奈良から帰ってまいりました。

いやはや大層暑かったですね…。


早速にも斑鳩奈良紀行を記して参りたいとは思うものの、

こたびは年経る両親と同行したこともあり(何と一度も行ったことがなかったという…)、

定番の名所を厳選して(とてもたくさんは回れない)こともあって、

ご覧になられる方々にはいささか期待外れ(期待されてると思うこと自体不遜ですが)と思われるものですから、

もってぶって書いていこうかなと。


だもんですから、先ずは予習で読んだ本のお話からということで。

二週間くらい前でしたでしょうか、「奈良にいこまいか…」と思っている矢先、
NHK-TVの「ヒストリア」なる番組で聖徳太子が取り上げられていました。


前にも鎌倉後期から室町時代はさっぱり…てなことを言ったりもしましたけれど、
考えてみれば奈良、平安とて状況は同じでありまして、
「おいおいおい、そんなことも知らんとですか?」というていたらく。
受験を世界史で乗り切った者…というのはもはや言い訳しか過ぎんでありましょうねえ。


かような状況にあるものですから、冠位十二階やら十七条憲法やらという言葉こそ知っていても、
「そも聖徳太子とは?」と思ってしまうわけです。
しかも、先の番組で触れていた「生け花の元は聖徳太子が作った」なんてことを聞くと「ふ~ん」という具合。
おそまきながら、聖徳太子の物語を読んでみることにしたのでして、
黒岩重吾さんの小説「斑鳩王の慟哭」を手にしたのでありました。


斑鳩王の慟哭 (中公文庫)/黒岩 重吾


ここでいう「斑鳩王」というのが厩戸王子、つまりは後世で言う聖徳太子なのですね。

と、ご存知の方には「んなことも知らんのか!」とお叱りを受けそうですが。


とまれ、7世紀初めの日本は大和朝廷とは言いながら、

まだまだ天皇中心の安泰な中央集権とは言えないのでして

(そも天皇のという呼称自体、もそっと後の天武天皇以来らしいです…)

政権主体からして血で血を洗うといいますか、骨肉相食むといいますか、

大王の血筋で誰が大王の地位を襲うかは、有力豪族の蘇我氏も絡んで、

権力闘争に明け暮れた時代であったのだとか。


その蘇我氏自体、厩戸王子の若き頃に物部氏との争闘を制して最有力に躍り出たものの、

厩戸王子と同時代を生きた蘇我馬子とその息子である蘇我蝦夷、

そしてその次の世代である蘇我入鹿になると、中大兄皇子 らに誅殺されてしまうわけです。


ところで、「聖徳太子は推古天皇の摂政」として、

先に触れた十七条憲法やら冠位十二階の制定に携わると教科書的には言われますけれど、

摂政と言えば次代の皇位が約束されていたのでは?と思うところながら、

何故に聖徳太子は皇位につけなかったのか…

そのあたりの経緯を小説として語るのが本書ということになります。


極めてざっくり言ってしまうと、推古天皇の怨念ということになりましょうか。

作者がこのお話を書くきっかけになったのは、1992年に欽明天皇を葬ったとされる丸山古墳の

石室内の写真が一般に公開されたことによるのだそうです。

この欽明天皇というのが推古天皇のお父さんなのですね。


でもって、石室内に欽明天皇の棺があるのはもちろんながら、

さらに奥にもうひとつの棺があったのだとか。

ここから先は作者の推論になっていくのかもですが、

その最奥に眠る棺の主こそ欽明天皇の妃の一人にして推古天皇の母親である堅塩媛(きたしひめ)で、

推古天皇が母親愛しのあまりに行ったことのだとか。


江戸時代の大奥にまで連なる一夫多婦制は昔からのようで、

欽明天皇には堅塩媛の他にも、厩戸王子の祖母にあたる御姉君(おあねのきみ)に寵を与えていて、

そのことで母親の忸怩たる思いいかばかりかと考えた推古天皇は、

御姉君の系譜である間人皇女(はしひとのひめみこ、用明天皇妃)にも、

そしてその息子厩戸王子にも「許せん!」意識を持つ続けていたというのですね。


その思い一途の故でありましょうか、

当時は人生40年とも50年とも言われた時代にあって、70歳を超える長寿であったそうな。

結果、50手前で亡くなる聖徳太子は先にみまかってしまったのですね。


それでも、聖徳太子の子である山背大兄王には皇位継承の期待が高まるわけですが、

最終的には蘇我入鹿に攻められ、山背大兄王始め厩戸王子の係累は、

斑鳩寺(法隆寺)で自害をして果てることになったのだといいます。


日本の仏教の古刹として夙に有名な法隆寺がかような血なまぐさい悲劇の舞台であったとは

恥ずかしながらちいとも知らずにいたわけでして、

こうしたことが先日の拙い歌 になった次第なのでありますよ。


とまれ、こうしたことを聞き知るだけでも、合掌せずにはおられんところではなかろうかと…。

ご来訪者各位


平素はjosh's blog 「Chain reaction of curiosity」にご愛顧を賜り、

有難く厚く御礼申し上げます。

店主自身、どうもマンネリ感を抱きつつも何とか続けておりますが、

ご贔屓をいただき言葉も無い次第でございます。


昨年も全く同時期に弊店店員の慰安旅行で小諸・軽井沢 に参りましたが、

こうしたことはくせになるもので(?)「今年はどこへ?」の呼び声も高く、

しばしの休業をいただいての旅立ちとなりました。


さりながら、行き先が奈良とあってはたぶん冷涼の地とはいえず、

昨年のような夏バテ対策旅行とはならぬのではと危惧しつつ出かけますが、

万一休業中にもご訪問いただきましたおりには、

過去記事のひとつなりともご覧いただけましたらと考えております。


店主謹白


「せんとくん」ならぬ「まんとくん」

人それぞれにいろいろなものからインスピレーションを与えられたりするものですよね。


個人的にもかつて(といっても現在も進行形のつもりではおりますが)

フェルメール の絵から思いつきの文章を物したりしましたけれど、
本物の「芸術家」の方々のアンテナはもっともっと研ぎ澄まされておりましょうから、
その指向性が合えばもの凄くビビビっと来るのではなかろうかと。


この間「パウル・クレー展 」を見てきて、そういえばと思いましたのが、
パウル・クレーの絵にインスパイアされて創られたソロ・ピアノのための12の小品集。


いにしえの響き-パウル・クレーの絵のように-/加古隆


こうした言い方をしますと、いかにもクラシック音楽めいたものを思い浮かべるやもしれませんけれど、
曲を作り、ピアノを弾いているのは加古隆さんなのですね。


といって、この方をよく知ってるとか、曲をよく聴くとかいうわけではなく、
「ジャズ・ピアニスト…だっけ?」くらいの印象でしかなかったのでして、
CDを手にした当初は「クレーをジャズで?いいじゃない。でも、どんなふう?」と思った次第。

で、いざ聴いてみると、いわゆるジャズらしいジャズ(?)ではなくって、
何とも曰く言いがたいところがあるのですが、敢えて言うならエリック・サティ を思い浮かべる感じかなと。


こことでハタと気がついたことには、
クレーの絵とサティの音楽はなんだか相性が良さそうだなと言うことなのですね。

ひとつひとつ、クレーの描いた作品からインスパイアされたそうですけれど、

タイトルを並べてみると、「おや?サティの曲?」なんてふうにも思えてくるような。

ちなみに、12曲のタイトル(すなわちクレーの絵のタイトルですが)を挙げてみましょう。


  • 秋を告げる使者
  • 水中の魚たち
  • さえずり機械
  • 世捨て人の庵
  • 青い花
  • 乾いて冷たい庭園
  • 雪の前
  • にぎわう港
  • 冬の山
  • 公園のたそがれ
  • 大通りと脇道
  • いにしえの響き

どうでしょう?

元々サティの曲は、タイトルだけで何やら物語でも紡ぎたくなるところがあったりしますけれど、

こうしてみるとクレーの絵のタイトルでも同じような気がしてしまいますね。


ところで、音楽の方はといえば、非常に硬質で無機的な響きで奏でられるのですが、

クレーの絵の印象(印象というものは相当に個人差がありますけれど)に極めて近いかなと。


時には、粗野とも言ってしまおうかと思えるハードな響きが聴かれますが、

これは使っている楽器のせい(賜物?)なのやもしれません。


ピアノ・ソロというからには当然一台のピアノで演奏しているのであって、

「楽器のせいとはなんぞや?」ですけれど、

この録音に使われた楽器は「ベーゼンドルファー・インペリアルModel290」というもので、

普通のピアノ が88鍵であるのに対して、低音部に1オクターブほど拡張した97鍵の鍵盤を持つ

世界最大?のピアノなんだとか。


こうしたこともこだわりなんでしょうね。

でも、CDの解説にいわく「クラシックのピアニストに使われた例は少なくないが、

ジャズやポップス系のピアニストではチック・コリアが弾いているくらい」ということなんだそうで。


というところから、加古さんのバックグラウンドを顧みれば、

芸大大学院で作曲を学び、コンセルヴァトワールではオリヴィエ・メシアンに師事したという。

こりゃ、こてこての20世紀音楽 の作曲家ではないか?!と遅まきながら気がつくわけですね。


ま、それはそれとして、まずは虚心に音楽に耳を傾けてみましたけれど、

続いてはひとつひとつ絵の方の作品を探し当てて、眺めながら聴いてみるといたしましょうかね。


パウル・クレー「Reicher Hafen(にぎわう港)」

この間、明治期のお雇い外国人であるジョサイア・コンドル の関わった建築物を見てきましたけれど、
そもそもジョサイア・コンドルの、名前以外に何を知っていようか…というわけで、
例によってちょっとばかし探究しておこうと思ったのですね。
手に取った本は「鹿鳴館を創った男」というものであります。


鹿鳴館を創った男―お雇い建築家ジョサイア・コンドルの生涯/畠山 けんじ


東京・日比谷の帝国ホテルの隣にあったという鹿鳴館。
歴史上、外国に媚び諂う洋化政策の象徴として夙に知られた鹿鳴館でありますが、
これを設計したのがジョサイア・コンドルというわけです。


英国人コンドルは、コンドル、コンドルと呼び習わされているのものの、
本来「Conder」ですから、今ならさしずめコンダーとでも呼ばれていたのかも。


と、それはともかくこの鹿鳴館というのが、後の建築家の目で見ると様式的に奇妙な、
ありていに言ってしまうとヘンテコな建物だったそうなのですね。
ここで技術的なことを細かく指摘するのは個人的に荷が重いことなので、
ちょっと別の観点から言いますと、どうやら建物を依頼する側と建てる側との思惑の違いてなことになろうかと。


明治期にお雇い外国人に求められたのは、手っ取り早い「欧化」であって、
建築物についていえば洋風建築を建てられる者が当時の日本にはいなかったので、

わざわざイギリスから呼んで来た。
つまり、期待されたのはロンドンにあるような建物を東京にざざっと造っておくんなせい!という具合。


ところが、この任にあたったコンドルはお雇い当時、

故郷イギリスの学校で理論を学び、建築事務所で実地に技術を身に付けて、
建築家として将来を嘱望される状況ながら、実際には何も建てたことがないというのですね。


そうではあっても、建築の分野でいくらでも腕のふるいようがあると思える東京という新しい都市には、
大きな仕事が待っているという期待を持たせたでしょうし、

周囲にとやかく言われずに自分のやりたいことができるとも思ったかもしれません。


その自分のやりたいようなやり方、それがコンドルなりの西洋と東洋の融合だったようです。
このあたりはやはりジャポニスムの影響か「日本にも固有のいいものがある」と思っていたそうな。
持てる西洋の建築技術の中にいかに日本を埋め込み、融合するかをコンドルは模索したようなのですね。


さりながら、どうも組合せにくいと気付くや、対象をいささか広げて西洋と東洋の融合に変えたようで、
上野の帝国美術館にはイスラム風のアーチを組み込んだり(イスラムもオリエントだと)、
鹿鳴館にも柱の柱頭部にやしの木状のレリーフを仕込んだり

(英国にとってやしの木と言えばインド、インドこそ東洋)したのだとか。


先に「後の建築家の目で見ると」と言いましたけれど、
当時は西洋建築を建てられる者もいなければ、評価できる者もいなかったでしょうから、
ひと目で「こりゃ変だ!」と指摘はされないものの、

よおく見るとどうもロンドンにあるような建物となんか違わない…
となってくるわけです。


頼む側はロンドンとおんなじのが欲しい、

作る側は東洋らしさを入れてやろう…これは完全に思惑違いですね。


そんなこんなで、

本来はコンドルに回ってくるはずだった皇居内宮殿造営とか中央官庁街整備プロジェクトとかいう

大規模な仕事は結局沙汰止みになったり、他の手に委ねられたり。


そういう点ではなんとまあ不遇なというか、

わざわざ地球の裏側まで来て何年も身を粉にしたのに可愛そうかなと。


しかしながら、こうした大規模プロジェクトとは相性がよろしくなかったコンドルも、
個人の邸宅のようなところでは、西洋と東洋の融合とかいう気負いもなく力量を発揮したのでしょうか。


先日見た旧古河庭園の洋館や旧岩崎邸などはコンドルの名を高らしめているのではないかと。

取り分け、岩崎家(つまりは三菱ですが)には御用建築家のようであって、

近年復元されてオープンした三菱一号館美術館の、
そもそもの三菱一号館もジョサイア・コンドル作品なわけですね。


ここまで来てふっと思うんですが、

何だかフランク・ロイド・ライト とパターンが逆だなぁと。


ライトは邸宅しか建てたことがないのに、

帝国ホテル新館での失敗を糧に?大きな建造物でも日の目を見るようになったのと反対に
コンドルは国家的な建物は変な気負いで失敗しつつ、その後は邸宅などで活躍したのですから。


ただ、コンドルが日本に残したものは、建築物ばかりではないのですね。
そも国家的プロジェクトに携わる建築家でいう役割とともに、
後の日本の(西洋的)建築を担う人材を輩出せんがための建築学教授という役割があったのでして、
コンドル教室の第1回卒業生が東京駅丸の内駅舎(今、オリジナルの形に修復中ですが)を造った

辰野金吾ほかであるという。


結局、短期的な一時帰国以外に英国に帰らず日本に眠っているジョサイア・コンドルですけれど、
今の東京の街並みを見たときにいったいどんな思いでいることでありましょうかねえ。