それこそ人それぞれとは思いますけれど、
例えば自分にとって次のようなことを知りたいと思うかどうか…。

  • 五百年前の自分の先祖は世界のどこあたりに住んでいたか?
  • ハゲる傾向にあるかどうか?
  • アルコールが本当に好きなのかどうか、アルコールに強いのか弱いのか?
  • 本当に太りやすい傾向があるのかどうか?
  • 禁煙に成功しやすいか、失敗しやすいか?
  • 夜にコーヒーを飲むと眠れなくなるタイプかどうか?

もっと具体的にはさまざまな病気にかかりやすいかどうかというのもあるんですけれど、
これらは「遺伝子診断」とやらで分かるんだそうですね。


「だそうですね」って、個々人が持つ遺伝子にはある病気にかかりやすいかどうかといった情報が
書き込まれてるてな話はどこかで聞いたことがありますが、
そうしたことを知ることができる「遺伝子診断」なるサービスがあるんだそうで。


実際にアメリカの会社に自分の唾液サンプルを送って、診断してもらったという方の話を
雑誌で読んだものですから。99ドルで調べてもらえるのだといいます。


おそらく同様のサービス(?)は日本には無いものと思いますので、
(だからこそ、雑誌の記事の人もわざわざアメリカに唾液を送ったのでしょう)
ちいとも身近な話ではないような気がしますけれど、
同じ記事に曰く韓国ではずいぶんと遺伝子診断が盛んなのだそうですよ。


例えば「遺伝子の傾向を調べたうえで親が子どもの教育方針や職業を決めることがある」とも
書かれていましたが、もしかしたら身体的な特徴の点でも韓国らしく?プチ整形の判断にも
使っていたりして…。


それはともかく、自身が遺伝的に(遺伝子情報的に?)かかり易い病気や
体質の傾向をつかんでおくということは、予防の観点からすれば効果的とも言えるのでしょうね。


前に読んだ分子生物学の本 で、人間の体も小さな細胞から、さらにもっともっと小さい元素からできている
集合体だということに改めて思いを巡らせたところですけれど、
そんな小さな小さなところに一人の人間全体を左右する情報が予め書き込まれているとは、
本来の意味とは違う運命論みたいなものを感じないではない。


ですから、それを知りたいかどうか…となると、個人によってそれぞれ違うのではないかと。
今判断しなさいと言われたら、個人的には進んで知りたいとは思わないなぁと。


ただ、500年前の先祖が地球上のどこらへんに住まっていたかあたりは面白いかもですね。
500年前といえば室町時代、そのころどこにいたってそりゃ日本のどこかだろうと。
ちなみに先の記事の被験者の方の結果はといえば、母方の先祖が
ベトナムかインドネシアあたりにいたという結果が出たのそうですよ。
はたして自分の先祖はいずこに・・・?

都市と農村、旧教と新教といった対立関係を超越して、スイス人たちは同盟を維持しつづけた。

これまた先に読んだ「ウィリアム・テル伝説 」にあった一節ですけれど、
これってすごいことではなかろうかなと思ったわけですよ。


都市と農村の対立というのはいつの時代にもどこの地域でもあることで、
かつては一揆なんかも起こったりしたものの、何とか折り合いをつけてきたものと思いますが、
旧教と新教の対立とは、個人的には想像を巡らすしかない部分ではありますけれど、
たとえば昔のネーデルラントベルギーオランダ になっていったりという背景にも絡んだことですよね。


これをキリスト教の派閥争いからさらに別個の宗教間のことまで思い起こすと、
かつてのユーゴ紛争 あたりも想起されて、やっかいな問題なのだろうと思うわけです。


が、スイス はこうした対立関係を超越して同盟を維持し続けたとは、

いったいどういう歴史であったのだろうか…とまあ、テル伝説によらない本当の(?)歴史を

紐解いてみるかというわけで、中公新書の物語歴史シリーズ(という言い方するのかな)の

「物語 スイスの歴史」を読んでみたのですね。


物語 スイスの歴史―知恵ある孤高の小国 (中公新書)/森田 安一


さすがに伝承に拠らない歴史であるせいか、
ウィリアム・テルのことなどかすりもせずに原初三邦の盟約が語られることになります。


スイス中部の都市ルツェルンにも接する湖、観光的にはルツェルン湖と言ってますけれど、
正式には「Vierwaldstattersee(フィーアヴァルトシュテット湖)」でして、
四つの森の町の湖という意味であろうかと。


この森に囲まれた湖の周辺にある3つの地域ウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンが
ハプスブルク家の支配からの自立を掲げて、1291年に盟約を結んだことが
後々のスイス連邦共和国という独立国に繋がっていくわけですね。


もちろん、礎を作った3つの地域の人たちが最初からスイスという国の独立を考えていたわけではなく、
結果的にそうなっていったということではありますけれど。

それにしても、スイスの礎がなぜここから?ということでありますね。


湖の名前にもあるとおり森の町、ありていに言うと山村地域かとも思われますが、
アルプス の山懐で生産性も高くはないところながら、
交通の要衝としての位置づけが浮上してきたことに端を発するようです。


ドイツイタリア の間に横たわるアルプス山脈は欧州の南北を分断する形になってますけれど、
これをスムーズに通りぬけられば交易にしても軍事的な面でも大いに利することになります。

イタリア育ちの神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世 (在位1215~50)などは、
この直通路線の整備にご執心であったらしいですが、その整備対象となった場所というのが、
ザンクト・ゴットハルト・パスでありました。


原初三邦から南へ下った場所ですが、峠の隘路を開削することでルガーノを経由して
ミラノまでの道がつながる、その北側の入り口のような位置付けに原初三邦があたる。
となればいろいろな権益が生ずるのも当然のことで、単なる山村とは大違い、
そりゃ代官でも置いて上前をはねたくなるのが権力者てものでありましょう。


ところが、これに敢然と立ち上がった!というのがスイスの大元ではありますが、
国としての独立というのでなく、もそっと近しいエリアの自立こそが目的。


この意識が長い間変わることがなかったそうで、今でも連邦制であるのはその名残ですし、
その連邦制になるにも地域の主体性を損ねるとして反対が多く、あれこれの紆余曲折の結果であるといいます。


それにしてもヨーロッパの歴史を見ていく中では、

国と国とで領土争い、王位争いが絶えることがないような状態。
そんな中にあって、よくまあ「おらが村の自立」を掲げてやってこられたものだと思うところです。


これに大きく関わったのが、何故だかはよく分かりませんがとにかく兵隊が強かったということでしょうか。

兵隊といっても元は「おらが村の一大事」に立ち上がる農民兵みたいなものだったでしょうけれど、
これがハプスブルク家の軍隊を蹴散らしたりするのですから、「うぉ、すげ!」となるわけですね。


こうしたことがその後のスイス傭兵の歴史に繋がっていくのですが、
このあたりも少し得心がいくように「物語スイスの歴史」から引かせていただきましょう。

スイスでは十五世紀以降牧畜業が盛んになるが、牧畜は土地面積に比して働き手の数をそれほど必要としないうえに、十五世紀末ごろより人口は増加傾向に入り、労働人口は過剰気味になった。傭兵出稼ぎが過剰労働人口の捌け口になった。しかも牧畜業の伸展は農耕地の少ないスイスにさらに深刻な穀物不足を嵩じさせた。この穀物不足を解消するためには輸入に頼るほかに道はなく、そのために輸入資金の確保が必要であった。

兵隊が強いから「貸して!」と言われても、そうそう分かりましたとなるはずもないと思ったわけですが、
こうした事情があってのこと。持たざる国の方便でもあったということでしょうか。
輸入資金の確保というところをちょっと補足すると、自邦の領域内での傭兵徴募を認める契約によって
相手国から年金が入る仕組みとなっていたのっだそうですよ。


そうはいっても個人的に傭兵になるというようなことでなく、

組織的に傭兵を送り込んでいるに等しい状態とあっては、他の国々の間で戦争が起こった場合、

まず自分たちの側(この際、スイスという国名で言ってしまいますが)、
スイス側としてはどこにも肩入れしてませんよと宣言をするのですね。


そして、実際に戦闘やら軍隊の通過やらというとばっちりを防ぐために、

自前で国境警備を万全にする。
これがスイスの「武装中立」ということなるわけですね。


そして、どこにも肩入れしないことの別の形の証しとしては、
例えば三十年戦争(1618-1648)では新教側のスウェーデン 軍にも

旧教側のフランス軍にもスイス傭兵がいたと言いますから、
スイス人が敵味方になって戦ってるなどという場面も多々あったものと思われます。
このことは三十年戦争だけの話ではありませんが。


その後もスイスは大国間の均衡の狭間にあって

独自性を貫いてきたわけですけれど(と一気に端折ってますが)、そのための犠牲も払いつつ、

また外からみれば「悪いことにも手を染めてんでないの」ということもやりながら
(中立であるが故の、あるいは中立を維持せんがためのナチスとの関わりとか)現在に至る過程は、
どこの国もやってこなかったひとつのあり方を見せてくれたようではあります。


そして、それぞれの足場に根ざした地域主義と緩いアライアンスとしての国家とのバランス、

さらに国としても永世中立国であることと2002年に加わった国連加盟国であることのバランスを
どのように取っていくのかということも、これから先の「ひとつのあり方」として気になるところでありますね。

この間「ペトルーシュカ 」を聴いた演奏会でいちばん最初に演奏されたのが
ドビュッシー の「牧神の午後への前奏曲」でありまして、この曲がもたらす気だるい物憂げな雰囲気は
CDで聴いても感じるだけに(先の記事とおんなじようなことをまた言いますけれど)
生音に包まれてみれば、「なんなんだ、このまとわり付くような空気は?!」と思ったりするのですね。


ところで、この「牧神の午後への前奏曲」は元々のフランス語では
「Prelude a "L'apres- midi d'un faune"」となっておりまして、いっかなフランス語が分からない者にも
「プレリュードが前奏曲だから引用句のところが牧神の午後で…となれば、

何々の何々はおそらく後から修飾されるとしてアプレ・ミディが午後、

ファウヌ?が牧神であろうかな」と想像できる範囲内かなと。


牧神というとギリシア神話パン が思い出されるところですけれど、
引用句部分がそのままステファヌ・マラルメの詩のタイトルですから、
マラルメもドビュッシーもギリシア神話のパンではなくって、

ローマ神話のファウヌスのイメージだったのですね。


と言っても、両者が混同されるのは

アフロディテとエロスやその他諸々の例とおんなじでギリシア・ローマ神話には
ありがちなことなのでしょうけれど、どうも牧神、牧羊神というとパンのイメージが強いと思われたのか、
少なくともマラルメの翻訳には「半獣神の午後」とファウヌスをして半獣神と呼ぶのを採用してますが。


ところで「牧神の午後」で思い出しましたのは、
先ごろ亡くなられた北杜夫さんの作品に確か「牧神の午後」というのがあったはず…ということなんですね。


で、思い出しついでに読んでみようと思いましたが、古い作品とはいえ市立図書館の蔵書には見つからず、
さる大学図書館の書庫から出してきてもらったという手間のかかりよう。


北杜夫「牧神の午後」


こういってはなんですが、親友の遠藤周作 さんと同じくらい有名な時期がありつつも、
どうもその後は遠藤さんほどにその名は記憶されていないような。
そんなこともあって絶版状態のものがあるのかなと思ったりもしたわけです。


さりながら、北さんご本人があとがきに記していたところでは、

実はないものとしてしまいたかった作品のひとつであったとか。


そうであれば、そっとしておいてやった方がよかったのかどうかと思ってしまうわけですが、
物語はといえば、マラルメの詩を思わせるように牧神がまどろみから目覚めところから始まり、
最後にはまどろみに返るという外枠の中に展開する話が綴られています。


このあたり、本家マラルメからの視覚化を試みたニジンスキーバレエ で性的な夢想に耽る姿を
いささか露骨にやってしまって物議を醸すといったことがあったようですけれど、
さすがにどくとるマンボウ先生、若書きとはいえギリシア神話を踏まえて

ユーモラスな情景にしてしまうわけです。


牧神パンとミダス王の関わり、パンの笛とアポロン の竪琴による音楽勝負、

そしてアポロンの勝利に意義を唱えたミダス王の耳がロバにされてしまう顛末

(「王様の耳はロバの耳」に繋がる話ですね)…とまあ、

こうしたごたごたに引っ掻き回されたパンですが、
やがてまたひとりまどろみに落ちていくといったお話。


牧神は半獣神とも言われるとおりに姿かたちとしては半身が山羊のようで、

獣心というか本能のままにニンフを追いかけまわす好色さで知られるわけですが、

マラルメの描き出す夢想はそうしたことがベースになってましょうか。


一方、前に書いたことですが、

突然現れてはわっと脅かして人がうろたえる姿(panicの元は牧神panですね)を見て喜ぶという
いたずら者の側面もあるわけですが、北さんの牧神はまた独特な感じですかね。

ミダス王がアポロンとの勝負を設定してきたりするのを「やれやれ…」といった感じで応じている。


そうそう独特な感じといえば、

絵画でも一般的には牧神がニンフに言い寄るような描き方が多いのかもですが、
ブグロー 描くところの「ニンフと牧神」(1873年)は少々勝手が違うような。
見ようによっては、この牧神、すっかり「モテ男くん」になってはいませんでしょうか。


ウィリアム・アドルフ・ブグロー「ニンフと牧神」


というのは、いささか羨望まじりの?眺め方だったかもですが、
これまでの悪戯の数々に業を煮やしたニンフたちに寄ってたかって小突き回されている場面でありましょうかね。
ここでも結局は疲れ果てた牧神は、やっぱりまどろみに還っていくのでありましょう。


そして、牧神がいずれのタイプにしてもドビュッシーによる音化は

見事なまどろみを提供してくれておりますですね。

セザンヌ展の静物画 のことだけを先に書きましたけれど、
まあ折りしも関心の向いたところを主に見てきたことからそうなっただけでして、
会場には風景画も肖像画も多々展示されていたセザンヌ展@国立新美術館ですから、
静物画以外の絵のことももそっと触れてみようかと。


セザンヌ展@国立新美術館


差し当たり肖像画のことなんですが、これは見て回っているうちに
セザンヌにとっては肖像画も静物画の一部として考えてたのかも知れんなあと思ったのですね。


静物画に描かれるりんごやオレンジ、食器類などは描き手が自由自在にレイアウトできて、
そのままじいっとして動かない(だから、静物=still lifeなんですが)最高のモデルなわけですけれど、
セザンヌ夫人のオルタンスはモデルを務めるにあたって「りんごのように動かない」ことをもって、
セザンヌは大いに褒めたのだとか。


ポール・セザンヌ「」縞模様の服を着たセザンヌ夫人」


もっともこれが「セザンヌが肖像画も静物画の一部と考えていたのかも」という

理由としているのではないわけでして、印象派と訣別することになった瞬間瞬間の移ろいから離れて、
セザンヌ自身が「これだな!」と思った構図で構築性を極めた画面を作り出すには
描くためにモデルにじいっとしていてもらうことも大事ながら、モデルにはモノになってほしい、
あるいはモノとして見ていた(だから動くはずない)ところがあるのではなかろうかと思うのですよ。


ですから、明らかに人物を描いて肖像画と言われる作品にしても、
いわゆる肖像画とは違うアプローチをしているのではないかと思ったりするわけです。


肖像画家に関して語られるときには
「画家の手にかかると描かれた人の人柄や、あるいは人生までが浮かんでくるようだ」

てなことが褒め言葉になりますけれど、
要するに描かれた肖像が外面的に本人に似ていることはもちろん、

その内面までもにじみ出て来るような作品が肖像画の作品の深さとして

受け止められたりするところがありますよね。


では、セザンヌはといえば、例えば「坐る農夫」(1900-1904)を見てみます。
一見して、手の大きさが際立っているような。

小さく描かれた顔と比べてみるとよりはっきりするのではないかと。


ポール・セザンヌ「坐る農夫」

農夫としての仕事柄、その人物の特徴を示すものとして「手」を重要視するのは分かるとしても、
これを肖像画と考えた場合にはどう考えても「顔」が重要な要素であって、
赤銅色に日焼けしていたり、深く刻まれたしわがあったり、
そうしたところから日々の農作業の労苦を偲ばせるようなことがありそうなものです。


ところが、先に大きさの違いも言いましたけれど、顔ではなくて手なのですね。
そのもの(モデルの農夫をモノ扱いして申し訳ないながら)でクローズアップされるべき特徴を示す部分、
それはセザンヌにとって手だった。


静物画で、実は不安定な配置に見えようとも、

構図へのこだわりから「こうだ!」と思ったらお構いなしに?多視点での見え方を

そのまま採用するのがセザンヌでありますから、ジャンルとしては肖像画といわれようとも、

描かれる対象の特徴をはっきりと示せる構図にこだわると、
静物画で取った考えたと同じようなアプローチで臨むことになるのだなぁと思ったわけです。


こうした改変というと大袈裟ですが、

対象を写し取るという絵画の本来に対する作為的な臨み方というのは、
作者本人の美意識のあり方にも関わりましょうけれど、
アカデミスム の側と思しきアングル もやっている。
ということは昔からあったことなのでしょう。


ただ、昔はなるたけ分からないように、それと悟られないようにやるという方法なのではないかと。

そうでないと単なる「へんな絵」で片付けられかねない。

それがセザンヌの頃にもなれば、そりゃサロンに出せば叩かれるようなことはあっても、

そうしたことも芸術の要素と受け止める眼で見る人たちが出てきていたでしょうし。


とはいえ、セザンヌ自身にとっては、そうした理解をする者がいるいないにとらわれることなく、

自分の信じた方法でもって書いていったとは思いますけれど…。


・・・と、セザンヌ展の静物画以外の作品にも触れてと思ってましたら、

肖像画のところでだけでまた長くなってしまいました。

セザンヌといえば風景画という側面もあるわけですけれど、

これはまたいつぞや触れることもきっとあることではないかと思っておる次第でございます。

国立新美術館で見たセザンヌ展 は久しぶりにたっぷりした展覧会を見たなぁと思うのでして、
絵を見ることであれやこれやの想像力が掻き立てられるものだなと思いを新たにしたわけです。


ところで、絵画とは似て非なる(というよりはっきり言うと似てないですが)ものでもって、
ずいぶんと想像を働かせることができるものだなと思ったのですね。
たまたま何の気なしに手に取った「ヘンな間取り」という一冊の本の印象であります。



人それぞれに関心の赴くところはあれこれでありまして、
工場萌え 」といった方々もおれば、「墓まいらー 」というような方々もおるとなれば、

「間取り萌え」というのかはたまた「まどらー」とでも言ったよいのか、
不動産屋の店先にたくさんならんだ間取り図のようなものが実にそそるお楽しみになるという方々も
きっとおいでなんでしょう


上級者ともなると一枚の間取り図でいかなる愉しみに浸るものかは想像もつきませんけれど、
本書に紹介されたような「ヘンな間取り」であれば、初心者・初級者にもOKというところでしょうか。
「こんな間取りの部屋に住めるの?」というくらい、明らかにおかしな図面には大笑いさせられますから。


とはいえ、玄関から先に一歩も入れない部屋であるとか、どうやってトイレに、風呂に入ったらいいのか

という間取りに関しては、単純に図面の書き間違いなんだろうなと。
東南アジアのリゾート・ホテルの日本語表記にみられる誤字みたいなものではないですかね。

「ソ」と「ン」の区別が無茶苦茶だったりするやつです。


ですから、その辺は単純に笑って済ますとしてですね、
おそらく意図はあるのだろうけれど、その意図が読めない「ハテナ物件」の方がさらに深みがあるような。


ワンルームなのにトイレだけは2つある(しかも個室が隣り合わせに並んでる)とか、
フローリングにやおら床の間があるとか、玄関を出て共有スペースと通らないと行けないベランダとか、
玄関入って5メートル余りの廊下を通り抜けたないとたどり着けない部屋とか…。


それ以外にも一見して、あるいは一見して分からずとも説明文を読んでみれば
なるほどこいつは使い勝手が悪そうだという間取り物件が続々と登場してくると、
そのうちに笑ったり、唸ったりを通り越して、このデメリットを克服して住まうことは可能かどうか、
実際に住むとすればどこにどう家具を置いてみようか…てなことを考え始めたりするのですね。


かつて住まっていたアパートでは玄関の扉を開けると即座に台所で、

これが滅法狭いわりにはその左側に並ぶバスとトイレが異様に広いスペースでしたが、

(そもそも別々にある事自体贅沢な空間利用なんですが)

それならもそっとキッチンの方に回してくれてもよかったんじゃあないかと思ったり。

それでも、トイレに書棚を入れてくつろぎの書斎?として使うことを楽しみとはしてましたが。


このように?「住めば都」とまでは言わずとも、

慣れてくると気にならなくなるようなこともありましょうし、
逆にこの本に紹介されるようなのよりはまともと思っている今の住まいも
よく考えればなんでこういうふうになってるのかなというところもありますし、
これはこれでなかなかにエキサイティングな想像の世界でありますよ。


こうした想像を駆け巡らせるお楽しみに繋がるせいか、

「ヘンな間取り」には類書がたくさんありますので一度手にとってご覧になるもよし、

本を探しだすまでのことでは…という方にはお手軽にこちらでお試し されてはいかがでありましょうか。