フランケンシュタイン の話のときに、お話全体の感想は感想として書いたものの、

ちと部分にこだわって思うところがありまして、この際ちと補遺的に。


そもフランケンシュタイン博士がなぜモンスターを作り上げたかなんですが、
これは錬金術への興味から出たことなのですね。


よもやのものからよもやのものを作り出すことができるのではないかという好奇心。
思い切り想像力を巡らせてありとあらゆるものを化合したりすることは、
後の科学から見れば何とも見通しのない実験ではありましょうけれど、
それが後の化学に繋がることは想像の範囲内でありますね。


ただ、中世以来の錬金術は、

その後に科学が進歩していくにつれて無駄なこと、やっても詮無いことと見られたでしょうし、
「フランケンシュタイン」が書かれた19世紀初頭ともなれば、

無意味なことを上回って「悪魔の所業」と否定度合いが

一段と高まっていたのかもしれません。


ヴィクター(フランケンシュタイン博士の名前です)が

錬金術を試みた人物による過去の著作を手にとってみるという
子供ならではの興味本位は分かるような気がしますけれど、

これを見咎めた父親の関わり方が「うむぅ…」と思わせるものでした。


ということで、「フランケンシュタイン」から少々引いてみます。

ヴィクターが13歳の頃、家族旅行に出掛けた旅先の宿で

ドイツの神秘学者コルネリウス・アグリッパの本を見つけ、
夢中になったことを父に告げた部分です(「わたし」というのが、ヴィクターです)。

・・・わたしは興奮しました。新たな光が頭のなかに差し込んだ気がしたのです。大喜びしたわたしは、自分の発見を父に伝えました。父はあまり気乗りしない様子で、本のタイトルを見ながら、こう言いました。

「ああ!コルネリウス・アグリッパか!ヴィクター、こんなものに時間を費やしてはいかん。どうしようもなく愚かな著作だよ」

まさに一刀両断でありますね。
たとえ愚かしくとも子供が熱く語ることに対して理由もなにもなく全否定して済ませてしまうのは
フランケンシュタイン父子に限らず日常的にありがちなことにも思えますけれど、

「まずいよなぁ…」と思ったですよ。


実際、その後に続けて大人になったヴィクターがこんなふうに回顧しているのですね。

こんなことは言わずに、アグリッパの論理がすでに完璧に論破されていること、近代科学の体系が導入されて、昔は空想によっておこなわれてきたことが、現代では現実に基づいて実践的になされていて、そちらにずっと大きな力があること、こうした点を父が時間をかけて説明してくれていたらよかったのにと思います。

まさに!と思いますですね。
13歳とはいえ、父親から否定的な言葉を投げかけられたときに、

普通はその場でこのようなことを思い至ることもありませんし、
ちらとも思ったとしてなかなか言えるものでもありません。


となれば、気をつけるべきは父親の方であったと思わざるをえない。
でもって、これは小説の中のエピソードというにとどまらず、

先にフランケンシュタイン父子に限らずと言ったとおりに、
そこここで起こりうることなだけに親の側が気をつけておかないといけんなぁと。


「相手は子供なんだから理屈で話してもわかりゃあしないし」と考えてしまったり、
そもそも説明するのが面倒で「良くないことは良くない」で終わらせてしまったり…。
こうしたことはきっと子供にとって瑕になってしまうかもしれません。


一事が万事ではありませんけれど、そして小説による誇張ともいえましょうけれど、
ヴィクターはその後科学に打ち込みながらも、父親への反感も含めて?

神秘学的な発想も忘れることなく、結果的にモンスターを創造することになってしまうわけです。


こうしたことを例と考えるべきではないとも思うものの、
ついついいろいろと年少者の犯罪あたりにも通底することでもあるのかなと思ったり。


話はどうも子育てへの親の関わりみたいなことになってしまって、
個人的にそうした話題に対して立派なことが言えるものでもありませんけれど、
子供にはきちんと説明してやらねばと思いますですね。


大人だって、例えば「あれやって、これやって」と仕事を言いつかるときに、
「これをやって、いったい何の意味があるんだ」みたいなことはやる気にならないでしょうから、
子供だって同じでしょう、きっと。


訳も分からず「だめだ!」と言われては、

行為でなくて自分自身を否定されている気がするかもしれません。
どうせ分からないだろうということも、分かるように話して聞かせることが必要なんですよね。


そうそう、ただ聞かせるというよりは、相手(子供ですが)の考えることを引き出しながら、
対話する形でやるといいのかもですね。


お互いの接点が近づいていくのが分かったりしますけど、
うっかり対話を間違うと大人の側が子供を言い負かしてしまって、

気が付いたらしたり顔してた…なんつうのは失敗例でしょう。


むしろ子供の方が面倒になって「わかんない」的なことしか言わなくなってしまうようでも、また失敗。

やりとりの終わりが「そうじゃないかな?」「そうだね」「やっぱり、そうだよね」と収束すれば

お互いに後を引くこともないですし、きっと子供も大人になったときに、

もしかしたら自分の子供にも同じようにしてくれるかもしれないなぁと思ったりするのでありますよ。

去る4月の28日に森麻季さんのリサイタルを聴きに小平 のホールに出かけたら

「うへ?ドタキャンかよ?!」ということがあったと書きましたけれど、

キャンセルというよりは延期でありまして、ようやっとその期日になって行ってきたわけです。


森麻季ソプラノ・リサイタル@ルネこだいら


それにしても、きれいな声でありましねですねえ。

パワーにものを言わせて声を張り上げるでもなく、

小さな音までしっかりと、そして程よく伝わってくるのは絶品でもあろうかと。


例えば風鈴が風さえ送られれば心地よい音を響かせてくれますけれど、

それと同じように呼気という風が通り抜けることで、無理も作為もなく素敵な声が響くといった調子。


ただ、ただですね、グノーやモーツァルト のオペラ・アリアから日本歌曲、

そしてデュパルクのフランス歌曲に果てはマーラー の交響曲第4番の第4楽章に至るまで、

とりどりの選曲で歌唱が披露されるのですけれど、どうも入ってこない…。

間違いなくうまいのに、です。


聴いてる側としても「うむむ・・・」と首をかしげる心地ぞするてなふうだったのですね。

ところが、プログラムにある最後の曲になって豹変か?!と。


最後の曲と言いますのが、

プッチーニオペラ「ラ・ボエーム」 からムゼッタのワルツだったのですけれど、

これがぴたりなのですなあ。

舞台姿までが活き活きとした感じです。


プログラムの解説から引用させてもらうと「画家マルチェロの昔の恋人ムゼッタが、

パトロンを連れて登場する場面で歌う一曲…。マルチェロの気をひこうと、

いつも人目を引く自分の美しさを自慢する」という曲なのですけれど、

ムゼッタのコケットさがまさにここに!といったふう。


それ以前の曲に比べて、ムゼッタのワルツに対するご本人が意識されるところは

わかりませんけれど、この曲に続いたアンコール3曲がこの日の白眉であったとすると、

相性が合うことでテンションがあがるというか、ノリがよくなるというか。


アンコールの3曲はバッハ=グノーアヴェ・マリア

ヘンデル 「リナルド」から「Lascia chio Pianga」、マスカーニ のアヴェ・マリア。


何でもつい最近、何だかはわかりませんが悲しい出来事があったそうで、

そこでこうした曲が選ばれたようですけれど、さきほどのムゼッタのワルツはまた違った部分で

ご本人なりの感情移入の賜物というところでしょうか。


とりわけ、ヘンデルの曲(日本では「私を泣かせてください」とも)には

ともするおと聴いてる方が落涙しそうになりましたですねえ。

(本当に落涙してたら、昔聴いた笈田敏夫さんの歌った「マイ・ウェイ」以来だったかも)


とまれ、悲しい出来事がどんなことかはわかりませんが、

アヴェ・マリアを歌われる際には胸に十字を切ってらっしゃいました。


近しい方のご不幸かとも想像するところですけれど、

リサイタル最初の方のことはとやかくいいはしたものの、

最後の4曲、よくぞ届けていただきました。

感謝いたしますです、はい。

先に映画「大空港 」の話の折に、

パニック映画のパニック度合いはどんどんエスカレートして…てなことを書きましたけれど、
地震、洪水、竜巻 、噴火と自然災害のあれこれもずいぶんと描かれてきましたですね。


そんな中でちと異色なのが「ボルケーノ」でしょうか。


これも噴火モノの一つではありましょうけれど、

噴火モノの正統派は「ダンテズ・ピーク 」のように山で起こるわけですが、
「ボルケーノ」の舞台はロサンゼルスの街中。


そこでいきなりマグマが噴出するとなりますと、
パニック映画を撮るために作ったシチュエーションなのではと思ったりするわけです。


ボルケーノ [DVD]/トミー・リー・ジョーンズ,アン・ヘッシュ,ギャビー・ホフマン

映画の中でも、最初は危機管理局長のマイク・ローク(トミー・リー・ジョーンズ )が

地質学者のエイミー・バーンズ(アン・ヘッシュ)の意見を聞いて「んな、あほな!」と思ったように、

大都市の地下からやおら溶岩が噴出することってあり?と思いますですね。


「大地震」という別の映画の舞台は確かサン・フランシスコ でしたけれど、

今回の話も大きな地震が原因となって引き起こされますが、
カリフォルニアにはサン・アンドレアス断層というのが走っているので、

確かに大きな地震は起こるらしい。


ただ、大地震によって生じたプレートの裂け目からマグマが地上まで噴き上げるというのは、
本当のところの科学的根拠はどうなんでしょうねえ。


もっとも日本では

畑のあったところがあれよあれよと隆起してしまった昭和新山のようなケースがあるとすれば、
まあこういう設定で映画を作っていけないということはないのかなとは思ったりしますが。


というわけで、この映画で闘って捻じ伏せなくてはならない相手は溶岩流ということになります。
一昨年行ったときに何度かバスで通ったウィルシャー・ブールバード。


ダウンタウン からしばらく西へ向かうとタールピッツというところがあるのですね。

お隣のLACMA でも建物の外では「タール?」という独特に臭いがしてきます。


今でも地殻の裂け目から地上にタールが湧き出している場所となれば、

この映画に打ってつけの場所でありましょう。


でもってここから湧き出した溶岩に対して、

ウィルシャー・ブールバードとフェアファクス・アベニューとの交差点でもって堰き止め作戦を展開、
何とか流れを止めることに成功するですが、交差点の角に立つビルはしっかり燃えてます。
あらら、ピーターセン自動車博物館 も燃えとる!と。


映画の中ではずいぶんと溶岩流が流れたように描かれてるんですが、
実際にはタールピッツからこの交差点まではさほどない距離でして、

これはどうなってるのかなというところ。


ところで地表に流れ出たものは堰き止めましたが、これよりさらに熱々の状態で流動性もよく、
つまりは流れの速いものが地下鉄トンネルの中を突き進んでいることがやがて発覚します。


すでに地表を流れているときからしてですが、人々がパニックに陥る…それは想像がつくとして、

たちどころにして窃盗が横行するというのはどうしたものか…。


避難して人のいなくなった店から何でも盗り放題とばかりに押しかけては持ち去っていく人々。
映画とはいえおそらくこういう事態が出来するであろうと思われるから

入れられたエピソードですよね、きっと。


東日本大震災後の日本人の行動が、見方によっては感心され、
別に見方によっては気持ち悪い落ち着きのようにも取られたのと

全く違う行動がここにありますですね。


それはともかくここにもまたひとつの成長物語があるのでして、
ロークの娘さんがこの事態の前と後を比べると「まあ、立派になって!」という感じ。

それに伴って、ロークと娘さんとの関係も「成長した」ともいえましょうか。


そして、アン・ヘッシュで思いだす「6デイズ7ナイツ」でそうだったように、
異常な体験を共に通り抜けた男女が非常に親近感を抱いて…という構図が

ロークとエイミーに出来するかと思えば、こちらの方は余韻さらりとかわされたふうでありましたですね。


とまれ、全般的に荒唐無稽とはいえそうですが
なかなかに見ている間緊張感を強いられる映画ででありますよ。

先に聴いた読響の演奏会のことは、
コリリアーノのヴァイオリン・コンチェルトでソロを弾いたララ・セントジョン のことだけで
先日の記事が終わってしまってましたが、実は当日のメイン・デッシュとして用意されたのは、
HKグルーバー(「ダイ・ハード 」の1作目を思わす名前…)の手になる
「フランケンシュタイン!!」という作品だったのですね。


オーケストラをバックにバリトン・ソロがいわゆる声楽的発声ではないところで、
ときに滑稽に、ときにおどろおどろしく歌とも語りともつかぬものを入れていくというスタイル。
「もっぱら子供たちに笑って、楽しんでもらおう」というのが

一番のコンセプトなのではないかと思いますね。


フランケンシュタインの怪物ばかりか、ドラキュラも狼男も、

はたまたスーパーマンやらバットマン まで登場する内容なればこそ、

子供へのくすぐり要素がたっぷりかと。
もっとも聴く側は例によって年配の方が圧倒的でしたけれど。


ところで、ここで「フランケンシュタインの怪物」という書き方をしましたけれど、
フランケンシュタインとは怪物の名前でなくして

それを作った博士の名前であることくらいはさすがに知っている。
ですから、漫画「怪物くん」に出てくるフランケンなどは勘違いを助長してしまうものであるわけです。


とはいえ、そもそもフランケンシュタインの怪物の何を知っているかというと、
「でっかい体のそこらじゅうに、縫い付けた傷痕だらけ。
もしかすると首のあたりに五寸釘状のものがあって、「ふんがー!」と言っちゃうのでは…と、

あやふやあやふや。
勘違いを助長するといった、「怪物くん」やそれに先行する映画などの印象でしかないのですね。


そこで、たまたま古典新訳文庫に入るくらいの古典的名作なんだぁねと思ったこともあり、
元祖「フランケンシュタイン」、その小説を読んでみたのでありますよ。


フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)/メアリー シェリー


読み始めて早々に「そうだったの?」と思うのは、作者があのイギリスの詩人シェリーの奥様、
元々文学的な素養があり、他にも作品を残している歴とした作家メアリ・シェリーが原作者でありました。


なんでもあるとき夫のシェリーともどもバイロンなんかとも一緒にスイスで避暑をしていたのですと。
まあお金持ち階級なのでしょう、ゆるり四方山話などしつつもそれが尽きると、
「怖い話でもみんなで作ってみよう」ということになったそうな。
怖い話にで涼むというのは万国共通なんでしょうか。


そうしたことが発端となって、やがて一編の長編小説ができあがった。
それが、この「フランケンシュタイン」というわけなのですね。


元が怖い話ということもあり、どうして映画で馴染む怪物のイメージをもってしまいますから
どうしても「際物では?」とも思いもありますが、1818年の初版序文は詩人シェリーが寄せている、
ということはかの詩人も当然読んで世に問うことをしかるべしと考えたとしますと、
もしかすると侮れん作品なのやも知れぬと。


そしてそして、読み終えて思うところですけれど、
「これはビルドゥングス・ロマンではないか?!」ということなのですね。
いやあ、驚きました。


物語は三重の入れ子構造になってまして、

最初は北極探険に乗り出す英国青年の話から始まります。


これが一体どう進んでいくのかと思っておりますと、

北極点を目指す途中、氷原でひとりの外国人を救い上げるのですが、
これがフランケンシュタイン博士でして、白い蓬髪に眼光鋭く痩せていながら骨太の老博士…

かと思いきや、およそこのイメージとは似つかぬ青年研究者でありました。


やがて、入れ子でフランケンシュタイン博士が何故こんな氷原を彷徨っていたのかを語り始めます。
自分の生い立ちから新たな創造物(結果的に怪物なんですが)を作り出すに至る経緯、
おのれの成したことの大きさに苦悩し葛藤するさま、そして怪物との再会…。


ここでさらに入れ子の話になりますが、

これが何と!フランケンシュタイン博士と再会するまでに起こった様々な経験が
フランケンシュタインの怪物自らによって語られるのでありますよ。


異形の容貌、特異な体躯を与えられてしまった彼(怪物ですが)が、

全く悪意もないに出くわした人間に恐怖され、はたまた打ち叩かれ追い払われしつつも、

どのように人間にも似た感情や言葉を身に付けていったのか。
そこには、博士とはまた異なる苦悩と葛藤があったことを切々と訴えるのですね。


そして、そんな彼にとって唯一心の平安を得られるであろう提案を博士に持ちかけ、
拒絶するならば博士の家族に災いを齎すことになるだろうと告げるわけです。

この辺りは一概には言えないにせよ、博士より怪物の方が理に適っているというか、
博士の方には「もそっと責任の取り方があるだろうよ」と突っ込みたくなるところです。


と、話を全部書いてしまっては面白くなくなってしまうでしょうからもったいぶって控えますけれど、
あまりにも予想外の話であったことに驚くと同時に、

大袈裟に言うと「生きていくこと」を考えてしまうとも言えましょうか。


博士が結果的に怪物なるものを創造してしまった元をたどると、

父親が子供の頃の博士への関わりが思い起こされて、
人間の育っていく過程での他者の関与を考えてしまうところでありますね。


またここで怪物として描かれる姿は極端な例であるにしても、

他の人間から目立って異なる部分のある者にとっての苦悩や葛藤は、

読んでいるときにともすれば怪物の言うことが理解しうるように

偏見や思い込みを排除してかからないときちんと受け止めることができないのでは

なかろうかとかいうことも…。


何より驚きが支配して大袈裟に書きましたので、

だんだん醒めてくと「名作…は言いすぎか」とも思いますが、
「フランケンシュタイン」がその後の映画やらで形作られたイメージとは違うということも含めて、
読んだ意味はあったなと思うのでありました。

有名なお話をベースにして独特の解釈を加え、
「もしかしたら、こうであったかも知れない…」と思わせるような内容に仕立てあげるのは
なかなかに興味深いところでありまして、ついつい食指を動かしてしまうという。


さりながら、かなりの割合で思い切り期待を裏切られることがありますね。
これはベースにしたお話のキャラ立ちといいますか、そこから受ける印象が非常に強いために
ちいとでも違和感のあるような設定や展開が差し挟まれると「アウト!」を宣したくなってしまうわけです。


ですが、先にDVDでみた「エバー・ アフター 」のシンデレラ のように

おとぎ話には相当自由な解釈の余地があるもので、
そうした点ではいささか気になって見に行った「スノーホワイト」でありました。


映画「スノーホワイト」


タイトルからして白雪姫に関する話であろうことは一目瞭然ながら、

これを仮に「白雪姫」としてしまうと、どうしたってディズニー ・アニメがハ~イホ~!と

浮かんでしまいますから、イメージの前提が作られてしまう。


かといって、スノーホワイトだからと「白雪」としては、

小西酒造のお酒を思い出してしまうので、これもNG。

となれば、過去とは突き放した感じで「スノーホワイト」とカタカナにしとくのは

止む無きことかもしれません。

ただ、原題は「Snow White & ×××」(「×××」は敢えて伏字にしました)で、
これを知っておくと「なるほどねぇ!」「おお、そうか!」と思ったりするのでありますよ。


とまた、タイトルの話で引っぱってしまいましたが、

見終えてどう受け止めたかという点に関しましては、
「面白い!」と思ったのですね(いつもご覧の方は、腐すと思ったでしょう…)。


何が面白いのかと言いますと、ディズニー・アニメのあの世界から遠く離れたものを作ったものだと。
もそっと言えば、グリム童話自体からこれ以上ないほど自由に作っているわけですが。


しかしながら、妖しい術を使う継母の女王(シャーリーズ・セロン はもはや生きる道を見つけた?)、
魔法の鏡、毒リンゴ、七人の小人たち(七人だったか忘れましたが、「ハイホー」でも歌うかというひと言はご愛嬌)、そして目覚めを呼ぶキスといった「白雪姫と言えば!」というパーツを押さえている点、

そしてその使いどころの工夫といったものも大きなお楽しみだと思えるところです。


とはいえあたかも中世騎士物語 か何かのように、

白雪姫をこれほど戦闘的な話に仕立てることにもびっくりですよね。


こたびはいつも以上にストーリーに触れないように注意しておりますが、
とにかく邪悪な女王に乗っ取られた王城奪還のために軍を率いて突進する白雪姫?!
気合十分の顔付きからして、「待ってろよ、てめぇら、このやろー!」の猪木になってますし。


ふと見るとスノーホワイト役のクリステン・スチュワートは
シャーロット・ランプリングがすっごく若かったら…てなふうにも思ったですが、
このときばかりは「ジャンヌ・ダルク」のミラ・ジョボヴィッチでありましたよ。


ところで、こうした話の映画化に当たっては、
もはや「ロード・オブ・ザ・リング 」や「ハリー・ポッター 」との類似をついついやってしまうんでしょうか。
(だいたい「ハリー・ポッター」自体が「指輪物語」由来でもありましょうけれど)
ついでに言うとジブリ も入ってましたね、「もののけ姫」とか「ナウシカ 」とか。
(青き衣を纏いて金色の野に降り立つ…んでなくて、甲冑を纏って馬を疾駆させてますが)


ま、これからご覧になられるとしたら、
こうした類似の数々の登場を探してみるというのも一興かもしれませんですよ。