3月11日の大地震以降、ちと気になっておりましたので
両親の家を覗きにいったのですね。

もっとも東京の区部であって連絡も取れており、
何事もないことは分かっておりましたけれど、
老齢の二人暮らしでありますから、まあ顔見世興行のようなものです。

ただ話を聞けば、5階建ての5階住まいともなりますと、
結構揺れが酷かったということですが。

ところで、東京の西と東のはずれどうしのような関係にある自宅と両親の家ですので、
ちょこちょこっと訪ねることはありますけれど、
もっぱら最寄駅と目的地の行き来くらいで周辺を歩き廻ることはおよそ無いんですが、
ちと用足しがあったもので、ずいぶんと足を伸ばしたことのないエリアに歩みを進めたわけです。

歩きながら考えてみれば、その辺りは出身中学校の学区域でありまして、
「あそこらにNの家があったな」
「も少しでHの家か。お、表札でとる、でとる」
「んじゃ、道の向こうはKんちで、も少し奥へ入るとSの家か…」
とまあ、日ごろはついぞ思い出すようなこともないんですが、
このときとばかりにあれこれと湧いてくるという。

折りしも3月下旬となって、卒業式を迎えるシーズンなわけです。
今年に限っては震災とそれに引き続く計画停電等々の影響もこれあり、
晴れの門出を祝うことの叶わない状況が多く見られるのは何とも残念なことでありますね。

しかしながら、3月下旬のこのシーズンは別れの季節でもあるところから、
かつての同級生や先輩後輩が住んでいた家のあたりを歩き回ったとなれば、
自ずと家の場所云々に留まらないことまでが思い出されてしまうのでして、
それまできつく閉じていた思い出のふたが開いてしまったかのよう。

そうして底の方まで覗き見ることになってしまうと、
おそらくは相手を傷つけてしまったであろうこと、
我ながら痛く傷ついたと感じたことなどまでが甦ってしまいます。

ほんのちょっとした誤解と結果としてはあっけなくも脆い関係…。
面映いですが、たぶん青春なるものやもしれませぬ。

当時放送されていたTVドラマ「俺たちの旅」で、
毎回最後に出てくる三行詩くらいのひと言に敏感に反応していた時期でもあったかと。

そうした流れでひとつ、歌を思い出しました。
「俺たちの旅」にオメダ(田中健)の妹役で出ていた
岡田奈々さんが歌った「青春の坂道」という曲であります。


作りとしては、終わりのところがまとめにかかってしまってるメロディになってしまって、
いま一つの感もありますけれど、結構気に入っていたのでした。

改めて聴いてみると、これはむしろ青春を振り返る歌だったのだな…と思ったのですけれど、
皆様はどう受け止められるでしょうか…。


結局のところ、リヒャルト・シュトラウス (1864-1949)は親ナチだったのか、そうでないのか…。


先日見た芝居「コラボレーション」 では、
シュトラウスがユダヤ系オーストリア人であるシュテファン・ツヴァイクとの共作によって
歌劇「無口な女」を作り上げ、上演に漕ぎ着ける中で生じたナチスとの確執を描いていましたけれど、
根本的な問題には敢えて深入りせずにおいたような気もしないではない。


ナチス政権下にあるドイツに留まり、帝国音楽院総裁ともなり、音楽活動をしていたことは、
これすなわちナチスに加担したのではないかという見方がある一方で、
帝国音楽院総裁の職は、欧州が一気にきな臭さに包まれていくオーストリア 併合(1938)よりも以前に
辞めて(辞めさせられて)おり、ただただ音楽に携わっていたかっただけなのだという見方もあるわけですね。


先の芝居での描かれ方は後者に近いように思いますけれど、
表面的に印象を受けたところを言えば「無垢に過ぎる」とも思えるのでして、
「でもって、本当のところどうなのよ?」となるという。


そんなもやっと感を持っていたところ、出くわしたのがこの本、
「第三帝国のR.シュトラウス 音楽家の〈喜劇的〉闘争」であります。


第三帝国のR.シュトラウス―音楽家の“喜劇的”闘争/山田 由美子
(1933年)三月二十日、ベルリン・フィルハーモニーの指揮をする予定になっていたユダヤ系のブルーノ・ワルターが、当日出演すれば劇場を破壊すると脅迫され、ベルリンを去る。オットー・クレンペラーがライプツィヒで同様の手口を用いて解任されたこともあり、一連のユダヤ系音楽家の迫害に対して外国の音楽家たちから抗議の声が上がった。トスカニーニを筆頭とするアメリカ在住の指揮者が四月一日、ヒトラーに抗議の電報を送るが、ヒトラーは電報署名者のレコードのラジオ放送を禁じる。

1933年1月に政権に執るや直ちにこうした状況が展開しますけれど、
ワルター の代わりに指揮をしたのも、
バイロイトを振るはずだったトスカニーニ の代わりを

務めたのもリヒャルト・シュトラウスだったのでして、

どうも見た目の事実の積み重ねは不利な状況証拠と言えそうです。


ところがこの時期、歌劇「無口な女」のツヴァイクとの共作が進行中なのですけれど、
ナチス側からすれば、

当時ドイツのみならず世界の大作曲家であったシュトラウスの利用価値は大であり、
先の指揮の代役を引き受ける状況からしても従順そうに思えたところから、
帝国音楽院総裁への就任を要請するわけですが、

これを受けた頃シュトラウスはツヴァイクにこんなことを書き送っているのですね。

この任務(帝国音楽院総裁就任)は辞退すべきではないと考えています。新ドイツ政府による音楽と劇場振興政策は、実際に好ましい結果を生むと思いますし、私自身も多少の役には立ち、不幸な状態を避けることに貢献できました。ところで、そろそろ新作について考える必要があります。私自身の身体はまだまだもちそうなので、《無口な女》を最後の作品にしたくはないのです。

ナチス政権の音楽に関わる政策を持ち上げ、自身の寄与をほのめかす点で、

この手紙もまた不利な証拠になりそうですけれど、ここで肝心な点は

ひとつに「不幸な辞退を避けることに貢献できた」という部分というところでしょうか。


例えば指揮の代役にしても、コンサートをキャンセルして団員の収入が無くならないよう

ワルターから直々に頼まれたと言いますし、

バイロイトの方もナチスのためというよりバイロイトそのもののためと考えていたようで、
こうしたことがナチスに加担していると取られるなどとは思ってもみないようなのでした。


そして、一読したところではナチス政権称揚ともとれる文面ながら、

これがユダヤ系のツヴァイクに送られた点、

さらには「無口な女」の上演自体どうなるか分からない状況下で

ユダヤ人 と分かっているツヴァイクに新作の話を振っている点は見逃せないところでありますね。


一方で、ナチスの側から見ても、

シュトラウスが親ナチなどという御しやすさを持ち合わせていたものではない

ということを伺える史料が残されています。

ナチスにおいて絶大な権力を振るった宣伝相ゲッペルスの日記には、こんな記載があるといいます。

残念ながら、われわれはまだ奴を必要とする。しかし、いつかわれわれが独自の音楽を入手すれば、このデカダンの妄想狂とおさらばできるだろう。

ここで「奴」と言われ、「デカダンの妄想狂」とまで言われているのがシュトラウスなわけですが、
いかなナチスと言えども当代一の世界的作曲家は何とか懐柔して利用していかざるを得なかったのでありましょう。


そして、いささか不用意で甘い見通しかもしれませんが、シュトラウスにすれば、

相手がナチスであろうとうまく立ち回って音楽に貢献したいという思い一途であったような。


また、シュトラウスとしては、自分はいろんな政権、政体にも仕えて

自分なりの音楽を貫いてきたという自負があったようなのですね。
例えばヴィルヘルム2世のもとドイツ帝国 にも仕えてきたというふうな。


いささか強行される形でプロイセン中心にまとめられたドイツ帝国が、ヴィルヘルム2世の親政下、
英仏に負けじと拡張政策と取って第一次大戦にも繋がるところとなっていきますが、
このあたりは、先日の記事ではありませんけれど、夏目漱石 あたりは

ドイツの帝国主義はとどのつまり世界制覇までやむ所がないのではないかと

はっきり嫌悪を表したりしています。


こうした国、こうした君主に仕えるのは機嫌を損ねればどうなるか分からないものながら、
シュトラウスにしてみればそうした中でもしのいできたことを実績と思っていたのかもしれません。
後世から見れば、歴史のそれまでと同一にナチスを見たのは甘すぎるとも思えますけれど、
それはやはり結果論と言うべきやもしれません。


そして、そもそもの話になりますが、ツヴァイクと作りあげた「無口の女」のストーリー。
これが、シュトラウスの求めてやまなかった(ホフマンスタールに求めて叶わなかった)

オペラ・ブッファであって、ドニゼッティ「ドン・パスクワーレ」 に似たふうながら、

実はそのストーリーがナチスを揶揄する暗示と容易に知れるというのですね。


かつてボーマルシェが、そしてダ・ポンテモーツァルト

時の王侯社会に対する痛烈な風刺ながら「フィガロの結婚」 の上演を成功させたように、

穴のあいたオブラートで核心を包みこみ、分かる人には分かるたっぷりの隠し味を

たっぷり味わってもらおうということでありましょうか。


だとすれば、なんとまあ際どい作戦であったことかと(後世からみれば)思わざるをえませんね。

こうした諸々を考え合わせると、とてもシュトラウスがナチ寄りであったとは考えにくい。

今となっては本当のところは藪の中であるとしても…。


そうそう、ここで紹介いたしましたのは本書のほんの一端でして、

「ドン・キホーテ」 を巡る話のあたりなどは著者本来の研究領域なのでしょう、

とても掘り下げてあるような。とても興味深い本でありました。

   街の片隅にある小さな公園。誰もいない。
   空は厚い雲に覆われて、昼間ながら薄暗い。
   ひととおりの遊具が置かれ、中央奥にはすっかり葉の落ちた大きな木が一本。
   冷たい北風が強く吹き、ブランコを揺らしている。
   (客席ともども場内の空調を控えめにし、少しばかり寒いくらいに)


   上手からひとりの男が登場し、ゆっくりと中央に向かう。
   コートの襟を立て、ソフトを目深に被っている。
   背に受ける強い北風にいささかも動じることなく、堂々とした様子。


   下手からはひとりの女が登場し、中央へ。
   強く冷たい向かい風を受けてるようには見えないほど、軽い足取り。
   二人は中央ですれ違いざまに、どちらからともなく足を止める。


男:(くぐもった声で)まだ早いんじゃないか。


女:(あっけらかんと)あら、遅いくらいだと思ったんだけど。


男:(いくらか気色ばんで)いや、そんなことはあるまい。俺の出番はおわっちゃいない。


女:(なだめ口調で)でも、もう充分に震え上がらせたんじゃなくって。


男:(得々と)まあな、心底までとはいかなかったが…。ま、作戦勝ちというところだな。


女:(おだてで聞いているのがありありの表情で)作戦勝ち?


男:(にやりとしつつ)そうさ。人間ってやつは大きな変化に弱いからな。

  ちょっと油断させてから、冷たい風のひとつも吹けば震え上がるって寸法さ。


女:(ちょっとずるそうに)ずいぶん活躍したってわけね?


男:(得意満面で)おお、そうよ。口々に「早く行っちゃってくれないかしら」なんてなぁ。


女:(したり顔で)あら?早く行っちゃってくれないかって何のことを言ってるのかしら?


男:そりゃあお前、俺様が…。(しまったという顔つき)


女:(タイミングを逃さず)そう、あなたが行っちゃってもらいたいって、みんな思ってるのよねえ。


男:(度を失って、凄みがきかない)何を!これからまだひと風もふた風も吹かそうってときに!


女:(勢いで優って)もう充分!潮時なのよ。みんなが望んでいるのは、このわ・た・し!


   女は一歩、男に向かって踏み出す。


男:(気圧されて、一歩下がり)いや、まだ、その、潮時なんてことは…。


   女はもう一歩踏み出し、男はまた一歩下がる。
   いつの間にか男の背負った北風が止み、女の後ろから南風が吹き込んでいる。

   女はさらにもう一歩。男はさらに後退。


男:やめろ!コートと帽子が吹き飛ぶじゃないか!


女:いいのよ、それで。

  (腰に手をあて、ぐいと上半身を男の方に乗り出しながら)コートと帽子はまた来年までお預け!


男:(女の勢いとなおのこと強くなった南風に押されながら)ひえ~!!


   男は転げるように上手に退場。

   女は舞台中央で大きく構え、晴れ晴れとした表情で空を見上げる。
   とたんに雲間から日が差し始め、いつしかすっかり青空に変わる。
   (場内の空調を暖かく調節)


女:(中央奥の大きな木を振り返り、ふっと息を吹きかけるしぐさ)これでよしっと!!


   吹き付ける南風に髪をなびかせつつ、にこやかに女が下手に退場。
   中央奥に置かれた木の枝々に、ゆっくりと薄いピンク色の花のつぼみが無数に現れる。


N:こうして、毎年のようにスムーズではない選手交代が告げられた。
  男の名は「冬の名残」といい、女の名は「春の予感」といった。     
-幕-





いつも以上に拙いものをお目にかけましたけれど、

一昨年にも「春を連れて帰る」 を書く材料を頂戴したyumimbowさんのブログ で、

「冬の名残と春の予感」という言葉を見かけたところから書き出したものであります。


最初は、弱って病床にある(?)「冬の名残」を「春の予感」が見舞いつつも引導を渡す話として書き始めて、

まずまずかな…となりつつあったのですが、どうも昨今の被災状況を鑑みて相応しくないように思える。

でもって、書き直したらこの程度のものになってしまったという…(残念)。


それでも、時折厳しい寒の戻りに晒されつつも、冬の名残を春の予感が吹き飛ばすように

もうすぐそこまで春は来ている…季節感を忘れそうなこの時期だからこそ、

拙いながらもUPしてみた次第でありました。

先日、TVドラマの「遺恨あり」 を見て明治の法治国家がどうしたこうしたとか、
はたまたその明治に生きた夏目漱石ゆかりの地めぐり の記事をUPしたりとかしているときに、
不思議とこんな本が見つかるのですなぁ。
平凡社新書の一冊、「夏目漱石と戦争」であります。


夏目漱石と戦争 (平凡社新書)/水川 隆夫


幕府支配、武家支配から国のありようを変えるというような大きなパワーが
明治維新を呼び込むことになりましたけれど、その頃の思想としては開明的であって、

理想的な社会を目指していたんではないかと想像するわけですが、
もしかするとそのあたりからして、明治以降に官が定めた教科書でもって歴史を学んだりすることの
刷り込み効果なのやもと穿ってみてしまいそうですね。


なにしろ実際はといえば戦争、戦争の連続であり、

国家統制が厳しく行われた時期でもあるのに、それがあんまり表立っては見えてこないような…。

遅まきながら欧米列強に伍して、一等国たらんとする思いに取り付かれてしまっていたんでしょうかね。


そのためには国民たるものの心構えも「滅私奉公」あるべきと、
国の舵取りに携わった人たちは考えたのでありましょうか。
例えば、初代文部大臣の森有礼はこんなことを言っています。

学政の目的も亦専ら国家の為と云ふことに帰せざるべからず。(中略)諸学校を通し、学政上に於ては、生徒其人の為にするに非ずして、国家の為にすることを始終記憶せざるべからず。

お国のため、お国のため…(三谷幸喜 さんの「笑の大学」じゃありませんが…)。
国民をかように考えていた側とすれば、国の向かうべき方向性もまた推して知るべし。


また、第一次大戦に臨んで元老の井上馨は大隈重信、山県有朋に宛てた手紙の中で、
こんなふうに言っているのですね。

今回欧州の大禍乱は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑にして、日本国はただちに挙国一致の団結をもって、この天佑を享受せざるべからず。

ヨーロッパの争乱は日本発展に利するのだから、一丸とならねばいけん!ということですね。
いやはやなんとも…。


では、国の舵取りに直接関わらない人たちはどんな思いであったことやら。
いわゆる「一般大衆」ということになりますと、

国が「これはこう」ということを信じて踊らされてしまったところがありますよね。


日露戦争に際しては、一戦一戦に何とか勝ちを収めながらも、
これ以上の戦争継続には国力が追いつかんという逼迫さを、

一般大衆には微塵も知らせることなく戦勝戦勝ばかりを報じていたわけですし。


だからこそ、政府にとっては本当はようやっとひと息つけることになったポーツマスの講和条約が、
屈辱的な内容だと暴動が起こったり、加えて三国干渉があったりしてものですから、
「列強のいいなりになるまいぞ。是が非でも天下の一等国に!」

という思いが染み込んでしまうことにもなったのではないかと。

吉村昭 さんの「ポーツマスの旗」を思い出しますね)


ところで、実際に国を動かす立場でもなく、いわゆる一般大衆とも言えないようなところの人たちは
どんなふうに考えていたのかというと、この辺の人たちはもしかするとそれぞれに一家言持っていて、
層としてのまとまりといったものはないにしても、一人の例として夏目漱石を見てみようというわけです。


ただ、以前に書いたシュリーマンのこと ではありませんけれど、
いわゆる「偉人」(偉人伝が出されたりするような人という意味ですが)は、
どうしても高潔であったり、清廉潔白であったりと考えがちなところがありますね。


実は非常に奇矯な振る舞いのある人物だったりすることがままあるわけですけれど、
ふと思い当たれば、まさに偉人伝なるもの(子供向けが最たるものですが)が実像を覆い隠しつつ、
成果物の立派さに見合う人物に仕立て上げてるあたりが、間違いの元やもしれません。


でもって、漱石が残した作品群は立派ながら変てこな人物でした…と言いたいのではなくして、
やっぱり一般大衆的な要素も残す普通の人でもあったのかなぁということなんですね。
それは気持ちや考えの揺れという部分においてです。


基本的には、先の森有礼の発言に相対するかのように、
教育というものを漱石はこう言っています。


固より国家の為めに人間を教育するといふ事は理屈上感心すべき議論にあらず。(中略)
理論上より言へば教育は只教育を受くる当人の為めにするのみにて其固有の才力を啓発し
其天賦の徳性を涵養するに過ぎず。

漱石と言えば「個人主義」という言葉がすぐに思い浮かぶように、
どうしたって国家主義とは相容れないものなわけですね。


ただ、根っこでそうは思っていても、やはり発展途上の明治の人なればこそ、
国家主義的喧伝に少々踊らされた言動もあったようで、

しかも後でそれに気付くと反省しきりになるという。

この辺りが、敷居の高い文豪のイメージからいささか庶民レベルに降りてくてくれてるところかと。


著作の方でも、朝鮮半島や中国の人たちに対する侮蔑的な表現が見られると

指摘されることもありますけれど、本書の著者は、

自他共に貶めた表現を使って余りに深刻ぶらずに諧謔的に語るという

漱石らしさの筆が滑った結果であろうとしていて、

それはそれで「なるほど」と思えたりもします。


まあ、戦争続きの時勢下にあって、

余りにストレートに「反対、反対!」とも書きにくいこともあったでしょう。


それだけに、著者が指摘するのは文学作品へのさりげない落とし込みといいますか、
元々思ってることが小説世界にもつい顔を出すといいましょうか、
漱石の思いを登場人物に仮託して語らせることが、ずいぶんとたくさん出てくるようです。


最終的には「則天去私」に至る漱石の思想は、この人も普通の人らしい揺れを経ながらも、
底流するところは一本筋が通っていたのではなかろうかと思えるのですね。


その最終的なところからは少々早い時期の作品ですけれど、

「三四郎」から本書に引かれた一部を最後に再掲してみるといたします。
熊本から上京する三四郎に、同じ汽車に乗り合わせた広田先生が語りかける部分です。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸切ったが、

三四郎の顔を見ると耳を傾けてゐる。
「日本より頭の中の方が広いでせう」と云った。

「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為めを思ったってひいきの引き倒しになる許りだ」
此言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出た様な心持ちがした。

まだまだどこまでが余震と言えるのか分からないくらいに、
日本のあちらこちらで地震が頻発しています。
それに原発が大変なことになっている。


被災地への支援の努力が続けられていますけれど必ずしも捗捗しく進まない一方、
計画停電の影響がさまざまなところに影を落としてもいるという。

そんな中で東京の西郊にいる者でも、いささかうろたえもすればへこみもするのでありますね。


さりながら、今でも大変な状況下にある被災地の方々は
食べるもの、飲むもの、暖を取るものが欠乏して挫けてしまいそうなところながら、
逞しく、とっても逞しく一日一日明日に向かっておられる。


それなのに遠隔地にいる者が、直接的ではない間接的な被害(精神的被害?)で

右往左往していては、その方々に対して失礼だなと思ったのですね。

被災地の方々に教えられるといってはなんですが、
誰もがいち早く明日に向かう日常に戻ることも必要かと。


日本中が意気消沈して希望を忘れてしまうことはもちろん、
「この状況で、明日に向かってだの、希望を云々などというのは不謹慎!」

みたいな風潮があるとしたら尚のこと宜しくないのではないかと。


今の時点で言えることではないかもしれませんけれど、
「気はもちよう」とは確かに言えることではありませんかね。

笑顔でいる、さばさばしていると装うだけでも、ほんとにそんな気分に近づくところもあります。


ですから、被災地の人に申し訳ないからと全国的に暗い顔をしているより、
暖かく見守ってという方が、物事は好転するやもしれません。


もちろん、あった事実に対して「そんなこと、あったの?」「それがどうしたの?」的な

メンタリティーのマヒ状態を奨励するものではありませんし、

日常に戻るといっても、資源やエネルギーを使い放題にしていた状況を省みなければと考えることは

忘れてはならないであることはもちろんとして。


最初に計画停電の話を聞いたときには

いささかなりとも節電に協力的な姿勢を示して更新を遠慮すべきかとも思ったわけですけれど、
これまた大仰な物言いを恐れずに言うならばですが、

ご覧いただいた方に「何かしらの興味の種」を蒔くことができたとすれば、

明日に向かうほんのささいな一助にもしていただけるのでは思い直したところでありますよ。

(ま、看板倒れ覚悟で言ってますが)


一日お休みした以外はなんだかだと結局書いているものの、

どうもどこかで誰かが書いているようなことばかり。

そのようなことは、何もここで発信するまでもないことだったのでありましょう。

どうせなら、弊店らしいことに自然体で取り組んでいこうかと。


ということで、誰しもにご賛同いただける考え方ではないやもしれませんが、
明日の午後12時1分を期して(なぜかいつもこの時間になってます)、
「chain reaction of curiosity」はいつもどおりの内容に完全復旧いたします!

さまざまなところでの、復旧が少しでも早く進むことを祈りつつ。