先に雑司ヶ谷霊園夏目漱石 のお墓には参っておりますけれど、
たまたま気付いた東京メトロの企画「文豪たちの東京めぐり 夏目漱石編」に頼る形で、

漱石ゆかりの地を巡ってみたのでありました。


東京メトロ「文豪たちの東京めぐり 夏目漱石編」スタンプラリー応募ハガキ


スタンプラリーはすでに2月末で終了となっていて、それ以前に廻ってはいたものの、
携帯で撮った写真をPCに移すのを怠っていたために、

いささか遅れてUPすることになってしまったという。

まあ、お付き合いください…。


まず出向いたのは、早稲田であります。

本名、夏目金之助は、1867年(慶応3年)に今でいう新宿区喜久井町で生まれたのですね。


夏目漱石誕生之地 夏目坂


生誕之地の碑が建つ目の前の緩い上り坂は、夏目坂。

説明書きによれば、漱石の父が自分の姓にかこつけて、

勝手に?「夏目坂」と呼んでいたのが人々に広まり…ということですから、

やっぱり大層な名主だったのでありましょう、夏目家は。


しばしぶらりと、途中から「漱石山房通り」なる裏道を進んでいきますと、

漱石公園なるところにたどり着くのですね。


Chain reaction of curiosity


ここが、いわゆる「漱石山房」のあった場所でありまして、

残念ながら空襲で焼けてしまい、今では公園(ほんのささやかな資料館もあり)になっているという。


この場所には1907年(明治40年)に転居してきて以来、1907年(大正5年)に亡くなるまで住まって、

漱石は「虞美人草」、「三四郎」、「それから」、「門」、「こころ」、「明暗」など

多数の作品を生みだしたのですから、いささかなりとも霊感を得たいところでありますね。


そうそう、飼い猫(吾輩のモデル)の十三回忌に建てられたという猫塚もありました。

もっとも、戦後に再建されたものですけれど。


猫塚


漱石の飼い猫は、この早稲田の漱石山房に越してくる前から連れて回っていたようで、

おそらくは愛着もひとしおなのかと。

猫が死んでしまうと、書斎裏の桜の木の下に埋めて墓標をたて、

「この下に稲妻起こる宵あらん」という句を記したそうな。

猫塚ができる前のお話ですね。

ところで、漱石山房から神楽坂方向に進んでいきますと、こんなお店に出くわしたのですよ。


肴屋 三四郎


「肴屋 三四郎」。

やっぱり漱石はその作品ともども有名人であったからだろうかねえ…と思いかけたのですが、

よおく看板を見ると、創業280年とあります。

漱石の生まれる遥か昔から魚屋さんを営んでおられるとなれば、

夏目家もお世話になったのでしょうかね。

そして、あの「三四郎」はよもやこの魚屋さんから取った…とか??(まさか…)


とまあ、とっかかりは思いもかけず、生誕の地と終焉の地になってしまいましたが、

続きはまた違う角度からということで。

すいません、「続く」です。

先日放送されたTV朝日のドラマスペシャル「遺恨あり」を見てから、
つらつらと考えていたところなどを少々記してみようかと。


遺恨あり 明治十三年 最後の仇討 [DVD]/藤原竜也

時代背景は幕末維新。
といっても、もう数カ月で元号が明治に改まるという頃合いで、
誰彼にも先行きの見通しが立っているわけではないものの、
時代が、社会が大きく変わっていくのだろうとの予感はあった頃といいましょうか。


いささか先を見ていた言わば開国派の人物が

別の見方からすれば「開国を語るなど変節漢!」ともなるわけで、
九州は福岡の秋月藩で、この変節漢に天誅を加える(要は殺害する)という事件が生じました。
一夜にして父母を失った嫡男・六郎(藤原竜也)は何としてでも仇を討つことを誓うわけです。


さりながら、副題にも「明治十三年 最後の仇討」とありますように、
明治六年には新政府によって仇討禁止令が出され、
それまで武士の名誉と見られるところもあった仇討は、

理由の如何を問わず殺人に他ならないものであり、断罪さるべき行為とされるようになるのですね。


人を殺すなど以ての外、処罰するのは法治国家として当然というわけではありますが、
武家中心社会がガラガラと音を立てて崩壊していく中にあって、
この仇討を単なる殺人と位置づけざるをえないことは、

これまた大きなパラダイム転換だったことでありましょう。


江戸に出て偶然にも剣の達人・山岡鉄舟 の知遇を得、復讐の機を待つ六郎は、
結果的に親の敵を討ち果たし、そのまま警察に出頭するんですね。


つまり、仇を討ったまさにその時に、その行為が禁じられていることを充分に承知しながらも、
それまでの長い武家社会で築かれた規範意識を押し込めることはできなかったわけです。
本来、刑罰は抑止力として機能すべきものながら、この場合はそうならなかったという…。


裁判で六郎を裁く立場となった判事(吉岡秀隆)のところへは、
六郎の義挙を称える士族の声の高まりが伝わってきます。
さりながら、近代日本が法治国家としてひとり立ちしていくための試金石とも受け止めたのか、
判事は厳正な判決を下すことを明言するわけです。


ここでは結末には触れませんけれど(何でしたら、吉村昭 さんの原作に当たっていただければ)、
この事件は、とてつもなく大きな価値観の変化の渦の中から飛び出してしまったひと滴だったのでありましょう。


そして、とにもかくにも人に危害を加えることは否であるとの意識を確立することが、
国家の近代性の証しでもあると考えたのは決して過ちとは言えないでしょうから。


されど(つらつら考えたというのは、これからですが)、
近代的な法治国家として仇討を禁じた日本がその後に辿った道筋を考えてみると、
内乱外征、何とまあ戦い、殺し合いの多いことか。
結局は太平洋戦争 に至るまでの歴史で、どれほどの人命を損ねて来たのですかね。
近代的な法治国家ってのは、そういうことだったんでありましょうか。


さらにですけれど、太平洋戦争の敗戦後には連合国軍(まあ、米軍ですね)がやってきて、
日本を民主化していくことになりますけれど、要するにお手本はアメリカだったわけですね。


では、日本が失敗を繰り返さないためのお手本であるアメリカは、
人命を損ねるようなことは決してしないのかと言えば、
これまた歴史を見れば明らかなように、現在に至るまでそこここで戦いが行われてきたのですよね。


このあたりのことを矛盾と捉えるのか、それとも単に話の飛躍でしかないのか、

受け止め方にはいろいろあるかもですけれど、
ほんの一人対一人の遺恨の関係であっても、

どこかで誰かが断ち切らない限り連鎖が続くと思われるところへもってきて、
大規模は戦い、殺し合いが生む遺恨の山はどう収まりをつけるんでありましょう。


小さな規模の加害行為には処罰をもって臨めても、
大きくなれば如何ともしがたく、というより止む無くあり得る行為としてしまうのが、
近代的な法治国家というものだったんでありましょうか…。

芝居でリヒャルト・シュトラウスの話 を見たことと関わりなくチケットを取っていた

二期会公演によるリヒャルト・シュトラウス の「サロメ」を見たのですね。


二期会公演「サロメ」フライヤー


偶然にしても都合のよい符合でありますけれど、

ここではリヒャルト・シュトラウス作品としてどうかというよりも、

「サロメ」そのものを探究してみようかと。


ヘロデ王に乞われて踊りを披露した褒美に

「望むもの」を何でもやろうと言われたサロメが所望したのは洗礼者ヨハネの首でありました…。


聖書に題材を取ったエピソードで、

古今の画家が描き、特にギュスターヴ・モロー が劇的一瞬を切り取った「出現」などの
有名作を生み出す元となってますね。


とはいえ、19世紀以降の「サロメ」の描かれ方は、

何といってもオスカー・ワイルド の戯曲に寄るところ大でありましょう。

リヒャルトシュトラウスが曲を付けようと思ったのも、

この戯曲のドイツ語版公演を見たからということですし。


サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇 (新潮文庫)/オスカー ワイルド


そこで、二期会公演と相前後して、

あらためてオスカー・ワイルドの戯曲にもあたってみようと思ったわけです。
何せ、今回公演の演出はかのペーター・コンビチュニーでありますから、
「何かしでかす」に決まっているのでして、元ネタに触れておくにしくはなくというところなのですね。


1892年作のオスカー・ワイルドの手になる戯曲「サロメ」は、

まさに世紀末の時代の空気をまとって、
むせかえるようなエロスとタナトスの香りで紡ぎだされた物語でありますけれど、
実は細かく言うと、何と詳らかでない点の多いことかと思うわけです。


想像力を刺激するように書いているので、

後は補って想像されたしとでもいうのでありましょうか。


元々聖書に記されたエピソードを、ワイルド自身、自由に扱ってはいるものの、
こうした余地を残したのは意図的であったのでしょうかね。


だいたい聖書によれば、サロメがヨハネの首を望むは母親の入れ知恵あらばこそですけれど、
ワイルド版ではそうした示唆はなく、なぜ?の答えは「なんとなく分かるでしょ」的になっています。


ですから、そこでなけなしの想像力を巡らせてみれば、

サロメは無理心中を図ったやにも思えてくるわけです。


ヘロデ王は洗礼者ヨハネを聖者と見なし、捕らえてはあるものの畏怖の念をいだいていた。
サロメは興味本位からにせよ、ヨハネと接することにより取り巻きの誰にもない何かを感じ取り、
ヨハネに愛を抱きます。


しかし、王女サロメと囚われのヨハネが愛の本懐を遂げられようはずもなく、
いささか演歌的ですが、あの世で添い遂げようてなことになるとすれば、
ヨハネの首を求めることがヘロデ王の不興を買うことは承知のうえで、
しかも生きたままヨハネがサロメのものとなるはずもなく、
かような結末に至ったとも思えなくはないところです。


さればこそ、今回のコンビチュニー演出のように、
最後はサロメとヨハネが手を携えあって逃避行に及ぶようなことにもなるのかと思うのですね。


とはいえ、自由な想像は全く違う話であるかのような筋にもなり得るところでありまして、
その一例が塩野七生 さんが作りだした「サロメの乳母の話」でもあろうかと。


サロメの乳母の話 (新潮文庫)/塩野 七生


いったいどんな顛末だと解釈したのか、ありていに書いてしまっては詰まりませんので、
かする程度にしておきますけれど、サロメをユダヤ救国のヒロインとするというのは、
なるほど作家ならではの懐深さを感じたりするところではありました。


とまあ、オスカー・ワイルドによって決定版「サロメ」のように仕立てられたエピソードは、
実は如何ようにも物語り得るものであったわけです。
となれば、今さらながら自由な発想のもとにサロメの物語を作り出してみるというのも、
実に魅力的なものと思えてくるではありませんでしょうか。

いつの間にかといいますか、たんだんにといいますか、

「コラボレーション」という言葉が普通によく使われるようになってます。


最初は、音楽か何かで異なるジャンルの競演、

例えばクラシックの演奏家とジャズ・ミュージシャンが共演するとか、

そういうのを指してるものだと思ってました。


今では「協働作業」的な意味合いでよく使われていて、

それが英語としてはそもそもの意味なのでしょうけれど、なんでもフランス語で「コラボ」というと、

ドイツ占領下でのナチス への協力者という含みがあるんだそうな。


そうしたことを知った上で「コラボレーション」なるタイトルの芝居に臨むと、

語義の多重性を深く感じるところになりますね。


加藤健一事務所公演「コラボレーション」フライヤー


大筋から言えば、

作曲家リヒャルト・シュトラウス が新作オペラの台本を作家シュテファン・ツヴァイクに頼み、

互いに互いの才能を大いに認めて敬意を払いつつ、歌劇「無口な女」を仕上げていく協働作業、

それが文字通りのコラボレーションというわけですね。


しかしながら、この協働作業が行われたのは1930年代、まさにナチス台頭期であって、

ツヴァイクはユダヤ人 であったことから、さらに次の共作をと望むシュトラウスの

夢を破ることになっていきます。


ただ、ツヴァイクがユダヤ人であり、その後国外に逃れて、

やがてブラジル で自殺をしてしまったという事実が悲劇的なトーンを増すことになるとはいえ、

おそらくツヴァイクは自分がユダヤ人であるかどうかに関わりなく、

例えばトーマス・マン が感じたようなナチス支配という危うさ、

広く人類に対する危うさと言ったものを感じとり、何かしらの行動を起こして、

ナチス支配圏では活動できなくなっていたのではと思われないではありません。


一方で、リヒャルト・シュトラウスはといえば、

よく言われるようにナチス政権下で帝国音楽院総裁(後に辞任)となり、

ドイツで音楽に携わり続けたところから、ナチ・シンパと見られたりもしますね。

フルトヴェングラー などもそうですが。


これを比べてみると、

(もちろんそうでない人たちもたくさんいたものの)音楽家はどうも無邪気といいましょうか、

社会的危うさの察知に疎いと申しましょうか。


あるいは音楽の無垢さ(音楽は音楽、政治と無縁!みたいな)を虚心に信じてるというか、

はたまたまったく逆に、音楽ならば(政治にも屈せず)大丈夫的な過大評価をしているのか…。

どうも作家の人たちのような危機意識が今ひとつだったように思われてならないのですね。


芝居の中では(どこまでが事実かは不明ながら)、シュトラウスは息子フランツの妻がユダヤ人であり、

さすれば当時の考えられ方(法律)では孫たちも当然ユダヤ人と見られることになって、

彼らへの災いを排除せんがために帝国音楽院総裁を引き受けざるを得なくなるという場面があります。


でも、冷静に当時の情勢に目を向けていたならば、

息子の家族に災いが降りかかるやも知れぬことは十分に予測できることだったのではないかと。

まあ、純粋にと言いますか、一切脇目を振ることなくといいますか、

音楽一途の人だったということなのかもしれませんけれど…。

聴き慣れた名曲を新鮮な演奏で聴かせてもらうのも楽しみながら、

あまり(ほとんど?)耳にする機会のない、全く知らない曲に触れてみるというのもまた

大きな楽しみでありますね。


もっとも昔々とは違って、今ではCDでも膨大なレパートリーがカバーされていますから、

聴いたことのない曲を聴く(再生する)だけなら、比較的簡単になっているご時世。

とはいえ、知らない曲こそ演奏会で集中して聴き、

またその音に直に取り巻かれてみたいものではありませぬか。


ですから、たまぁにそうした変わった曲のプログラムに興味を惹かれると

ふらっと出かけることもあるのでして、

以前、新日フィルで聴いたハチャトゥリアンの交響曲第3番 なんかもそうですし、

昨日聴いた東響の演奏会なども同様で、なかなかに好奇心を喜ばせるものでありました。


東京交響楽団・芸劇シリーズ2月フライヤー


曲目はといえば、(これはメジャーな)ラヴェルのピアノ協奏曲 を間に挟んで、

パヌフニクとスタンフォードの交響曲を前後に持ってくるというユニークなもの。

いずれも初めて聴くどころか、パヌフニクに至ってはその名前さえ初めて聞くのでありました。


さて、そのパヌフニク(1914-1991)の交響曲第3番「祭典交響曲」ですけれど、

プレトークで指揮者の大友直人さんが「聴き易い」と言っておられたとおり、

年代的にはどっぷり現代のはずですが、響きの点でさほど奇を衒ったものでない分、

確かに聴き易いとはいえそうですね。


さりながら、曲が始まる前から驚かされるのはトランペット4本の配置。

舞台の四隅(客席側と舞台奥の左右の端)にそれぞれ舞台内側を向く形で

奏者がひとりづつ配置されているのですね。


最初のシークエンスはこの4本のトランペットのみによる穏やかなファンファーレ。

ヤナーチェク の「シンフォニエッタ」ではありませんが、何やら醸す厳かさが感じられると、

続いては弦のハーモニクスが不思議な感覚、神話的な雰囲気(?)を呼び覚まします。


でも、この不思議さは何だろうかなぁとよく考えてみると、

雅楽の響きを模して日本人の作曲家が曲を書いたらこんな響きにもなるかなと思い至るに及んで、

「シンフォニア・サクラ」と言われるような荘厳さとは、

結構古今東西同じような感覚に根ざすものやもと思うのでありました。

なにしもグレゴリオ聖歌 を使ったという最終部分でも、

頭の中では伊勢神宮みたいな想像が浮かんだりしましたし。


というところで、メインのチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード(1852-1924)の交響曲第3番。

こちらには「アイリッシュ」という標題が付いていますけれど、

まさに冒頭から、そんなふうな!印象なんですね。


会場で配布されるパンフの解説に「アイリッシュの色調が濃い」と記された第2楽章でも、

お土地柄のダンスはこんな音楽に乗ってなんだろうとと思いましたし、

「♪コケッコー~!!」で始まる(と聞こえる)第4楽章もまた「アイリッシュ、かくや」の気分。


というタイトルどおりの印象を醸す交響曲なのですけれど、

この曲が完成した1887年と言えば、翌年にマーラー が交響曲第1番を発表し、

交響曲の歴史に新しい足跡が記されようかという頃合い。


そのような時期に、かっちり4楽章構成でもって、

ブラームス を意識し(すぎ)たのか、その断片が第3楽章のそこここに顔を覗かせますし、

また全曲の締めくくりにおいてもベートーヴェン の第5番ほどではないにせよ、

「バン!バン!ババーン!!」と究極の古典派 めいた連打で終わるという、

古式豊かな曲をスタンフォードは書いたわけですね。


活躍した年代は、チャイコフスキードヴォルザーク の後で、マーラーの登場前。

絵画でも当初は奇異の目で見られた印象派 が、その後市民権を獲得したのと反対に

いわゆるアカデミスム絵画 がおよそ顧みられることのなくなっていく軌跡と似たように、

音楽のアカデミスム の権化的な交響曲がその在り様を大きく変えようというときに、

スタンフォードはコテコテのアカデミスム交響曲を書いていたのかも、ですね。

今日、埋もれてしまっているのはそのあたりも一因かと。


ではありますけれど、先に聴いたパヌフニクの交響曲が比較的穏やかな響きであるように、

巡り巡って交響曲なるものも本家がえりに向かう方向性もあるのやもしれませんねえ。

思いもかけず、そんな交響曲の移り変わりに思いを馳せる演奏会ではありました。