東北地方太平洋沖地震の影響によって生じた福島第一原子力発電所の事故。

事態の収束が見通しえない中で、原発に関する話があちこちで喧しい状況でありますね。


どうももやもやするので、一度は原発に関して思うところを吐き出そうと考えていたものの、

うまいことまとまった話にできるのかということと、何だか「後だしじゃんけん」っぽい気がしていたわけです。

元々、前から原発推進反対だったし…。


というより、前から反対と明確な意思表示をしていたわけではありませんし、

具体的な行動を起こしたこともないので、「胡散臭く思っていた」くらいにしか言えないですけれど。


かつて、アメリカの国家予算の何割だかが軍事費に充てられるので、

その何割か分の税金を払いませんとジョーン・バエズが言った(行動した)ようですが、

例えば、東電管内の発電の何割かが原発によるものだとすれば、

個人的には原発に反対ですので、平均的な世帯に比較してその何割分かの電力は使いません!

というようなやり方もあったかも知れません。


直接原発による電力を忌避しているのかどうか、

そして結局は電力を使ってる点で多分に自己満足的ではありますけれど、

まあひとつの意思表示かなと。

つまり反対するなら、使わない姿勢がないとまずいでしょうから。


その昔、1945年3月10日に東京は真っ暗になったわけですよね。

東京大空襲と呼ばれるこの日だけ空襲されたわけではありませんし、

その後の火災の状況からすれば暗くなったのはもっと後ですので、ここでは象徴的に言ってますが。


そこからの復興は、ひとつの指標として「明るく」ってのがあったんじゃないかなと。

物理的に灯りが点ることと同時に、またそれによって人の心にも明るさが増すと。

実際、真っ暗の中に灯りが点るとホッとするところもありますし。


そればかりが理由ではないにしても、敗戦後の復興は「より明るく」の拡大だったような。

ぽつりぽつりと灯りが増えていき、繁華街にネオンが点れば「おお、戦後は終わった」と。

それでも、高度成長の右肩上がりはどんどん明るさを増殖させて、

「より明るい」が国の経済指標でもあり、個々の家では豊かさの象徴にもなっていったのでは。


それがとめどなく進む中では、いつしか「むやみに明るい」「無駄に明るい」状況にまでなっていた。

このたびの供給電力不足で節電が呼び掛けられ、

実際に街中で多くの灯りがかなり減じられてみると「これで充分だぁね」と思うことが少なくないわけです。


こうした流れを振り返るときに、

今回の大地震、原発事故の結果生じたことからの復興は、

大地震の起こる前(つまりは原発事故も起こる前)の状態に、

そっくりそのまま全く何事もなかったように戻すってことになると考えるのはむしろ不自然なのではないかと。


電気の便利をたっぷり享受している中で、「今さら昔に戻れない」という考えもあるようですけれど、

何もかも昔に戻す必要はないですが、かといって震災一日前の状態が良いのでしょうかね。


そうはいうけど、代替エネルギーがそうあるわけではないし、

火力発電ばんばんでは化石燃料の枯渇や温室効果ガスも山ほど出るでないのと。

これはこれでその通り。


でも、それだから原発に頼っていいんでしょうかね。

今回の事故で原発の安全性が崩れたとかいう反面、もっと耐震補強すればいいとかあるでしょうけど、

それだけの話でないんではないかと。


早い話が、核廃棄物の話が出ないけど、いいんですかね。

地中に埋めるってことらしいですが、今回の地震も想定外の大きさだったわけで、

自然エネルギーはどんなことを起こすのか、人間の想像を超えていますよね。


二酸化炭素を排出しないことが歌い文句の原発は、

そんなものが自然界にあってはいけない核廃棄物を生み出しているのでは。


かつて日本も公害と言われる災禍にあちこちが見舞われましたよね。

それが技術の進歩のおかげなのか、排水も排煙もその頃よりずっと改善されたはずです。

そんな中でクサイものに蓋状態を核廃棄物が一身に背負ってるのかなと。


ようは日本のあり方の転換、個々のレベルで言えばライフスタイルの転換を考えるなれば、

もちろん一朝一夕の話ではないロング・スパンの問題だろうと。


でも、計画的な見通しをもって、徐々に脱原発を図るような想定なしに、

今後も原発に頼る、核廃棄物を作り続けるとするなら、

日本だけの話じゃないですが、地球環境がどうの、エコがどうのと「何言ってんのかなぁ」てなことかと。


どうにも、やっぱりだらだらしただけでまとまりはないようですが、

少しもやもやを吐き出せていただいた感はあるものの、

これはこれで、ひとりごとの「垂れ流し」やもしれません…。

ちょっと前に探究しましたオーブリー・ビアズリー には、

彼が画家になるための背中を押した人物がいたわけですけれど、
やっぱりその人物の方にも目を向けてみようと思ったのでありました。
その人物がサー・エドワード・バーン=ジョーンズ(1833-1898)でありまして、早速いささかの探究を。


バーン=ジョーンズの芸術/ビル ウォーターズ


どうも見た目で受ける印象から「ラファエル前派 」と思ってしまうところなのですけれど、
バーン=ジョーンズは世代的にもラファエル前派の第2世代なのですね。


ウィリアム・ホルマン・ハントに魅せられ、

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ の弟分的存在である一方、
ジョージ・フレデリック・ワッツ にも直接の手ほどきを受けたとなれば、やっぱり!と思うわけです。


さりながら、バーン=ジョーンズを「ラファエル前派」と一緒にするのはどうも適切ではなさそうな。

「バーン=ジョーンズの芸術」の著者によりますと、こんなふうになります。

歴史の偶然でバーン=ジョーンズはラファエル前派に位置づけられることになった。だが実際には彼の狙いは非常に異なるものだった。グループのなかで最もラファエル前派らしくなかったロセッティの弟子として、彼がその派の制約に順応するのはありえないことだった。自然の多様性をそのように性格に観察することは、初期でさえ、彼は魅力だとは思わなかった。

ここでちょっと理解の助けとして、

wikipediaから「ラファエル前派」の特色の一部を引用してみるとしますね。

ラファエル前派に思想的な面で影響を与えたのは、同時代の思想家であり美術批評家であったジョン・ラスキンであった。ラスキンの美術に対する考えは、一言で言えば「自然をありのままに再現すべきだ」ということであった。この思想の根幹には、神の創造物である自然に完全さを見出すというラスキンの信仰がある。

では、どのような潮流の中にあったのかといいますと、
アーツ&クラフツ運動の真っ只中にいたというべきだそうで。


なんでも、この運動の主唱者たるウィリアム・モリス とは

オックスフォード 大学の入学試験で席が隣同士になって以来、
生涯にわたる友人であったと聞けば、なるほど!と。


ですから、モリス商会に関わるクリエイターは多々いたものの、
基本的にチーフ・デザイナーの位置にいたのはバーン=ジョーンズなのだそうですね。


個人的には絵画作品を見るところからバーン=ジョーンズを知ることになりましたので
思いも寄らなかったのですけれど、バーン=ジョーンズが手がけたものは、

タペストリーの下絵やタイルのデザイン、装飾挿絵本の制作などなど。


そして中でもバーン=ジョーンズの下絵によるステンド・グラス作品は

あちらこちらの教会で邸宅に残されてるいるというのですね。

そういえば、昨夏訪れたパサディナの「The Huntington 」でも、
「いかにも」と思えたバーン=ジョーンズのステンド・グラスにお目にかかりましたっけ。


というところで、バーン=ジョーンズの作品を見てみることにしますが、

まずは代表作の一つとされる油彩画「コフェチュア王と乞食の娘」(1884年)です。


エドワード・バーン=ジョーンズ「コフェチュア王と乞食の娘」

ロンドンのテイト・ブリテンでこの絵に出くわしたときには、

中段でこちら(見る者の側)に視線を向けている女性の目に恐れ慄いたものです。


ついつい目を向けてしまうのですが、なにせ怖がりだものですから、「見られてる…」と。

絵から離れて違う絵に向かうときにも、またつい振り返ると「やっぱり見られてる」。

怖いんだけど、振り返ってしまう作品でありました。


ですが、この女性の目をついつい見てしまうのは、

下段で見上げるコフェチュア王の視線に釣られてしまうという面があるわけですね。


そして、この見上げる感じから生ずる遠近法をマンテーニャ から得たものだと言います。

そうしたことを知ってから見たかったものだなと思ってしまいますねえ。


お次は、英国ハートフォードシャー、ウォーターフォードの

セント・マイケル・アンド・エンジェルス教会にあるステンドグラス作品「ミリアム」(1872年)です。


エドワード・バーン=ジョーンズ「ミリアム」


アール・ヌーヴォー の先触れとも目されるバーン=ジョーンズだけに、

ステンドグラスとポスターの違いこそあれ、アルフォンス・ミュシャ を思い出してしまいますねえ。

バーン=ジョーンズのステンドグラス作品の中には複製されて出回ることで、

ミュシャらにも影響を与えたらしいことが「バーン=ジョーンズの芸術」にも紹介されてますし。


同書の図版を通じてあれこれの作品に触れてみますと、

あちこちに散らばって存在しているステンドグラス作品に惹かれるところがありまして、

それらを訪ね歩く旅というのも興味深かろうなあと思うのでありました。

どうやら、野原しんのすけ君は何の故かは知る由も無く

ふたば幼稚園を出ると里子に出されてカスカベを離れ、

どこかしら都会の郊外にある新興住宅地に里親共々暮らしているらしい。
妹がいるのだが、それがひまわりなのかどうかは定かでない。


ひろし、みさえのその後も気になるところながら、里親の、特に父親の影響であろう、
ずいぶんとしんちゃんは大人びた小学4年生になっている。
幼稚園の頃にも充分に大人びていたとは言えないこともないが、少々意味合いが違うようだ。


父親の職業までは詳らかでないものの、
郊外の住宅地からバスと電車を乗り継いで都会の会社に通っており、

時にはフランスへ出張したりする。
休みの日には近くにキャンパスを構えた大学の公開講座に出かけたり、

行きつけのカフェで思索に耽ったり。


どうもひろしとはずいぶん違う様子だが、こうした父親の影響もあり、
しんちゃんは探究心が旺盛で、あらゆる物事の大元を突き詰めたいと考え、
日々探検と研究を重ねる少年になっていた。


幼い頃の僅かな記憶なのか、「お姉さん」に惹かれる点だけは変わっていない。
もっとも「おねいさん」と呼ばずに「お姉さん」と呼ぶという成長は確実に示しているが。


カスカベを離れても、たくさんではないものの仲の良い友だちに囲まれているようだ。
マサオくんとボーちゃんを足して二で割ったようなウチダ君。
ねねちゃんとは違うしっかりさを持ったハマモトさん。
カザマ君が悪魔に唆された姿を映したようなスズキ君帝国皇帝のスズキ君。
そして、虫歯の治療に通っている歯科医院の「お姉さん」。


ここではしんちゃんはしんちゃんと呼ばれることはなく、

里親の姓であろうか、「アオヤマ君」と呼ばれる。
「お姉さん」だけは「少年!」と呼びかけるのだけれど。


この穏やかな郊外の住宅地にも、探究の糸口はたくさんあり、
アオヤマ君は時に一人で、時にウチダ君と一緒になって取り組むさまざま研究対象を持っている。


例えば、町を流れる小川がいったいどこへ流れていき、またいったいどこから流れてくるのか。
彼らが「世界の果て」かもしれないと考える源流を目指す探検は「プロジェクト・アマゾン」と呼ばれる。


もちろん、歯科医院の「お姉さん」の謎?!に迫るのも、大事な研究課題のひとつだ。
ただし、これはアオヤマ君ひとりで取り組んでいるのだが。


こうしたいくつかの研究課題を抱えて忙しい日々を送っていたある日、
海からずいぶんと奥まっているらしいこの町に突然ペンギンの大群が出現した。


大いに探究心をくすぐられたアオヤマ君は謎の解明に乗り出す。
やがてウチダ君ともハマモトさんとも協力しあい、
時にはスズキ君が周辺をちょろちょろする中で、
「この謎は自分たちが解明する」とカスカベ防衛隊もかくやの探検を続けるのであった。


…というふうに、唐突に「クレヨンしんちゃん」まがいの話を書き始めましたけれど、
これは森見登美彦さんの小説「ペンギン・ハイウェイ」を読み終えて、

ふと思ったことを記してみたという次第。


ペンギン・ハイウェイ/森見 登美彦


森見さんの小説が「クレヨンしんちゃん」 にインスパイアされたものである

というつもりは毛頭ありませんけれど、このような想像が働いてしまったものですから。


小説のこの後にあまり触れてしまうと、いわゆる「ネタばれ」になってしまいますが、
この先の展開は、むしろますむらひろし さんの「コスモス楽園記」 に繋がるところを感じてしまうのですね。


立ち入ってはいけないとされる森を抜けた草原で、アオヤマ君たちが見つけたもの。
これは光介が硫黄谷の奥で見つけることになるスネールを思い出してしまうのでして。


さも科学的な探究を行うアオヤマ君たちの結論には、
SFレベルの科学的「なるほど」感はありませんから、
やっぱりこの話はファンタジーなのだなぁと思うわけです。


ただ、国文学者の田中貴子さんが書評に
「ペンギン・ハイウェイ。それは、少年が大人になる道なのだ」と書いてましたけれど、
困難に直面して何とか対処していくことによって成長する少年たちの姿を描いた、
大げさにいえば「ビルドゥングス・ロマン 」でもあろうかと思うのでありました。

岩手県宮古市の映画館が「ドラえもん」を上映した…というニュースを見たのですね。


集まることのできた人々も決して災害にあっていないわけではないでしょうけれど、
そして子供たちも子供たちなりに不安を抱える毎日だったでしょうけれど、
「ドラえもん」を見て、束の間なりとも笑顔が甦った子供たち。
それを見守る大人にも、やはり笑顔が…。


やっぱり人間には、こうした部分が必要ですなのでしょうね。
だからこのことを免罪符(?)にして…というわけではありませんけれど、
映画を見に行ってみたのであります。
もちろん「ドラえもん」!では無くって、見たのは「英国王のスピーチ」でありました。



映画「英国王のスピーチ」フライヤー


人は戸惑う場面や逆境などに際して、
語りかけらることで勇気や元気、勢いをもらうといったことがあるんではないですかね。


どういった語りかけかが適切かは場面場面で異なるでありましょうけれど、
優しく励ます、鼓舞する、檄を飛ばす…いろいろでありましょう。
使い方を間違うと、あるいは語りかける側がどういう人かによってもですが、
逆効果だったりすることも考えられますが…。


英国民は、穏やかならぬ雰囲気に包まれていたわけです。
国王ジョージ5世が亡くなって跡継ぎとなったエドワード8世が1年足らずで退位をしてしまった。
1936年という、欧州を取り巻く情勢が極めて不穏な方向に傾いていった時期に。


懐柔政策によって、欧州に戦火が立ち上ることを避けんと努めた英国政府は

ヒトラー に弄ばれた挙句、1939年にはナチス・ドイツポーランド に侵攻、

英国 はこれに宣戦を布告することになるという。


このとき、人々は言葉を待っていたでありましょうね。
兄である先王の跡を受けた英国王ジョージ6世の言葉をであります。


君臨すれども 統治せず」と言われたとしても、

それ相応の存在感、信頼感があったでしょうし、
先行きの見通せない状況の下で国王の語りかける言葉は、

人々にひと筋の未来へ続く道を示すことになるでしょうから。


こうしたときにマイクロフォンに向かうとしたら、その緊張度合いは並大抵ではないでしょうね。
一般人と違って国王はそういうのがお仕事ですから「問題なし」かもですけれど、
ジョージ6世は違っていたんですね。子供の頃からの吃音を抱えていたとあっては。


元々兄が皇太子としているわけで、吃音を抱えたヨーク公アルバート(コリン・ファース)は
自分が国王になるなどゆめゆめ考えたこともなかったのではと思います。


王族となればさまざまなセレモニーに国王や皇太子の名代で出席し、
スピーチしなくてはならない場面もあったでしょうけれど、
吃音故に滑らかには行かない「お言葉」も本人にとっては耐え難い恥辱ながら、
結果的には皇太子が別にいる安心感もあったやもしれません。


そうは言っても直せるものなら直してやりたいと考えたのは

奥様(ヘレン・ボナム・カーター)でありまして、
数々の療法を夫に試みさせてはうまく行かないことの繰り返し。

いよいよ訪ねた先は「ドクター」の看板すら出していない

場末の言語聴覚士(ジェフリー・ラッシュ)の元でありました。


この言語聴覚士ローグこそが、その後ヨーク公がジョージ6世となっても常に

演説の場を支え続けた陰の立役者だそうなのだとか。


ここで気付くのは、そのローグ(Logue)という名前ですね。

元々、古代ギリシア 語のLogosに由来して「言語」の意味も持つ言葉ですし、
分かりやすく言ってしまえば、モノローグ、ダイアローグ、プロローグ、

エピローグといった語の接尾辞になる「ローグ」。

国王お抱えのスピーチ・マネジャーとしては出来過ぎの名前ではないかと。


さらに、といって映画の話はどこから脚色かは分かりませんけれど、
ヨーク公とローグの間に繰り返される反目と和解の中で、
ローグがヨーク公に対して「貴方はいい王様になれるのに」、

ヨーク公が応えて「そのつもりはない!」という場面があります。


実はローグは昔から役者志望で、かなり年配となってもオーディションに応募していたらしく、
会場に出かけていって
シェイクスピア の台詞を語り始めるんですが、
これが
「リチャード三世」 冒頭の独白部分なんですね。


ヨーク公は自ら王になる野心(?)はこれっぽっちも無かったと想像しますけれど、
ローグの側からすれば、最初からとは言わず途中からでも、

ヨーク公を王にするキング・メーカーたる自分を思ったかもです。


いかなエピソードの挿入とはいえ、

「リチャード三世」を持ってこられてはそんな穿った見方もしてしまうおうもので。


もう一つは、ローグとともに戴冠式を何とか乗り切ったジョージ6世ですが、
その様子を写したニュース・フィルムの試写ののち、

うっかりそのままナチスの映像が映されてしまうところがあります。


一糸乱れぬ(それだけにある種気持悪い)行進に続き、

ヒトラーがこぶしを振り上げて演説している姿が。


それを見たときに「何を言っているかはわからないが、演説はうまい」と漏らしたひと言。

ジョージ6世にとって、人前でのスピーチは自分にとっての恥辱の場でしかなかったものが、
人への影響力があることに改めて気付いた瞬間ではなかったかと。


だからこそ、ジョージ6世は対独開戦の演説に全身全霊を傾けて臨んだように思えるのですね。
そうすることによって、不安に沈んだ人々を励まし勢い付けることになると知ったのですから。


…と、ヒトラーで思い出しましたけれど、
何となく以上に「わが教え子、ヒトラー」 と似ている話だなぁとも。


てなことはともかく、今や必ずしもカリスマ的な演説に頼るでなく、
身近な声の掛け合いによって困難を克服できることが

現在あちこちで進行中なのだろうなぁと思ったりもするのでありました。

ここでタイトルに書いた「ものをいう」というのは、

「喋る」んでなくして「効くぅ!」ということなんですね。

音楽を聴くことも心の糧となりますけれど、絵を見ることもまたしかり。

久しぶりにそうした思いをたっぷりと抱いたものですから。


軒並み中止か延期の最中に開催された演奏会 で訪れた東京オペラシティ。

ついでにアートギャラリーを覗いてみましたら、

少々時間が短縮されているものの開館していましたので、しっかり見てきたのでありますよ。

美術館の方もまた、軒並み休館ばかりですから…。


内容としてはいつも通りに、企画展とコレクション展示の常設コーナー、

そして若手作家の紹介コーナーと三点そろい踏みでありました。


まずは、階上のコレクション展示に足を踏み入れてみますと、

「ゆきつきはな」と題して現代日本画作家の作品が並んでいたのですね。


冬から春への選手交代 がどうもスムーズにいってない今シーズンながら、

四季のはっきりした日本の花鳥風月を愛でるのは、実に心に沁むものがありますね。


東京オペラシティアートギャラリー収蔵品展「ゆきつきはな」リーフレット


リーフレットには、実に特徴ある山容の浅間山の雪景色。

八曲一隻の大画面は、荒々しい自然を活写して迫るものがあります。


この「月下浅間」の作者並木功さんの作品では、

同じ展示室内にあった「北信濃」に見る木肌の描き込みがとても情感を醸すものに見えました。


また、白井進さんの「雪降る」は、いかにも日本の山らしい杉木立と思しき斜面に

粉雪の舞い散るさまが全面にわたって描かれているですけれど、

上部左側に山の稜線が見え、僅かばかりの空を覗かせていることに気がつかなければ、

風景画ではなく抽象画と思えるほど、見る者の集中力を引き寄せる二重丸作品でありました。


一方、展示室が変わると春に近づいた面持ち。

ついつい気分もふわふわとしかかるわけなのでして、

それにぴったりなのが、重岡良子さん作「春萌野」でしょうか。


早春の木立では、地面にはまだ雪が残り、せせらぎの水はいかにも冷たそうです。

が、いったん振り仰いでみれば、木々には確かに花芽が宿り、

やがて大きく花開く時を待っているかのよう。


そのもうひと息の瞬間を描いて、

まるでキャンディボックスをひっくり返したようなパステルカラーの点々が
森を覆い尽くしているのですね。

いやが上にも春待ち気分にさせられる、というより気分だけは先にすっかり春めいて…という感じ。

ひと目見るだけで、晴れやかな心持ちさせてくれるのですから、まさに「効くぅ!」ではありませんか。



東京オペラシティアートギャラリーproject N「吉田夏奈」リーフレット


新人作家紹介のコーナーには、吉田夏奈 さんの超大作が。

リーフレットにある峨々たる岩山はほんの一部でありまして、全長40mにも及ぶ山岳風景は、

中央アルプスの宝剣岳や千畳敷カールなどを思い出させるものでありました。

これをパステルやら色鉛筆やらで描いているのですよねえ。

そして、このコーナーまで来ると、気分は一気に夏山ってところです。


という具合に、久しぶりに絵を見てたっぷりと刺激が得られたわけです。

おっと企画展をお留守にしてしまいましたが、曽根裕さんの「Perfect Moment」という展覧会でして、

個人的には大理石による彫刻作品「リトル・マンハッタン」に目が釘付けでした。


そもそもマンハッタンは岩盤の島と聞いたことがありますけれど、

それをそのまんま地球から切り取ったような作品。

ただ、見ようによっては「マンハッタンそのものが空母に見える」ところから、

アメリカを代表する都市ニューヨーク 、その中心であるマンハッタン島が空母に似ている…

非常に示唆的であるなぁと思ったりもしたのでありました。



「曽根裕展 Perfect Moment」フライヤーより