通院している先でこんなふうに聞いてみたのですね。
「やがて、直った!っていう瞬間があるんでしょうか?」


最初の違和感を覚えてから3か月。
今通っているところに行き始めてひと月半くらいになりますけれど、
この間は「三歩進んで二歩さがる」的な状況の推移ながらも、少しずつ改善していると思っていたわけです。


そして、ある程度の期間も経ってこの間を一足飛びに顧みると、
ひと頃の難渋に比べれば格段によくなってきていると思ったものですから、
気が早いのかどうかはともかくとして、先のような問いを発してみたような次第なのですね。


されど、これに対して返ってきたのは「まあ、それはないでしょうね」という応え。
まあ徒に患者を喜ばせるのが医師の仕事ではありませんからねえ…。


ただ、直る直らない、完治するしないということよりも、痛みやら痺れやら、そして

これに付随する晴れない気持ちやらも加わって生活の上でかなり行動に制約があったものが、
「あんなことも、こんなことも気がついたら普通にやってるようになっていた」
ということを目指しましょうとのお言葉。
なるほど、そういうものかと。


個人的なことで振り返ってみても、ブログに何かしらアウトプットせずにはおられん!と思ったところで

どうにもならず「お休み!」という時期があり、その後アウトプットだけはできる

(つまりは何らか記事を書く)ようになったもののそれが精一杯という時期もあり、
少し前くらいから他所へもお邪魔をしてすこぉしカキコを残してきたりという状況になってきているわけですね。


日常生活的には職場に出るのも休み休みだったものが何とか毎日になり、
職場との往復が精一杯だったものがちと演奏会やら芝居やらに出かけてみようかと思うよりになったり。


もっとも慢性的な睡眠不足状態ですので、往復の電車の中ではしっかり寝て、

開場から開演までを席で寝て、休憩時間にはまた寝て…と健気な?努力をしていたわけですが、
それでもやっぱり行くと楽しいと思えるようになったのは、改善以外の何ものでもないのかなと。


そんな中でいささか足が遠のき気味だったのが展覧会でありまして、
これまでに見逃したものは数知れずの状況にあるものの、

まあ巡り合わせが悪かったとこれは諦めるしかありませんね。


でもですね、絵を見るというのもやはり刺激的ですよね。
ブリヂストン美術館 で改めてそう思いましたですよ。


開催中の展覧会は「パリへ渡った『石橋コレクション』一九六二年、春」というもので、
ブリヂストン美術館の所蔵品、特に近代フランス絵画がフランスへの里帰り展で大盛況であったことを
振り返るものでありました。


「パリへ渡った『石橋コレクション』一九六二年、春」@ブリヂストン美術館


ブリヂストン美術館の所蔵作品はこれまでに何度も目にしていますけれど、
里帰り展を大いに賑わせた作品の数々をちょこっと東京駅八重洲口から徒歩数分で

いつも見られることの幸せを感じずにはおれませんですね。


以前にも書きましたけれど、日一日を経るごとに毎日同じようでありながら、
確実に何かしらに触れることで自分は変わっている。
その何かしらに触れる以前の自分には戻りようがないわけです。


見慣れたと思う作品であっても、
そんな新鮮さでもって向き合うときには必ず新たな印象をもたらしてくれるものです。
前に見たときには特に何を思うこともなかった作品が、やおら雄弁に語りかけてきたり。
(もっとも逆に、前はいいと思ったのに今度はさほどにも思わないとかもありますが)


…ということで「病いは気から 」が現状どこまで関係しているかはともかくも、
出かけようかな、見に行こうかなと思えることそれ自体もまた幸せなことと考えていこうと思っておりますよ。
春到来の趣きでもありますし。

しばらくユニークな文体(?) の小説を読んでなかったなと思いまして、
以前新聞の書評だかコラムだかで紹介されていた本が「何となく変わっていそうだな」と思い出し、
うろ覚えの検索をかけたところ、どうやらせきしろさんの「逡巡」ではなかったかと図書館で借りてきたのですね。


逡巡/せきしろ


ただ、どうやらユニークな文体かなというのはちと思い違いでありまして、
どうやら短文の紡ぎ手としてはわりと有名な方であったようで。
(新刊をあまり追いかけないものですから…)


読み始めてまず思ったのは、その極端な短さ。
星新一のショートショートでさえこれほど短くないのではないかと。
ほぼ見開きで完結する(完結してしまう)ものもありました。


反面、短編の中でも短め…くらいにページを繰るものもあったのですけれど、
ちと感心したのは小見出し的に登場する「短文」(よーするに一文ですね)。
これ自体で結構想像力を刺激するところになってまして、例えばこんなのですね。

コイン投入口がガムテープでふさがれている

ついついその後の物語を紡ぎだしてみたくなってしまうものがあります。


ということで、短めというとっつきやすさからしても、
「これなら書けるな」くらいに思ってしまうところなのですけれど、
大したものだという思うのは、短い作品がたくさんあるというその数の点でしょうか。
ひとつふたつなら何かしら書けようものでも、これだけまとまった数はなかなかでけんのぅ…と。


ところで、年代的に作者とは近からず遠からずなのですが、
通して思うところは、何がしかの「懐かしさ」のようなものかなと思ったり。
もしかしたら、必ずしも年代的なところに関わらない普遍性を持っていたりするものもあるのでしょうけれど。


今の時期という折りも折り、思い出の類いが甦りやすいかもしれませんけれど、
このような部分は誰しも思うところかもしれませんですね。

バイトを終え、単調な一日が終わった。帰宅途中、夜の環状道路を歩いていると、不意に春の匂いがした。
春の空気は青年の記憶を掘り起こした。
高校時代の春が蘇った。
卒業式が蘇った。
故郷を出て初めて都会に来た日が蘇った。
青年は意味もなく泣きそうになった。

東京では先週でしたか、天気予報で翌日は暖かくなると言われていた日の夕刻、雨上がり。
まだまだ寒さを感じるものの、ふっと「春が香ったな」と思ったのですよ。
個人的には今シーズンで初めてもことですが、本当に「不意に」ですね。


本書のことにもどりますと、
短い文章でいろいろな感懐を織り成すことをされている作者だけに

ひとつひとつの言葉を大事にされているものと想像するのですけれど、

どうもその言葉遣いの点ではぴたっとこない部分がまま出てきました(あくまで個人的には、です)。


てなこと言って、自分でやる創作まがいがどれほどのものであるかは棚上げ状態ですが、
ちょっとまた創作でもしてみたくさせられる、ほのかな刺激があったなと思うのでありました。

クラシック音楽を聴くとは言いつつその聴き方には非常に偏りがあるのでして、
先頃ちょこっと弦楽四重奏 をかすめたりもしましたけれど、実は日常的にはほとんど聴いてはいませんし、
ごくごく普通に多くの人が聴いておられようピアノの音楽もおよそ近寄らずといった具合。


室内楽にしてもピアノにしても、

これまではオーケストラの曲を中心として聴きたいなと思ってる曲を聴いてると、
いかんせんそちらまでは手が回りません…ということでもありますし、元来吹奏楽あがりのせいか、
ある程度の大きさの編成を持った曲にばかり目が向いていたということでもありましょう。


しかしまあ、じわじわと人生枯淡の域に踏み込んでいきますと

ダイナミクス勝負にいささか疲れを感じることもあり、これはハリウッド映画の

「ドンパチドンパチ、ドッカ~ン!」というのが厭わしくなってきたのと近いのかどうか(違うか…)。


これまでピアノ独奏の演奏会と言えば

ショパン作品集 的なものくらいしか足を向けたことがなかったのですが、
「頃合いや良し!」というわけで出かけてみました。ピアノ独奏のリサイタルに。
(といっても、紀尾井ホールのご招待なんですけどね…)


高橋礼恵ピアノ・リサイタル


とまれ、そんなふうなそこはかとない動機で出向いたわけでありますが、
やっぱり「ここでなら思う存分自由に鳴っていいけんね、ピアノくん!」という空間に

身をおいてみるというのは、家でCD聴いてたりするのと違うもんですよね。

いかに聴き流していたを思い知るところでありますよ。


オーケストラの大音響を耳ばかりか体全体で受け止めるようなことは想像もできますし、
実際に出かけてみればそういう体験をすることになるわけですが、
ピアノでもそうなんだぁ!と思ったのですね(よくお聴きになる方は自明でしょうけれど)。


これも紀尾井ホールというどでかい器でないところで、
たまたま宛がわれた座席が2階左サイドで奏者の弾く鍵盤を斜め後方から見下ろすような

位置であったため、取り分け演奏会を「見る」という要素が強く加わったせいでもあろうかと。


さらにこたびの高橋礼恵さんの演奏は、近くでベートーヴェンの「熱情」ソナタ を聴いた若者をして
「怒りのベートーヴェン」と言わしめるほど力の籠もったものであったことも当然に影響してると思いますが。


その強弱の対比にハッとさせらることしばしの演奏からは、
個人的には「怒り」というよりもほとばしる激情を感じたものですけれど。


ところで、プログラムとしてはベートーヴェン に始まり、ブラームス を経由して

最後にはバルトーク という、ピアノ素人にはいささか重量級に思えるところだったわけですが、
今さらながらに思うところは、ベートーヴェンの型破り具合でしょうかね。


音楽史的には、バロック に続いてハイドンモーツァルト 、ベートーヴェンが古典派、
その後シューベルト やらメンデルスゾーン やらシューマン やらのロマン派を通って

現代音楽 に至るという、ざっくり言えばそういう流れがありまして、

後になればなるほど「ややこしい」音楽になると思ってしまうところです。


確かにこの日のプログラムの最後であるバルトークの「舞踏組曲」は、
見栄えも聴き栄えも満載な曲であると同時に、バルトークお膝元のハンガリー音楽のみならず
ルーマニア音楽やら果てはアラブ音楽やらの要素まで組み込んだという必ずしも馴染みやすくない曲。


ではありながら、そうしたあたりから遡ること100年ほど、ハイドン、モーツァルトの延長と思しき
ベートーヴェンの音楽は、それまでの流れからすれば何ともいえず型破りなものだなと思ったわけです。
どうも音楽に留まらないものを生み出そうとしていた、あるいは生み出したのが

ベートーヴェンなのかも知れんですねえ。


ま、そんなことまで想像させてくれたピアノの独奏。
これまた聴かずにいるのはもったいないことなのかも。


ただ今回弾いた高橋礼恵さんの演奏でコンチェルトを聴いてみたいなぁと思ってしまうあたり、
大編成モノから完全に抜け出してはいないようで。
それだけ枯淡の域には達していないということやも知れませんですね…。

何の気なしにDVDで映画「ツーリスト」を見てみたのですけれど、

思いがけずも舞台がヴェネツィア とあって、ヨハン・シュトラウス のオペレッタ「ヴェネツィアの一夜 」の

書き割り背景とは違うヴェネツィアらしい風景を見ることができたのですね。


ツーリスト [DVD]/アンジェリーナ・ジョリー,ジョニー・デップ,ポール・ベタニー


パリ からヴェネツィアに向かう列車で

謎の美女エリーズ(アンジェリーナ・ジョリー )と乗り合わせたフランク(ジョニー・デップ )。
こちとらウィスコンシンからやってきた一介の数学教師、つまりは単なるツーリストでしかないわけですが、
なにがどうなってるのかエリーズは車内でも、到着したヴェネツィア駅頭でもフランクの気を引くようなふう。


と思っているのはフランクばかりなりで

モーツァルト の裏返しではありませんけれど)「男はみなこうしたもの」なのかも。

お言葉に甘えてたどりついた超高級ホテルの超豪華スイートで、

フランクは夢のようなヴェネツィアの一夜を過ごす…はずでしたが、

ソファに寝かされて起きてみれば銃を突きつける物騒な男たち。当然エリーズの姿は無いという状況。


典型的な「巻き込まれ型」だなと思って見ておりますと、どうもそうではないという。
「巻き込まれ型」というより「巻き込まれて行き型」というべきか。


そして、もそっと深く予想をつけるつもりになればさもありなむと思う「なるほどね」の結末。

まあそうだろうなあという工夫のストーリーでありまして、

この結末を予想できなかったことの言い訳ではありませんけれど、
思い返してみて「ちょっと、待てよ」と思うのですね。


と、ここから先は気を付けて書きますが、

ほぼネタばれになりますのでこれからご覧になる方はご遠慮くださいね。


元々エリーズは黒幕アレクサンダーの指示で列車に乗り込む際に、
なるべくアレクサンダーに似た人物と接触するよう命令されているのですね。
アレクサンダーにすれば、エリーズが接触した人物を捜査当局が自分と間違うよう仕向けるためにです。


ですが、エリーズがフランクを選び出すかどうかは全くわからないながら、
実はフランクを選び出さないとこの話はそれ以上進まない仕立てになっています。

また、フランクがロシアン・マフィアに襲われてホテルからパジャマのまま逃げ出すようなシーン。


巻き込まれたと思しきフランクの右往左往、

しかもパジャマで日の昇ったヴェネツィアの街の屋根の上を逃げ惑うというのは、
かなり冒頭部なだけに、「あ~あ、とんでもないことに巻き込まれてしまって…」と見ている側に思わせる部分。


ところが、不意打ちであったにせよ、フランクにとって修羅場は必ずしも初めてではないでしょうし、
はっきり身の危険を感じたとすれば、おちゃらけてる(パジャマでふらふらはそう見える)場合では

ないわけですね。


つまり、コメディにも見えるような「巻き込まれちゃってかわいそ~」な

パジャマ姿の一介の数学教師の姿を見せるシーンは、作り物以外の何物でもないということになります。


別にリアリティばかりを求めているわけではないですが、

ここのところはこうした逃走劇にしといた方がおもしろいにしても
最後に種明かしをすると「あれはいったい何だったんだ」と思わざるをえないという。


一貫したストーリーへのこだわりよりも、

その場その場の面白さで組み立ててしまったのだなぁと思うわけです。
そこら辺が残念だなぁと。


とまあ、あれこれ言いましたけれど、さらっと見通す分には面白いんですけどね。

ところで、アンジェリーナ・ジョリーですけれど、
元来お顔の造作が大きめの人であるのに加えて、おめめ回りの化粧がばっちり!でしたので、
「ああ、少女マンガの登場人物のような人間って、ほんとにいるんだなぁ…」と思ってしまったのでありました。
もっとも、少女マンガの登場人物の方は口は小さいですけれど・・・。

先に読んだ丸谷才一さんの「持ち重りのする薔薇」 では

登場人物が弦楽四重奏団のメンバーということでしたので、
当然ながらあれこれの弦楽四重奏曲の話が出てくるのですね。


そこで「え?」と思いましたのが、一般的に「ハイドンのセレナーデ」と言われている曲に関してです。
正式にはフランツ・ヨーゼフ・ハイドン (1732-1809)作曲、弦楽四重奏曲第17番ヘ長調作品3-5という曲。


これの第二楽章を指して「ハイドンのセレナーデ」、

そこから曲全体の通称も弦楽四重奏曲「セレナーデ」などと言われるわけですが、
これが実はハイドンの作曲したものではない?!と書かれていたのですよ。
ちなみにこんな曲です(
Youtubeへリンク )。


そこであれこれ検索を開始。
どうやらハイドンと同じ時期の人であるロマン・ホフシュテッターなる修道士

(アマチュア音楽家だったらしい)が作曲したらしい。


それも、第17番だけでなくって作品3の弦楽四重奏曲6曲の全てがホフシュテッター作なのだとか。
これには、「アルビノーニのアダージョ 」が実はアルビノーニ作ではないと知ったときくらいの

びっくり!でありました。


ながぁらくハイドン作と信じられてきたのものが、ロビンズ・ランドンという音楽学者の研究によって
1964年に「実は…」ということになったそうなんですが、何で一般的に知られてないんでしょうねえ。
(個人的に知らないというだけのことかしらむ…)


経緯としては、楽譜を出版する際に阿漕な出版社が

「有名なハイドン先生の作ということすれば売れる」と踏んでやってしまった確信犯のようで、

これが明らかになったからにはもはや一介の名も無き作曲家の作となってしまい、
今ではCDも容易には入手できないことになっているようなのですね。


とすると、手元にあるCDはレアもの?!と些か気色ばんで今度はAmazonで検索してみると、
「なあんだ、中古でもなく売ってんじゃん」ということに


ハイドン:弦楽四重奏曲第17番、第67番、76番、第77番/イタリア弦楽四重奏団


偽作のセレナーデと併せて、

他にハイドンのニックネームが付いた弦楽四重奏曲3曲(ひばり、五度、皇帝)が収録された
イタリア弦楽四重奏団によるお徳用CD(手持ちのには「皇帝」は入ってませんが)。


「ハイドンのセレナーデ」がハイドン作でないと知ったときには「およ?!」と思いましたけれど、
このイタリア弦楽四重奏団の艶やかな、実に艶やかな演奏で聴けるならば、
ま、作曲者は二の次でもいいかなと思ってしまいますね。


発売元のPhilipsとは何の関わりもありませんけれど、後々入手できないかもと考えると

「こりゃ、手に入るときに買っておいた方が」ではないかと思ったりもするのでありました。


ということで(日本の古典芸能 ではありませんが)こちらはこちらで敷居のやや高い感のある弦楽四重奏、
この機にあれこれ聴いてみるといたしましょうかね。