丸谷才一さんの小説「持ち重りのする薔薇の花」を読んだのですけれど、
弦楽四重奏団を取り扱ったお話でありました。
日本からジュリアード音楽院に留学していた若手の弦楽器奏者が集って
新しいクヮルテット(ここは丸谷さんの表記に従いました)を結成することになります。
新しい音楽の創造に意気揚々たる一方で、果たして食っていけるのかしらんという不安も
抱える若者たちでありますが、ニューヨークの飲み屋(和風居酒屋って結構ありますものね)で
たまたま同席した商社の駐在員がすっかり打ち解けて、その後も長きに渡って物心ともに支援をしていくことに。
この商社マンというのが後には経団連の会長になっていくという、
いわば典型的な日本のビジネス戦士みたいなところでもあるのですけれど、
これが振り返ってこのニュー・フジ・クヮルテットの盛衰とメンバーたちの私生活を含めた
あれこれを語るという体裁になっているのですね。
余談ですが、新しく弦楽四重奏団を立ち上げようとしたときに
当然「名前、どうする?」ということになりますね。
メンバー4人にかの商社マンも加わって、ああでもない、こうでもない。
結果的に「ニュー・フジ・クヮルテット」でもって「いいねえ!」となるのですけれど、
極めて個人的な印象であることをお断りした上でですが、
この名称を「いいねえ」と思う感性をどうも共有できないといいますか。
ローカルな、というよりはっきりいって富士山がちょこっとだけ望めるけれどとても辺鄙なところにある
特徴のないドライブ・インみたいな名前だな…としか思えないのでして、
そんな思いは読み方にも微妙に関わってしまったかなぁとは思わないでもないところです。
まあ、それはともかくとして、このメンバー4人、
演奏の質の高さからやがて続々と公演をこなしていくようになるのですけれど、
どうも私生活面ではしっくりこない。
そして、一般論として本書で紹介されるところは、
弦楽四重奏団のメンバーは概して仲がよろしくないのだということなんですね。
練習、そして公演と顔つき合わせている時間がやたらに長いことからも、
オフのときくらいそれぞれの好き勝手に…という気持ちは理解できるところですけれど、
そのくらいのことでは普通仲が悪いとはいいませんから、もっと重い深いことなんでしょう。
ただ、考えてみると弦楽四重奏団に限らず、少人数のバンドなんかもですが、
最初は「音楽する」ことの楽しさが先に立って(一人で弾いているより合わせるのは楽しいですものね)、
一見仲良く合奏しているわけですけれど、やってるうちにだんだんと
「求めるの音楽の方向性が違う」みたいな部分は際立ってしまうという。
それを我慢して我慢してしばらくは続けるとしても、やがては破綻の到来になるのでしょう。
バンドが解散したり、弦楽四重奏団で奏者が入れ替わったりと。
聴いてるだけの側からすると、
経緯が全く分からずに結果のところだけ見て「あら、仲悪かったのかいね」と思ったり。
でもですね、たとえ結果的にそうなってしまうことはあるとしても、
普段から「仲が悪い」ことにはあんまりいいことって無いような気がするんですよねえ。
それとも、仲良しグループというだけではいい音楽は生まれてないのであって、
仲が悪いとも言えるような自己主張のぶつけ合いがあってこそプロの奏でる音楽になる…
みたいなことだったりするのでしょうか。
丸谷さんは、本書の刊行記念インタビューでこんなことを言ってました。
小説家が他の職業ともっとも違うところはどこか。それはいやな相手とつきあう必要がないということじゃないか。ふつうの職業では、仕事に愛着や執着があっても、同僚というのが非常に問題らしい。ところが小説家には同僚がいない。まったく一人きりの職業。運がいいというのか、孤独だというのか、とにかくめずらしい職業なんです。
そりゃあいい職業だと思うか、「むむむ」と思うか。
続けてこうも言っていますね。
日本の小説家が書く小説が、どうしてあんなに社会性がなくなるのか、理由の一つはそこにあると思うんです。
ということで、主人公はいったいどこで何して食っていけてるのか分からない人物でなく、
ちゃんと職業を持たせて、社会との関わりのある姿の見える登場人物たちとしているようなのですね。
されど、社会との関わりという「普通の世界」が文学の中に入り込むと、
どうもすでに普通じゃないような気も。
ここでまた文学てなことにまで踏み込むと、難しくなっちゃいますけれどね。







