その昔、中房山という所に魏石鬼という名の鬼賊が居た。八面大王を称し、神社仏閣を破壊し民家を焼き人々を悩ましていた。延暦二十四年(805年)、討伐を命ぜられた田村将軍は安曇郡矢原庄に下り、泉小太郎ゆかりの川合に軍勢を揃え、翌大同元年(806年)に賊をうち破った。

これはWikipediaに紹介されている八面大王に関する伝承のひとつで、

江戸期に編纂された「信府統記」に記載された内容だそうであります。

一方で、八面大王にはこんな紹介文もあるのですね。

その昔、全国統一を目指した大和朝廷が、信濃の国を足がかりに東北侵略を進めていました。この地の住民達は、朝廷軍に沢山の貢物や、無理難題を押し付けられて大変苦しんでいました。安曇野の里に住んでいた魏石鬼八面大王(ぎしきはちめんだいおう)は、そんな住民を見るに見かねてたちあがり、坂上田村麻呂の率いる軍と戦い続けました。多勢を相手に引けをとることなく戦った大王でしたが、山鳥の尾羽で作った矢にあたり、とうとう倒れてしまいました。

前者によれば八面大王は「神社仏閣を破壊し、人々を悩ます鬼賊」であり、

後者をとれば朝廷軍に苦しめられた住民のために立ちあがった郷土の英雄」となりますですね。

例によって、歴史は語り手(語る視点)が変わるとこうも変わるのか?!という良い例かと。


ところで、八面大王の雄を称える後者の紹介文ですが、これの出所はと言いますと

おそらくは安曇野の観光ガイドに必ずと言っていいほど登場する「大王わさび農場」、

その入り口脇に建てられた説明板に書かれているものであります。


安曇野は水がきれいなことからわさび栽培が有名で、

大王わさび農場はいわゆる観光農場的な賑わいを見せているわけですが、

そも「大王」とは何ぞ?と思えば、この八面大王に由来するのですね。


大王わさび農場のわさび田


何でも八面大王の強さを怖れた朝廷軍は、まかりまちがって息を吹き返しては困ると

大王の身体をばらばらにして各所に分けて埋めたそうで、

その胴体を埋めたと言われるのが、大王わさび農場のある場所。


農場内には大王神社があって祀られていますけれど、

はてどれほどの来場者がこうした経緯に気がつかれるでありましょうや…。


ところで、この八面大王こそかつての海の民、安曇族 の首領であったとの話もあるようですが、

山がちの土地ながら、海とのゆかりを感じさせるところがあるのですね。


穂高神社


どこあろう、実は穂高神社でありまして、

今では穂高と言えば3000m級の山々が連なる穂高連峰を思い浮かべ、

山とのつながりばかりが思い出されるところですけれど、

実はそうではないようで。


ご祭神は穂高見神(ほたかみのかみ)でありまして、

穂高見神は綿津見神(わたつみのかみ)という、安曇族の信奉する海の神の子供にあたるのだとか。

古代史を知らずとも、「わだつみ」という言葉からは海とのつながりを想起する程度のことは

できるわけですね。


そして、この穂高神社の祭礼というのが毎年9月27日に行われる御船祭りであって、

船型の山車が登場するとなれば、山あいであることを忘れてしまいそうです。

さすがに訪ねたときは御船祭りに触れることも出来ませんでしたけれど、

境内にはこんな像もあって、やはり海つながりを偲ばせるものとなっておりました。


阿曇比羅夫之像


阿曇比羅夫の像。阿曇は安曇と同じということですので、

やっぱり安曇野には海の民が住みついたのですなぁ。

先に触れた八面大王も、九州の「八女のおおきみ」とのつながりが指摘されたりして、

やはり安曇族が北九州から流れてきたことを示す証しのひとつとも言われてます。


とまれ、見渡す限りの山里で、昔々にどういった出来事があったのでありましょうねえ。

中央に見える緩い角度の台形の山が有明山。

このあたりに八面大王の隠れ家たる魏石鬼岩窟であったと言われる洞窟もあるそうで。

山々を見晴かしながら、しばし佇む午後三時でありました。



大王わさび農場から望む有明山

信州から帰ってまいりました。
なかなかに山懐に抱かれた宿でありましたので、涼しさも一入、
贅沢な物言いですけれど、やっぱり東京は蒸し暑さが堪えるたような気がしておりますよ。


ところで、こたびの安曇野行きにあたって読んでいた本が松本猛さん、菊池恩恵さん共著による
「失われた弥勒の手 安曇野伝説」というものでありました。


失われた弥勒の手 安曇野伝説


松本猛さんは画家いわさきちひろ さんのお子さんで安曇野ちひろ美術館の館長を務めていた方。
もともと安曇野に祖父母がいらした関係で、ゆかり深い土地なのでしょう、
その安曇野の伝承を小説仕立てでまとめたといったところでしょうか。


それにしても、東も西も高い山が迫る土地柄だけに大自然の景観を満喫する!てな、
いわばスイス観光的なイメージがあるように思いますですね、この辺りには。


されど、一般に観光客がスイス に関してあんまり歴史的背景のようなものに目を向けないながら
先頃探究しましたように当然のことながらスイスにはスイスの歴史があり、
それと全く同じように安曇野には安曇野の歴史があるということなのですよね。
目を向けずにいてしまいがちではありますが。


お話はといえば、こんなふう。
安曇野の警察署から遭難死した人物は父親ではないかと連絡を受けた主人公。
飛んで行ってみると確かに亡骸は父親のものだったが、父はなぜ安曇野に来ていたのか。


遺品を整理する中で安曇野の寺に伝わる菩薩半跏像の手の形に関心を寄せていたことが分かり、
実際に寺を訪ねてみると確かに有名な広隆寺や
中宮寺 の菩薩半跏像とは手の形が違う。
そして、この手は本来のものではなく、失われたものを後から補ったものだという。


それにしても、渡来仏と思しき古い仏像がなぜ安曇野の寺にあるのか。
父親は何を探っていたのか。小さな糸口をたぐりたぐっていくままに、安曇野から北九州へ、
そして対馬、さらには韓国にまで訪ね歩いた結果として、ひとつの結論に達することになるのですね。


安曇野という地名は、律令制下にすでに安曇郡と命名されているようで、
例えば律令で思い出す大宝律令の制定が701年ですから、
おそらくはそれ以前からあったであろう実に由緒正しいものなわけです。


では、そも「安曇」とは何のことかとなりますと、
何でも九州から対馬、韓半島周辺の海を生活基盤として漁撈や交易に携わっていた安曇族という
海の民から来ているのですね、どうやら。


大和朝廷が確固たる中央集権政府となる以前、

九州には九州の勢力があり、両者の戦いがあった際に
安曇族は九州勢力に肩入れするも敗れ、日本海沿いに逃れて行った可能性があるそうな。

なんだか平家の落人伝説みたいですが、それのもっと大規模移住版だったのかもですね。


しかし、海の民がこんな山の中にと思うところですが、

改めて地図を見ると日本海側からはそれほど奥まっているわけではないことが分かります。
当時は日本海こそが表玄関だったのですものねえ。


残念ながら、海の民といえども海岸沿いにはいられなかった、何しろ逃避行ですから。
いざというときに海への出口を全く塞がれてはいないものの、

それでも峻嶮な地に隠れる必要もあった・・・とまあ、そんな事情でしょうか。


そして、先に触れた渡来仏である菩薩半跏像は

安曇族がこの地にもたらしたものではないかとなるわけです。
そうでもなければ、当時周辺には土着の豪族たちもいたにしても、
仏教伝来最初期に貴重な渡来仏が辺境の地にあるわけもないと考えるのは頷けるところかと。


…というわけで、思わぬ歴史の一幕に関する知識を仕入れつつ出かけてきた安曇野あたりのことを
これから書こうかとも思いますが、同行者への配慮もこれあり、

探究とまでいきませんでしたが、その辺りはお含みおき願いたいところであります。


そうそう、本書のお話の続き、九州、対馬、そして韓国で何をどう調べたのか、
そして弥勒菩薩の手の話はどうなったのか。
これはご興味がおありでしたら、ぜひ本書でどうぞ。
「古代史ロマン」、そんなことが頭に浮かんできますですよ。

ご来訪者各位


平素はjosh's blog 「Chain reaction of curiosity」にご愛顧を賜り、

有難く厚く御礼申し上げます。


このところの猛暑、そして寝苦しい熱帯夜から逃げ出すべく

(といっても、昨日からいささか涼風が吹いてありがたみも薄れ気味ですが)

弊店店員ともども信州は安曇野へと慰安旅行に出かけることとなりました。

つきましては、弊店はしばしの休業となりますのでご了承くださいますよう

お願い申しあげます。


毎度のことではございますが、休業中にご訪問いただきましたおりには、

過去記事のひとつなりともご覧いただけましたらと幸甚でございます。


大変な暑さの中、皆様におかれましてもご健康を損ねることなきよう

お祈りいたしております。ささやかな和みのたねとして、安曇野市の

農産物PRキャラ四人衆のひとり「わさっぴ」に登場してもらいました(笑)。


店主謹白


安曇野市農産物PRキャラ四人衆のひとり「わさっぴ」

たまたま見かけて「面白いかも」と手に取ったのが鈴木輝一郎さんの「金ヶ崎の四人」でありました。


金ヶ崎の四人 信長、秀吉、光秀、家康/鈴木 輝一郎


金ヶ崎とは、織田信長 が越前朝倉攻めにあたり北近江の浅井長政に裏切られたため
朝倉・浅井両軍の挟撃を避けて撤退する際に、しんがりの秀吉を置いた場所。


ここでの四人とは信長、秀吉と明智光秀 、そして徳川家康という、
後の歴史を知っている側からすれば、天下人のリレー選手を並べた
オールスター・キャストのような陣容ではなかろうかと。


ただこれも後の歴史を知っているからオールスター・キャストと思うわけで、
同時代的には信長はともかく、秀吉、光秀、家康がその後どんな生涯をたどるのか
見通せる人がいようはずはなく、だからこそ一般的にこの金ヶ崎からの撤退戦では
仕掛けた信長、しんがりの秀吉以外はおよそクローズアップされない。


それを四人そろい踏みにして見せたところが、

この作品の実に実にあざといところでありましょう。

著者の鈴木さんは巻末の付記にこんなことを書いています。

歴史小説は歴史「小説」であって、「歴史を正確に語るより、まず小説たれ」というのが鈴木の考えである。

ポイントは、「歴史を正確に語る」ことは二の次でもよいと割り切っていることでしょうか。
引用文に続けて著者が言っているように、どんな史料にあたっても分からなかったり、
複数の史料が食い違っていたりすることはあるわけで、それを作者が埋めていくことになります。


ですが例えば吉村昭 さんあたりですと、埋めるにあたっても
埋め方がただの思いつきのようなあり得ないものになっていないかを追求するのではと思うのですね。


されど、ここでは「小説たれ」を優先されており、

この場合「小説」とは面白さを言っているように思いますので、
「え?そんな?」ということを狙っていると思われる。


ひとつネタばれ覚悟で(歴史小説でネタばれって?)例をあげると、
いち早く脱出を図ったはずの信長が突如しんがりの秀吉の前に現れる

といった出来事が起こるわけです。


そうした突飛さのひとつひとつをとやかく言うつもりはありませんけれど、
書き手の意思表明は明らかな一方で、読み手としては心してかからねばいけんなと思うわけですよ。


どこまでは史実(鎌倉幕府 の成立年ではありませんが、後の研究で違ってくることはあるにせよ)と

されていることか、どこいらが作者の穴埋めなのかを弁えておかないと、

かなり頓珍漢なことになりかねないなと。
取り分け、こうしたエンタメ系歴史「小説」が登場してくるとなると、なおのことかなと思いますね。


もっとも、一般的な歴史小説で戦国時代 を扱ったものの場合、
その中で交わされる会話の一つ一つが本当にその当時の言葉遣いなのかは

どうしたって推測の域を出ないでしょうけれど、本書の場合はかなり自由に、

かなり分かりやすくなっているので読み進むには楽かもですが、
やはり違和感を抱いたりもするところかなとも思ったり。


読み手の側が「ふうん、こんなふうに考えてみることもできるんだぁね」くらいに余裕をもって
面白おかしく受け止めておればよいですが、よもや金ヶ崎からの撤退の際にはこうだったのか?!と
思ってしまうことのないように願いたいものでありますよ。


史料に当たって書くだけでも難しいものをとやかく言えた義理ではありませんが、
出版物、もちろん小説と呼ばれるものも含めて、
さまざまなものが世に出る(あるいは出てしまう)時勢なのだなと思ったのでありました。

かつてハワイが王国があったことは、まあ知っていました。
カメハメハ大王あたりの名前は子供でも知っているくらいですし、
カラカウア王の名前が大通りに付けられていたり、
ホテル名にはプリンス・クヒオとかクィーン・カピオラニ、そしてプリンセス・カイウラニ等ありますですね。


それが今ではアメリカ合衆国のハワイ州になっていることも知っているわけですが、
この王国から合衆国の州への移行がどのように行われたのか。
知らなかったというよりも、あさはかにも気にかけたことがなかったという。


ハワイに行っても、そうした歴史的な要素にいっかな目を向けることなく、
リゾート三昧というのは片手落ちであったなと反省しきり。
映画「プリンセス・カイウラニ」を見て、そんなふうに思ったのでありますよ。


映画「プリンセス・カイウラニ」


仕立てようによってはいくらでも激動のドラマ展開が可能な題材なのでしょうけれど、
そこは98分といささかコンパクトにまとめてある分、
もそっと説明くれれば理解の助けになろうとは思ったものの、
ここでは興味を抱かせるきっかけを与えて、後は自分でその関心を補うべきかなと。


とまれ、簡単に言ってしまいますと、
1810年にカメハメハ1世(カメハメハ大王)がハワイ諸島を束ねて独立王国として以来、
あれこれありつつも王位継承を重ねてきたハワイ王国でありますが、
利に敏い白人がたくさんやってきて、都合のいい産業を独占し、都合のいい政治を求め、
果てはクーデターを起こして王政廃止に持ち込み、

体よく合衆国が庇護したという形をとったというところでしょうか。


なんだか先日「ラム・ダイアリー 」で見たプエルト・リコを思い出してしまいますが、
19世紀末にはハワイでそんなことをやってたんだぁねえ、アメリカはと思いますですね。


植民地経営と言うとどうしても欧州諸国を思い出してしまう分、

この点でのアメリカの影は薄いようながら、北米大陸にフロンティアが消滅してしまうと、

太平洋の先に新たな野心の矛先を向けることになったのでしょう。


ハワイのことを考えても、むしろ日本は鎖国してたからこそ助かったというべきでしょうかね。
じわじわ蚕食される状況を作らず、鎖国をやめて明治になると驚くべきスピードで近代化
(なりふり構わぬ欧米化)をしていったことが、その後の手だしもなかなか叶わずと言ったことだったかも。
もちろん、日本が資源的に魅力が乏しかったのかもですが…。


まあ、日本のことはともかくとして、そうしたハワイにとって激動の時代を生きたプリンセス・カイウラニ。
カラカウア王の姪で、カラカウア王の跡を継いだ女王リリウオカラニの王位継承者でしたけれど、
王位を継ぐ前に王国が無くなってしまいました。


クーデターなど不穏な情勢を前にして、スコットランド人であった父親が難を避けるべく
イギリスに連れていってしまったことで、タイミングを逸したと言えないこともない。


ようやっと帰国の途に就く際には、途中ワシントンに乗り込んで非公式な会見ながらもハワイの現状を
任期終了間際のクリ―ヴランド大統領に訴える当たりは相当な熱血王女様と言ってもよいかもですね。


しかし、クリ―ヴランド大統領は動かせても任期はすぐに終わってしまい、
次に就任したマッキンリー大統領の国益優先策にハワイは飲み込まれる運命にあったようで。


こうした状況下、王女カイウラニはたったの23歳で世を去ってしまうのですね。
ハワイを思うあまりの心痛から病を得たとも言われているようです。


ところで、こうした展開とは別にカラカウア王は

ハワイの独立には産業振興が必要ながら人手が足らず、
かといってアメリカからの流入ばかりでは独立そのものが脅かされると感じていたのか、
日本に対して移民の要請をすると同時に、

カイウラニ王女と日本の皇族との縁組を申し出たこともあったそうです。


明治政府が断って話は無くなりましたけれど、

歴史の歯車の噛み合わせがすこぉし違っていたら、
友好国の艦隊としてハールハーバーに浮かんでいたのは、

もしかしたら日本海軍の艦隊だったかもしれませんですね。


もちろん、そうであったら良かったとかいう話ではありませんけれど、
激動する動きの振幅には大きな揺れ幅があるなと思ったわけです。


ちなみに合衆国としては、1993年になってようやくクリントン大統領が
ハワイを併合する過程は違法であったと謝罪したそうでありますよ。