から茗荷谷を下って、小日向へ登り返しまた下って護国寺に至るという
「俄か墓まいらー 」らしい行動に出たのでありました。
その道々で行き当たった何かしらを、例によって落穂拾い的に記しておくといたします。


まずは弥生美術館に赴くにあたってですけれど、美術館の名前になっている「弥生」は町名でありまして、
そしてこの弥生町で発見された土器に「弥生式土器」という名前が付けられたのでありますね。
よもや東京の町名とは?!と思いますけれど、実際このような碑が立っているのですよ。

「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑


そうそう、弥生美術館は東大のそばと言いましたけれど、

有名赤門や正門といった表玄関とは別に裏門的に弥生門というのがありました。

ちと洒落てるので載せてみます。

東京大学弥生門


さて、弥生町から小石川へ向かう際の裏道沿い、円乗寺というお寺には八百屋お七の墓所が。
井原西鶴の「好色五人女」などにも描かれるお七でありますけれど、
鼠小僧ではありませんがやっぱり実在の人物だったのでありますねえ。

八百屋お七之墓


この後に例の異形の展覧会 を見たわけですが、

そこから程なくの茗荷谷駅に近い窪町東公園にもこんなものが。


カイザースラウテルン広場


カイザースラウテルン広場と名付けられた空間に、「神話空間への招待」というオブジェが点々。
なんでも文京区はドイツのカイザースラウテルン市と姉妹都市だそうで、

同市の彫刻家に依頼して作ったものなのだとか。

右側はユニコーン、左側はカイザースラウテルン市の紋章にもある魚だそうです。


茗荷谷駅近くでは地下鉄のくせに(?)東京メトロ丸の内線が地上を走ってますが、

これを横切ってしばし、林泉寺というお寺さんでは「しばられ地蔵」が見られます。こんな具合。


林泉寺しばられ地蔵尊


いやはやものの見事に縛られてます、顔がほんのすこし見えるだけですから。

元は大岡越前守の「大岡政談」にお地蔵さんを縄でひっくくる話があるようですけれど、

願をかけつつ縄をしばり、叶ったらほどくということなんですが、

見る限りどうも叶わぬ願いばかりのようで…。


この林泉寺のすぐ先にあるのが深光寺で、ちょっと前に読んだ「南総里見八犬伝 」の著者である

滝沢馬琴 と執筆を手伝った路女の菩提寺であります。


滝沢馬琴之墓


そこから蛙坂を登りつめてしばらく進みますと、こんな石碑に出くわすのですね。

「切支丹屋敷跡」と書かれています。


「切支丹屋敷跡」碑


切支丹屋敷といいますのは、切支丹宗門改めの任にあった井上筑後守の下屋敷であったからだそうで、

屋敷内の牢で改宗を迫った(つまりは拷問…)ことから、この名があるようです。

今ではすっかり閑静な住宅街ながら、ちょっと前にペドロ岐部 の話を読んだりもしましたから、

反って何もない平穏な様子に戸惑う気がするところではありますね。


と、高台だったあたりから今度はまた下りにかかりますが、

「鼠坂」と呼ばれる坂を急降下で下ります。

森鴎外 は、小説の中でこの坂のことをこんなふうに書いているのだとか。

小日向から音羽へ降りる鼠坂と云ふ坂がある。鼠でなくては上がり降りができないと云ふ意味で附けたさうだ・・・人力車に乗って降りられないのはもちろん、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい・・・

その鼠坂を下りきって振り返ると、こんなふうなんですが実際は見た目よりももっと大変でありました。


鼠坂

そんな鼠坂を下りきって右手に折れ、

崖線に添うようにしばぁらく進んでいきますと不忍通りにぶつかりまして、

通りの向こう側が護国寺であります。


護国寺惣門


思いのほか大層なお寺さんでびっくりしたのも束の間、

いかにも「俄か墓まいらー」の準備の悪さ、

いろいろ肖りたいような人のお墓がいずこにあるかがとんと見当がつかないのですね。


せめてジョサイア・コンドル の墓所だけでも参っておきたいところだったですが、

ここには改めて機を見て再訪をもくろむしかないかと。

と、いささかしまりがよろしくないですが、こたびもいろいろなもので出くわすことができました。