ピアノ の演奏に感心した矢先に、

弦楽四重奏 の話に戻るのもなんですが、とりあえず…。


先に弦楽四重奏は「敷居のやや高い感」があると書きましたけれど、
どうしてそういうことになるのかといいますと、聴き手に厳しいふうであるからではないかと。


オーケストラのような大きな演奏形態ですとダイナミクスではったりをかましたり、
いろんな音色の楽器を使った煌びやかさでもって眩惑したりということもあるわけですが、
たったの4人で奏でることと同じ種類の楽器による音の同質性からすれば、
はったりや煌びやかさとは違うところで勝負しなくてはならないのが弦楽四重奏ということに。


それだけに「渋い」「玄人好み」といった言葉と親和性があるように思われ、
実際ベートーヴェン の後期の弦楽四重奏曲あたりになると、
多くの修行を積まずしてん近づくこと罷りならん!的になってますしねえ。


ということで、これまで弦楽四重奏曲を聴き親しんできたとはとても言えない者が
あれこれと聴きかじってみようかと思ったときに、いささかの理論武装が必要かと
文庫クセジュの「弦楽四重奏」なる一冊を手にとってみたのでありますよ。


弦楽四重奏 (文庫クセジュ)/シルヴェット・ミリヨ


4人の奏者で構成される弦楽四重奏ですけれど、
これがアンサンブルのミニマムの形と言われたりもします。


ヴァイオリン×2、ヴィオラ×1、チェロ×1で4人。
でも、何だってヴァイオリンが二人なんでしょ、おんなじ楽器なのに。
このあたりを本書から拾ってみると、こういうことのようです。

論理的には、この三つの音域の集まり(ヴァイオリン・高音、ヴィオラ・中音、チェロ・低音)は弦楽三重奏を構成すると予想される。ところが…作曲家が弦楽三重奏曲よりも弦楽四重奏曲のほうを好むのはなぜだろうか?おそらく、明らかに余計者だと思われるこの第二ヴァイオリンが、第一ヴァイオリンより低い音域を受けもつことによって、アンサンブル全体の響きを充実させながら高音域から中音域へと円滑に移行していくことを可能にするからであろう。つまり、この第二ヴァイオリンのおかげで、音の同質性と充実感が得られるのである。

とまあ、三重奏では十分なアンサンブルにちと足りない、

五重奏以上はプラスアルファが加わっていくということで
足し引きのない弦楽四重奏が完全無欠てなことになるのでしょう。


ただ、ある意味、削ぎに削いで磨きに磨いて生み出すアンサンブルですから、

聴く側以上に作る側にこそ意欲をそそらせるもの、つまり挑戦しがいのあるものだったような。


弦楽四重奏の形がはっきり意識された初めの頃はボッケリーニが102曲、ハイドン が68曲とたぁくさん作り、
引き続きモーツァルト が23曲作り、そして16曲作ったベートーヴェンへと繋がっていく…わけですが、
およそ交響曲と同じような流れを辿ったように見えますですねえ(曲数の出典はWikipedia)。


交響曲の場合はハイドンが104曲、モーツァルトが41曲、ベートーヴェンが9曲。

ベートーヴェンに至ってぐっと少なくなりますけれど、


ベートーヴェンが極限まで突き詰めた曲作りをしてしまったものですから、
結果として後に続こうにも続きにくくなってしまったという。


これはこの間ピアノ曲で型破りと言ったこととも繋がりますが、弦楽四重奏も同様ですね。


取り分けドイツ系の作曲家には「目の前に立ちふさがるベートーヴェンの高峰」みたいに思えたのでしょう。
ところが、いささか時を経てからフランスやロシアなど周辺の国々の作曲家が挑み始めるという。
ひとりひとり1~2曲程度ながらいろんな人がトライしている点、これもまた交響曲のようです。


音楽の形式がひとつ勝負ポイントみたいなところの類似性でしょうかね。

と、ことさら交響曲に擬えてみたのは、

「交響曲はよく聴く、弦楽四重奏はほとんど聴かない」という個人的状況を鑑みて、
これから聴いてみようと背中を押す材料にしようかなとまあ、そんなふうに思ったわけです。


辛うじてハイドンやモーツァルト、

そしてドヴォルザーク の「アメリカ」とか有名曲は多少聴いたことはあるものの、
そうでない世界に分け入ってみると、さぞや豊穣な大地が広がっていることでありましょう(と、期待します)。