本日で弊店「Chain reaction of curiosity」を開業して丸4年が経過いたしました。
いよいよ5年目に突入することになるわけであります。

日ごろのご愛顧をあらためて感謝いたすところでございます。


始めたのは2月末頃だったよなぁと思い、過去記事をたどってみますと
弊店の開業記念日は2月25日と判明いたしたわけなのですね。


それでは!と思われる方がおいでとも思いませんけれど、
先に言ってしまいますと、このブログで遡っていただいても2007年2月25日の記事は存在しないという。


長らくご贔屓をいただいておられる皆様にはもはや「耳タコ(目タコ?)」の話になりますが、
アメブロ以前に開業当初利用していたMSNスペースが
強制閉鎖 の憂き目を見たからでありまして、
キャッシュから広い出して復刻したりしたものの、記念すべき開業記念の一文のみならず、
最初期のものはインターネット宇宙のブラックホールに露と消えた次第であります。


とまあ、古傷の話をくどく申し述べるのはこの辺にしておきますけれど、
それでもよぉく考えれば、よく書いてるもんだなぁと我ながら思ったりしますねえ。


途中幾度か中断したり、そうでなくても泣き言を漏らすことはままありますが。

そも「なんだってブログを書くのか」てなことは、
一昨年のこの時期、
アメブロ引越し1周年 のときに書きました。


そのときに「どうせ書くなら見ていただけたら」という欲の話もしましたけれど、
また2年を経過してみると「どうせ見ていただくなら面白いものを」と思ったりもするのですね。

(ま、何が面白いかの受け止め方は人それぞれですので、万人向けとまではいきませぬが…)


どんな内容に面白さを見出していただけるかは、それこそ人それぞれ、十人十色ですから、
広く遍くご満足いただけるものなど書けようはずもありませんけれど、
逆にそれだけに皆様の反応がいたく気になってしまうところでもあります。


とはいえ、また不遜な言い方を恐れずに言えば、
例えば「天声人語」のような、「編集手帳」のような、「余録」のような、「筆洗」のような、
限られた人かもしれないけれど「毎日楽しみにしているよ」という

(奇特な)方がおられるかもと想像しながら、
続けてまいろうかと思いを新たにするのでありました。

この間見た「チェーホフ?!」なる芝居 の、
構成を案出する材料とされている短編をいくつか拾い読みしていたのですけれど、
その中に「黒衣の僧」という一編があったのですね。


医者でもあったチェーホフ が、その医学に関する知識を活かして書いた短編を

いくつか編んだ作品集所載の一編です。


六号病棟・退屈な話(他5篇) (岩波文庫)/チェーホフ


主人公のコーヴリンは、どうやら精神を病んでいるらしい。
転地療養的にかつての里親であったエゴールの果樹園を訪ね、しばらく滞在することになります。


エゴールとの旧交を温め、

かつては少女であったその娘ターニャが美しく成長している姿に惹かれるコヴリンでありましたが、
どうも高揚するといささかの睡眠も取らずに平気で学問に没頭してしまうあたりからして、
やはり普通の人とは一線を隠したものを抱えているようではあるのですね。


そんなコーヴリンはあるとき、平原の彼方から竜巻とともふいに現れた黒衣の修道僧を見かけ

言葉を交わすようになります。

コーヴリンの元にいつでもふいと現れる黒衣の僧でありますが、どうやら他の人たちには見えない。
つまりは存在していない、コヴリンの想像が生み出した幻覚であること、
そしてやはり自分が病んでいることをコヴリン自身も自覚をするわけです。


一方で、後継者が欲しかったエゴールの望みどおりにコーヴリンはターニャと結婚するのですけれど、
夜中にコーヴリンが誰もいない椅子と相対して会話をしている姿を見てしまうのですね。


やがて、コーヴリンは薬物治療の効果か、いっさい黒衣の僧を見かけることはなくなりました。
が、これまで彼を取り巻いて学問にもなにごとにも積極的に取り組む姿勢となっていた高揚感も失われ、
顔つきまで生気が失せたかのよう。

いわば「もぬけの殻」のようになった自分の姿を自覚することになったわけです。


ここでコーヴリンによぎるのは、黒衣の僧との会話を懐かしむ思いなのですね。
それが幻覚であり、精神的な病いの発露であるにせよ、誰に迷惑をかけるどころか、
その頃には生き生きとした自分があった。


それが薬漬けとなり、病いは収まったかもしれないものの、
喪失感の大きさからターニャに、そしてエゴールに恨み辛みを投げ付けるようになっていくという…。


例えとして引き合いに出すのは適切でないとは知りながらではありますけれど、
昨日、映画「ザ・タウン」 にことよせて書いたような、

周囲との異質性は正されるべきが「善」と考えていいのかどうかという点でありましょうか。


何もないところに幻覚が見えることは、明らかに周りの人たちとは異質であって、
それは病気なんだから治さなくては!となるのは自然とも思われます。


コヴリンは幻覚を幻覚であると自覚できる状況ですけれど、
例えば(素人考えですが)こうした状況が進行?悪化?すれば、
映画「ビューティフル・マインド」でラッセル・クロウ が演じた数学者ナッシュの世界に

向かってしまうかもしれない。

こうしたことを考えれば、早く治療しなくちゃと(やはり素人なりに)考えるわけですよね。


ただ、先に「例えとして引き合いに出すのは適切ではないと知りながら」と言いましたのは、
(ここでの設定が精神的な病いで、それそのものだけに焦点を当てると語弊があるやもですが)
周囲との異質性の度合いの大小に関わらず、

是正され、矯正される対象になってしまうかもと考えたときに、
いささか以上の危うさを感じもするわけです。


昨日の記事の延長のようになってしまいますけれど、誰もが守るゴミの分別を守らないといった、

社会規範上正しいであろうと想像される周りとの異質性はともかく、
全く反対に、例えば他国に戦争を仕掛けまくる独裁制の政権を是とする周囲の状況の中で

ひとり反対を叫ぶことまで異質性で片付けられようはずもないのですから。


話が飛躍してるとは充分自覚をしていますけれど、
異質=正すものという前に、異質性の中身そのものが問われなくてはなりませんよね。


コーヴリンの例ではあれこれ思い惑いかけましたけれど、
最後にはコーヴリンがエゴールやターニャへの悔恨の念を抱くに及んで、
何とか収まりがついたやに思うところではありますが…。

先日、四国八十八箇所札所巡りのお遍路道の沿道に捨てられたゴミを

ボランティアが回収作業をしたというTVニュースを見ました。


沿道といっても山がちな斜面のところですので、

例えば車で通りすがりに窓から空き缶やらをポイポイしていく人がいるのでしょう。


さりながら、ゴミはさほどにこまいものばかりでなく、

布団やらゴルフバッグ、古タイヤなどなど(冷蔵庫もあったかな)、
つまりは空き缶のようについでに捨てるというより、

意図的に運んできて捨てる類いのものがたくさんあったようです。


片付けていたボランティアの方に言わせれば「巡礼道になんと不遜な!」ということで、
それもそうなのかもですが、不法投棄が「巡礼道だから駄目、そうでなければよい」のではないのでして、

(もちろんインタビューを受けた方も、そうした含みで言ってらしたのではないでしょうけど)
結局は捨てる側のモラルの問題になってくるわけですね。


とはいえ「Broken window theory」というものがあるように、
ひとつ壊れた窓があって、そのままにしておくといつしか全部割られたり、

ゴミが捨てられたりになってしまうという。


こうした点から考えても、実に人間は弱いものだと思われてきます。
他にもやってる人がいるから「ま、いっか」と。


ある場所の環境が、その場所の個性を決めてしまう。
その場所の個性には、当然そこに住まう人たちがどういう人たちであるか、

どういう人たちになるかも決めてしまう。


これに抗うことは、運命に抵抗するようなものなのかもしれません。
そうした点で、映画「ザ・タウン」は実に痛い映画なわけなのですね。


映画「ザ・タウン」フライヤー


ごくごく普通のところであっても、
住まう場所の個性に合わない、合わせないものは異端の存在になってしまうことはままありますね。


ゴミの分別に合わない収集日にゴミを出してしまう人ですとかのことを考えると、
合わせるべきところで合わせないのは宜しくないわけです。


ところが、合わせるべきところというのが、

そもそも社会通念とか公序良俗とかそうしたものに対して間違ってはいないことを

ベースにしていればまだしもなんですが、
その場所自体が「Broken window」そのものであったとしたら、どうでしょう。


「俺も親父の仕事を継ぐことにしたよ」
「おお、その気になってくれたか。この仕事は、ここの地場産業みたいなものだからなぁ」


この仕事というのが、実は銀行強盗であると。
アメリカはボストンにあるチャールズ・タウンという街。
ここは、全米でいちばん銀行強盗の起こる街なのだそうです。


そして、銀行強盗は職業として、世襲され、一族郎党が関わり、友人と組んで行われるという。

主人公のダグ(ベン・アフレック)もそうしたチャールズ・タウンで生まれ育ち、
コンクリート製造会社の現場で働きつつ、銀行強盗のリーダーをしているのですね。


そうでありながら、彼は自分の人生を変えたいと思っている。
その一層の後押しをするのが、襲った銀行の女性支店長(レベッカ・ホール)との関わりだとは。
(この関わりの部分は、先ほど言った痛さとはまた別の強烈な痛さがあります)


ストーリーに関してはこれ以上触れませんけれど、
とまれ、人間が環境に左右されること、これを弱さと言ってしまうと余りにしんどいものながら、
人生の路線変更はなかなかに難しいものだと思うのでありました。

この間、台詞のリアリティがどうのこうの と言いましたけれど、
リアルさを現実の日常で交わされる会話に範を取ると
「あれしてくれる!」とか「なにだよ、なに!」てな言葉が入ってきたり。


個人的にはそれに違和感を抱いたりするところではありますが、
日常会話の中には当事者にしか分からない、普通は日常会話に観客がいるわけではありませんから、
当事者さえ分かっていればいいわけです。


それを逆手にとって、誇張する形でやってみせるとこんなふうになるかなと思ったのですね。
お読みになって「何、これ?」と思われる方もおいでかと予測いたしますけれど、
そこはそれ、読み手が好きに想像を巡らすことが可能かとは思ったり。
さて、いかがなものでありましょうや。




   ある家の茶の間。

   中央のコタツに一家の主と思しき男が一人、新聞を読んでいる。


男:(大きく何度も頷きながら)そうだったのか…。


   妻と思しき女がお茶の支度をして入ってくる。


女:そうだったのかって?


   男は女に新聞を見せる。覗き込む女。


女:(男の方に向き直りながら)そうだったの?!


男:そうだったんだよ。


   女は男の向かいに座る。男は湯のみを手に新聞を読んでいる。
   女はお茶を飲みつつ、男の方を向きながらもあらぬ方を見て思案しているようす。


女:(ひと呼吸おいてちいさく)そうだったのかしら…。


男:(広げた新聞の隅を手の甲で軽くたたいて)そうだったんだよ。


   男はコタツの端に新聞を畳んで置く。すかさず女は新聞を取って開き、しばらく読んでいる。

   男はお茶をすすり、しばしぼんやり。


女:そうだったのかしらねぇ…。


男:(一瞬ぽかんとするも、少々気負って)そうだったんだって!


   娘と思しき若い女が駆け込んでくる。


若い女:そうだったんだって?


男:(新聞を指差しながら)そうだったんだってさ。


   若い女は女から新聞を横取りして、読み始める。


若い女:そうだったのかなぁ…。


   女は若い女に頷きながら、男を横目で見る。


女:そうだったのかしらねぇえ。


男:(少々気色ばんで)そうだったんだ!


女・若い女:(同時に疑いの目を向け)そうだったのぉ?


男:(いささかたじろぎつつ)そうだったんだって…。


   女と若い女は一緒に新聞を覗きながら、しきりに頷きあっている。
   そして、女と若い女は再び男の方を見る。


男:そうだったんじゃないのか?


   同時に首を横に振る女と若い女。


男:そうだったんじゃなかったのかもな…。


   同時に首を縦に振る女と若い女。


男:(ひと呼吸おいて、つぶやくように)そうだったのか…。




男の「そうだったのか…」から始まって「そうだったのか…」で終わらせてます。
同じ言葉ながら、「そう」であることの内容の肯定で始まり否定で終わるという。


そんなことよりも、もしかして世の中で妻と娘に相対する亭主族は

えてしてこんなものだったりするかもしれませんね。

周りの声として「何も考えずに楽しめる」てな話を耳にしたものですから、

遅ればせながら見に行った映画「RED」でありました。


TVや映画を見ながら、あれこれと人生に思い巡らすも良しではありますが、

たまには?「何も考えずに楽しめる」とやらに浸かってみるのもよかろうかと思ったわけです。


Chain reaction of curiosity


それにしても、ブルース・ウィリス が引退した年金生活者を演じるとは…。

確かに「ダイ・ハード4.0」を見た時には、

ジョン・マクレーン(世界一ランニングシャツが似合う、ブルース・ウィリスの当たり役ですね)も

くたびれてしまったものだなぁ(詠嘆)と思ったものですけれど、

1955年生まれの55歳、引退にはちと早いのではと思ったものです。


しかし、引退前の仕事というのがCIAエージェントだというのですから、

まあ過酷な勤務であったのでありましょうね。

映画の中でも50代の設定でちと早めながら、引退というか、隠遁生活というところですかね。


ただ、そうした生活故なのか、どうも一切が老人的になっていくのか、

唯一の愉しみらしきは、送られてきた年金の小切手を破り捨てては年金担当の女性に電話をかけ、

束の間の会話を楽しむという程度。


ただ、熟練の手管で誘いかけるというよりは、

どうにもベタなやりとりで笑いを誘うくらいですからいいものの、

そうでもなければ前田司郎 さん描くところのエロじじいと変わらなくなってしまうかもです。


こうして今は静かに暮しつつ、やおら夜なかの3時半にむっくり起き上がったかと思うと、

嫌な顔をしつつトイレに向かう姿は妙にリアルと言いますか…。

ところが、この夜なかのトイレの場面からいきなり派手なアクション場面に転ずるのですから、

なかなかにいいつかみをしているような。


トイレの目覚めよろしく、昔取った杵柄か、とっさの対応には超一流エージェントの機転も

すぐさま目覚めるようで、これからの展開は実にスピーディー。

北米大陸の東半分を縦横無尽に駆け抜けるのですよ。


さりながら、若者のようなしゃかりき感が抜けていて、

むしろ喜々として楽しんでいるかのよう。

自分の命が狙われていることへの対処であっても、

やっぱり生きる目的を得た思いだったのでしょうかねえ。


昨今、何かとリアルさを追求するお話(夜なかのトイレとかいうことでなくって)が映画になりますが、

こうしたお話は現実を背負って重い内容だったりしがちですけれど、

こうした最初から作りごとだと思ってかかるお話は、それはそれで気楽に見られますね。


まあ、「事実は小説より奇なり」という言葉が本当のスパイの世界では当然なのかもと思ったりするものの、

それでもやっぱり「007 」はじめ作りごとだろうと思ってかかるわけです。


それだけに、イギリス諜報部とロシアのスパイがよもやの恋仲だったてな話(も

「おお、やっぱり007 のオマージュ?!」(男女が入れ替わってますけど)かと思ったり。

確かに、「何も考えずに楽しめる」映画だったように思うのでありました。


あ、そうそう、ブルース・ウィリス以外に

モーガン・フリーマンジョン・マルコヴィッチ (実にお茶目!)、

ヘレン・ミレン 、リチャード・ドレイファスといった昔は若かった(当たり前ですが)俳優さんたちが

楽しそうに演じている中で、アーネスト・ボーグナインが出てたんですなぁ。


生きてたんですね、この方。ちなみに、1917年のお生まれだそうで。

例のギョロ目が枯れた雰囲気に意外にも合っていて、ぬいぐるみのようでした(ギズモとか…)。


それから、巻き込まれタイプの典型で、フランク(ブルース・ウィリス)に連れまわされることになる

年金担当のサラですけれど、しばらく前なら間違いなくサンドラ・ブロック がやってたんだろうなって。