夏で一番イヤなコトは? ブログネタ:夏で一番イヤなコトは? 参加中
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夏になるたびに折に触れて愚痴っておりますので、

長らくご覧いただいております皆様には「またかよ…」の感無きにしも非ずと思いますが、

たまたま「夏で一番イヤなコトは?」などという問いかけを見てしまいますと、

「エネルギー充填120%。波動砲、発射準備よし!」てな古代進のひと言よろしく

愚痴りも爆発しそうてなもんでありますよ。


なにが?

「朝日のあたる家」ならぬ「西日のあたる家」。

こればっかりは住んだことのある方でないと、実感は難しいでしょうけれど。

想像されることは可能とはいえ、いやはや、想像を絶するものがありますね。


住まいの西側は細い私道を隔てて駐車場になってます。

ここが、なかなか落ちていかない夏の太陽が西から照りつける恰好の空間になるわけですね。

その余韻たるや、日が暮れようが、夜中になろうが、

壁、床、天井をことごとく暖めていていっかな冷めることなく朝を迎えるという。


当然様々な点に支障をきたすわけでして、

例えばPCなどは立ち上げたときから青息吐息、

インターネットのページの遷移に下手すると数分かかるという状況にもなるわけです。


そんなことはまあいいとしても、最大の難点は寝付けないということ。

昼間はエアコンを使っておられる周りのお宅も

夜ともなれば窓を開けてわずかな自然風に頼ることにもなってきますが、

そんなときにエアコンぶんぶん回していた日には、

よそさまに熱気をおすそ分けするようなもの。


自然といかんともしがたいぎりぎりのときに少し使うくらいで、

後は網戸の窓にへばりつかんばかりに寄って、

そよとの風も逃すまいの意気込みで夜に臨むわけですが、

慢性的な睡眠不足が夏の間中続くことは必至。


ですから、どうしてもどこかしら逃げ出したくなりますですね。

先日出かけた安曇野の冷涼さの記憶もとうに過ぎ去り、

今はただほどなく出発の運びとなる「夏の臨時休業第二弾」の到来を待つばかり。


とはいえ、将来的にも毎夏がこの状況(というより暑さ度合いが増してる気もしますが)だとすると、

隣の駐車場に誰かビルでも建てないかなという他力本願では解決しませんので、

やっぱりどこかの高原に別荘でも…。


いやいや、どこかしらの高原野菜の畑の片隅にクラインガルテンくらいの敷地を借りて、

掘っ立て小屋のようなものをこしらえる…てなあたりが現実的ですかね。


そんなことも仕事のことを思えば定年後の話か…となると、まだまだ先は長そうだなと。

思わずもらす吐息までが熱風のようでありますよ。

安曇野 から北へ、大町市の方向へ向かっていきますと、松川村を通るのですけれど、

この村の観松院というお寺さんに先日読んだ「失われた弥勒の手 」に登場する菩薩半跏像が

あるのですね。


ただ、どうも簡単には見せていただけるものではないらしく、

事前予約が必要だとの情報もあるも観松院のHPはないので、

松川村の教育委員会に申し出るらしいと聞いても、松川村HPの中には特段触れられていない。


近くまで来ていながら残念ではありましたが、

この菩薩半跏像への興味は至って個人的なものでしたので、

同行者にももそっと興味のありそうなところへ向かおうということで、

松川村を通り過ぎ、大町市にある仁科神明宮へと出かけたのでありました。


ちなみに道の駅安曇野松川にあった松川村案内板に

件の菩薩半跏像が出てましたので、これで見たつもりになるとしましょう。


松川村 観松院 菩薩半跏像

ところで、何を隠そう(?)この仁科神明宮は国宝でありまして、

奈良や京都で国宝の神社などは珍しくもなんともないかもですが、

ここ信州の山里に国宝の神社があるというだけでも「おお!」と思うところではなかろうかと。


北アルプスの峰々に向き合うようにある小高い丘の上、

鬱蒼と古木が立ち並ぶ中に仁科神明宮はありました。


仁科神明宮

HPの由緒によれば、創建の年代は未詳なるものの、

後冷泉天皇の時代(在位1045~1068年)には建立されていたのではないか…

と記載されていますので、遅くも11世紀前半までには存在したもののようなのですね。


実際、本殿脇に創建当時からあるとされる元御神木は

(残念ながら倒れてしまったようで、切り株状態ですが)

その太さは尋常なものではなく、推定樹齢900年以上というのもなるほどなと。


仁科神明宮元御神木


写真では分かりにくいと思いますので、参道にあった別の立派な木を載せてみますけれど、

胴周りはこの木の倍以上あったと思われます(って、これでもやっぱり分かりづらいでしょう…)。


仁科神明宮には立派な木がたくさん


と、御神木のことばかりでは何ですので本殿の方へ進んでみますと、

これがまあ何とも古色蒼然としたお社ではありませんか。


仁科神明宮本殿


伊勢神宮と同じ神明造であって、20年に一度の式年遷宮も行われており、

南北朝期の1396年以降600年余、欠かすことなく行われた遷宮の記録が残っているのだそうです。

直近では1999年だったそうで、次回は2019年に行われるそうでありますよ。


ことほどかほどの由緒を誇っているわけですけれど、

そも仁科神明宮の「仁科」とは?


古くは一帯を指す地名であった…で終わっては話は詰まらないわけです。

先日来安曇野の安曇族のことばかり触れてますが、安曇族が日本海を渡ってきたにしても、

元々ここいらに誰も住んでいなかったわけではないとは、言われてみればそりゃそうだ!なのでして、

土地の土豪が仁科氏であったという話もあります。


となれば、安曇族と彼らに割り込まれた形の仁科氏は敵味方であったかもしれませんが、

一方では安曇族の一支族が仁科氏であるとの見方もあるようです。


古代史をよく知らない者が推測するのもどうかと思いますが、

伊勢神宮といえば日本の神社の親分で、大和朝廷の皇統とは深い係わりがあろうかと。


その伊勢神宮を模した仁科神明宮の担い手であった仁科氏が

大和朝廷との確執で九州を逃れた安曇族と同族とは考えにくいのですが、どうでしょうか。

いずれにしても、この古色蒼然としたお社はその答えを知っているのでしょうね。


とまあ、安曇野はアートラインとも呼ばれるように(玉石混淆の)美術館銀座なのですが、

こたびは先に読んだ本の影響か、古代史に思いを馳せてばかりおりましたですよ。

毎度毎度会期終了が近づくと慌ててでかけるてなふうになっておりますが、

三菱一号館美術館で開催中の「バーン=ジョーンズ展」に出かけてみたのですね。


バーン=ジョーンズ展@三菱一号館美術館


エドワード・バーン=ジョーンズのことは何度か書いているのですけれど、

どうも個人的には評価が定まらない…といっても、好き嫌いのレベルではありますが。


以前にも「バーン=ジョーンズは画家というよりも…ということ 」なんつう記事を書いたりして、

専業画家というよりは盟友ウィリアム・モリス とともにアーツ・アンド・クラフツ運動の推進者として

多岐に渡る分野にデザインを提供した・・・という印象もあるわけです。


でもって、改めて絵画作品(本展もそればかりではありませんでしたが)に向き合ってみると、

画家としての力量のほどは「果たしてどうよ?」と思ったりするのでして。


極めて素人考えとは思いつつも、そんな印象を抱くのは

ひとえに描かれた人物の表情の無さではなかろうかと思ったりもします。


ラスキンの影響下で「自然の再現」「中世への回帰」といった考えに基づくとすれば、

確かに中世絵画に描かれる人物像にはそうはっきりした感情表出といいますか、

表情というのは余り描かれていないのかなと。


受胎告知を受けてもおよそ驚いていないマリアあたりは典型的ですが、

それでも見ようによっては絵の中からマリアの微かな慄きを見出そうする、

そうしたあたりも絵を見る楽しみであるとすれば、

バーン=ジョーンズの絵を見るときもも同様かなと思わなくもない。


「ただ、それにしても…」というのが、鑑賞巧者でないものの正直なところでもあろうかと。

それだけに…といってはヘンかもしれませんが、究極的に表情のない図像、

つまり「眠り」を描く点において、バーン=ジョーンズが醸す雰囲気には

一方ならぬものがあるように感じたのも事実でありますね。


本展の目玉のひとつとされる「運命の車輪」(1871~85年)では、

左側に描かれた女神フォルトゥナに対して「物憂げな表情」と解説されているのですが、

「物憂げな表情かなぁ…。寝てるとは言いすぎにしても、何か念じてるくらいはしてるかも…」

という印象。


エドワード・バーン=ジョーンズ「運命の車輪」


とまあ、そんなふうに思うにつけ、

展示も後半になって登場する「いばら姫 (眠り姫)」のコーナーでは

ものの見事にお姫様も従者たちも眠っているわけで、

この正真正銘の寝姿からはむしろ深い呼吸や体温が感じられるから不思議ですね。


エドワード・バーン=ジョーンズ「いばら姫」


むしろ起きて目を開けている姿で描かれた人物たちは、

その無表情さから人形のような冷たさを思ってしまいますから。


こうしたことを特徴と言っていいのかどうかですが、

こんなことを思うにつけ、ステンド・グラスとバーン=ジョーンズの親和性に

頷いたりするところでありました。


とっても興味はあるものの、好き嫌いの未だ定まらないバーン=ジョーンズ。

ということであれば、尚のこと機会をつかまえて、その作品に触れていってみるといたしましょうか。

こたびの安曇野行きは宿泊先が標高1000mほどの高地で、

朝食会場からは見上げればすぐそこに常念岳(2857m)のてっぺんが顔を出している場所。


例によって両親帯同であったのですけれど、

これを見て「凄い景色だねえ」という感慨を漏らしておりました。


「でも、もっと凄いのはあの山の向うだ」というと、「行ってみたい」ということになり、

「上高地には行ったことがないのか」と聞けば「ない」という答え。

んじゃあ、行ってみるかと出かけた上高地でありました。


とはいえ、いささか足元不如意なところには気を使うわけでして

せいぜい大正池から河童橋までなんとかもってくれればと願わずにはいられないわけです。

河童橋だけの往復ではあまりに味気ないので、

せめてこのくらいは歩いてもらわないと行った甲斐もありませんから。


といっても、連れてく本人からして上高地に赴くのはかれこれ30年は経ってますから、

あんまり偉そうなことは言えませんが…。


松本方面から向かうと梓川沿いにいくつも急カーブと長いトンネルを過ぎて、

最終的に釜トンネルを抜けると大正池ももう間近。


ここからはバスの最終ターミナルとなる河童橋の辺りまで散策路があるのですね。

大正池といえば、ここいらに残る活火山である焼岳(2455m)の麓、

かつての噴火のあとと思しき立ち枯れの木々が池の中からにょっきりという景色で有名ですね。


その大正池でありますけれど、行ってみてびっくり。

もやは池とは言えないほどに細っておりました。


大正池


今でも、焼岳からの土砂が堆積していっているようで。

その焼岳はといえば、大噴火てな話こそ聞かないものの、

崩落が進んでいて、それが亀裂となってくっきり見えてますですね。

それが流れ込んでいるようです。


焼岳

自然の景観を保全できるようにと人間が頑張っても

太刀打ちできない自然があるということでもありますねえ。


でもって、こちらは田代池。

こちらもあんまり池の態をなしていないような…・。

霞沢岳(2646m)とのコントラストは素敵な風景ですけれど。


田代池から霞沢岳


こちらは田代橋からの眺め。

最も上高地らしい涸沢カールが見えてきました。


田代橋から涸沢カール


ここまでで終点の河童橋まで半分の道のりでしょうか。

そしてほどなく、日本山岳史にその名を残すウォルター・ウェストンのレリーフを通り過ぎます。


ウェストン・レリーフ


もしかしたらご存知ない方がおいでやもしれませぬので、

案内板からの引用で少々のご紹介を。

英人牧師ウォルター・ウェストンは、明治21年(1888年)から同28年(95年)までの日本滞在中に槍ヶ岳や穂高の山々を数多く歩き、我が国に近代的な登山意識をもたらし、日本山岳会結成のきっかけを作りました。

清里軽井沢 も宣教師あってのその後の展開でありましたけれど、

明治期の近代化はこうした方面にも及んでいたのですよね。

てなことに思いを馳せている間に、さて河童橋に到着です。


上高地・河童橋


穂高の峰がのしかからんばかり。

芥川龍之介 の「河童」はここから取られたのですけれど、

それはともかく何が変わらないといって、ここの賑わいは変わりませんですなあ。


そして、この河童橋を(上の写真で言うと)左から右へ渡って回り込むと、

おお!上高地!という景観が。


穂高連峰を望む


最高峰の奥穂高岳は標高3190m。

富士山、南アルプスの北岳に次ぐ日本第三位の高峰でありますね。

静かな山歩きを望む向きは、河童橋の喧騒をよそに

ここからぐいぐいと高度を上げていくのでありましょう。


そちらの方向にかなり後ろ髪引かれながらも、

足元不如意の両親の「よく歩いたね」という満足そうな顔を眺めつつ、

上高地を後にしたのでありました。

ちょっと前ですのでもう会期は終了してますが、ふらり立ち寄った新宿のコニカミノルタ・プラザでは、
開催中の写真展の一つが飛行機雲を写したものだったのですね。


ふつうに雲といえばふわふわしたふうであって、形も一様ではなく、
それであればこそ見上げる者にとっていろいろなモノの形を想像させたりするわけですけれど、
飛行機雲は空高く飛行航跡を定規で引いたように細く長い一直線。
(旋回してると、そうではないのでしょうけれど)


とまれ、その直線具合というのは自然の景観とは違った人工的なものを感じたりするのですが、
それはそれで、ライト兄弟 ではありませんが、そもそも空を飛ぶことのロマンみたいなものを
思わせもするような。(ちょっとユーミン的成分が入っているかも…)


ところで、かの写真展会場には飛行機雲はジェット・エンジンから生まれるもの
というような説明が書かれてありまして、そうなんだぁと。

飛行機雲が何故できるのかを簡単に端折っていいますと、こんな具合かと。


ジェット・エンジンの排気には水気が混じってるそうでして、
これは自動車のマフラーからぽたぽた水が垂れてたりする(今はないんですかね、こんなの)のと
おんなじようなことなのかもですね。


ただ車との決定的な違いは外気温というわけで、
飛行機の飛ぶ高度1万メートルあたりを零下40度なんつう気温だったりするという。
水気が水そのものになってぽたぽたというより氷の粒になりますですね、瞬間冷却で。


さりながら、飛行機の排気による水気だけでは雲にはならないのだそうで、
大気中の湿度が高いとそれらと一緒になって雲ができるのだという。
つまり、もともとも少し水気があったら雲ができるような状態の空を飛行機が飛ぶと
飛行機雲ができるというわけです。


ですから、お天気関係の言い伝え(というほど古くはないのでしょうけれど)に、
飛行機雲ができると雨になる…みたいなことがあるといいますが、
要するに気象状況としては湿度が高いのですから、むべなるかなでありますね。


…とここまで来てなんですが、「まてよ!」と。
飛行機雲がジェット・エンジンから生まれるものだとすると、あれは一体何だったのか?


あれというのは映画「紅の豚」のワン・シーンでありまして、
確かマンマ・ユート団の団長だったかがマルコとカーチスとの空中戦のときに
「すげえ!豚が雲を引いた!!」と言っていたのですよ。


ご存じのとおりマルコの飛行艇はプロペラ機であって、
ジェット・エンジンではありませんから「え?」と思ったのでして、
となれば、「紅の豚」を見てみるということになりましょうねえ。


紅の豚 [DVD]


確かめてみれば、やはりその通りのセリフがあり、
映像の方でもマルコの飛行艇はその両翼端から雲の糸を引いていたのですね。
これはいったい?!


近くの図書館では飛行機雲に関係するような本は子供向けの科学図鑑みたいものしかなく、
その中での飛行機雲の解説は先に書いたようなジェット・エンジンがらみのことばかり。

うむぅと思っていたところ、灯台もと暗しではありませんが、
Wikipediaにこうした記載がありました。

揚力が生じている飛行機の翼上面では気圧が低くなっている。このとき大気は断熱膨張によって温度が下がっているため大気中の水蒸気が凝縮して水滴となり、飛行機雲として観察される。…大きな揚力が必要な引き起こしや旋回といった高G機動時に生じやすく、…水平飛行時にはふつうこの種の雲は見られない。

揚力が生じて、翼上面の気圧が低くなっている?
翼の上面の気圧が低くなるから揚力が生じるんでないのか…

とまた揚力の話 に陥ると先に進みませんので、
とにかく理屈的にはよく分からないですが、翼回りで雲ができやすい環境が生じているのでしょう、
そして高いG(重力加速度)がかかるような状況では発生しやすいのだということですね。


ここで「紅の豚」の空中戦シーンを思い出してみると、
旋回やら宙返りやらといかにも高Gがかかりそうな感じな場面ですので、
「なるほど!」と思う緊迫感がありますけれど、
果たしてこれはリアルな描写なのかどうか…。


ところで、航空ショーの類いではジェット機が色つきの尾を引いて
時には模様や文字を描いたりすることがありますが、
あれは飛行機雲ではなく、人為的に噴出しているスモークなのだそうで。
そんなことも知らずにおりましたが、このたび晴れて?知るところとなりましたですよ。