…ということで(?)、「大和古寺風物誌」を片手に法隆寺を訪ねた わけですけれど、
五重塔、金堂、講堂を配した大伽藍を擁する西院には観光客の賑わいがあるのに対して、
日陰の全くない道をとぼとぼ歩いて辿り着いた東院は落ち着いたふうですねえ。


夢殿と名付けられた御堂に祀られ、聖徳太子を模したとも言われる救世観音像へのおめもじは
限られた日にちのみですから叶いませんが、
もともとこの東院の場所には上宮王家の斑鳩宮があったとなれば、
兵どもではありませんが、聖徳太子の夢のあと…それが夢殿というわけですなぁ。


そして、そのさらに北側、本来は同じ敷地であったろうと思われますが、
太子の母である間人皇后により創建されたと伝えられる中宮寺はさらにひっそりとしたふう。

ダイナミックな法隆寺に比べるとほんとうにささやかな風情を湛えるのも

尼寺ならばこそ?と勘ぐってしまうところでしたが、

本来は塔もあり金堂もありの四天王寺式伽藍であったそうですから、

往時は大層な仏閣であったのかと。


現在の本堂は1968年落慶といいますので、新しい部類のお寺さんてなことになりましょうけれど、

池の中から立ち上がる太い柱に支えられ、御堂自体が水上に浮かんでいるかのよう。

いわば「フローティング・テンプル」てな感じなのですが、これがですね、

この場所には実に似つかわしいものに思えます。


とはいえ、必ずしもこちらまで巡る人ばかりではないようですが、ただすぐ近くまで来ていながら、
この中宮寺本堂の御本尊である菩薩半跏像を拝さずして去るというのは
何とももったいない話ではないかと、後付けながら思った次第なのですね。


てなふうな言い方をしますと、先に法隆寺の大宝蔵院を見た折に
仏像が美術品のように鑑賞される違和感のあたりを書いたことに対して
一貫性が無いような気配も感じられるところですけれど、
少なくともこちらは本堂の「あるべき場所」然としたところに置かれており、

(つまりはガラス・ケースに収められてるわけでもなく)
拝すべき体裁が整っている分、いくらかほっとできるところかと。


そして(いささか言い訳めくような気もしながらもですが)、

この菩薩半跏像はもちろん仏像でありつつも、

それをどうやら超越しているところがあるように思えるのですよ。

本来的に鑑賞される対象ではないながら、「鑑賞」なる行為に堪えてしまうわけです。


仏教に深く知識なりをお持ちの方がみれば、
「もとよりそれこそ仏教であり、仏像であることよ」と仰られるやもですが。


これは、言うなればやはり「普遍性」でありますね。

仏教という宗教で何らかの思いを込めて拝まれる対象として作られていますから、

本来は仏像は語りかけられるものでありましょうけれど、

この菩薩半跏像は(見る側の勝手な思い込みにしろ何にしろ)語りかけてきますね。

少なくともそういう気になってしまう。


ここで、ハタと気付くのは「それって芸術なんじゃないの?」と。

うむう、なかなかに一筋縄では抜けだせない思考のスパイラルに陥りそうでありますが、

こちら側のそんな戸惑いをよそに、頬に指を添えほのかな笑みを見せる菩薩半跏像でありました。

先日滝沢馬琴を登場人物とする芝居 を見て、これも機会ですから、
やっぱりここで一度は馬琴の代表作「南総里見八犬伝」を手にとってみるかと思ったわけです。


とはいえ、この「南総里見八犬伝」は岩波文庫?でも全十巻に及ぶ超長尺でありますからして、
またしても安直に簡略版を手にしてしまいました。


栗本薫の里見八犬伝 (シリーズ・古典)/栗本 薫


やはり「グイン・サーガ」という超長尺ファンタジーを書かれた(といっても読んでませんが)

栗本薫さんによって仕立てられた超簡略版は

果たしてどれほど原作の持ち味を伝えてくれるものは分かりませんけれど、
とりあえずはストーリーくらいは知ることができようと…。


そうは思ったもののこの期待はあまりに無謀なものであったらしく、
というより、そもそも本書発行の企画自体が無謀なものではなかったのかと思われるのですね。


何せ、仁義礼智忠信孝悌のひと文字をそれぞれの名に帯びた八犬士が出揃わないうちに

「紙幅の関係」で終わってしまうのですから。
最後の数ページにその後の展開があらあらのあらすじで綴られるのみであります。


それにしても、なかなかに波瀾万丈の物語ではありますね。
登場人物も悪いようにも見えて実は隠れ良い者だったり、とことんの悪党だったりが入り乱れて、
予断を許さぬ人物ばかりのようですし、「え、そんなふうになっちゃいます?」的な展開もそこかしこ。


とりわけ、八犬士のひとり犬塚信乃戌孝が死に瀕したおりに「実は…」と語られる山林房八の話などは
「聞いてねえよ」と思いながらも貰い泣き…(あわや、ですが)という状況。


ところで、この超弩級時代ファンタジーが書かれるにあたっては、
古今東西の様々なお話の断片が入り込んでいるのではと思ったり。

ひとつ例を挙げるならば、八犬士誕生に繋がるクライマックスともいえますが、

伏姫の持つ八つ玉の数珠が飛び散る場面。
(この数珠の珠ひとつひとつに仁義礼智忠信孝悌からひと文字ずつが書かれているわけです)


このシーンはどうしたって、宋の時代の中国を舞台にした「水滸伝」の始まりを思い出してしまいますね。

もっとも「水滸伝」が百八つの星となって飛び散りますけれど、「八犬伝」では八つですから、
自ずと国のサイズというか、スケールの違いがあるのかもしれませんけれど。

一方、逆に後世にも影響を与えておるかなと思うのは、

犬と姫との結びつきというだけで「もののけ姫」が浮かんでしまったり。


というファンタジーの前提は、名前に犬の字のついた八人衆でありますけれど、

このいかにも作りモノ臭い部分が、実は!

里見家には本当に犬の字が名前に入った8人の家来がいたと記録に残されているのだとか。


多分に「コロンブスの卵」的な言い方になりますが、

こうした記録を偶然にも発見したとしたら、誰でも物語のひとつやふたつ書いてみたくなるかもです。

そうはいっても、江戸期の冊子として71冊にも及んだという長さには

滝沢馬琴の執念が感じられるところです。


執念で思い出しましたけれど、先に見た芝居にもエピソードが入っていたように、

元々武家の家柄であった滝沢家ながら馬琴の父の早世によって零落するも、

馬琴自身の代では如何ともしがたいながら、武家としての再興を子の宗伯に期待して叶わず、

孫にまで期待したのもまた執念。


八つの珠の縁とはいえ、それぞれ落魄の身の上から里見家への仕官が叶い、

時の権力者である古河公方(時代設定は室町時代)たちを相手に大活躍をする八犬士の姿には、

思うようにならぬ滝沢家の武家再興を写し込んでいたのでしょうねえ。


その中にもしっかり時の権力者を相手取る構図をもって徳川幕府を皮肉ることも忘れないわけで、

こりゃあやっぱり勢いとしても長い長い話となったのは「むべなるかな」ではありますね。

奈良の町に関して思ったこと を記したりしたものの、いっかな訪ねた先のことを書き出さない。
これにはいささか理由があるのでありまして…。


奈良へ出かける前に予習(?)で読んだのが「斑鳩王の慟哭 」ならば、
旅の友として持ち歩きつつ頁を繰ったのが亀井勝一郎さんの「大和古寺風物誌」なのですね。


大和古寺風物誌 (新潮文庫)/亀井 勝一郎


古典的名著のように言われて久しいにしても、
昭和18年の初版刊行とそれほどまでに古い書物だとは思っても見なかったのですが、
書かれていることに唸りを禁じえず、しかも得心のいくところでもあったわけです。


個人的には著者が感じたことと全く同じことを考えていたわけではなく、
言われてみれば「実はそう思っていたんだ」ということでもないながら、
読んでみれば「確かにそうしたことも関係しているのかもしれない…」という程度ですが。


奈良に行って何をするかといえば、古刹を訪ね歩くということになるのでして、
ではさらに古刹を訪ねてどうするのかといえば、

「よくまあこれだけ古くて大きな建物が残っているよな」と関心する観光的側面とか、
御堂に祀られた仏像などを仏教芸術の作品として有難く鑑賞するという教養的側面とかに

ポイントを置いているのかもしれないなと思うわけです。


さりながら、仏像を美術品として見ることの違和感を指摘され、一旦それに気付いてしまうと、
去年だったか三井記念美術館で「奈良の古寺と仏像」展 を見たときのような書き方で

感想を記したりすることができなくなるような。


仏像は祈りの対象であって、そもそもその仏像が作られた背景、

さらに大きく行けばその寺そのものが建てられた背景を思えば、
伽藍を見物に行くとか仏像を見に行くとかいう行為からして

「違うのかも、いや確かに違う」てな気がしてくるのですね。


ただ、仏像が御堂に祀られ、それを眺めやることは、

仏像そのものと置かれている場所の相乗効果で美術的な目のみならず、

何かしらの思いが去来することはあるわけですが、

例えば法隆寺の大宝蔵院が良い例であるようにあたかも美術館の館内同様に

陳列されている作品を見る形をお寺さんの側が提示しているとなると、
混乱の極みに達したりするわけです。


おそまきながら、亀井さんの著書から引用してみることにします。

百済観音のみならず、ガラスのケースの中にも多くの古仏は並べられ、造花が添えられ、崇められているようにみえるが、また見世物式であることも否定できない。寺僧は必ずや、これら御仏の前に礼拝するだろう。心から保存を念じれいるかもしれぬ。礼拝しつつ、だが一方では、古仏を美術品として鑑賞に来る「教養ある人々」のもったいぶった顔にながし眼を使っているのだろう。これは私の邪推だろうか。

なにしろ太平洋戦争中に初版発行された本でありますから、
記述内容をそのまま現状には当てはめられないところもあろうかと思いますけれど、
基本的に仏像の見せ方(言い方によっては保存の故となりましょうけれど)は変わっていないのではないかと。


こたび訪れた大宝蔵院でも「百済観音像」はガラス・ケースの中にあって

いかにも鑑賞される対象であるかのように置かれていましたけれど、
もともと何のために作られたのかという伝承は無いにせよ、

その実に伸びやかな姿を見せる背景には何かしらの「祈り」が確実にあったわけですが、

先の亀井さんの指摘に接するまでは「仏像は何かを祈願せんがために作られる」

つまり芸術作品として鑑賞される前提で作られてたものではない…
そんなことにすら気が回らなかったのですね。


それを敢えて芸術作品として見た場合、さすがに「百済観音像」クラスになると、
本来「祈りの対象」であることを超えて、さらに普遍的な「美」というのか、
見る側が勝手に抱くのかもしれませんけれど、何かしらの感懐をもたらさずにはおかないところがありますね。


翻ってみれば、本来宗教的なものを宗教から離れて見ることの是非は、
キリスト教会で見るあれこれを思えば、何も仏教に関連するものに限らないとも思われます。


さりながら、日本人としての身近な習俗に大きな影響を与えてきた仏教なればこそ、
そう簡単には客観視できないのだろうと思いますし、亀井さんの言っているのもその辺なのかなと。


この辺りの整理のためには、たとえ本来あったところに置かれなくなった仏像であっても、
歴史的な謂われを知ることによって、仏像の本来と展示のなされようのギャップをいささかなりとも
埋められるような気がしないでもありません。


それだけに、奈良を訪れることが古寺に詣で仏像に接することと切り離せない行動であるなら、
もっともっと予備知識を蓄えて訪れるべきだったのやも知れぬ…と個人的には思うのでありました。

奈良の話の合間にちょっと違う話も織り交ぜてということで…。
東京オペラシティ・アートギャラリーでは毎度なかなかに個性的な企画展が行われますけれど、
時折建築系の企画に出くわしますね。


建築系はいっかな知識のない分野ながら(もっとも他分野も同様であることは言わでもがな…)、
何とはなし興味を惹かれて出かけてしまったりするわけですが、
今回の企画展のタイトル「TOKYO METABOLIZING」にはついついお腹周りを見てしまったり…。


言葉を短縮するのが得意な日本人の中では

すっかり「メタボ」で定着してしまったかのようなメタボリック・シンドロームですけれど、

そもこの言葉がどういう意味なのかはあんまり意識もしとりませんでした。
このたび「TOKYO METABOLIZING」というものに接して、

ようするに「新陳代謝」のことなんだぁねと知ったわけです。


「TOKYO METABOLIZING」展@東京オペラシティ・アートギャラリー



ですから、お腹周りの話とは全く関わり無く「新陳代謝する東京」というようなことですね。

どうやら東京では、多くの家屋が木造でることにもよるのだと思いますけれど、
およろ26年~30年程度のサイクルで建て替えられているのだとか。


例えば都市を俯瞰して、年月を早回しで見たような場合には、
(なるほどそうしたイメージが本展のイントロダクションにあるのですが)
比較対象としてのパリやニューヨークに比べ、格段に移り変わりの目まぐるしさがあるという。


そして、単に同じ敷地に別の上物が建つというに留まらず、
相続(税)の関係から土地が分割化される傾向が顕著であると。

ですから、ある住宅地(本展では世田谷区の奥沢だったと思いますが)で定点観測を行えば、
広い敷地が分割されていく度合いに従い、居住者がその土地に住み続ける第一世代なのか、

第二世代なのか、はたまた第三世代なのかがおよそ判別できてしまうようなところがあると。


そうした経緯から生まれてきた「家」という上物は
小さくてしかも塀で囲うなど遮蔽性の高いものになるようでして、
それに相対するように新たなデザインコンセプトとして提示されるのが、

建物内部でも細かく区切らない開放性、さらには外部空間とともにある開放性、

個を保つベースを持ちながらも他者との共存スペースを持つという開放性といった、
小さく縮こまるのと反対ベクトルの考え方だったりするようです。


本展ではモデル・ケースとして3件の建築デザインが紹介されるのですけれど、
3つのうち二つは周囲を巻き込んだ再開発が必要であって、
今は手放しで「隣近所は皆いい人」とは言い切れないご時勢だけに

「ちと理想に走ってしまったかな」と思わないではないものながら、
一つだけ(偏狭なようながら極めて現実的に)ひとつの敷地内でどういう建物を建てるかを前提に
オフィス兼住宅の例として提示されたアトリエ・ワンの、それこそ開放的なデザインは、
「これなら、やれる」と思いますし、「こういうふうにすると、人間関係、家族の関係も変わるんじゃなかろうか」と
想像させるに十分なものに思われたのですね。


簡単に言ってしまうと(どこかで誰かの住まい実例的に見たことがあるような気もしますけれど)
フロア全面の、例えば四分の一、二分の一といったスペースが

螺旋階段上に少しずつ高くなってるような建物といいますか。(説明が下手ですいません)


今の普通の家は、例えば1階と2階を二世帯住宅にしているケースなどが顕著ですが、
いかにフロアを仕切るかを前提に考えているところがありますね。


でも、少しずつ螺旋階段上に回り込みながら、フロアは繋がっていると
ひとつ上、ひとつ下ともに空間が共有されている感があるわけです。


こうなると「プライベートはどこに?」ということにもなりましょうけれど、
完全に遮蔽しなくとも、そこは工夫で何とかできるものかなとも思わないではない。


壁や扉を作ってしまうと、もはやそれを壊してひとつの空間にという発想がなくなるわけですが、
それをロール・スクリーンやらアコーデオン・カーテンやらで一時的に仕切るけど、広くも使えますよと。


ところで、これって(本展でも触れられてはいたと思いますけれど)

伝統的な平屋の日本家屋の発想ですよね。

それじゃあ「個」が確保されないってんで、どんどん小分けして雁字搦めの遮蔽物を作って、
(おかげで夏の暑さが大変だぁになってるところもありましょうけれど)
いわゆる「団欒」が過去の言葉になってしまったのかなって…。


こうしたこともまた「歴史は繰り返す」みたいなことなのかもですね。
薬師寺東院堂の年季の入った板張りの床にぺったり座って紹介ビデオを見つつ、
吹き抜ける風に身を任すなんつうのを思い出したのでありました。

先ごろ訪れた奈良で、薬師寺に詣でたときのことです。


南の駐車場側からアプローチして参道を進んでいきますと、薬師寺そのものの南門をくぐる前に
「ここにお参りして身を清めてから薬師寺にご参詣ください」てな案内板の立つ
休ヶ丘八幡宮に出くわしたところで、捕虫網を持ったおじいさんと孫と思しき二人が
ちょうどすぐ西側を走る近鉄の小さな踏切を越えてやってきたのですね。


と、孫の男の子が「あ!」と叫ぶや早速に捕虫網を振り下ろし、何やら格闘しているようす。
何か珍しい昆虫にでも見つけたのなら、他にもいるかもと少々近づいてみますと、
少年の数歩手前で今度はこちらが「お!」と。


決して「珍しい」とまでは言えないにしても、

そこにいたのは立派な立派なオスのカブトムシでありました。

思わず手にとって指に止まらせ、しげしげと眺めておりますと
先の少年がやってきて、目を輝かしておるのですね。


「あげるよ」と言いますと、

少年は実にうれしそうに指にとまったカブトムシを引き離そうとするのですけれど、
相手も野生の?カブトムシだけあって、そう簡単には捕まるまじと

爪を立てて必死で指にしがみつくわけです。


結果、カブトムシは少年の虫かごに納まって、

我が指にはカブトムシが残した爪痕に血が滲むということになったのでありますが、
長いこと人間をやっていて、何を隠そうカブトムシが自然にそこにいるというのは

初めて目の当たりにしたのですね。


都会っ子ってのはこんなものなのですよ、寂しいじゃあありませんか。
自然貧乏になるのも頷ける話ではなかろうかと。


とまあ、この一事をもって「奈良は田舎だのう」などというつもりはありませんけれど、
それでもやはりかなりの田舎感を呈しているのは間違いないかもしれませんね。


東京への帰途、JR奈良駅からみやこ路快速という電車で京都まで出ました。
奈良線を走る普通列車(いわゆる鈍行ですが)に比べると、

車体も車内も「頑張ってるな」の印象を得たのですが、
快速列車ながら途中の駅で停まってしばし動かない時間があったのですね。


「もしかして…」と思っていると、予想通りに列車のすれ違いであったわけで、
つまりはJR奈良線は単線!なのだと気付いたわけです(一部複線区間もありましたけど)。


途中の城陽駅あたりだったでしょうか、

「みんなで乗って複線化を!」といった看板が線路脇に出ていたのを見て、
「やっぱり!」と。


もちろん鉄道ばかりが交通の手段ではないにせよ、
人の行き来、物の運搬といったものをある程度は鉄道が担っているであろう中で、
県庁所在地を通る線路が単線とは驚きを禁じえなかったわけです。


今では奈良県の県庁所在地という過ぎないところではあるものの、
かつては日本の中心、中枢であったことを思えば、昔日の殷賑との違いを思わざるを得ないのですね。


さりながら、さりながら!です。
このようにカブトムシがすぐそこにいる奈良、鉄道が単線である奈良なればこそ、
(おそらく日本中にカブトムシはいるでしょうし、単線の場所もあるのでしょうが、都ではなかったはず…)
往時の殷賑への思いとは裏腹に「鄙」故の安堵感があったりするのは、

いささか屈折した感情でありましょうか。


こうした土地柄なればこそ、巨刹の大伽藍があっても違和感無く溶け込め、
鹿が闊歩していてもおかしくもなんともない…。


そして、日本の原風景(とまで言うと大袈裟ですが)を見るような懐かしさにほっとできるのが
奈良の持ち味なのかも、つまり奈良は東京のようになってしまってはいけんのかも知れませんね。


かつては、中国でいうところの「中原」のような土地柄であって栄えた場所なのかもですが、
その「中原」性あるがゆえにその後の発展(これの良し悪しは別として)には

一線を画す(画される?)ことになった…
それが奈良なのかもしれぬなぁと思ったりしたのでありました。