NHK教育TVの知楽遊学シリーズ。
かつて「知るを楽しむ」と言っていた頃の番組に比べると、

少々娯楽色を強める方向にシフトしたようで、以前ほどは見たいと思うものが無かったのですね。


さりながら、12月から始まった新シリーズの中では、
遠藤周作 が取り上げられるというので早速先週から見始めたわけです。


これまであまり作家に拘った読書傾向というものを持たない方だったのですけれど、
夏目漱石太宰治 、そして全く傾向は違いますけれどアガサ・クリスティー
そしてこの遠藤周作くらいでしょうか、あれもこれもと読んだのは。
(もっともいずれも全作読破したわけではありませんから、飽きっぽいだけかも…)


とはいえ、あちらこちらで何気なく触れているキリスト教との関わり方を
「ああ、こういうことなら、受け止められるかな」
と遠藤作品から教えてもらった気がしているものですから、気になる存在といいましょうか。


でもって、第1回目は「第三の新人」と呼ばれた仲間うちの三浦朱門さんが登場して
遠藤文学を語ったのですけれど、ここでのキーワードであった「裏切り」という言葉は、
「コロンブスの卵」的に「そうだよねえ、言われてみれば」と思うのでありました。


幼い頃に感じた父の裏切り、

結果的に母に連れられて入信した(させられた)キリスト教への自身の裏切り。
裏切りに傷つきつつも、省みれば自分が裏切りを繰り返している。


「母親に無理やり着せられた、身の丈に合わない洋服」

と言わざるを得ないキリスト教への裏切りはそのまま、
愛してやまない母親への裏切りにも繋がっていることを自覚しているわけですよね。


そうしたものが作品世界に展開しているというのでして、今回取り上げられていたように、

隠れキリシタンの殉難に際して黙して語りかけることのない神を描いた「沈黙 」は、
神の裏切りとも取れる内容なだけに、一部の教会で禁書処分となったというのも「なるほど」と。


沈黙 (新潮文庫)/遠藤 周作

加えて、三浦さんはこうも言っています。

一時、遠藤はノーベル文学賞の候補になったことがあったが、賞はとれなかった。当然だと思う。遠藤の主張するキリスト教では、ノーベル賞はとれないだろう。正統の考え方からはずれているからだ。

なんだか先日探究した十字軍 、その時代の教会とあんまり変わってないのかなと思ったり。
さすがに武器を取ってやっつけにはきませんけれど。


このあと三浦さんは「私自身、遠藤とまったく同じ考えではない」としながらも、こう続けます。

キリスト教作家としての遠藤の意義は、「キリスト教とはこういうものである」という定義をしたことではなく、「こう考えてもよいのではないか」という問題提起をしたことにあると思うからである。

「こう考えてもよいのではないか」に向き合ったときに「うむ、それなら考えられる」と思った契機は

「キリストの誕生」を読んだときだったかもしれないと思い出したりするのですけれど、

そうした読者のひとりとしては、遠藤周作の創作という行為は

「沈黙」の中でフェレイラやロドリゴが踏み絵に足をかけたという行為に通ずるのかもしらんと
考えたりもしてしまうのでありました。


キリストの誕生 (新潮文庫)/遠藤 周作
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