どうにも天候不順でと言いますか、もっと大きく見て気象状況が穏やかならぬと言ったらいいのか、
季節の選手交代も決してスムーズとはいえず、やおら夏ががぶり寄ったかと思うと、
徳俵で冬が必死に堪えているようでいったい春らしい春はどこへ行ってしまったの?てな具合かと。
それだけに「水温む」なんつう風情にも気付かぬうちに過ぎてしまったかと、
まあそんなことを思いつつ聞いてきた新日本フィルの演奏会でありました。
プログラム・ノートに「音楽の形をした水の便り」てなふうにあったものですから。
ちなみに曲目は、こんな4曲です。
海、海、海と来て、最後に川が出てくるあたり、
プログラミング
の意図は奈辺にありや?と思ったりするところですけれど、
アンコールに演奏されたのが、ヨハン・シュトラウス
のポルカ・マズルカ「とんぼ」とあっては
まとまりの点であんまり深い意図は無かったのかなとも。
とんぼは水辺をすいすいっと渡って産卵するなぁと思えば、
やっぱり水に絡んだ曲といえないこともないですが。
この演奏会は実のところブリテン目当てで出かけたのですね。
ほんのちょっと前にFM放送でこの「4つの海の間奏曲」を聴いて、少々くくっときたものですから。
ただ、もそっと聴き込んでおかないとスムーズに入ってこないかなと、個人的には。
ということで、結果的に最大の聴きものはドビュッシーということに。
プログラムを見て普通に考えればそう思うところかもですが、
敢えてモルダウを最後に持ってきているところにやっぱり意図ありやと思ったり。
ま、意図云々はともかくとしてですが、新日フィルの演奏は色彩感を出して
ドビュッシーにも馴染むところながら、どうも木管、特にフルートの音色にいささかの違和感が。
「海」を聴きながら「うむぅ」と思ったところが、モルダウの頭のソロではしっくりいましたので、
もっぱらドビュッシーとの相性の問題なのかなと思うのですね。
もし「牧神の午後
への前奏曲」をやったらどうなるのだろうと思ったり。
全体的には縦の線の揃いをもそっと詰めてくれていて、
さらにもそっとドビュッシーらしいもやっと感(演奏そのものをもやっとさせるということではないですが)を
出してくれていたら申し分なしではなかったかと思うところかなと。
とにもかくにもドビュッシーの「海」は、かつてブーレーズのLPジャケットに使われた
葛飾北斎
の「神奈川沖浪裏」のような大波も、蕪村
の詠んだ「ひねもすのたり」の春の波の風情も
やっぱり生演奏の色彩感とダイナミクスで聴くべきかなとは思ったところです。
(と、言いつつ帰ってきてからマルティノンのCDを聴いてますが…)
ところでところで、気付いてみたら今年はドビュッシーの生誕150年なのだそうで。
読響の演奏会でもちょろっと取り上げられたりしてますが、
ドビュッシーの音楽そのものを演奏会で聴けるのはもちろんお楽しみであるにしても、
7月14日からブリヂストン美術館で始まる「ドビュッシー、音楽と美術」なる企画展は
なかなかに待ち遠しいところでありますね。
世紀末から20世紀初頭、音楽も美術も文学もその垣根を越えて作者たちの交流があり、
お互いに影響しあったパリにあって、あんまり人づき合いのありそうにないように思われる
ドビュッシーといえども無縁ではいられなかったでしょうし。
どんな展覧会で、見る者にどんなインスピレーションを与えてくれるのか、
実に実に楽しみだなぁと思うのでありますよ。
















