またまた会期終了が近づいてしまっておりますけれど、
東京オペラシティアートギャラリーで「難波田史男の15年」展を見てきたのですね。
そもそもお父上たる画家の難波田龍起
作品に関心があっていくつか展覧会で見ているときに
「そうかぁ、ご子息もまた画家だったんでだぁね」というのが難波田史男作品との遭遇経験でありますが、
当然のことながら父と子の作風は全く違うのでして、父作品により強く惹かれるところはありながら、
こちらはこちらでまた捨てがたいというか何というか。
父親には無いグラフィックな線描と対比の鮮やかな色遣いが特徴ですけれど、
どうしても偉大なる先人たち、クレー
やミロ
、そしてカンディンスキー
などなどを想起してしまいそう。
さりながら描かれたものをよく見れば、
描こうとしたもの、伝えようとしたものは独自のものであるわけですね。
これもあたりまえですが。
展示作品はかなりの数でしたけれど、中で少々フォーカスしてみたいのが宇宙
への想いといったあたり。
展示のカテゴリー分けでも「コスモスへの旅」などというパートがありましたっけ。
人や世の中との付き合いがどうも苦手でひたすら何かを書いているものの、
やたら自分に厳しくてついつい自分を追い詰めがち…てなふうな人物であるとすると、
ぼんやり「こんな人?」像が浮かんでしまいますけれど、
そしてまた30数年の短い生涯、15年ほどの短い創作期間を考えるとなおのこと、
少年の心をフリーズドライしていたのかも…と思ったり。
宇宙に思いを馳せたと思しき作品のいくつか、
例えば「宇宙船が来るよ」、「終着駅は宇宙ステーション」、「宇宙人会議」などという
タイトルを見ただけでも、遊び心を刺激されるような気もするわけです。
ところで、こうした作品を見て廻っていてふと思ったのですけれど、
そして取り分け「宇宙人会議」というタイトルに添えられた
「原子核は細胞の中心にある原形質」といった言葉を目にするとですね、
宇宙と人間の相対性を考えてしまったり。
人間から見れば宇宙はとてつもなく大きなものであって、
果てがあるといわれてもイメージできませんし、それではその果ての向こうはどうなっているんだ?
なんつうことを考え始めると眠れなくなってしまいますね。
あまりにどでかいマクロの話に過ぎて。
ところが視点を変えてみると、人間がとてつもなく大きいと思っている宇宙というものが、
例えば何かしらの構成要素である細胞みたいなものだったとしたらどうでしょう。
細胞の中では一応完結した世界でもって、
その中にいろいろな成分が含まれるほぉんのほぉんの小さな部分が人間だったりするってことも
ないではないでしょうね。
すると、人間から見ての大宇宙を一細胞として、
同じような細胞がたくさん集って別の何かしらの「存在」?を作り上げているかもしれない…けれど、
あまりに話がでかすぎて人間には分かりようもないというような。
分かりやすい例えが浮かびませんけれど、
単細胞のミドリムシには人間は巨大過ぎて認識しようがないといったような。
(ミドリムシに認識能力があるのかどうかはミドリムシに聞いてみないとわかりませんけれど)
だからどうだというところまで思いは至っていませんけれど、
人間も極小要素として入っている大宇宙という細胞が組み合わさってできている「何かしら」が
彼らにとっての顕微鏡か何かで人間を見てみれば「ちっけえのがごちゃごちゃ動き廻っとるのお」と思うかも。
そして「生きてる」ことを知るかもですね。
ただ余りに小さすぎて、生きてることしかわからない。
でも、他のことは分からなくても生きてることだけは分かる。
「生きてる」ってのは凄いことかのかも…とまあ、そんなまとまりのつかないことを思い巡らすのも、
難波田史男作品を見る楽しみでもあろうかと思うのでありますよ。








