昨年、否、もう一昨年のことになりますね、少々長期にわたって臨時休業いたしましたのも。

そんな折り、たかだかコンビニの福引 でこまい品物が当たっただけでも

「やっぱりうれしいもんだなぁ…」といった感慨に耽ったわけであります。


そこ頃と同じ状況というわけではありませんけれど、

それでも現今の状況は周りじゅうが沈みがちなふうですので、

稀にいささかの幸運に出くわしたとすれば、「こんなことでもうれしいもんだね」と思ったり。


特に通販の品物待ちもないのに、ふいに宅配便でひとつパッケージが届きました。

その中身がこれであります。


スタンプラリーに応募して当たった景品


先に3回にわたって書いた「夏目漱石ゆかりの地巡り 」のきっかけとなった東京メトロのスタンプラリー、

全てのスタンプを押して応募はがきを送ったら、「当たり!」と。

写真では分かりにくいでしょうけれど、「当たりましたよ」という通知と、

東京メトロ特製ブックカバー、それに「吾輩は猫である」の文庫までおまけで。


こういうのって、どこかで誰かが当たってはいるのだろう…てな思いで、

もっぱら参加することに意義がある!的な気持ちで臨んでいますけれど、

当たることって、あるんですね。


東京メトロ特製ブックカバー


ちと拡大しますと、「東京メトロ」の刻印付きでもって、栞まで付いてましてねえ、

どうです、鉄っちゃん、鉄子さん方には垂涎の的たる代物ではなかろうかと!


ま、個人的にはモノそのものよりは、

当たったこと自体がささやかなるうれしさの元なのではありますが、

もしかすると、今年の運は使い果たしたかも…。


と、言いつつ「またの機会」がありそうに思えてしまって、あれこれに応募してしまうやも…。

「ったく、人間ってのは…」と吾輩くんに冷ややかなる視線を浴びせられそうですね。

でも、いささかの「欲」までも失うと、生きるエネルギーさえ失いかねないような気もします。

大地震以降、状況が状況だけにあれこれの「趣味的お楽しみは封印!」てな感じになってます。

これは、被災地の方々を思えばという気持ちや計画停電もあって節電に努めねばという意識もこれあり、

出かける側としても、また主催する側としてもというところでありましょうか。


ですから、演奏会の類いは軒並み延期か中止、美術館も閉まったままで、

多少芝居は続演されてる感じですかね。


そんな中で一昨日ですが、平日の昼間にあるコンサートが開演するというので、出かけてみました。

東京オペラシティの主催公演で、極力電力消費を抑えて開催するというのが、

果たしてどんなものであろうかとも思ったわけです。


ウィークデイ・ティータイム・コンサート12「サクソフォンとオーケストラのランデブー」@東京オペラシティコンサートホール


開演に先立って、あのダンシング・マエストロの井上道義 さんが挨拶をされましたが、

その中で「そう言えば」と思いましたのは、日本に数あるコンサート・ホールの中で

東京オペラシティのコンサート・ホール「タケミツ・メモリアル」は直接外光を入れられる稀有な作りなのですね。


開演前のホール内、ステージ上は灯りが点っているもののかなり薄暗く、客席用の照明は一切なし。

舞台に向かって正面上方の大きな二等辺三角形状の窓から差し込む外光だけが頼りです。

(普段の公演時はもちろん閉まっていて、そこが窓になってるとは思いもよらず…)

開演時にはステージの上だけは照度を増したものの、それでも普段よりは控え目だったのではないかと。


冒頭の挨拶に続いて、演奏者、聴衆が黙祷を捧げたのですけれど、

演奏中の客席より以上の沈黙がホール全体を支配するという、これまでにない経験をしたのでした。


このように始まった演奏会でありますが、

いざ曲が始まると、須川展也さんの相も変わらず澄み切ったサックスの音には

心を洗われる思いがし、このところの毎日の心の疲れを忘れられるひとときになったのは間違いなし。

(と言って、被災された方々と比べてどうだとかいうつもりは全くありませんけれど)


さりながら、終わって帰宅がてら、そして帰宅してからもですが、

結局、個人的な楽しみなんだよね…という気もしてきたりするわけです。


ちょっと前に物議を醸したプロ野球、セ・リーグのナイターの話。

これを聞いたときには「なんてこった?!」と思ったのですよ。

それこそ星野監督ではありませんが、「空気、読めよ!」と。


でも、一方で音楽好きの人なら、どんな形であっても演奏会が開催されるなら、

それにに浸れる一瞬が生気を甦らせることになるかもしれないのと同じように、

野球好きの人であれば、選手たちのプロらしいプレーが展開する場に身をおくことで

明日の活力を得られるのかもしれないですよね。


ただ、ちょっと違うのは「開催の仕方にどれだけ配慮し、工夫するか」という点かもしれません。

今回の演奏会での配慮というものが、必要にして充分なものであったかは一概には言えない。

それでも、あたかも何事もなかったかのようにいつも通りに開催したわけでもない。


これに比べて、プロ野球のナイターはボールがはっきり見えるだけの照度を確保しなくてはならないだけに、

この点では手加減のしようがないですよね。

さすれば、違った形で配慮なり、工夫するようなことが望まれるのではないかと。


…とまあ、両者の違いを見出して納得しようと思っているものの、

いったい何が良くって何が良くないのか、どこまでやるのなら良くって、どこまでやると良くないのか…

そうそう簡単には行かないようです。


現実的に都心は埒外であるものの計画停電は続いているのですから、

それこそ都心部も含めた節電は、計画停電の予定されるグループの中でいくらかでも

停電見送りにするだけの効果に繋がる可能性がありますよね。


そこのところを忘れてしまって良いとは思われませんし、

かといって計画停電が続く限り「お楽しみは封印」では息が詰まってしまう。

また、何が良くて何が悪いといっても、お楽しみの何たるかは人それぞれですから、

これまた簡単に仕切れるものでもない。


演奏会が終わってからちょっと時間をおけば、少しは整理がつくかなと思ってみたのですが、

結局は自分の嗜好寄りの贔屓してる感をぬぐい切れず、なかなかに難しいなぁと…。

この間は夏目漱石の戦争に関わる考え などに触れてみたわけですけれど、
漱石と同じく雑司ヶ谷霊園 に眠る文士のひとり、永井荷風(1879-1959)にも触れてみようかと。


ちょうど先日最終回になりましたけれど、

この1月から3月にかけて「永井荷風再考」という12回シリーズがNHKラジオで放送されていて、

そのちょっと前の回で荷風の戦争に対する思いを扱った回があったものですから。


NHKカルチャーラジオ 文学の世界 永井荷風再考 (NHKシリーズ)


もっとも永井荷風といいますと、どうしても「花柳小説」といった印象しかなく、
ストイックに考えてしまうと「触れてはいけない禁断の果実」的なものに思えてしまうところから、
一度としてその作品を手にしたことはありませんので語る土壌がありませんけれど、
今回の「荷風再考」によってずいぶんとイメージも変わったということで…。


作品は読んだことがなくとも、荷風が長らく「断腸亭日乗」なる日記を綴っていたことくらいは
辛うじて知っていたところですが、その中にこのような一節が出てくるという。
世は徐々に太平洋戦争開戦へと向かっていく中でありました。

世の噂によれば日本は独逸伊太利両国と盟約を結びしと云ふ。
憂国者は常に云えり。世界無類の日本精神なるものあり。外国の真似をするに及ばずと。
然るに自ら辞を低くし腰を屈して侵略不仁の国と盟約をなす。国家の恥辱之より大なるは無し。

日独伊三国同盟の締結(1940年)にあたってのひと言で、
独伊を「侵略不仁の国」と切り捨て、これとの盟約は「国家の恥辱」と言い切っています。


ただ「世界無類の日本精神」とはずいぶんと国家主義的な印象を免れませんけれど、
日本そのものに対しても厳しい筆は止むところがありません。

余は斯くの如き傲慢無礼なる民族が武力を以て隣国に寇することを痛嘆して措かざるなり。
米国よ。速に起つてこの狂暴なる民族に改悛の機会を与えしめよ。

「傲慢無礼なる民族が武力を以て隣国を寇する」、これが日本のことを言っているのみならず、
当時仮想敵国筆頭とも言える米国に向かって

「この狂暴なる民族に改悛の機会を与えしめよ」と言う苛烈さに、
これが永井荷風という人だったかと思った次第でありますよ。


先に言いましたように荷風と聞きますと、

硬軟どちらかといえば軟であろうと思い込んでいたものですから、
このあたりの骨太発言から荷風の硬に些か面食らったというわけです。


となればというもの変ですが、先入観はこの際措いといて、

荷風の小説作品を手にしてみるかと代表作のひとつと思しき「腕くらべ」を読んでみることにしたのですね。


腕くらべ 新版 (岩波文庫 緑 41-2)/永井 荷風


でもって、どうであったかということなんですが、うむむ…。
「荷風再考」の中に「腕くらべ」にまつわる逸話としてこのような紹介があります。

歌舞伎や花柳界の営業を禁止した政府が「出征軍の兵士」の慰安用に「腕くらべ」を贈ることに決めたと知らされて、(荷風は)「何等の滑稽ぞや」と呆れたり…

出征兵士の慰安用とは体のいいポルノグラフィー代わりと時の政府は考えたのかもですが、
どうも個人的な読み込みとしては、それを笑えない程度に浅いものだったかと思うところです。

「荷風再考」での評価はこんなふうです。

「腕くらべ」がただの「花柳小説」を越えて実現した特異なところは、新橋の内側が俗悪蕪雑な外の社会に脅かされ浸食されている現状を、明瞭に視野に収めていることです。

荷風が小説に込めたものは、一見男女の交情を描くことに終始するかに見えて、
実は文明批判、文明風刺であったというのですが、
初心な青少年でもないわりに男女の交情の方に幻惑されてしまったということころでしょうか。
恥ずかしながら…。


まあ、機会を改めて別の作品にも挑んでみるとして、
とりあえずは永井荷風なる作家の硬軟とりまぜた像に触れることはできたかなと思いますので、
最後に軟の部分、男女の交情ではありませんが、

情景描写の妙なる味わいを引いて閉めるといたしましょう。

演芸会は三日間大入を取って目出度く千秋楽になったその翌日の事である。
新橋の芸者町は年が年中朝早くから家ごとに聞え出す稽古三味線の音今日ばかりはぱったり途絶えて、稽古に通う女の往来もわけて少ない処から、金春通を始め、仲通板新道から向側の信楽新道まで祭のあとの町内も同様何やらひっそりと疲れたように見えた。そして時たま忙しそうに歩き廻る箱丁(はこや)の姿と顔の売れた老妓の三、四人連れ立ッて往来するのが余所目には興行の後片付というよりは新に何かまた揉事苦情の起った知らせのように若い芸者たちの目を聳たせるのであった。
(永井荷風「腕くらべ」より)

ほんのちょっとしたきっかけですけれど、思い出のふた が開いてしまいますと、
如何ともしがたいことに思い出したくないことまで浮かんでしまったりするという。


さりながら自分で「忘れよう、忘れよう」とすると忘れられることってあるんでしょうかね。
「忘れよう」という意志を働かすと逆効果のような気もしますから、

「思い出すまい、思い出すまい」でしょうか。
あ、おんなじですね。


とまれ、どうも変なふうに封印しようとすると、その意識が高い分、
確かに一時的封印はしっかりなされても、折に触れて甦ってしまったりするかもですねえ。


ですから「そんな過去は忘れた」という言葉が本当だとした場合に、
実は覚えているけど「封印した」ということなのか、

本当に覚えてないほど実は印象深いものではなかったのか、
どちらかであるような気がしたりするんですが、

そんなことをほじってしまうと面白くなくなってしまうのかも
しれないですね、映画「キッド」に関していえば。


キッド 特別版 [DVD]/ブルース・ウィリス,スペンサー・ブレスリン,エミリー・モーティマー


あの手この手で苦境に立つ顧客のイメージアップを図る

イメージ・コンサルタントとして大忙しのラス(ブルース・ウィリス )。
ロサンゼルス 郊外の高台に邸宅を構え、高級スーツを着てポルシェを乗り回して…と

いわゆる成功者らしき様子。


他人のイメージ作りに手を貸すことはあっても

自分がアドバイスを求める立場になろうとはいささかも思っていなかったラスですが、
心療内科に駆け込んで「とにかく強い薬を出してくれ」と求めるのですね。


自宅に知らない子供が出没し、

逃げるのを追いかけて飛行場脇のダイナーにたどり着いたつくもそこには見当たらず、
いざその店から外に出てみると、子供はおろかそのダイナーごと消えていた、

つまりは幻覚を見ていると訴えるわけです。


やがてまた現れた子供をとっつかまえて質しているうちに、

名前がラスティーと分かり、何とその子供が32年前の自分だと気付くのですね。


もっとも子供の方も幻覚というにははっきりしすぎるほどの実体を備えておりまして、
ラスが自分の32年後の姿と知って仰天するという。


気を取り直したラスティーは、

将来の自分は「犬を飼っているはず」「パイロットになっているはず」とあれこれラスに質問しますが、

ことごとく自分の夢は叶っていない。
その上、独り身とあっては「女の子にももてない」と嘆く始末。


一方、大人の側のラスとすれば、
自分がラスティーの頃に弱虫で苛められっ子だった過去を帳消しにすべく、
その後猛勉強を重ね、ビジネスでも頑張ってきたからこそ今があると思っているのでして、
ラスにとっては封印した過去の実物を目の前に持ってこられた恰好なわけです。
これは「痛い」ですね。


ただ、過去を帳消しにする中では親兄弟とも絶縁状態、

周囲ともおよそ関わりを持つこともなく一人の世界を本人としては楽しんでいる、

周りから見れば「嫌なやつ」になっているものの、
ラス本人は気付いていない…のか、気付かぬふりをしているのか。


自分はそれで全く構わないと思っていることが、ラスティーにはいちいち気に入らない。
そりゃ、自分の将来ですからね。


仕立てとしてはラスティーがタイムスリップ してきたとか、

そういういささか科学的な説明を一切考えないでいいファンタジーでして、
いかにもファンタジーらしく?いつしかラス自身もこのままでいいのかな…と思い始めるわけです。


大人になったラス(40歳目前の設定です)であってもその後の人生はまだあるのでして、
先を見通すときにふと「このままでいいのかな」と考え直すために足を止める。


映画の中では、その役割として昔の自分が突如現れてきっかけを作るわけですが、
映画を見る側としたら、この映画そのものが同じようなきっかけになるかもしれませんね。


映画「ザ・タウン」 で見たような取り巻く環境故の進路変更の難しさではないにしても、
ある程度人生を過ごしてきますと、自分で「変化」の難しさを先読みしてしまうところがないでしょうか。

ではありますが、改めて子供の頃の夢を追ってみてもいいのかな…
そんな気にもなってくる映画「キッド」でありました。

本当にいいたいことは、見出しに込める

新聞活用教育のベテラン先生が生徒たちに伝授した新聞作りの極意のひとつのようであります。


まあ、見出しの役割はそれだけではないでしょうけれど、
記事を読ませるためのツカミとしても、また記事を読まなくても言いたいことを伝えるためにも、
見出しに言いたいことが詰まってると考えて無理はないことでありましょうね。


ちょっと前に記者会見でのとんでもぶりに呆れ返ったこと を書きました。
最近はあんまりその手のTVも見ていないので、その後どうなっているのか、
相変わらずなのかは与り知らぬところとなっておりますけれど、
記者の取材の賜物である新聞記事の見出しを見ていて、ふと思ったことがあったものですから。


今朝の新聞を一面めくって、二面の一番左上、つまりは二面トップの見出しが
「安全、危険、どっちなんだ」というものでありました。


『』付きで表示されていますから、

巷で拾った誰かしら、いわば庶民の声を拾ったものをそのまま見出しに持ってきたのでありましょう。


ただ、冒頭の引いた新聞作りの極意によれば、「本当にいいたいことは見出しに込める」でありますから、
この新聞社の言いたいこと、これ即ち「安全、危険、どっちなんだ」ということになりましょうか。

さすれば、この見出しは先に呆れ返った記者の質問と全く違わないものですよね。


大地震の影響は、地震そのもの、津波、原発、放射性物質と
次から次へと新たな不安要素が出てきて留まるところを知らぬかのようですから、
これを心配に思う庶民の声があることを記事の中で紹介することはありましょう。


一方で極めて冷静に受け止める人々もおり、
また不安に思いつつも大騒ぎを控えて気丈に毎日を送っているわけですよね。

そうした中で、大新聞が「安全、危険、どっちなんだ」と掲げる影響を考えても見ないのですかね。


確かに政府にしても東電にしても相変わらず情報の出し方が適切ではないところはありますけれど、
刻々と状況に変化がある中で、情報の不適切性を糾弾することよりも、

いくらかでも適切だと皆が思うような情報を引き出すとか紹介するとかするのが本当の役割なんじゃないかなと。


「ただちに健康に影響するものではない」
こうした政府の言い方に些か釈然としないものがあるにしても、
「安全、危険、どっちなんだ」と迫ってどうしようというんでしょう。


「ただちに健康に影響するものではない。ですから、一時的なら水道水を飲んでも大丈夫です」
ここではっきりしないのは「ただちに」とか「一時的」とかいう部分が明確でないから釈然としないわけで、
その明確でない部分をそのままにして、「安全か危険か」はナンセンスな問いではないかと。


素人考え、それはある意味庶民の考えのひとつとも言えるのではないかと思いますが、例えば

「金町浄水場が供給する水道水を一日あたり○リットル飲むことを、

○日間続けると○○という症状が現れる可能性があります」
といった解説がなされれば、まだ分かりやすい。
一口飲むくらいでは何の問題もないと想像できるわけです。


細かく言い出せば、体格の違いとか年齢とか勘案すべき要素はまだまだたくさんあるにしても、
「ただちに」と言われたって「すぐには大丈夫がいつまで大丈夫なのよ?」と思うこととか、
「一時的に」と言ったって、「一時的に摂取する量はまちまちでないの」と思うこととかに、
いくらかでも判断材料を与えてやれるのではないですかね。


こうした、皆がほんの少しでも安心できる情報を探しもしないで、新聞が庶民と一緒になって
「どっちなんだ」を大見出しにしては煽っているようにしか見えません。