「La Folle Journée au JAPON 2012」のテーマは「サクル・リュス(Le sacre Russe)」だそうで。
フランス発祥のラ・フォル・ジュルネですからテーマもフランス語なのでしょうけれど、
リュスはバレエ・リュス のリュスで分かるにしても、サクルの方は…。


こちらも考えてみれば、ストラヴィンスキー の「春の祭典」が「Le sacre du printemps」であることからすると、
「Le sacre Russe」はさしずめ「ロシアの祭典」ということなのでしょう。


意外にこうしたつぎはぎでも理解できるものだと思ったりするところでありますが、
「ラ・フォル・ジュルネ」自体は面白そうだと思いつつも、混雑が苦手なたちだものですから行ったことがない。
ですから、その代わりと言ってはなんですが、ロシア尽くしの演奏会に行ってきたような次第です。
何しろプログラムがムソルグスキー 、ストラヴィンスキー、チャイコフスキー でありましたから。


「ロシア・ピアニズムの継承者たち」(第6回)@すみだトリフォニーホール


ただし、こたびの演奏会の特徴はといえば、
「ロシア・ピアニズムの継承者たち」と銘打たれた企画(その第6回)でして、あくまでピアノがメイン。


ですので、最初に取り上げられたムソルグスキーの組曲「展覧会の絵 」にしても

ピアノ独奏のオリジナル版で、演奏会の最後を飾るのもチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番なのですね。


間に置かれたストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」は、
もしかすると伴奏に徹する新日フィルの奏者(特に管楽器)の欲求不満解消用ではないか
と思ってしまったりするところでもありました。


会場で配付されたプログラムの解説に曰く、「躍動感溢れるパッションを漲らせながら

クライマックスへと突き進む鮮烈なドラマはジルベルシュタインの独擅場だ」と記された

独奏者リリヤ・ジルベルシュタインの輝かしく粒立ちのいいピアノには、

いずれも最後にぐおっと盛り上がる今回の曲目はピタリくるものだったのではないですかね。


アンコールに至って「あらら、やおらショパン ?」と(ピアノ作品を知らない者には)思えてしまった

リャードフのワルツ、そしてリスト の「カンパネラ」ばりに

ポキポキと鳴る様子も楽しい、同じくリャードフの「音楽の玉手箱」という、
傾向の違った曲を聴かせてくれたのはサービス精神でしょうか。

それでも、ここまできっちりロシア尽くしとは、首尾一貫した演奏会だったなあと思ったりするわけです。


ところで、演奏を聴きながらまたあれこれ思いつくことありだったのですが、
ここではムソルグスキーの「展覧会の絵」のことを少々。


「プロムナード」という展覧会場で絵から絵へ移っていくそぞろ歩きのイメージは、
ラヴェル編曲でこちらの方が有名になってしまった管弦楽編曲版よりも

ピアノ版の方が美術館の静かな雰囲気にマッチしますし、

BGMというよりはひとつの絵を見ての印象の余韻はそれぞれの絵で異なるわけで、
メロディは同じでも違った印象を受けた心の揺らぎが

何度か出てくる「プロムナード」ごとに異なるのは当然にしても、
やはりピアノ一台くらいでやってもらった方が一人の鑑賞者がいろいろな印象に心揺らしながら

館内を経巡るのに合ってるんじゃなかろうかと。


そうしたことを思うと、今度はそれそれの絵に立ち止まって見入るとき、
それぞれの絵のタイトルが付された曲が奏でられますけれど、

どうも演奏が大袈裟なんじゃなかろうかと思えてくるのですね。
これは今回のジルベルシュタインの演奏がということでなくって、傾向としての話ですが。


ジルベルシュタインの演奏は、従来から言われるように

この曲が求めるヴィルトゥオジティに溢れて恰も大伽藍を仰ぎ見るようでしたけれど、
この曲でヴィルトゥオジティを発揮する(分かりませんけど、弾くこと自体大変な技巧なのでしょう)ことと
壮大な建築物を見るかのような曲の見せ方(聴かせ方)は別なんじゃないかなと、ふと思ったわけです。


もしかしたら、ラヴェルの管弦楽編曲版による演奏が

この曲の見せ方(聴かせ方)の、いわば模範になってしまって、
それ故にピアノ一台でもオケと同じような壮大な世界を再現できますよ的な傾向ができてしまったのかなとか。


「プロムナード」で触れたように、展覧会場を鑑賞者が絵を見て何らかの印象を持ち、
その絵の印象を余韻として別の絵に移っていく様を描写的に作り上げた曲だと考えるならば、
ことほどかほどに爆発的な印象を絵ごとに抱えて見るということは少ないのでないですかね。


もちろん絵との相性によってはそれこそ爆発的にびりびり来てしまうような出会いもないとは言いませんが、
実はムソルグスキーの頭の中ではもそっと静かな炎のような感情の揺らぎを、

ピアノでこそ表したかったのかなと思ったりしたのでありますよ。


組曲「展覧会の絵」は、とかく爆演系のイメージのある曲ではありますけれど、
静かな感情の高ぶりとおちつきへの回帰の繰り返しのような演奏があるならば
そうした演奏も聴いてみたいことよと思うのでありました。

先ごろ新聞で読んだんですが、日本出版インフラセンターというところが行った
インターネットによるアンケート調査結果というのが出てましたですね。


といっても、調査での焦点(?!)は一項目だけ。
「今後書店で利用したいと思うサービスは?」という設問ですけれど、
その回答(複数回答可)というのが次のようなものであったそうな。

  • 1位 ポイントカード(約68%)
  • 2位 バーゲン(約51%)
  • 3位 トイレの利用(約38%)

「ポイントカード」を望む声が多いようですけれど、紀伊國屋のは持ってるんでそこがやってるとなると、
他の大きな書店にはすでにあるサービスなのではと思ったりしますが、どうなんでしょ。


それとも街なかの小さなというか、大規模店の系列にない書店にもということですかね。
例えば系列店でない書店の業界団体みたいなところが

横断的に利用できるポイントカード制度を作ってほしいとか。
それならだいぶ使えそうな気がするなぁと。いつもいつも紀伊國屋へ行くわけではないので。


次には「バーゲン」が望まれてますけれど、日本では制度的に言って難しいけれど、
それを敢えてお願いしてるってことでありましょうか。


たまに書店の隅の方に「バーゲン本」が置いてあったりしますが、
ハウツー本みたいなのばかりであんまり購買欲はそそられない。
それだけに「一般書のバーゲンを!」ってことなのかなと。
現状から言うと、古本屋の領域の話なような気がしないでもないですかね。


ところで、この調査でこの項目が焦点となる理由は堂々第3位に入った回答なのではないかと。
先の新聞記事でもここんとこに特化した書きぶりでありましたから。


要するに「本屋にいると、なぜかしらトイレに行きたくなってしまう…」という
本当に関連性があるのかどうか不明なことながら、あちこちで囁かれる話の裏づけか?!
てなわけですね。


「トイレの利用」と回答された方全てが
「本屋って、トイレ行きたくなるよね~」「そうそう、あるある!」という方々ではないかもですが、
差し当たり書店利用者の3割がたは「やっぱり、行きたくなるねえ」と思ってらっしゃるのかなと。
多いかどうかは別として、そのくらいはそういう人がいたんだなぁと思いますね。
個人的にもその口でありますので。


ところで、その原因でありますけれど、記事にはこうあります。

トイレに行きたくなる原因は「紙の匂い」「膨大な量の活字に囲まれるプレッシャーによる過敏性腸症候群の一種」「自宅のトイレで読書する習慣が影響している」など諸説紛々。結論は絞り込めていない。

家族内ではかねて「インクの匂い」説がまことしやかに語り伝えられておりますけれど、
個人的には書店のみならず図書館でも同様の症状を呈することがあるものですから、
「紙かインクかのせいなのかな」と思いかけてしまいました。

が、そうなると印刷会社の方々は大変ですよね、書店の方もそうですが。


となると、もっと精神的な影響でしょうか。
トイレで読書する習慣の影響?
その可能性は少ないような気がしないでもない。
これは特殊なケースかもですが、CDショップでも「来る」ことがあるもので。


ということは、活字といわず膨大な量の情報に囲まれるプレッシャー?
ううむぅ、むしろ書店ではかなりリラックスしてるつもりなんですが、
本人の意識とは関わりなく体はプレッシャーを受けているとか…。
それだったら、まだ紙とかインクの匂いという方がストンと落ちるような。


とまれ、はっきりしたことは分からないわけですが、やはり先の新聞記事に曰く
「この症状が有名になったのは1985年に『本の雑誌』が特集記事を組んだのがきっかけ」なのだとか。


「本屋に行くとトイレに行きたくなる」との投書があり、これに賛同意見が続いたことから特集を組んだ
らしいのですが、最初の投書者の名前をとって「青木まりこ現象」と呼ばれたりするそうです。

投書された青木さん、よもやそんなことになるとは思いも寄らかったでしょうし、
27年も経ってまた新聞に載ってしまうことなど全くの想定外ではないかと。
このプレッシャーでまたトイレに行きたくなってしまうとか。

ソプラノの森麻季さんのリサイタルを聴きに小平のホールで出向いたものですから、

ついでに小平辺りのお楽しみスポット?を自転車でひと周りしてきたのですね。


結果的にはホールまで行って「リサイタル延期」を知ったのですけれど、

後から見てみればホールのHPにもご本人のオフィシャル・ブログにも昨日告知されていたようです。

体調不良とのことですので、お元気になられてからたっぷり歌声を聴かせていただこうと思いつつ、

自転車飛ばして帰ってきたという…。


ですので、連休初日は音楽っけなしの小平散歩の一日になってしまってわけです。

でもって、小平といえば駅前から石材屋さんが軒を連ねるまっすぐ道に先にある小平霊園ということに。

しばらく「墓まいらー」はご無沙汰しておりましたが、多磨霊園雑司ヶ谷霊園谷中霊園 に続いて

巡って参ったのでありました。


どうも文学系の方々の墓所が多いようで、

いろんな先人から文学的素養をいささかなりとも分けてもらいたいところでありますよ。

まずは小説家の宮本百合子さんです。


宮本百合子之墓


他の霊園で見たどど~んと屹立していたり、妙に凝った体裁の墓石だったりというのが

ほとんど見当たらないのが小平霊園の特徴でありまして、

面白味に欠けるてなことを言うとばちがあたりますが、宮本さんのはその中でもちと個性を出してる感ありです。


続いては「二十四の瞳」という国民的作品を書かれた壷井栄さん。

画一的な小区画の敷地にあって、木々に囲まれ静寂に包まれた落ち着きと趣きが感じられました。


壷井家之墓


お次は近頃では忘れらた存在になりつつあるかもですが徳田秋声さんと、

さらに少し時代は現在に近づいたところで、有吉佐和子さんです。


徳田家之墓 有吉家之墓


他にも伊藤整さんや野口雨情さんといった方々の墓所にも参ってみたのですが、
だんだんと写真を撮る気も失せてきて…。

何故だかご想像つきましょうや。


最初の宮本さんのようにはっきり「宮本百合子」とかって刻んであればまだしもですけれど、

それ以外のはそれぞれ家のお墓であって、たぶん累代の墓所なんでしょうね。


すでに徳田さんちや有吉さんちのところでも違和感を抱き始めておりましたわけで、

以前方々で見た文豪やら偉人やらの個人墓(たぶん…)は、

いろんな人が訪れても仕方ないところがあるように思うものの、

一族累代のお墓となると、静かにしておかないとなぁとやっぱり思うところです。


ものを弁えた「墓まいらー」というのがあるのかどうかですが、

このあたりはちと心した上で臨まねばと思ったわけです。

ですので、小平霊園ではちと視点を変えて別の写真を。


小平霊園にて①


小平霊園にて②


小平霊園にて③


そこここに花々が咲き競っておりました。

霊園というと暗く陰鬱…てなふうでもありますが、艶やかな雰囲気もまたよからん!でありますね。

新聞のコラムを見ていて「へえ~、そうなんだぁ」と思ったのですね。
文庫本の上部が切りそろえられていないことを「天アンカット」というのだそうです。


天井部分をカットしてないことを言う、いわば業界用語なのでしょう。

しばらく忘れてましたけれど、昔々には「なんで不揃い?」と思ったことがありました。


中学生になった頃だったか、だんだんと子供向けの本から一般書に変わっていったわけですが、
そんな中でも持ち運び便利なサイズにも増して、なんとなく文庫本を読むというのが

大人っぽく見えるような気がしてともかく文庫本を読む方向に向かったことがあります。


ただ、岩波、新潮、角川といった老舗の文庫はそろって天アンカット状態で、
この不揃い具合がどうもシャキっとせんなぁと思ったものですから、
もっぱら講談社文庫を贔屓した時期がありました。


講談社文庫はすっきり天を切り揃えてある上に、紙も白くていい感じ。
高級そうな気がしたわけですね。


それでも講談社文庫だけではどうしても読めないものが出てきてしまいますから、
あれこれ取り混ぜて読んでいるうちにだんだん気にしなくなっていってしまいましたが…。


ということで、この「天アンカット」ですけれど、
単純に作業工程を端折って安く提供する企業努力か何かかと思っていたら、

これが大間違いと初めて知ったという。

誤解情報を提供しないように新潮社HPの「新潮文庫」の特長(その1)から引用させてもらいます。

本の中に焦げ茶色の紐が入っています。専門用語でこの紐をスピンと呼びます。栞の役目を果たして尚且つ落とすことがない優れものです。製本の過程でこのスピンを最初にカバーに貼り付けます。結果として文庫本の上側を断裁できません。このことを天アンカットといいます。スピンと天アンカットはそういう関係です。因みに、他社文庫は3方断といって上側も断裁している文庫本も多々あります。

今や文庫を出している出版社は多々あり、

後発のものはほとんど「3方断」で上部を切りそろえてあるようですけれど、
かつてはこれが講談社文庫くらいしかなく、天アンカットは何と見栄えのしない…と思っていたところが、
栞ひもをつけるためには止むを得ないことだったのですね。手抜きでもなんでもなく。


ところでこの紹介文のタイトルを振り返ってみますと、新潮文庫の「特長」とあります。
「特徴」という以上に「特長」と謳っているところがポイントでありますね。


つまり、栞ひもをつけるために天アンカットにせざるをえないんですよ、みば悪くですいません…

ということではないわけです。


そこで、冒頭に触れた新聞コラムに戻りますと、岩波文庫の担当者のコメントが載っていました。
岩波文庫は栞ひもがないのに、天アンカットなのですよね。

その方がおしゃれでしょう?

おお、そういう受け止め方は全くしていなかった…。
個人的にはでこぼこでかっこわるいとしか思っていなかったわけで。

ところでこれが「何故におしゃれであるのか」ですけれど、記事から引用させてもらいましょう。

印刷した紙を裁断せず簡単にとじただけの「フランス装」をイメージさせるというのだ。かつてヨーロッパでは、これを買い、個人で豪華な表紙で製本し直す習慣があった。「ガタガタ」は愛書家の所蔵する本というわけだ。

ほぉ~、そういうことなのかぁ。
昔々の知識人の香りとでもいいましょうか。


実際に文庫本でもって独自の凝った装丁をしなおしている方がどれほどいるのか分かりませんけれど、
というよりそうした歴史的経緯?を知っている方がどれほどいるのかも分かりませんけれど、
とまれそうだったのかぁと。


ま、純な中学生だった頃から数十年を経て、すでに天アンカットへの違和感は
すっかりなくなってしまってますけれど、ともあれ「へえ~」と思ったものですから。

先日木管楽器のアンサンブルである「レ・ヴァン・フランセ」の演奏会を聴いたのですけれど、
何とも鳴りがいいものでありますねえ。


レ・ヴァン・フランセ@三鷹風のホール


最大でもピアノを交えた六重奏でしたので、近いせいもあって小さめの会場で聴くものいいかなと
三鷹のホールで聴いたのですが、あまりの鳴りっぷりに音がびりびりしてしまって反って聴き辛かったという。


まあそこら辺はいささか割り引くとしても、

それでも「フランスの風」という団体名どおりの清々しい楽しさを感じさせてもらったのでありました。


プログラムにはツェムリンスキーの小曲が含まれたりしていたものの、基本的にはフランスもの。
タファネル、ミヨー、そしてプーランクといったあたりでこそという感じ。
取り分けプログラムの最初と最後を飾ったプーランクの曲は実に楽しい限りで、
最後の六重奏曲などは、もしかしてこの曲を演奏するために集まったメンバーなの?という気がしたものです。


ということで、ここはひとつフランシス・プーランクを探究してみるかと思ったわけなのですよ。
ともすると「バロックの作曲家?」などとクープランと間違われてしまうこともあるプーランクでありますけれど、
1899年という世紀末生まれ、いわば20世紀音楽 の作曲家といって差し支えないでしょうね。


ところで、クープランと間違われるかもといったプーランクですけれど、
彼を含んだ「フランス六人組」なる集まりがありまして、そのメンバーを見る限りでは
むしろプーランクは有名な方なのではと思ってしまいます。


そもそも「フランス六人組」なる呼称は
当時の批評家であったアンリ・コレという人が生み出したものなのだとか。
六人組で有名度合い筆頭と思われるダリウス・ミヨー はこんなことを書き残しています。

アンリ・コレは独断と偏見により六人の名前を選んだ。すなわち、オーリック、デュレ、オネゲル、
プーランク、タイユフェールそして私である。その理由は、我々が互いに友人であること、我々が
よき仲間であること、我々が各自の個性や性格の違いをものともせず、同じ計画を胸に描いていることだった!オーリックとプーランクはコクトーの考え方に近く、オネゲルはドイツのロマンティスムで、私は地中海的抒情主義だった!だが「六人組」成立のコレの記事は、世界的反響を呼んでしまった。

つまりは個性の違いからしても同じような作風である集まりではなく、
仲良しグループというのが実態のようですね。


世代的にはプーランクが少々若すぎる印象があって、

それならむしろジャック・イベールが入っていてもおかしくないのではと思ったりするところですが、

苦労人のイベールが遅咲きだったのに対して音楽はじめ芸術を愛好する家庭に育ったプーランクには

音楽的な開花も早熟だったからなのかもしれません。
アンリ・コレが「フランス六人組」の記事を書いた1919年といえば、プーランク20歳でありますから。


ところで、このプーランク探究の参考にしたのが、
作曲家自身とも交流のあったアンリ・エルという評論家の手になる評伝ですけれど、
作者はもっぱらプーランクの声楽作品を高く評価しているのですね。


フランシス・プーランク/アンリ・エル

ですけれど、しばらく前に歌曲を数曲と「ティレジアスの乳房」というシュールなオペラを聴いた限りでは、
少々ハードルを高く感じたものです。


絨毯座プーランク・プロジェクト

ですから、その辺の評価はちと棚上げさせてもらった上で
あえて器楽作品についていえばですね、これは楽しさ満開でありますよ。


今回レ・ヴァン・フランセが演奏したオーボエ、バソン、ピアノのための三重奏曲、

そしてもちろん六重奏曲も楽しいという意味では文字通りで

もしかしたら子供が聴いてもわくわくうきうきになるのではと思ったり。
(ちなみにバソンはフランス式バスーンのことで、「のだめカンタービレ 」にも出てきましたですね)


ミヨーがプーランクのことを書き記したものにこんなくだりがあります。

印象派のもやもやの後、スカルラッティとモーツァルトの伝統を再発見した簡素で明快なフランス音楽芸術が、我々の音楽の次なる局面になるのではないだろうか?

ここでいう「スカルラッティとモーツァルト の伝統を再発見した簡素で明快なフランス音楽芸術」、
これこそがプーランクを指して言っているというのですから、大変なものですよね。
ただ、逆にプーランクを酷評した批評にはこんなのがあります。

ミュージック・ホールや縁日の小屋の騒々しい音楽のように聞こえた。これは諷刺にすぎない。このように滑稽な気まぐれをどうして認められようか?

当時としては酷評ながら、プーランクの音楽は確かにミュージック・ホールで聴けそうであり、
滑稽なところも気まぐれなところも感じられるところがプーランクらしさでして、
今ではむしろ十分に認められるものなんじゃなかろうかと。
この批評は的外れなんじゃなくって、当時としては「認めがたい」というだけだったのかもですね。


伝統的に近代フランスの作曲家たちは

管楽器を使った器楽作品をたくさん残してくれましたけれど、プーランクもその一人。

それをたっぷり堪能してから声楽作品にリトライしても遅くはないでしょうね、きっと。


Ravel/Poulenc:Woodwind Chamber/Bennett


ちなみにこのデュフィ の絵をカバーにした2枚組のプーランク作品集(ラヴェル も2曲だけ入ってますが)、

プーランクの明快さ、滑稽さ、気まぐれ加減を堪能できますよ!