展覧会に出かけながらも静物画の前ではあまりじっくり眺めることもなく来てましたけれど、
先にいささかの静物画探究
を行ったとなれば、やっぱりあらためて見てみたくなるところでありますね。
ということで、ネーデルラントでひとつの黄金時代を築いたものとは絵に込められた意味合いが違うにせよ、
近代絵画で静物画といえばやっぱりセザンヌ
かなと思うところでして、
ちょうど国立新美術館でセザンヌ展が開催中でありますから出かけてみることにしたのですよ。
なにしろ本展フライヤーの左上はじに描かれた「100%セザンヌ」なるマークも、しっかりリンゴですし。
セザンヌといいますと、その際立つ独自性から「孤高」のイメージがありますけれど、
「1861年から晩年に至るまで、20回以上もパリ
とプロヴァンス
の間を行き来していた」のだそうですね。
決してエクス・アン・プロヴァンスに篭りきりであったわけではない、
とまあこうした観点が本展の眼目ということで、初期から晩年まで絵画のカテゴリー別に
生涯を展観するものとなっているのですが、今回は取り分け静物画を中心に見てくることにしたのでした。
どのみち混んでいるでしょうから、一点突破ということで。
1839年生まれのポール・セザンヌは、
従来で言うところの「後期印象派」、実体からすれば「ポスト印象派」ですが、
そこらへんに位置づけて語られることが多いだけにどうしても
印象派
の画家たちより後の世代に思ってしまいそうですけれど、
実はモネ
(1840-1926)やルノワール
(1841-1919)と同世代なのでして、
そうなれば当然のように印象派の画家たちの活動から影響を受けないはずもないと言いますか。
されど、やはり関心の違いということになりましょうか、
やがて「印象派の移ろいやすい瞬間の表現を乗りこえる」ことを目指して
「画面の構築性の探求」に向かったのだとか。
そうした方向性に最もマッチするのが静物画ということであったのでしょうね。
1894年のエッセイの中で、セザンヌはこんなことを書いたそうでありますよ。
私は一つのりんごでパリを驚かせたいのです。
なるほど、意気込みのほどが偲ばれるではありませんか。
とはいえセザンヌが目指した静物画というのは、
中世ネーデルラントの画家たちが腕を競い合ったような描く対象のリアルな再現ではなかったのでして、
飽くまで「画面の構築性」であったと。
これは1877年頃に描かれた「壺、カップとりんごのある静物」ですけれど、一見して妙ですよね。
中央に置かれた白いカップの内側がこんなに見えてていいんでしょうか。
テーブル面の見え方に対して、カップだけはもそっと上方から見ているのではと思えます。
さらに、静物がにしてはいささか大ぶりな「りんごとオレンジ」(1899年頃)になると、
中央のオレンジはテーブルの縁にあって、テーブルクロスのしわで何とか持ちこたえているにしても、
見ようによっては「う、浮いている!」と思える状態かと。
こうした点に関して会場内の解説によれば、個々にみると空間的整合性の欠如があるものの、
全体は見事なバランスになっているてなことになりますけれど、何やら不均衡な均衡とでも言ったらよいのか。
ただ、画面の構築性を突き詰めていったセザンヌなりの回答がこうした形になったのでしょう。
そうはいっても、じっくりと見れば見るほど「妙」にも見えるわけで、見る側がそれを解決するには
やはり視点の違ったものが一緒に描きこまれていると考えるしかないのでして、
この多視点で見たものを一枚のキャンバスに描くとなれば、
どうしたってキュビスムにつながるよなぁと思ってしまうところです。
セザンヌ自身にそこまで突き抜けた考えは無かったかもですが、
構築性を突き詰めるとそうしたところへの道が見えてきたということでしょうか。
とにかく構築性に関心を持つセザンヌにとって、
描く対象がピクリとも動かないのは最高のモデルでしたでしょうし、
りんごにしろオレンジにしろ、はたまたテーブルクロスのしわしわ度合いまで
レイアウトもまさに描き手の思うがまま。
静物画に力が入るのも当然なのだなと思うところです。
たまたまにせよ、静物画の予備知識をあらためて仕入れた上での鑑賞は、
我ながらびっくりなんですが「静物画、いいじゃん!」と新しい興味を引き出してくれるに十分であったなと。
…と長くなりましたので、セザンヌ展に関しては静物画以外の作品にも
別途触れておかねばと思ったりしとりますです。












