どうしても断片的な知識でもって「思い込み」をしてしまうことはあるのでして、
例えば「オーストラリアはイギリス植民地時代、流刑地だったのだぁね」ということなどもそのひとつ。
確かに流刑囚も送られたものの、実際には開拓の使命を帯びた総督以下の人々がいて、
流刑囚たちはその労働力と考えられていたということらしい。
(またこうした形で流刑囚をイギリスが送り出した先はオーストリアに限らないそうな)
とまあ、唐突にオーストラリアの話を始めましたけれど、
この間行った奈良の話を何となく続けているうちに「夏の臨時休業(第2弾)」が迫っておりまして、
その行き先がシドニーだものですから、例によってちと予習をと平凡社新書の一冊
「オーストラリア物語」を読んでみたわけです。
1770年にイギリスのキャプテン、ジェームズ・クックの一行が
オーストラリアを発見したところから始まって、イギリス植民地時代の様子、
そして近世に至っては日豪の交流を軸に歴史を辿っていく流れになっていますけれど、
日豪交流史の一端に触れられているのは「著者が日本人だから」ということでは必ずしもなくって、
ちょっとした発見が契機になったのだとか。
その発見といいますのは
「オーストラリアを初めて訪れた日本人は山田長政かもしれない」
と記された講演原稿だそうなのですよ。
他ではこうした記述に行き会うことはなく、
あいにくその講演の講師は亡くなっていてこの仮説をどこから導いて
きたのかも皆目分からないながら、好奇心をくすぐられたことは間違いなさそうです。
著者ならずとも「おお!そんなことが?…う~む、あるかもしれんなあ…」と思ってみたりしますし。
だいたい日本とオーストラリアは赤道を挟んで北と南に対称的な位置にあって、
しかもその間にはどっぷり太平洋という状況ですから、遠いよなぁと思いますよね。
ところが、日本列島から南西方向には点々と島が連なり、
沖縄を経て台湾に至るとその南はフィリピン諸島となり、
ボルネオ、セレベス(スラウェシ)を経由して東に回ればニューギニアであって、
オーストラリアの北端はもはや目と鼻の先というふうになります。
もちろん、サイコロを転がして双六のコマを進めるように簡単な行程ではないにせよ、
やおら太平洋に漕ぎ出して…というふうに考えなければ茫洋たる海の果てというわけでもないのだなと。
先に触れた山田長政(1590年頃~1630年)は朱印船でタイに渡ったということですけれど、
東南アジアのエリアでは島伝いに渡って歩くような移動は当時からあってでしょうし、
長政がオーストラリアに行ったかどうかはともかく、長政の時代にオーストラリアに到達した日本人が
いても不思議はないのかなと改めて思ったりしたのでした。
ところでヨーロッパ諸国はとうに大航海時代を迎えていたわけですから、
島伝い云々といったことなしにそれこそおもむろに大洋に船出していったわけでして、
クックもまた「未知の南方大陸」発見を目指して南半球を航海して回っており、
そこで辿り着いたところの一つがオーストラリアであったと。
北半球の人間からすれば豪州北端が「近い」となりますし、
だいたい先住するアボリジニの人たちのご先祖は東南アジアあたりなどから北端を経て
内陸部に入っていったとも言われているようですが、
クックはいきなり大洋の中から現れ出でて大陸の東側に到達するという。
でもって、北端の土地と地続き地面かどうかなんてわからなかったみたいです。
ちなみに上陸地点は今のシドニーの中心街からやや南、
ボタニー湾でありますが、ボタニー(botany)は植物学の意。
クックの船に同乗していた博物学者らが
ヨーロッパ人には珍しい植物をたくさん採取したところから名付けられたそうです。
ついでに、シドニーという都市名はクック上陸の18年後、
労働力としての流刑囚をひきつれてやってきた初代総督のアーサー・フィリップが
その当時のイギリスの国務大臣シドニー卿にあやかって命名したそうな。
ところで、シドニーを含む地域はニュー・サウス・ウェールズ州となってますけれど、
オーストラリアという名称のない当時はニュー・サウス・ウェールズこそが
イギリス植民地としての名称で、1901年の連邦化に伴ってオーストラリアが正式国名となったのだそうです。
…とまあ知らないことだらけだものですから、
聞きかじり(読みかじり)をつらつら並べてしまいましたけれど、
オーストラリアの歴史としてはヨーロッパから見て「発見された」ところから一歩も出ていない…。
また、折りを見て違う局面を記しておくとしましょうかね。