傘差し自転車 に続いてというわけでもありませんけれど、
7月3日でしたからこれまた火曜日の出来事でありました。


昼前くらいに地震が起こりまして、その震源が東京湾と聞いたものですから、
こりゃもそっと揺れがくるかもね…と身構えたりをしたわけです。


折りしも手にとっていた本といいますのが、
安政の大地震直後の江戸市中を舞台にした人情噺のような体でありまして、
何度も触れたように安政の江戸地震は前年の東海、東南海地震から一年を経て起こってますから、
「いよいよ来たか?!」とも思ったりしましたが、結局そのときはそれっきりでしたけれど。


ということで5編の連作短編を一日一話づつ読んでちょうど読み終わりましたのが、
真保裕一 さんの「猫背の虎 動乱始末」でありました。


猫背の虎 動乱始末/真保 裕一


本所深川 界隈の町回り同心として町人たちにも目配りをかけてやったところから
「ほとけの大龍」と言われた南町奉行所同心の大田龍之助の嫡男、虎之助が主人公。


嫡男とは言え上に姉二人を持つ末っ子長男で、体つきこそ父親に似て人一倍の大きさながら、
父が亡くなってからはなおのこと、家に帰れば何かと「ほとけの大龍」の女房とのプライドが高い母親と
事情はそれぞれにせよ嫁ぎ先から出戻った姉二人が寄ってたかって虎之助に

辛辣な言葉を浴びせてくるとなれば、いかな大男でも自ずと背を丸めて小さくなってしまうもの。

ついた仇名が「猫背の虎」とは「ほとけの大龍」との差もまた歴然かと。


奉行所勤めの下っ端ながら、突然起こった安政の大地震に江戸市中は上を下への大騒ぎ。
父の遺徳の故か、虎之助も臨時の臨時ながら町回りの一端に加わるという抜擢を受けるのですね。


母は父の名を汚しはしないかと心配し、

姉二人も見ちゃいられんという具合で相変わらずのきつい言葉がかかる中、

かつて父の配下としてやはり界隈に睨みを聞かせた松五郎親分が

虎之助に加勢を申し出たものですから、一同ほっとひと息といったところ。


とはいえ本所深川界隈では地震の被害もその後の失火による被害も

尋常ではない様相を呈していましたが、さらにはそこに、

相手を間違えて刺してしまった仇討ち、赤ん坊のかどわかし、幕府批判の瓦版のばら撒き、
籠に押し込まれた死体の発見などなど次々発覚するあれやこれやに虎之助も松五郎も大童。


ひとつひとつの話にはそれぞれの事件と実に人情厚い解決(?)が示されますので

連作短編と言いましたけれど、全編を貫く流れも見落とせないところで、

それが最後の大団円に向かっていくあたりは

(同時に何とももどかしい虎之助の艶っぽい話もあったりして)

連作というより長編と言ってよいのかもですね。


という具合に、謎解き風味も効いた人情噺として面白く読み終えた…のですが、
無いものねだりを承知で言いますとですね、

江戸情緒といったものが漂ってこないのですよね、残念ながら。


確かに江戸の町が舞台でもって、しかも本所深川といえば知らないエリアでもないものですから、
出てくる地名などにもあれこれ反応しがちな近しさを感じましたし、

当然登場人物たちも時代劇風の名前であり、
それなりの出で立ちであろうことは分かるのですけれど、風情が香ってこないなぁ。


当然ですが江戸時代に生きたことがあるわけでなし、
江戸情緒だの風情の香りだのといっても具体的に、というか経験的に知っているはずもないですから、
多分に印象でしかないとは思いつつも、たぶん「文体」なのではないかなと思うところです。


ここでこうした一文を挿入したとして物語の進行には何の役にも立たないような「遊びの描写」が
実はがっちりと印象を作り上げることってあると思うんですが、そうした要素でしょうかね。


おそらく作者の真保さんはストーリーテラーなのでしょう。
それは個々の話を独立させながら全体の部分として機能させるといった点でよく練られてると思いますし。


ですから無理して江戸を舞台にすることもなかったのかなと思ったりもしてしまうのでありましたよ。
そうしたことを気にされない方なら、十分面白かったと読み終えるものと思われます。

どうしようかなぁと思いましたけれど、やっぱり書いておこうかと。
梅雨明けはたぶんまだでしょうから、これからも雨降りの日はあるでしょうし。


火曜日だったですかね、午後から雨の予報が出ていて確かに降り出したものの、
比較的空は明るく、時折止んだりもしたという状況。


仕事帰りに自宅最寄駅の改札を抜けるとあいにくと降っている。
ふだんなら諦めよく、駅近くの駐輪場に自転車を置いていくことにして、
てくてくと歩き始めるところだったのですけれど、やっぱり空は明るめ。


帰宅途中でこの日は歯医者にも寄るし、その間に止むかもしれんと思って(期待して)、
傘を差し自転車を押して歯医者へ向かったのですね。


そして治療後に空を見上げるとやっぱり降っていた。
やむなく片手で傘を差し、片手で自転車を支えて押しながらてくてくと歩きだしたのですが、
後から来た自転車にどんどん追い抜かれるのですよね。


何のことはない傘を差して自転車に「乗っている」わけです。

あの雨の中を傘差して自転車を押している人にはついぞ出会うことはありませんでした。

ようするに、こういうことをしているのは「自分だけ」だったのですね。
広く世間を見れば他にもそういう人がいるかも知れませんけれど、その時はそうだったということです。


個人的にはそもそも傘を差して自転車に乗るという発想がなかったのですね。
何しろ不安定ですし、風でも吹いた日には煽られてしまう。
自分がこけるくらいならまだしても、歩行者にぶつかりでもしようものなら怪我をさせてしまうかも…と。


ところが、何時の間にやら傘を差して自転車に乗るという行為は

当たり前のことのようにたぁくさん目にすることのできるものになってきたですね。
傍目には「なんだか危ないよなぁ」と思いつつ。


すると、やっぱり「危うい」と思った人が他にもいたということでしょう、
あるいは事故なんかも実際にあったのかもしれませんですね。
自転車の傘指し運転は禁止になったのではなかったかと。


自転車を押して歩きつつ「確かに禁止だったよなぁ」と思ったものの、
どうも確信が持てず、いったい何によって禁止されているのか分からない。


個人的には禁止されてようが禁止されてまいがリスキーな行為と思ってますから構わないのですが、
世間的にはいったいどうなってるのかを一度確かめておこうと思ったわけです。


例によってネット検索してみますと、
例えば警視庁のHPなどでも自転車の違反行為として例示される中に「傘指し運転」が入っていて、
違反すると5万円以下の罰金などと脅して?いるのですが、根拠が書かれていない。


そこでさらにあれこれ検索をした結果、ようやっと見つけました!東京都道路交通規則というもの。
おそらく東京だけの話ではないので、他の道府県にもそれぞれの規則があるのでしょう。
とまれ、その東京都道路交通規則の第8条(運転者の遵守事項)の(3)を引用します。

東京都道路交通規則第8条(運転者の遵守事項)
(3) 傘を差し、物を担ぎ、物を持つ等視野を妨げ、又は安定を失うおそれのある方法で、大型自動二輪車、普通自動二輪車、原動機付自転車又は自転車を運転しないこと。

自転車を運転するのに、

視野を妨げたり、安定を失うおそれのある方法では「いけんよ!」ということですが、
具体的に傘差しが入ってます。

何しろ傘差しは視野を妨げることと安定を失うおそれのあることと両方ですものね。


やっぱり禁止されている行為であったことが分かってすっきりしました。
でもですね、これを知ってか知らずか、

先程言ったように傘差して自転車を押してる人なんて見かけないです。


以前、やはり自転車のことで車道の右側走行 (逆走!)のことを書きましたけれど、
若者からお年寄りまで山ほど見かけますですよね、これも。


自転車の傘指しも逆走も規制対象ではありながら、何かされるということもなく、
せいぜい警察のPRページで「罰金ですよ」と言っているくらいでしょうか。


だからといって、バンバン取り締まればいいと思っているわけではないのですけれど、
自転車に乗っている側の人が「危ない」と思う、あるいは「危ないかもしれない」と考えることって

ないんだろうかと思いますね。


自分だけは事故に遭わない、事故を起こすことはないと

絶大な自信を持っているのかは分かりませんが、そうでもなければ、

傘差し、逆走、見通しの悪い角から左右を見るでもなく減速もせず走り出たりはできませんよね。


個人的に自転車に乗る技量が特段劣っているとは思ってませんけれど、
我が身のことも他の人の身のことも想像して考えれば自ずとなくなるようなことなのだと思うことが、
どうも無くなるどころか増えている今日この頃ではありませんでしょうか…。

昨日、夏旅のプランニング の話をしましたけれど、

目的地を決める過程ではアメリカのテキサス州というのもかなり高い可能性があったのですね。


結局今回は選外とはなったものの、なぜテキサス州か?

西部劇 ゆかりの地?ケネディが暗殺された?それもそうなんですが、

思いのほか美術館が期待できそうなものですから、いつかはいくぞと思っているわけです。


で、結局のところ今回はテキサスには行かないわけですけれど、

何ぞ関わりのある映画でも見てみるかと取り出だしたたるDVDは

「カプリコン1」でありました。


カプリコン・1 [DVD]/エリオット・グールド,ジェームズ・ブローリン,ブレンダ・バッカロ

アポロ計画で月に降り立つところまで行ったアメリカの宇宙開発。

莫大な国家予算を投じた宇宙への夢を追う前に、

現実に対処すべき問題が山積みではないかとの指弾されながらも、

次に目指すべきところと考えられた火星 に向け、

有人宇宙船カプリコン1が今まさに打ち上げ目前となっていた…。


「こちら、カプリコン1。ヒューストン、どうぞ」

ということで登場するヒューストン、これがテキサス州なのでして、

関連はこのあたりであります。


ところが、ここでのヒューストン(ようするにNASAですが)は実にクワセモノでありまして、

ロケットに欠陥が見つかったものの、これ以上予算を掛けられないし、

計画は成功させなければならないしということで、とんでもないことを企てるのですね。


発射直前に飛行士たちを別の場所に移送して、無人のままロケットを飛ばし、

火星の地上を模した撮影セットの前で飛行士たちに演技をさせ、

計画は大成功、今後の宇宙開発予算もよろしくね!という次第。


日本での公開時には

「面白くなかったら、入場料を返します」てな触れ込みだったような記憶もありますが、

どうだったでしょうか。


ところで、アメリカの宇宙開発という点では

今だに「アポロは本当に月に行ったのか」てな話が取り沙汰されますけれど、

この映画を見ると「アポロ計画も、実はこれとおんなじなんじゃあないの」と思わせたりするあたり、

実は暴露モノと考えることもできるのかもしれません。


ただ火星に降り立った映像が作り物だとして、

この映画を真剣に(?)見ている側にしてみれば、飛行士たちが隔離場所から逃亡をそ図り、

とんでもない絶壁を攀じてみたりすることにハラハラしながらも

ふと「これも結局、映像なんだよね」と気付いたときの何ともパラドキシカルな印象。


ここまで来ると、アポロ11号が本当に月に行ってなかったとして何だというの?

と思ってしまったりもするわけです(何だというの?はいささか投げやりですが)。

とまれ、事実ってなんだろうと考えてしまいますね。


歴史は、記録する者の恣意によって解釈に押し付けめいたことが行われるのは枚挙にいとまがない。

時間に対する感覚が昔よりも速く速くなってますから、起こったことが「歴史化」するのも

やっぱり早くなってるように思います。


すると数十年前のことであっても、記録され、記憶されて「事実」と考えられることには

誰かしらの恣意が働いているかも知れないと思っても当然なのかもですね。


あまり深入りすると、

何でもかんでも「そりゃ、陰謀のなせるわざよ!」てな話になってしまいそうですので、

このくらいにしますが、そうしたことをあれこれ考えさせるという点だけでも

刺激のある映画ではないかと思うところでありますよ。


そうそう、もそっとエンタメ的な側面を見るとですね、

逃亡する飛行士たちを2機のヘリコプターが追跡するのですが、

この2機のヘリコプターがあたかも2人の追跡者のようなんですね。


「どうだ、見つかりそうか」

「いや、ここにはいないようだ」

てな会話を操縦士がちっとも見えないままにヘリコプター2機が交わしているようなふう。


1977年の映画ですけれど、もしかすると1971年のテレビ映画として撮られた

スティーヴン・スピルバーグ 監督の出世作「激突!」のトレーラーが意識されてるかもですね。

7月にも入って毎度のこと遅まきながらですけれど、
この夏の旅のプランニングに着手したような次第でありますよ。


顧みれば一昨年のロサンゼルス行き 以来セルフメイドの単独行は久しぶりになりますから、
行きたいところは山ほどあるのですね。


さりながら日程や予算にもあれこれの都合が大きく関わってきますので、
航空会社のサイトをああでもない、こうでもないを繰り返したりしていたわけです。


ここぞと思う行き先のフライト・スケジュールと航空運賃を検索すると、
搭乗日がたった一日違うだけでともすると運賃に十万円近くの差が出たりするのですよね。


何とかこれなら予算と折り合いがつきそうだという日程の目星がつくと、
ゲートシティから目的地までの乗継便がうまいこと行かなくて、それならいっそ別の行き先を…
てなことを繰り返し繰り返し。


ファースト・チョイスの渡航先とは行かなかったものの、フライトが決まると今度はホテル、

現地での移動手段、そして何かしらのエンタメ的お楽しみを探すということが続きます。


もちろん全てがちがちに組み立てるわけではないのですけれど、

今回は都市間移動に船を使うつもりなので、
これは予約しておいた方がいいだろうと思ったりするところなのですね。


もっともエンタメ系の予約を入れてしまうとそれはそれでかなり行動を縛ることにはなりますが、
そのくらいはまあホテルの泊数を決めるのとおんなじようなものですし。


ということで、フライトでああでもない、こうでもないした後には自ずとホテル選びになります。
これがまたロケーションと金額とを天秤にかけつつ、ああでもない、こうでもないすること、
フライト選び以上になるわけです。


ですので、ネットでホテルが点在している様子の示された地図を見つけ出し、
ここいら辺と思う場所に近辺からひとつひとつホテルの表示をクリックしては、
「こりゃ高すぎ」「満室か…」「写真を見るといまいち」てなことをして
なんとか見つけ出していくのですね。


こうした一連の過程はだんだんと面倒臭くなってきつつも、
やっぱり旅の一部としてのお楽しみでもありますよね。


ですが、今まではちいいとも気が付かなかったのですけれど、
そしてネットの世界では当たり前のことなのだろうとは思うのですけれど、
改めて接してみると「うむぅ、実に怪しい…」と思わざるを得ないことが起こったわけです。


先程の言いましたように、

ホテル選びではこれでもかと言うほどいろんなホテル予約サイトを開いては
一軒一軒の情報を見ていったのですけれど、それがひと段落して

旅とは関わりないサイトを見始めてみますと脇の方やら上の方にあるPR欄に出てくる広告が

全てホテル予約サイトのものが現れてくるではありませんか。


いくつかのサイトでいくつか異なるホテル予約サイトの広告が
「どこそこの○○ホテル △△円から」みたいな表示で出てくるという。
この「どこそこの」の部分が、まさについ先程までホテル探しまわっていた滞在地を

ピンポイントで突いてくる。いやはや…。


思わず「誰か見てんの?」と後を振り返りたくなる気分ですが、
まあ情報を取りにいったデータの解析でこうした表示がなされる理屈はわかるものの、

やっぱり気持ち悪いですよねえ。


インターネットを使うということは情報だだ漏れなんだねえと改めて思った次第でありますよ。
もっとも、こうした極端な形になるほど検索しまくったということですけれど。


…てなこと言っても、差し当たり残っている船の予約ともう一つの滞在地のホテル予約の際には
やっぱりネットを使ってしまうでしょうれどねえ。

まあ、昔のように電話やファックス(って、自宅にはないんですが)、

郵便などで予約手配できないこともないんですが。


とまれ事前の手配はほどなく完了、後はまだひと月以上先の出発日を待つばかり。
おっ、念のためにパスポートは見ておくといたしましょう。

比較的アメリカの映画に多いような気がしますけれど、
「これは実話に基づいている」とか「実際にあった話からインスパイアされた」とかいう

成り立ちを持つものがかつてより増えたような気がしますですね。


奇抜な?ストーリーの物語は引きもきらず登場する傍らで、
「事実は小説より奇なり」ということがたくさんあるということなんでしょう。
そして、そうした話が映画化されたりすると「へえ~、そんなことがねえ…」と思ったりするわけです。


さて「へえ~、そんなことが?!」と最近気付かされたのが、マルセル盗難事件というもの。
1968年の12月、京都の国立近代美術館で開催中であったロートレック 展の会場から

一枚の油彩画が忽然と消え失せた。
女性のバストアップを真横から描いた作品で、

タイトルの「マルセル」はモデルの女性のことであるらしい。


会場では「マルセル」よりも評価額の高いものが近くに展示されているにも関わらず、
失われたのは「マルセル」一枚であったことから、換金目的というよりも
絵画そのものの熱烈なファンが持ち去ったのではないかとも取り沙汰されたようです。


フランスから国が借りたものという信義上の問題も絡んで

大々的な捜査が展開されるも犯人は杳として知れず、
「マルセル」を盾に取った身代金?の要求がなされるでもなく、時は過ぎて七年後。
あたかも窃盗罪の時効成立を待っていたかのように、「マルセル」は返ってきます。


届け出た人物は「預かっていただけ」というような話をするものの、
誰から預かったのかといった点に関しては時効後でもあり、固く口を閉ざしていても打つ手はなく、
事件は謎を残したまま収束したそうです。


って、全くもって「奇なり」のお話でありますよね。
こんなことが日本で起こっていたとはちいとも知りませんでしたが、
この事件の謎の部分を想像で補ってみたいと誰かが考えても不思議はなかろうかと。


実際にそれを試みたのが作家の高樹のぶ子さん、
その最新刊「マルセル」で思いのほか自由に話を展開させておられます。


マルセル/高樹 のぶ子


これを読んでこの実際の事件を知ったものとしては、
話の組み立てようからして本当の部分まで含めて作りこまれたフィクションかと

思ってしまうところですが。


これはこれで即座に映画化でもされそうな気のするところですけれど、
そこはそれ、どちらかといえば純文学系の作者でしょうから(といって、他に読んだことないんですが)、
いわゆるミステリとは少々趣きを異にしているような。


最後の方では謎のベールが薄皮を剥くようにじわじわとはがされていくのでして、
大団円でのどんでん返しと思しきものも用意されていますですね。


されど、事件の謎そのもののどんでん返しというよりは、
事件当時と現在と40年ほどの時を超えてこの謎に関わる人たちの人間関係であったり、

人間模様であったり、そうした点でのどんでん返しといったら良いでしょうか。


ですから繰り返しになりますが、ミステリのつもりで読まれると違和感を抱くことになるかもです。
主人公である新聞記者の瀬川千晶が探偵役らしき人物と考えてもよいのですが、
切れ者の探偵、例えばシャーロック・ホームズがほんのあるかないかの糸口をこじ開けて

真相を探り当てるといったふうでもなく、右往左往しているうちにどんどん核心が近づいてきてくれる

といっては言いすぎですかね。


つまり、真相に至る過程を楽しむには都合よすぎな気もするわけです。

が、これも繰り返しですが、ミステリではないというのは、

謎解きの過程を楽しむようにできている小説ではないと思いますので、
それはそれとして肝心な主人公の「母親探し」

(母親そのものを探すということと、母親がどういう人物なのかを理解すること)という

筋立てとそれに纏わる主人公の揺らぎを読むことになろうかと。
(ストーリーには極力触れずに来ましたが、ここでちと触れてしまいました。このことだけで「万事休す」とはなりません)


それにしてもよく作り出したものだなと思いますし、

文句でもなんでもないのですけれど、個人的には(まったくもって極めて個人的にはですが)

「マルセル」の作者であるロートレックやモデルを務めたマルセルらの生きた過去と現在が
交錯するような話だとまた違った面白さが出たかなぁと思うのですね。
そんなこと言うなら「書いてみろよ!」となるかもですが、まあおいおい考えてみましょかねえ…。