次から次へとあれこれの本を読んだりしておりますけれど、
これが興味の赴くままですので、ころころと矛先が変わってしまうことを自覚しているだけに、
あんまり長尺の書物ですと手を出すのに二の足を踏むところがあったりするのですね。
元来が遅読なたちですから、文庫本で700頁超ともなればいったいいつ読み終われるものやら…と
二の足どころか、三の足、四の足を踏んでもおかしくないところでありまして。
さりながら、これは「読んでおきたい」と言いますか、
「読みたい」と思ってしまったのが舟橋聖一「花の生涯」でして、
明治史観とでもいいましょうか、維新を成し遂げた側から見れば売国奴にも擬えられる
大老・井伊直弼を主人公にした小説なのですね。
常々ものごとは批判的な見方でもって臨まないと思わぬ目晦ましにあったり、
偏狭な思い込みにつながったりと思うところもあり、
一般的にはおよそよく言われることのない井伊直弼を主人公に持ってきたことにちとそそられたわけです。
先に「安政大変
」やら「井伊直弼の首
」を読んだ延長線上として。
それにしても作者の舟橋聖一さんは東京生まれながら明治期の旧制水戸高等学校の出身だそうで、
幕末には尊攘派の牙城のようになっていた場所で青年期を過ごしたわけですから、
いわゆるそちら寄り(つまりは反・井伊直弼ともいっていいでしょうか)の考え方が
色濃く残っていた地なのではと思うにつけ、それがなぜ直弼を主人公とする小説を書いたのかなと。
やはり批判的視線の持ち主であったのかもしれませんけれど、
何かと貶められるお国の殿様をよぉく描いてくださったとばかり、
「花の生涯」の執筆によって作者は彦根市の名誉市民になってもいるようです。
このあたりその土地土地で、討幕派だったのか、
佐幕派だったのかに起因するシコリめいたものが残っていると言いますものね。
とまれ彦根の人たちにしてみれば、
「花の生涯」の発表はようやくにして胸のすく出来事だったのかもしれません。
作中に描き出された井伊直弼の姿をご覧になれば「なるほど」と思われること請け合い。
直弼に語らせているあたりを少々引用してみるとしましょう。
鎖国などということは、わが国だけが勝手にそうきめているだけで、異国の実力の前には、空手形にも及ばぬものじゃ。…世間では、とかく、攘夷即ち好戦なるが故に、開国即ち敗戦と誤る。わが所存はそうではない。開国は、むしろ前途の勝利のためじゃ。勝利はただ、戦勝のみに非ず。征服のみに非ず。況して、侵略のみに非ずだ。不撓不屈の努力こそ、能く最後の勝利を占める。
若し、開国を、諸外国への媚なりとするならば、或は攘夷党志士の横議にも一理を認めねば相なるまい。私にとって、開国は媚態どころか、彼らに対する勝利への一段階と信じている。通商もよし、互市も結構。大いに有無を通じ合い、彼の長を取り入れ、わが短を補い、万民物心の水準を高めるのが、目下の急だ。
てなぐあいで、もしかして主人公に対する「贔屓目」が働いていないとは言い切れないものの、
当時の考え方を想像するに、何が正しくて何が正しくないとは俄かに判じがたい中では、
表面的な受け止め方や一方的な思い込みを排したクールな見方が必要だぁねとは思ったわけです。
さて、小説としての「花の生涯」でありますが、
読み始めてすぐに思うことですけれど、なかなかに艶っぽい話だなと。
当然のように井伊直弼が主役で、
懐刀の長野主膳もまた準主役の扱いなのは間違いのないところですが、これらに絡む女人がひとり。
直弼の寵を受け、主膳に愛されたという村山たかでありまして、実は本当の主役ではないかとも。
この掴みどころの無いネコ型女性である村山たかが
直弼や主膳、さらに多田一郎なる侍などを巻き込みつつ(手玉にとりつつ?)
あたかも浮世を流れていくかのような姿には、
「幕末のファム・ファタル 」を思わずにはいられないところかと。
黒船来航から明治維新へという激動の日々を背景にして、
色恋がらみの話が天下国家の行方に微妙な影響を投げかけるという、
小さくもあり大きくもある話の展開は、
700頁超と予め心配した長さがあまり気にならないほどに読み進める助けともなったようです。
ところで、この「花の生涯」はNHK大河ドラマの記念すべき第1作なのだそうですね。
1963年放送ですから敗戦後18年目ということになりますが、
維新以来の近代日本を語る中ではおそらく大罪人とも目されたのではと想像される井伊直弼を
主人公にした大型ドラマを作るってのは、戦後のパラダイム転換の一面とまで考えたら大仰でしょうか。
ちなみに、かの「幕末のファム・ファタル」村山たかは、
作者の意向もあって淡島千景さんが演じたのだとか。
その後民放で二度ドラマ化されているようですが、
村山たかを演じたのはそれぞれ山本陽子 さん、島田陽子さんだったそうな。
個人的な印象でいえば、やっぱり淡島千景さんが近いのかなぁと思うのですけれど、
この大河ドラマ第1作はもはやNHKにも保存されておらず、見ることができないのだとか。
見られないとなると「見たかったなぁ」と思ったりしますね。
とりわけ小説に描かれた艶っぽさをどんなふうにやっていたのか…。
おっと、これでは「水戸黄門」で由美かおるさんの入浴シーンを楽しみしておられた方々と同類になりますかね。

