低い声の話 をしたからというわけではありませんけれど、

今度はソプラノのお話であります。


以前FM放送でソプラノ歌手の幸田浩子さんの出されたアルバム「カリヨン」から
何曲かが取り上げられたことがありまして、

あまり聴く機会のなさそうな曲ながら「いいじゃん!」と思えるものがあって、
気に掛かっていたのですね。


さはさりながら、日本のお若い女性歌手のCDとなりますと、
ジャケットには徐にご本人のポートレートがあしらわれていたりしますので、
買おうにも気恥ずかしくって、どうにもしようがないという。
「け、けっしてジャケ買いじゃないんですよ!」と問わず語りの言い訳を考えたりして。
誰も気にしてないでしょうにね、実際には。


そんなこんなで時の流れるままに紛れていってしまうはずでしたけれど、
しばし前に国立から立川へと移転したDisk Union(中古ショップですね)にふと立ち寄ったところ、
あるではありませんか、「カリヨン」が。


これもまあ運命のめぐり合わせかと(大げさな!)

他のCDの陰に隠して?買ってしまったわけですね。

ちなみにこんなジャケットですが…。


カリヨン~幸田浩子 愛と祈りを歌う(DVD付)/幸田浩子


で早速聴いたわけですが、あまり聴く機会がなさそうながら
(歌曲のリサイタルに行ったりしませんので、実際はわかりませんが)「いい曲だぁね」と思ったのは、

デラックァ作曲の「ヴィラネル」あたりだったかなと思い出されるという。


でもって、収録曲全体を眺めてみますと、
全13曲のうち「アヴェ・マリア」というタイトルの曲が4曲も入ってました。
さしずめアルバム・タイトルを「アヴェ・マリア」としてもよさそうなくらいではないかと。


ちなみに作曲者ですけれど、

カッチーニ、バッハ /グノー、そして変わったところではマスネとマスカーニ。
この後二者も「アヴェ・マリア」を作っていたんだぁねと思っておりましたら、
マスネの方は「タイスの瞑想曲」に歌詞を載せたもので、マスカーニの方ししても、

ムットーニ も大好きな?「カヴァレリア・ルスティカーナ 」間奏曲に歌詞を載せたものだという。
これらもご存知の方はご存知なのかもですが、「へえ~、こんなのあったんだ」という印象でありました。


というわけで、穏やかで優しい感じの曲がずらりと並んでいて、
ともするとソプラノの高音をひけらかす、というと言葉は悪いですが、
超絶技巧曲集みたいなアルバムは聴いていていささか「疲れ」を感じたりするところが、
そうしたところの全くない、心安らかに聴けるものになっておりました。


暑い毎日、いささか気がとがめつつも

冷房で爽やかさを享受しながら聴くには打ってつけの一枚であったような。
皆様もそれぞれに暑い夏を乗り切る算段をお尽くしでありましょうけれど、
せめてこうしたことでもないと気持ちが荒んできてしまいますから、
少々の電力消費もお許しいただけようものかと。

自分の声好き? ブログネタ:自分の声好き? 参加中
本文はここから



はっきり嫌いと言ってしまっては「声が出ているだけまし」ではありましょうから、
せめて好きではないとだけ言っておくといたしましょう。
もちろん、自分の声のことでありますね。

何かとインフェリオリティ・コンプレックスを抱えがちなたちでありますが、
分けても「声」という点に関しては相当なものであろうかと。

ちょっと見、否ちょっと聴きでありましょうか、「渋いですね」とか「よく通るでしょう」とか、
はたまたストレートに「いい声ですね」と言われることもあるのですが、
とおんでもない。特徴としては「中途半端に低い」と言えるのではないかと。

世の中では低音の魅力と称して
フランク永井やらバーブ佐竹(おお、古い!)やらを挙げたりしますけれど、
こうした人たちも日常会話の中では「どうしてんだろ?」と思ってしまいます。
(もっとも、この人たちほどの低さはないと思ってますが)

何がいけないって、簡単にマスキングされてしまうということですね。
ですから、先のひと言で「よく通る」なんつうのは思い込みの極地であって、
ワイガヤの中では言葉を発しても、誰の耳にも到達しないことをこれまで何度経験したか…。
この点は、現在進行形でその経験値を積み重ねています。

それが分かっているだけに、
ともすると不必要に大きな声を出してしまっていることがあるようですね。
自分としてはさほどの思いは無いにも関わらず。

確か高校の現代国語の時間でしたでしょうか。
当てられて教科書を読み出したところ、周囲でくすくす笑いが波紋のように広がったことがあります。

授業が終わってからクラスメイトに
「何だって、あんな大きな声で読むんだよ」と言われたのですが、
どうも自意識がなく「そう?そうだったんだぁ…」と。

つまりはヴォリューム調節がなかなかに面倒な「声」だと言えるのではないですかね。
ですから、これもまた個性のひとつと思えばそれを活かして「声優にでもなろうかいね」と思ったことも。
まあ、冷静になってみれば「個性的な声」とまでは言えそうもないし、
声で演技するような器用な真似はとてもとても…と思うわけですが。

結局はそのままに齢を重ねてきてますから、今さらどうしようとも思うものではありませんけれど、
これを書きながら思うところは、楽器にも音程の違いだけでなくって音色にも個性があり、
だからこそ持ち味を発揮できる部分があるのだから、「声」もおんなじようなものかなと。

あえて楽器に擬えるならば、
かつてやっていたトロンボーンの役どころかもしれないと思ったりするのですね。
低音部ながら極端に低いわけでなく、どちらかというとハーモニーの底支えをするような役割。
全体で演奏すれば、トロンボーン自体が鳴ってるのか鳴ってないのか分からないようでありながら、
実はしっかりハーモニーをつけてますよ!的なところでしょうか。

そんなふうに考えれば「それもよし」と思えなくもないですが、
確かに発した言葉が誰の耳にも到達しない…
これが繰り返されれば「なんだかなぁ」と思う気持ちの一端は
ご理解いただけるのではないかと。(話は結局、ここに戻ってしまいました…) 

次から次へとあれこれの本を読んだりしておりますけれど、
これが興味の赴くままですので、ころころと矛先が変わってしまうことを自覚しているだけに、
あんまり長尺の書物ですと手を出すのに二の足を踏むところがあったりするのですね。


元来が遅読なたちですから、文庫本で700頁超ともなればいったいいつ読み終われるものやら…と
二の足どころか、三の足、四の足を踏んでもおかしくないところでありまして。


さりながら、これは「読んでおきたい」と言いますか、

「読みたい」と思ってしまったのが舟橋聖一「花の生涯」でして、
明治史観とでもいいましょうか、維新を成し遂げた側から見れば売国奴にも擬えられる

大老・井伊直弼を主人公にした小説なのですね。


常々ものごとは批判的な見方でもって臨まないと思わぬ目晦ましにあったり、

偏狭な思い込みにつながったりと思うところもあり、
一般的にはおよそよく言われることのない井伊直弼を主人公に持ってきたことにちとそそられたわけです。
先に「安政大変 」やら「井伊直弼の首 」を読んだ延長線上として。


花の生涯〈上〉 (祥伝社文庫)/舟橋 聖一 花の生涯〈下〉 (祥伝社文庫)/舟橋 聖一


それにしても作者の舟橋聖一さんは東京生まれながら明治期の旧制水戸高等学校の出身だそうで、
幕末には尊攘派の牙城のようになっていた場所で青年期を過ごしたわけですから、
いわゆるそちら寄り(つまりは反・井伊直弼ともいっていいでしょうか)の考え方が

色濃く残っていた地なのではと思うにつけ、それがなぜ直弼を主人公とする小説を書いたのかなと。


やはり批判的視線の持ち主であったのかもしれませんけれど、

何かと貶められるお国の殿様をよぉく描いてくださったとばかり、
「花の生涯」の執筆によって作者は彦根市の名誉市民になってもいるようです。


このあたりその土地土地で、討幕派だったのか

佐幕派だったのかに起因するシコリめいたものが残っていると言いますものね。


とまれ彦根の人たちにしてみれば、

「花の生涯」の発表はようやくにして胸のすく出来事だったのかもしれません。
作中に描き出された井伊直弼の姿をご覧になれば「なるほど」と思われること請け合い。
直弼に語らせているあたりを少々引用してみるとしましょう。

鎖国などということは、わが国だけが勝手にそうきめているだけで、異国の実力の前には、空手形にも及ばぬものじゃ。…世間では、とかく、攘夷即ち好戦なるが故に、開国即ち敗戦と誤る。わが所存はそうではない。開国は、むしろ前途の勝利のためじゃ。勝利はただ、戦勝のみに非ず。征服のみに非ず。況して、侵略のみに非ずだ。不撓不屈の努力こそ、能く最後の勝利を占める。

若し、開国を、諸外国への媚なりとするならば、或は攘夷党志士の横議にも一理を認めねば相なるまい。私にとって、開国は媚態どころか、彼らに対する勝利への一段階と信じている。通商もよし、互市も結構。大いに有無を通じ合い、彼の長を取り入れ、わが短を補い、万民物心の水準を高めるのが、目下の急だ。

てなぐあいで、もしかして主人公に対する「贔屓目」が働いていないとは言い切れないものの、
当時の考え方を想像するに、何が正しくて何が正しくないとは俄かに判じがたい中では、
表面的な受け止め方や一方的な思い込みを排したクールな見方が必要だぁねとは思ったわけです。


さて、小説としての「花の生涯」でありますが、

読み始めてすぐに思うことですけれど、なかなかに艶っぽい話だなと。


当然のように井伊直弼が主役で、

懐刀の長野主膳もまた準主役の扱いなのは間違いのないところですが、これらに絡む女人がひとり。

直弼の寵を受け、主膳に愛されたという村山たかでありまして、実は本当の主役ではないかとも。


この掴みどころの無いネコ型女性である村山たかが

直弼や主膳、さらに多田一郎なる侍などを巻き込みつつ(手玉にとりつつ?)

あたかも浮世を流れていくかのような姿には、

「幕末のファム・ファタル 」を思わずにはいられないところかと。


黒船来航から明治維新へという激動の日々を背景にして、
色恋がらみの話が天下国家の行方に微妙な影響を投げかけるという、
小さくもあり大きくもある話の展開は、

700頁超と予め心配した長さがあまり気にならないほどに読み進める助けともなったようです。


ところで、この「花の生涯」はNHK大河ドラマの記念すべき第1作なのだそうですね。
1963年放送ですから敗戦後18年目ということになりますが、
維新以来の近代日本を語る中ではおそらく大罪人とも目されたのではと想像される井伊直弼を

主人公にした大型ドラマを作るってのは、戦後のパラダイム転換の一面とまで考えたら大仰でしょうか。


ちなみに、かの「幕末のファム・ファタル」村山たかは、

作者の意向もあって淡島千景さんが演じたのだとか。
その後民放で二度ドラマ化されているようですが、

村山たかを演じたのはそれぞれ山本陽子 さん、島田陽子さんだったそうな。


個人的な印象でいえば、やっぱり淡島千景さんが近いのかなぁと思うのですけれど、
この大河ドラマ第1作はもはやNHKにも保存されておらず、見ることができないのだとか。


見られないとなると「見たかったなぁ」と思ったりしますね。

とりわけ小説に描かれた艶っぽさをどんなふうにやっていたのか…。
おっと、これでは「水戸黄門」で由美かおるさんの入浴シーンを楽しみしておられた方々と同類になりますかね。

一旦足が遠のくと…ということなのかどうか、

いつの間にやら丸々三月以上も映画館から遠ざかってしまいました。


だんだんと情報にも疎くなってくると、

なおのこと出かけなくなったりてなふうになっていくのやもですが、
早くも夏本番の到来とあっては「映画館も涼むに良い場所」と思い出し、
久しぶりに出かけたような次第であります。


そも「これが見たい!」という積極的な動機というより、
ぼんやり座って涼んでいられるなら「これでもいいか」的な動機によるものですから、
事前知識もおよそ持ち合わせぬままに見た一本、これが「ラスト・ターゲット」でありました。


映画「ラスト・ターゲット」


タイトルからして

主演のジョージ・クルーニー がスナイパーか何かの役どころなのだろうと思ったわけですが、
始まり部分でスウェーデンの雪に降り込められた片田舎の家(アジトというべき?)から

足を踏み出したところで狙い撃ちされるとなれば、

ずいぶん敵が多そうな感じでこれからドンパチが続くのかと思ったり。


居場所が知られたとなれば別のところへ潜伏せねばならぬわけで、
果たしてジャック(ジョージ・クルーニー)がたどりついたのは

イタリアのカステル・デル・モンテという山間の小村。


なにしろ潜伏が目的ですから、いずことも知れぬ小さな村は打ってつけのようではあるものの、
村人の側からすれば、関わりたくない一方で興味津々でもあるという微妙な様子なのですね。
どうやらこんな山の中までアメリカ人がやってくること自体珍しく、

それだけに胡散臭さも感じ取るのでありましょう。


映画としてのオリジナル・タイトル「The American」は、この辺りのイメージによるものなんでしょうね。
ところで原作である小説の原題は「A very private gentleman」となっていますから、
異邦人かどうかということよりも潜伏せんがために「紳士」然としてなくてはならない反面、
本人は気付かないかもしれませんけど傍から見れば

「very」がつくほど「プライバシーを気にする人なのよねぇ」と囁かれがちなわけで、
「なるほどね」のタイトルではありますね。


ちなみに話を見通すときに邦題(といってもカタカナ英語ですが)の「ラスト・ターゲット」というのも
なかなかに工夫されてるなとは思うものの(何故かはネタばれになるので言いませんが)、
ちょっと印象としてアクション映画っぽく思えてしまう嫌いはあろうかと。


というからには「アクション映画ではないのだぁね」と思われた方。

正解です


まあ、アクション的なところはもちろんあるんですけれど、

なんだかとても詩的な映画だなぁと思ったのですね。


かつてアラン・ドロンなんかが出てたギャング映画に、

妙に静謐な印象を湛えた映画がありましたけれど、
ちょっとばかし近いような(同じとは言えないですが)。


監督がオランダ出身の写真家でもある人だというのが関係してますかね。
いわゆるハリウッド映画とは大きく異なる、いわば大陸風であることや、
写真そのものが静謐であることなんかが。


そうした映像の中にあって、「ディヴォース・ショー」や「マイレージ・マイライフ 」のように
いささかコミカルに立ち回るジョージ・クルーニーの姿は抑えられて、ひたすらに寡黙、
ひたすらにドライな憂いを帯びているのですね。


そして、あっと驚くというか、うぉ!っと唸ってしまいそうになったのが、
ジャックが束の間、女性と山あいの川辺にピクニックに行く場面。


やおら服を脱いで川に入っていく女性の姿は、

ジャン・ルノワール 監督の「草の上の昼食」まんま?!てなふうです。


この「草の上の昼食」なる映画は絵描きのパパ・ルノワール 描くところの裸婦や、
タイトルからしてもマネ の「草上の昼食」のオマージュでしょうけれど、
「ラスト・ターゲット」のこのシーンも間違いなく、それぞれへのオマージュではなかろうかと。


というところで、最後に「蝶」のことに触れようと思ったのですけれど、
長くなってきましたので、この辺で。

ご覧になられる方は最後の最後まで「蝶」にご注目いただければと思うのですよ。


何しろ原作たる小説の邦題は「暗闇の蝶」。
映画と原作とで違うところもあるようですが、これとて徒や疎かに付けられた邦題ではないでしょうから。


暗闇の蝶 (新潮文庫)/マーティン ブース


とまれ、ハリウッドの侵略もの、カタストロフもの、殺しまくりものに食傷気味の方々にも
きっと食べて消化できる映画ではないかと思ったのでありました。

この間聴いたハンス・ペ-ター・シュー のトランペット・リサイタルでは、

もっぱらトランペットとピアノ のデュオの形で演奏されたのですけれど、
その合間合間に、伴奏ピアノ奏者によるピアノ独奏曲が挟まって2曲演奏されたのですね。


その中の一曲が、モーツァルト の「デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲」というもの。
主題になっている旋律は、モーツァルト自身が書くことはないであろうものの、
その変奏たるや、いかにも!のモーツァルト丸出し。


映画「アマデウス 」の中にも出てきたような、

例えばシェーンブルン宮殿で得々として変奏の技を見せるモーツァルトの姿が
思わず浮かんできそうな感じだったわけですが、

そんなモーツァルトの変奏曲を聴きながら「そうだ!」と、またひとつ思い出すことが。


しばらく前ですがNHK-FMのクラシック番組を聴いていて、とあるピアノ曲が掛かった途端、
「ぬぁんだ、このやおら立ち上る空気感は!」と驚かされたでありますよ。


聴く側の時間の都合でもって、そのほんの一部分しか曲は聴けなかったのですけれど、
瞬間的に鷲づかみ状態に陥った曲はいったい何ぞや?と後から番組表を検索してみますと、
(かつて「FM-fan 」を読んでいる頃にはこんな便利な世の中になろうとは思ってもみませんでしたが)
曲はベートーヴェン の「32の変奏曲ハ短調」、これをグレン・グールド が弾いたものだと分かったのですね。


で、あの魔法の一瞬よ再びとばかりに全曲をどうしても聴かねばと思っていたわけですが、
ついつい日々の由無し事に紛れて忘却の彼方へ向かうかに見えたところで、

先のモーツァルトの変奏曲を聴き、単なる変奏曲つながりでしかないものの、

俄かに聴きたさが復活して急ぎ入手したCDを聴いたという次第。


ベートーヴェン:32の変奏曲/グールド(グレン)


2枚組CD1枚目の1曲目に、お目当ての「32の変奏曲」は収録されているのでして、
息を詰めて音の出を待つ瞬間こそが至福とも言えたのではないかと。

今となってみればですが。


というのも、先のFM放送をたまたま耳にしたときの、出会いがしらの一撃のような印象は
結局何度聴いても帰っては来ないのでありました。


いったい「ありゃ、何だったんだ?」と思いながら、

何度も聴いているうちに別の感興が湧き起こってきたという。
ベートーヴェンがこんなに楽しそうな印象で聴けるなんて?!ということなのですね。


モーツァルトあたりならば

「自分が楽しくって、楽しくって!」というのが曲からまっすぐ伝わってきたりしますけれど、
ベートーヴェンはどうもそういうふうではない(少なくとも、そう思える)。


つまり主観の音楽ではないのではなかろうかと思っていたわけです。

作曲者の感情面が曲に全く現れないというのでなくって、

何かしら激する感情があったとしても、それを客観視して書く、曲にするという感じでしょうか。
だからこそ「普遍性」が出るのだろうと思いますけれど。


ですから、ベートーヴェンの曲から「ああ、楽しそうなようすを描出してるんだなぁ」ではなくって、
ストレートに「楽しさ」が伝わってくることに、いささか驚きもしたわけですが、
さらに考えてみると、どうやらここらのことはベートーヴェンの曲だからという以上に
グールドの演奏だから、なのではないかとも思うわけです。


どうも、ここでのグールドはこれらのベートーヴェンの曲を弾くのが楽しくてしかたがない。
だから、奏でられる音にはその気分が乗るわけで、さすれば聴くにもそれが伝わってくるという…
そんな雰囲気でありましょうか。


CD2枚目に収録されたバガテル集などもまったく同様というか1枚目の変奏曲集以上のような。
もともとピアノ曲をよく聴く方ではありませんので、

この2枚目の方などはありていに言ってちいとも期待していなかったんですが、
これが面白い、楽しいとは予想だにせず…というわけなのですよ。


本来はメインの収録曲である「32の変奏曲」の冒頭でえもいわれぬ空気感に取り巻かれた気がし、
改めて聴いても同じ箇所で同じ印象は得られなかったものの、
2枚組CDの全体を何度か聴いているうちに感じたもの、

それはやっぱりグールドが作り出した空気感に取り巻かれることだったのかもません。


音楽が生み出す空気感と言ったって、要するに雰囲気でしょ!とはなりますけれど、
先の演奏会でのモーツァルトの変奏曲では途中に一箇所、実に惜しい音の途切れが見えてしまい、

共感覚 の持ち主ではないので比喩ではありますが、本当に見えたと思えるような感じ)
少しばかり残念な気持ちがしたものですが、

このグールドの演奏にはそうした所のない、

弾き手の楽しい気分に満ち溢れた空気に取り巻かれる感覚が生ずればこその

素敵な演奏になったのかもしれぬなぁと。


お目当てをはずした気分なきにしもあらずではありますが、
それを補って余りある「得した気分」になったCDなのでありました。