毎度毎度の記事のいちばん最後にべたべたと

ブログランキングにまつわるバナーを貼り付けたりしてますが、

すべては結果オーライに基づいとりまして、ついぞランキングをあげようと何かする努力をするでもなく、

まあ参加することに意義があるてなものでありましょう。


それでも、稀に何がしかの評価(もちろんいい意味でですが)をいただいたりしようものなら、

これが単純に浮かれるという、実に俗なタイプでもあるわけで。


とまれ、そんなランキングサイトのひとつに「にほんブログ村」というところがありますけれど、

カテゴリー別に1位から100位までの注目記事というのに該当したものがあると

管理ページに表示されるてなことになっとります。


でもって、多分に瞬間風速的ではありましょうけれど、

こんな表示が目に飛び込んできて「え?!」と思ったのですね。


にほんブログ村ランキング


これまでたまぁにランクインしたことはありますけれど、

3本いっぺんとは初めてのことですし、この先もおそらくありえないだろうと思ったものですから、

ついついプリントスクリーンを押してしまったという次第。


それにしても、ロバの耳の話がクラシック音楽鑑賞とのカテゴリーに、

映画「オレンジと太陽」の話が本ブログなるカテゴリーにランクインとはどうも分からん話ではありますが。


それにしても、こういうのって「ううむ、よぉ書けたわい!」みたいな自己評価が高いものが

あららとスルーされてしまう反面、突如として「これがぁ?」というのがランクインしたりする。

不思議なものです。


そうそう、もひとつ別の「blogram」というサイトでもカテゴリ別ランキングというのがあって、

こんなふうに表示されます。


blogramカテゴリ別ランキング


このサイトの変わったところは成分分析とやらをしているようで、

単独の記事に関してランク付けするんでなくって、

ひとつのブログ全体の中で成分の多いものを抽出してランク付けするという。

ですから、最近セザンヌ展のことを2回書いたらもう「ポール・セザンヌ 1位」になってしまったという。


最初の頃からくりをよく知らずに、ピカソで1位になって大喜びしてしまいましたが、

母数がさほど多くないことを知ってぬか喜びだったと思ったことがありました。

でも、1位てのは結構ニヤリだったりするかなと。


ということで、手前味噌的なことをつらつら書いてまいりましたが、

とかくコメントしにくい様子の弊店にあってはこうしたランキングのちょっとしたことで

「明日も頑張ろう!」なんてふうに思ったりもするところでありますよ。

九段下を歩いておりましたら、企画展の大きな看板を見かけてついふらふらと。
入り込んだのは昭和館という施設で開催中の「昭和の紙芝居」でありました。


「昭和の紙芝居」展@昭和館


この昭和館なる施設、前から九段下の交差点のところにあるのは知っていたものの、
太平洋戦争中の史料のあれこれを展示しているという内容に対して、
きっぱり「昭和館」と言われてしまうと、「昭和 ってそれだけ?」とかいう気がして
ついぞ入ったことはなかったのですね。


入場券を購入すると「7階の常設展からどうぞ」てな案内をされて、
7階6階の常設展コーナーに踏み込みはしたものの、今回はさらりと流しておきました。
展示内容的には、もし両親が訪れたことがないようなら一度連れてきてやろうかと思ったものですから、
常設展の詳細はその時にお預けとしたようなわけで。


ということで、別フロアで開催中の企画展「昭和の紙芝居」を見たのですけれど、
副題に「戦中・戦後の娯楽と教育」とあるだけに、さすがに昭和館だぁねと思うところではあります。


ただ、ついふらふらと紙芝居の展示に釣られたのは、もっぱら個人的にですけれど、
子供のころに街頭で紙芝居を見たことがある、紙芝居屋のおっさんから水飴を買ったことがある…
という懐かしさに尽きるのでして、それだけなんですけどね。


展示の中に拍子木があって、これで紙芝居屋が子供集めに触れ回ったということになってます。
確かに拍子木で集められた記憶もありますけれど、より印象深いのは楽隊のように大太鼓でもってですね、
紙芝居到来を知らせに廻ってきたというもの。


こういうことを記憶の底から掘り出すと、
そのとき叩かれていた太鼓のリズムを思い出すことができてしまうのですから、
いかに紙芝居屋に通ったかが偲ばれるというものです。


子供たちはこの太鼓が客引きに辺りをひと回りする間、付いて歩くのですからねえ。
太鼓のおっさんがハーメルンの笛吹き男だったらどうなっていたことか…。


それはともかく、水飴だのソースせんべいだのと駄菓子屋でも買えるものながら、、
これをおっさんから買ってですね、紙芝居を見る。


今から考えれば、ここでの展示でいうところの戦中・戦後よりだいぶ後の世代になって
子供とはいえちょっとのことでは驚かなくなってますから、紙芝居の話が面白いというより、
おっさんの語り口に妙を感じたということかもしれませんですね。


これはおっさんたちの修業のたまものでしょうけれど、
いわば活動写真の弁士のようなもので(とっても、映画はトーキーでしか見たことありませんが)
技術職みたいなところでもあったのだろうと思います。


一枚一枚のめくり方なんかも、じわじわとずらしてみたり、パッと場面転換したりと
熟練の技だったりするのですよ。


職業としての紙芝居屋は1930年頃始まったそうなんですが、
戦後の昭和25年(1950年)には全国に5万人くらいの紙芝居屋がいたんだそうです。


白黒テレビは出回っていたものの、普及の方は1959年の皇太子(現在の天皇陛下ですが)御成婚でもって
広がりを見せるをところでしたでしょうから、当時の子供にとっては娯楽の王者だったかもしれませんですね。


ただ、よおく考えてみるとですね、この5万人の人たちが、
子供たちに駄菓子を売って小銭を稼いでよく食べていけたものだなぁと思ったり。


毎週のように紙芝居の続きを組合から仕入れ、方々を廻っても売り上げは微々たるものでしょう。
適切な比較ではないものの、なにやら「Big issue」の販売を連想してしまったりも。


とまれ、TVの普及が加速度的に進んで時流に敵うべくもなく、
今やついぞ見かけない紙芝居とはなりましたけれど、ほんの少しでも復古の兆しがあるのでしょうか。

市内の防災 訓練とやらで近所の小学校の校庭に集まったときに、

そこここで消火器やAEDの使い方を教えてたり、起震車での揺れの体験をやってたりしたのですが、

その中に防災紙芝居てなものがあったのですね。


通俗なところで始まって低俗に堕したものの、その後は教育にも使われるようになった紙芝居の伝統が
こんなところにも息づいているというところでしょうか。


おそらくは実際に紙芝居屋を知らない世代かもですが、若い人たちがやっている活動のようでして、
さらには「紙芝居屋になりませんか」と募集活動までされているようす。


こりゃあ、人生の次のステージでは、昔々お世話になった紙芝居屋となって
愛と正義を子供たちに説いて聞かせる語り部たらん!という気にも少々なろうかというものです。


とまあ、懐かしさにつられて紙芝居の話をまとまりもなくひとくさりというこで…。

あっそうそう、昭和館の展示の中に昭和25年の紙芝居で「ウィリアム・テル 」がありました。

日本でウィリアム・テルが有名なわけですねえ。

映画「サラの鍵」 を見たときに、
ナチス占領下とはいえフランス政府が積極的にユダヤ人の強制移送を行っていたことを
フランス自体でも忘れられているというか、封印されてきている…そういうことって、
まだまだあるんだなぁと思ったものなのですね。


そうしたことは映画「オレンジと太陽」を見て、
「イギリスよ、お前もか」と思いを強めたということになりましょうか。
戦時下というような特殊事情のもとに置かれていたわけでもないだけに、
むしろ暗澹たる気分が増すような気さえするところでありますね。


映画「オレンジと太陽」

家庭の事情やら母親の事情、さまざまな理由でもって孤児として扱われた子供たちが
19世紀から1970年代まで、延べ13万人もオーストラリアやカナダに「強制移送」されていたと言います。


しかも他国への移送ですから政府は知っていたわけですし、子供たちには

「太陽が輝き、もぎたてのオレンジが食べられる国へ連れて行ってあげるね」的に送られる背景には
教会や慈善団体といったところが「子供たちのために」という大義名分でもって組織ぐるみで関与してのこと。


ところが、子供たちは身寄りもない他国で名前も変えられ、出生証明もうやむやにされ、
強制労働と虐待の毎日に身を置かざるを得なくなっていたという実態にあったという。


ソーシャル・ワーカーのマーガレット(エミリー・ワトソン)はふとしたことでこうした事実を知らされ、
オーストラリアに渡って、今は成人しているかつての孤児たちと面談し、
身元探し、母親捜しを買って出ることになるという実話の映画化であります。


印象的な台詞と思われるところを二つほど、うろ覚えながら拾っておきたいと思うのですけれど、
ひとつ目はマーガレットがこの「児童移民」が本当にあったのかどうかを

いろいろな資料の開示を求めていくところ。


事実であったと確信するあたりで、資料を出してきた担当者にマーガレットが問います。
「どうしてこうしたことに誰も気が付かなかったのえしょうか」


これに対する答えは「誰も関心を持たなかったからですよ」というもの。
相当に堪えるひと言ではないかと思いますね。
マーガレットにもそうでしょうけれど、見ているひとりひとりにとっても。


個々の生活は、もちろん個人的なレベルの見ようによっては小さなことかもですが

さまざまな煩いを抱えている。
そうしたことに対して真っ先に目を向けるのはもちろんですけれど、そうした日々を送る中で、
世の中でそうそう良くないことが行われるわけでもあるまい…みたいな気がしてきていたわけです、かつては。


ところが、蓋を開けてみると実際はそうでもない。

日本のことだけを考えても、何でこんな国になっちゃったんだ!みたいなことに直面したりするわけですね。
なぜ?「誰も関心を持たなかったからですよ」これには答えようがないといいますか…。


ただマーガレットはそれで終わらなかったということですね。
ソーシャル・ワーカーとして関わりのある仕事であったわけですし、
事務所の上司もましてや夫も彼女に対して惜しみない支援を行ってくれることも大事な点でしょうけれど。


それが反ってマーガレットをしてかつての孤児たちのケアにどっぷり浸らせてしまうことになります。
やがて彼らの話を我が身に引き寄せて同化してしまうことによってPTSDと診断されるほどに。


それでもオーストラリアとの行き来をやめないマーガレットのことを夫は心配し、
彼女の子供たちの母親不在の生活に不安定になっていってしまう。

そんな中、マーガレット一家は家族そろってオーストラリアの孤児たちのもとで行われた
クリスマス・パーティーに出席するのですね。


主催したかつて孤児たちからマーガレットの子供たちにプレゼントが渡されたときに、
子供に向かってですから冗談めいてでしょうけれど「あなたたちからみんなにプレゼントはないのかしら」と
尋ねられた下の男の子(小学校低学年くらいの感じですかね)がこう答えるのですね。
「ママをあげたよ」


これにはひと言もありませんね。
先に挙げた大きな事象への関わり方という問題ではなくって、
これは一家庭の、一家族の、子供と母親の関わり方の問題なわけです。


ともすると、巨悪に対して骨身を削って立ち向かうような話は、
その取り組み姿勢だけで美談化してしまうところがあるわけでして、
マーガレットの「児童移民」への関わりは誰の謗りも受けるはずがないものであるはずなのに、
ほんの足元で小さな、けれど大きな軋みを生じさせていたわけですね。

この重層化した作りが映画に厚みを持たせているといったらいいでしょうか。


これでタイトルどおりの「オレンジと太陽」が象徴的にも映像でしめされ、
それが一切虚偽であったことを視覚的に印象付けられていたなら、
文句のいいようのない映画になっていたように思いますけれど、
そこまで言うのは望み過ぎなのかもしれませんね。

このあいだ「牧神の午後 」の話の中でミダス王に触れましたけれど、
この際ですから「王様の耳はロバの耳」のお話をさらっておこうと思ったのですね。


市立図書館の近所の分館でもって検索をしたのですが、
本館にはあるもののどうやらこの分館には置いてないらしい…。


「王様の耳はロバの耳」ってのは有名なお話だろうになぁと思ったものですから、
もしかして「王様の耳」と「王さまのみみ」とかいう用語の区別で見つからないのかしらむと
今度は「ロバの耳」でやってみると、「お!ヒット!」と。


子供向けの世界民話集みたいなものの中にあるようでしたので該当する書棚の方へ向かうと
同じ書棚にやはり子供向けの「ギリシア神話」というのがありましたので、
もしかしてとページを繰ってみると、ミダス王のところに出てました。


アポロンと牧神パンとで楽器演奏がより上手なのはどちらか。
この勝負ではアポロンに軍配があがったのですけれど、
どうしてもパンの勝ちといって譲らなかったのがミダス王でして、
「そんな耳なら人間の耳である必要はない」と怒ったアポロンがミダス王の耳をロバのようにしてしまった。
これが発端ですね。


恥ずかしくてしかたがないミダス王は日頃は帽子だか頭巾だかを被ってごまかしていたのですが、
王様付きの床屋だけはこの秘密を知ってしまい、これを誰かに話したくてたまらない床屋は
誰もいないのっぱらに穴を掘ってその中に思い切り叫ぶのですね。
「王様の耳はロバの耳!!」


ああすっきりしたとばかり、穴には土をかけて埋めておいたわけですが、
やがてその穴の上の土に葦が生えてきて、風が吹くたびにそよそよとそよぐようになった。
すると、そのそよぎによおく耳を傾けてみると聴こえてくるわけですよ。
「王様の耳はロバの耳…」と。


とまあ、これが誰も知っているギリシア神話由来のお話でありますけれど、
それでは先に図書館での検索でヒットしたという民話集を見てみると、
タイトルが「王子さまの耳はロバの耳」となっていて、ポルトガルの民話と書いてある。
これは、いったい??と思ったものですから、読んでみました。


昔むかしあるところの王様と王妃様。
ながらく子どもが授からずにいたものですから、三人の妖精に願掛けしたところ、
見事ひと月後に(ひと月ですよ!)王妃様は珠のような男の子をお産みなされたそうな。


三人の妖精もお祝いに駆けつけ、「やがて立派な王様になりますよ」とか「賢くなりますよ」とか
預言を与えるのですが、先をこされて言うことのなくなった三番目の妖精が
「王子様はロバの耳になります。謙虚な人になるように」てなことを言ってしまうわけですね。


ここいら辺はまるまる「巻き毛のリケ 」を思わせますが、
王子様はやがて本当にロバの耳になってしまうのでして、王様は帽子を被せて隠そうとしますが、
やっぱり床屋が察知してしまいます。


「王子様の耳はロバの耳」と言いたくてたまらない床屋は神父さんに相談し、
そのアドバイスに従ってひと気のない野原に穴をほって叫び、埋めるとやがて葦が生えてくる。


ギリシア神話とほとんど変わるところがないわけですが、
生えてきた葦は自然に「王子様の耳はロバの耳」というささやくのではなくして、
この葦で葦笛を作ったものが吹くと「王子様の耳はロバの耳」と聴こえてくるという。
試しに王様が吹いてみても結果は同じ。


なぜ葦笛から聴こえるかの謎は全く気にかける様子もなく、
このことを知っているのは床屋だからと「床屋の首をはねよ!」と命ずるのですな。


するとここで王子様登場。

「私の耳がロバの耳だということはもう誰もが知っていることです。
 床屋は助けてやってください」と王様に頼みます。


そして皆の前に王子様が帽子を脱いでみると、あら不思議!
普通の人間の耳になっていた…というお話。
慈悲心のある、いい王子様に育ったってとこですかねえ。


それにしても、誰もが知ってることを王様が知らないとなると
今度は「裸の王様」を思い出してしまうところでありますね。


元はギリシア神話にあったものが、面白おかしいところだけ伝承されるうちに
尾ひれがついていったのでしょうし、他の民間伝承との類似性からも混交があったりもしたのでしょう。


そういう意味では、同じ図書館の棚をあれこれ見ているうちに見つけた
「金の星とロバの耳」というフランスはガスコーニュ地方の民話とされるお話は
シンデレラ 」と「金の斧銀の斧 」と「舌切り雀」(ちと唐突ですが…)を混ぜたようなストーリー。


とまれ、ロバの耳というが愚鈍の象徴として良くないことの代表みたいに扱われているのは、
シェイクスピア の「夏の夜の夢」でニック・ボトムがロバ頭にされてしまうのも同種のことなのでしょう。


ヘンリー・フュースリ「夏の夜の夢」


一方で「ロバの耳」が暴露される元になるのが葦(もしくは葦笛)であることからすると、
そこにはミダス王が勝手に信奉して面倒に思った?牧神パンの影がちらちらするではありませんか。
あれこれ、実に興味深いものだなと思うわけでありますよ。

今年がポロックの生誕100年ということに肖って東京国立近代美術館で開催中の
ジャクソン・ポロック展を見てきました。


生誕100年 ジャクソン・ポロック展@東京国立近代美術館


開館と同時に入ったせいか、「ポロックを見る人がこんなにいるんだ?!」と思いましたけれど、
館内でしばし過ごすうちにだんだんと人の固まりが解けてくると、
じっくり絵と向き合うことができる程度にはおさまりがついたようで。
とまれ、それぞれにポロックが残した絵具の軌跡から何かしらを感じておられたのではないかと。


以前、いささかのポロック探究を試みたのが2008年の11月 で、
そのときにはポロック自身の言葉として引用した

「音楽を楽しむように抽象画を楽しめばいい」という姿勢でもって
ここでも好きなような理解をしつつ楽しませてもらうことにしたわけです。


今回の展覧会はいかにもポロックというポーリング、ドリッピングの作品が少ないのが残念ではありますが、
画家生誕100年という回顧展として初期から晩年まで作風の変化も含めて辿るものという位置づけなのでしょう。


初期作でやはり目を惹くのは以前の記事でも触れた「西へ(西部へ)」(1934-35年頃)でしょうか。
画家にとって独自の画風が確立される以前には、画家本人の意識とはまた別に
見る側にとってはどうしても先人の影響なのかなという匂いを嗅ぎ取ってしまったりするところですが、
これなどはミロ を思い出してしまいますですね。


ジャクソン・ポロック「西へ」


ミロが記号的なものを多用して完全に抽象化する以前の絵ということですけれど、
ポロックのその後辿った道のそこここに抽象化した後のミロの雰囲気も感じ取れるのでして、
おそらくは瞬間的な影響ではないのではないかなと思うわけです。


さりながら、ポロックが常に変わらず意識をし続けたのはピカソ なのだそうですね。
独自の画風という以上に斬新なこと、インパクトのあることを実現したかったポロックとしては
「ピカソが何でもやっちまった」的な言葉でもって、ピカソの超えがたさを語っているのだとか。


ただその挑戦の過程では、とにもかくにもこれ!と思った先人たちのエッセンスを試みては解体する
みたいなことの繰り返しがあったではないかと。
そうした中では、先のミロ風もあれば、クレー 風のようなものもあり、
一方でこれら欧州の画家とは違う出自ゆえの近さからかネイティブ・アメリカン やメキシコ壁画に
触発されるようなところもあったようで。


そんな試行錯誤の果てにたどり着いたのがポーリングという技法になりますけれど、
強い関わりが指摘されているわけではないものの、日本の、というか東洋の絵画が
ヒントになっているのではと考えるのは穿ちすぎなんでしょうか。
ポロックがこんなこんなことを言っています。

私は床で絵を描くけれど、それは別にそんなに変わったことじゃない。東洋ではやられていますよ。

欧州でのジャポニスムはもっぱら日本風の題材を描いたり、浮世絵 の大胆な構図を取り入れたりという
影響でしたけれど、キャンバスを床置きしようとは思わなかったでしょうし、
床置きして描く必然性が無かったわけですが、ポロックはそれを必然にしてしまいますね。


とはいえ、ポーリングのいろんな影響の中にはシュルレアリスム で言われるオートマティスムに
言及されることがありますけれど、一瞬そうかなと思ってしまいそうながら、
実はオートマティスムとは相当遠いところにあるような気がするのですね。


取り分け会場内で上映されていた記録映画を見るにつけそう思いましたし、
ポロック自身こうも言っていますし。


私は絵の具の流れを制御することができる。偶然は存在しない。

でもって、出来上がったポーリングによる作品ですけれど、
作品を目の前にして「何故これが作品なんだろうなあ」と改めて考えてみたりするわけです。


ジャクソン・ポロック「インディアンレッドの地の壁画」


これはテヘラン現代美術館に所蔵されてめったに見られないであろう

「インディアンレッドの地の壁画」(1950年)ですけれど、

一見滅茶苦茶と片付けてしまいそうにもなるところで、
これをカオスと見るかリズムの躍動と見るかは結構紙一重のようにも思われます。


ただ、ポーリングによって残される軌跡というのは常に流動性を感じさせる曲線であって、
このところが滅茶苦茶とだけ感じる違和感を拭っているように思うのですね。


それだけに直線の要素が強く残る作品、例えば本展では「ナンバー9,1950」のような場合は
見手にとってはいささか「キビしいな…」という印象が。


とまあ、ようやくたどり着いたポロックの独自技法ですけれど、
ポロックの生涯を結果的に縮めてしまったのはやはり超えるべき目標を
ピカソにおいてしまったことでしょうか。


ピカソの作品の変遷ぶりは他の画家にないほど常に新しいことをやってる感がありますね。
ポロックがポーリングに留まっていられなかったのは、そのことへの対抗意識かもしれません。
が、如何せんその先にあるかもしれないものにどうしてもたどり着けない。

時間をかければ出来たのかもですが、ピカソの変遷速度に敵うべくもないという焦りはあったかと。


晩年の試行錯誤のさまを、作品を通して見ていて痛々しく感じられるのは
きっと他の来場者にもあったのではなかろうかと思うところです。


生涯を辿るとそういうことになってしまうものの、
とにもかくにもポーリングという画期的な手法でもって、
手法が画期的なだけではない強い印象を見る側に残す作品を描いたジャクソン・ポロックは
やはりこれからの歴史に残る画家なのでありましょうね。