以前、両国界隈の探訪 は一度試みたことがありますけれど、
「日本橋」展 を江戸東京博物館に見に行ったついでということで
錦糸町方向への道筋を落穂拾い的に巡ってみたのですね。


そもそも通った道筋が通称でしょうけれど北斎通りというもの。
北斎ギャラリーと称する
葛飾北斎 の複製画を埋め込んだポールがそこここに建っていて、
その数何と94点!いささか風雨に曝されっぱなしなのが、残念ではありますが。


ということで、北斎通りの名の謂われですけれど、
通りのほぼ半ばあたり、いまでは「東あられ」という煎餅屋さんでしょうか、
その両国本店のある角に「葛飾北斎生誕地」の案内板が建てられているという。


葛飾北斎生誕地 案内板


つまりは、かの葛飾北斎はここで生まれたということであれば、
北斎通りというのもむべなるかなでありますね。

案内板の文字は消えかかり…


されど、この案内板もまた北斎ギャラリー同様に風雨の浸食は耐えることもできず、
もはや判読不可能な域に達しつつあるのでして、このままにしといていいのかなと
思わざるをえないところなのですよ。


ただ、通りを隔てた向かい側にある緑町公園のあたりに3年後を目標に
すみだ北斎美術館なるものが建設予定とありますから、完成の暁には辺りも含めて
お化粧直しがされるやもしれませんね。


と、この緑町公園ですけれど、その一角に江川太郎左衛門邸跡の案内板が、
そして向かいの路地越しにはやはり江川太郎左衛門英龍終焉の地なる案内板があります。


江川太郎左衛門英龍終焉の地


第一級の有名人ではないかもですが、幕末期に韮山代官として反射炉による製鉄に携わり、
御台場 の建造にも関わった人物ということで、いささか興味をくすぐりますですね。


案内板に曰く、日本で初めてパンを焼いたと言われていたり、
はたまた中濱万次郎(ジョン万次郎です)を敷地内に住まわせて英語の講釈をさせたとも
言われているそうな。さぞや進取の気性のあった人物だったのでしょうねえ。


緑町公園から少し錦糸町寄りのところには、野見宿禰神社があります。
なんでも野見宿禰とは相撲の神様であるらしく、かつて隣接したあった高砂部屋の親方が
野見宿禰を祀ったことがこの神社の始まりだとか。


といっても最近の高砂親方の話でなく明治時代のことですけれど、
両国と相撲の関わりを偲ばせるところではなかろうかと思いますですね。


野見宿禰神社


いつもそうなのか、日曜だったからなのか、はてさてですが、
境内には入れないようになってましたので、どうにも中途半端な写真になってます。


さて締めくくりに訪ねてみたのが、さらに錦糸町寄りにある竪川中学校の一角。
ここも今では案内板が立つのみですけれど、かの幕末の英傑のひとり、山岡鉄舟の旧居跡です。


山岡鉄舟旧居跡


ほんの数ブロックといった区画なのですが、

こうした幕末維新の頃に関わる人々ゆかりの場所が次々出てくるのは何だか不思議な気がします。


そうした一角を今は遥かな高みからスカイツリーが見下ろしているかと思うと、
ついつい時の流れに思いを馳せてしまいますですねえ。

東京スカイツリーが北斎通りを見下ろす

先に三鷹市美術ギャラリーで見た「芸術家の肖像」展 のことを書いているときに
自前の記事検索でもってアンリ・マティスとジョルジュ・ルオーの交友関係の記事

読み返したりしたもので、たまにはルオー を見に行こうと思ったような次第。


なにしろルオーを見るには汐留に結構なコレクションを抱えた美術館があるものですから、
思い立ったときに出掛けられるというのはいいですよねえ。


もちろんルオーでない企画展のときもありましょうけれど、
今はちょうど「ジョルジュ・ルオー 名画の謎」という企画展が行われている
パナソニック汐留ミュージアムへと出掛けたのでありました。


「ジョルジュ・ルオー 名画の謎」展@パナソニック汐留ミュージアム


今回の展示は子供たちにも興味を持ってもらおうというような工夫があって、
同館としては専門分野のルオーの絵を多くの人に見てもらおうということなのかもしれないですね。


工夫のひとつとしては(さすがに電気屋さんが母体ということもあって)照明へのこだわりです。
二つほどの絵をサンプルとして、絵が掛けられた壁面に照明の切り替えスイッチがついており、
片方は「一般的な美術館の照明」、もう一方はパナソニックが考える?「最適照明」、
この二つの照明をスイッチの切り替えて、交互に絵に当てて見ることができるという。


こうなると、さすがに「一般的な美術館の照明の方がいいじゃん」とはならないわけでして、
サンプルになっていた「ブルターニュの風景」(1915年)という作品では、
一般的な照明では全面的にかなり黄みがかってしまうのに対して、
最適照明では海の青がかなりくっきりと引き締まる感じがしました。


ジョルジュ・ルオー「ブルターニュの風景」


そういうことなら、あっちもこっちも絵画展示の照明にはこれを使ったらと思うわけですが、
予算の都合もあり、また独占させるのもどうかということもあり…ではありましょう。
知らないだけで、他社も似たような開発はしているのかもしれませんし。


もう一つの工夫は至ってシンプルですが、
壁に質問らしきことが書かれている扉付きパネルがあり、

開けてみると答えが分かるという子供向けの科学館なんかによくある仕掛け。


こうした類いは実際子供が開けたり閉めたりしているそばでは、
大人としては「もう知ってるんだよ」的な顔付きで通り過ぎたり

してしまうものの(要するに見栄っ張りですか)、
周りに子供がいないとなれば、どれどれと開けてみるというわけでありますよ。


さらにもひとつ、ルオーは版画作品も多いのですが、その版を重ねてみるというコーナーです。
色の異なる版を何回か重ねて刷っていくことで、結果こういうのが出来上がりましたぁ!と、
単色の版で刷ったものと最終的な完成版とを並べて展示してあるのはよくありますけれど、
単色の版を透明なアクリル板にして、下から光を当ててある台の上で重ねていくという具合。


版画そのものではないにしても、

重ねて画面で出来上がっていく様子というのはなかなかに興味深いもの。
ただこれも子供がやっていたら、素通りでしょうねえ。


ところで、ルオーといえば尋常ではない厚塗りで有名ですけれど、
ここまで?!と思える作品が展示されておりましたですね。


1950年頃といいますから晩年の作品でしょう、

「古きヴェルサイユ」という作品はもはや究極の厚塗りといいましょうか。


何しろキャンバスや紙、板といった平板なものに描かれたものではなく、
ある程度の深さのある皿にその深さがもはや分からなくなるくらいに絵具を盛って盛って…

という作品なのですから。


なんでも塗り重ねた絵具の下地として白い絵具が使われていたようなのですが、
年月が経って表面の絵具が乾き、ひび割れた隙間から

白い絵具が盛り上がってきている様が見て取れるという。
盛り上がってきているということはですよ、まだ乾いていないわけですね、下地の白は。


制作後60年余を経て、この現在進行形の生々しさ。
ルオーの生きた時代と繋がっている感が湧き起こるという不思議さに

思いを馳せる瞬間ではなかろうかと思うところでありますよ。

ベルヌーイの定理 と揚力の間に関係はあるのだけれど、
その一般的な説明の仕方が間違っているためにどうもストンと落ちない…てなことを
こないだ書きましたけれど、そのとき助けを得たのが中公新書の「飛行機物語」でありました。


飛行機物語―羽ばたき機からジェット旅客機まで (中公新書)/鈴木 真二


飛行機の発達史を科学技術の進歩の状況を絡めて語ってくれる内容ということまでは

先に触れましたけれど、もちろん最近に近いところまでをカバーしているものの、

ここでは専らライト兄弟とその後のことに関して少々触れておこうかと思うところでありますよ。


そもウィルバーとオーヴィルのライト兄弟がノースカロライナ州キティホークの海岸で

初の動力飛行を行った1903年12月17日が航空史上の一大画期になったわけですね。


それから110年くらいしか経っていないのに、

今や何百人もの旅客を乗せて日本とヨーロッパの間をおよそ12時間で飛行できるような乗物に

発展した…とは、よく言われるところではないかと。


ではあるものの、その110年くらい前の頃には

「人間がそもそも鳥にように空を飛ぶことなど理論的に不可能」

と断じられていた時代もあったそうな。
それでも、人はさまざまな手段でもって大空に舞い上がる算段を講じてきたのでありますね。


ダ・ヴィンチがデッサンを残したりもしてますし、
実際に飛ぶための装置として気球、飛行船、グライダーなどが考案されてきましたけれど、
「理論的に不可能」とされてしまうとむしろニッチな分野に取組む夢想家というのが、
飛行機を夢見る人たちであったかもしれません。
実際、ライト兄弟にしても自転車屋であったわけですし。


ところで、そのライト兄弟の初飛行ですけれど、実はあんまり話題にならなかったのだそうです。
彼らの飛行に先立つ12月8日、ラングレーという学者先生が飛行機を飛ばす実験を行ったところ、

ものの見事に大失敗してしまい、ときのニューヨーク・タイムズはこの失敗に対して、
「飛行機の完成は100万年から1000万年先のこと」と記事に書いたのだとか。
こうなると、ひっそり実験したくなる気持ちも分かります。


実際にはそのたった9日後にライト兄弟が飛行機を飛ばすわけですが、
当時の飛行機というものに対する思いは、今のタイムマシン のようなものだったと考えると
近いかもしれないと思ったりするところなのですね。


これも今から思えばですけれど、ライト兄弟のフライヤー号という飛行機は
(どうやら飛ぶものという意味だけで、あんまり愛称とかいうことではないようですが)
バルサ材か何かで組んだ模型飛行機の大きなもの、
つまりは言葉が悪いとは思いつつも大層ちゃちなものに見えますですね。


いちばん最初のは飛行といっても12秒、36メートルてなことを言われると
「これって、飛んだことになるのかいね…」とも思ったり。

ただこれが確かな契機であったことは歴史が証明してますから、
今の感覚で語るのは誤りの元なのでしょう。


ところで、人類初の動力飛行機を飛ばしたライト兄弟ですけれど、
その後の航空機発展の中にはおよそ名前が出てこなくなるのも事実。


フライヤー号タイプの飛行機でもって飛行を繰り返す度に

滞空時間も飛行距離も伸びていったようですが、この結果を示すべく各地を巡業したそうな。


これは驚きを持って迎えられたわけですが、
その一方で「飛行機は作れるんだ!」ということを多くの人に確信させてしまった。
すると、そこには当然のように競争が出てくるわけで、加速度的な飛行機改良レースに
さしものライト兄弟も付いていけなくなったようなのですね。


ひとつの鍵はプロペラの駆動にあったそうな。
回転の速いすぎるエンジンの駆動力を、いささか加減してプロペラに伝えるにあたって
チェーンとギアをかませて調整する方法(何とも自転車っぽい!)をライト兄弟は取っていたようです。


しかし、だんだんとエンジンからダイレクトにプロペラを駆動させる方式が目だってきても、
ライト兄弟は自分たちが最初からとっている方式を離れなかったというのですね。
先駆者なりの自負でもって、結果自滅してしまったということになりましょうか。


結果的に、ジェット・エンジンの時代になるまで航空機の発展は
ひとえにヨーロッパに委ねられることになったようです。
そうしたヨーロッパが航空史の花形を競った時代、
「紅の豚」はそんな時代の物語なのでありましょうかね…。

盛岡話をもうひとつだけ。
盛岡の北にある渋民出身の石川啄木 、そして盛岡の南にある花巻出身の宮沢賢治
このふたりがいずれも盛岡で過ごした時期があることから、
盛岡には「もりおか啄木・賢治青春館」なるものがあるのですね。

もりおか啄木・賢治青春館


両者にまつわる資料の展示があるのですけれど、
さほど時間に余裕がなかったものですから、

このときはもっぱら建物の方に注目したのでありました。


今では「啄木・賢治青春館」と名を変えた建物というのが、
明治43年(1910年)に建てられた第九十銀行本店ということなのだそうです。


この建物が建ったころには、

啄木はすでに東京に出て本郷菊坂 のあたりに住まっていたわけですが、
賢治の方はちょうど旧制盛岡中学に在学中であったとなれば、
このレンガ造りの洋館に新しい息吹きを感じつつ、

賢治はこの建物を見上げていたかも知れぬなどと思えてもくるわけです。


内装的にもレトロな雰囲気が何とも言えないわけでして、

先月訪れた猪苗代湖畔の天鏡閣 の記事でも試みましたが、
写真でそうした一端が伝わりますかどうでしょうか。



もりおか啄木・賢治青春館 館内① もりおか啄木・賢治青春館 館内② もりおか啄木・賢治青春館 館内③


ところで、啄木・賢治青春館のほんのちょっと先には

また別のレトロ建築があるのですね。こちらです。

岩手銀行中の橋支店


現在もなお岩手銀行中ノ橋支店として銀行業務の現役なわけですが、
先の第九十銀行の竣工から遅れること数ヶ月、明治44年(1911年)4月に
旧盛岡銀行本店として建てられたものといいますから、銀行業務ひと筋100年ということに。


レンガの感じからしても、東京駅を手がけた辰野金吾 も設計に携わったというのが
頷けるところではないでしょうか。


先の第九十銀行本店もこの盛岡銀行本店も、

盛岡駅からはいささかへだたった中津川沿いに建っていますけれど、
盛岡城 は川を挟んで目と鼻の先という位置関係。


例によって駅は市の中心から外れたところにあったのでしょう、
この中津川近辺がまさに盛岡の中心だったのですね。


そして、中津川沿いに中ノ橋のひとつ先の端のたもとには
新渡戸稲造先生の胸像が川面を望むように置かれておりました。


新渡戸稲造 胸像


明治17年(1884年)にはアメリカ留学へと旅立ち、
帰国後も郷里盛岡にそうそう落ちついている間もなかったのではと思うと、
たとえ胸像の目の端であってもレンガ造りの洋館が望めるとすれば、
新渡戸先生もお喜びではなかろうかと。


とまあ、束の間明治の息吹に触れる盛岡の街でありました。

しばらく前に中川船番所資料館を訪ねた折に、
江戸期の運送というのはその積載量の大きさからもっぱら

舟運だったと改めて知ったわけなのですね。

だからこそ江戸の町に直結している掘割の角に番所が置かれたというのも当然であろうかと。


中川船番所資料館


これまたしばらく前の「ブラタモリ」をご覧になった方はご記憶かとも思いますが、
北から江戸湾に注ぐように流れる中川と隅田川、

この両者を江戸湾を迂回することなく結びつけた運河が
小名木川でありまして、中川番所はこの小名木川と中川との角に置かれていたという。


そして、小名木川を抜けた舟が隅田川越しに見る、江戸市中につながわる掘割が日本橋川。
当然、そこを進んで行けば、日本中に繋がる街道の基点である日本橋に出るわけですね。


日本橋は街道筋の要、つまり陸運でも重要なところでしたでしょうけれど、
こうして見ると舟運の方でもまた要所であったとすれば、

まさに江戸いちばんの交通の要衝、それが日本橋の真の姿であったかもですねえ。


と、昨2011年が石造の橋に架け替えられて100周年であったことから、

三井記念美術館の「橋ものがたり」展 なども見つつ、そんなことを考えていたわけですけれど、

ちと時機遅れ的ながら江戸東京博物館で「日本橋 描かれたランドマークの400年」展が

始まってましたので、見てきたのでありますよ。


「日本橋 描かれたランドマークの400年」展@江戸東京博物館


企画としては時機遅れと書いてしまいましたけれど、
どうやら江戸東京博物館の開館20周年記念特別展の位置付けであるらしく、
そのこころは?と言えば、石造100年どころか、日本橋が初めて架橋されたのが1603年頃だそうでして、
江戸幕府の始まりから400年に渡って日本の移り変わりを日本橋は見てきたということになり、
江戸東京の歴史そのものであっては記念特別展となるのも頷けてしまうわけなのですね。


そもそも五街道の起点であるということも大したものですし、
一方冒頭に触れたように舟で江戸に入ってくるとした場合、隅田川から日本橋方向に進んでいくと、

右手には活況を呈する魚河岸が並んで江戸の繁栄が窺えると同時に、
正面方向にはやがて大きな江戸城が見えてき、さらにその背後に富士山が望めるという、
実にドラマティックな演出まで考慮されて架けられたと言うのですね。


それだけに、日本橋が描かれるに当たっては基本的な構図として、
北東側からの眺めを採用するケースが多かったと言います。
こうすると、一枚の絵の中に魚河岸のようすから、

日本橋そのものと江戸城、そしてその先には富士山と、
訴求効果抜群の要素を放り込むことができたわけです。


とはいいながら、誰もが同じように描く構図でよしとしては絵師の名が廃る!と思ったかどうか、
基本は基本として維持されつつも、独創的な構図を競うかの様相を呈したりもするわけですね。

どんな具合かといいますと、風景画と言えば広重に登場いただくといたしましょう。


歌川広重「東海道五拾三次」より「日本橋朝之景」


広重と言ってまず浮かぶのが「東海道五拾三次」でありますけれど、

これだとどうしても永谷園の方を思い出してしまうような。


とまれ、日本橋の図としてはよぉく知られた一枚です。

されど、今回の展示で日本橋の北東側には魚河岸があってということを知ってみれば、

なるほど今まで気にもとめてませんでしたが、左側に魚売りの一団が。

ということは、これは橋の北側から描いているということになりますですね。


お次の一枚は、前にいささかの探究をしてどうやら構図の工夫が著しいことが分かった

名所江戸百景 」(略して江戸百)からの一枚であります。


歌川広重「名所江戸百景」より「日本橋江戸橋」


これはまたぐぐぐっと日本橋の欄干によった構図が特徴的。

むしろ橋のようすは分からないと言った方がいいですけれど、

それでもこの擬宝珠とやはり魚売りと分かるほんの部分、これだけあれば

日本橋と認識されるのが当時の常識なようで。


そして最後にいちばんオーソドックスと言っていいかもしれない、北東からの俯瞰図。

江戸城、富士山を望んで、しかも珍しい江戸の雪景色という、江戸百より「日本橋雪晴」の図。。

やりますなぁ、広重さん。


歌川広重「名所江戸百景」より「日本橋雪晴」


こうしてあれこれ構図を変えているとはいえ、何度も描かれる日本橋は
まさしくお江戸のランドマークであったことがよく分かります。


その後、明治となって橋の形も太鼓状から平たいものに、

そして木造から石造へと変わって道幅が格段に広くなり、
その上を鉄道馬車が、人力車が、自転車が、やがて路面電車も通るようになっていくのでして、
いろいろと特徴的な出来事を向かえるごとにその様子が描かれ、また写真に留めらてきたという。


それらの一つ一つも興味深いところながら、そうした変化の果てに辿り着いたところ。
これがやっぱりショッキングですよね。


1963年12月21日、江戸橋・呉服橋間の首都高速道路が通ったことで、

日本橋はすっかり日陰者になってしまいました。


昨年の石造100周年を期して日本橋の賑わい再生に向けた取組みがあるようですけれど、
覆い被さる首都高の重圧を跳ね飛ばすようなものが出てきますかどうか…でありますねえ。


ところで、日本橋の架かっている川の名前が日本橋川。
前にも「?」を呈しましたけれど、今回の展覧会でもこの点の「?」は解決できませんでした。