毎度、弊店「Chain reaction of curiosity」にご来訪たまわり厚く御礼申し上げます。
さて、この度は「夏の臨時休業(第2弾)」のお知らせでございます。


先日いささかの前触れ をいたしましたように、

オーストラリアはシドニーに向けまして、今宵旅立ちをいたしますが、

これまでにもありましたサイパン行きはたまた昨年の香港澳門行き にも似た

団体行動(?)となりますため、ウィーン やらロサンゼルス やらを個人的な趣味嗜好の赴くままに

回ったものとはひと味異なる旅となるのではと考えております。


帰国致しました後には、現地の見聞などを若干なりともご披露申し上げたく考えておりますので、
その節は改めましてご贔屓の程宜しくお願い申し上げます。


では、行ってきまぁす!!



コアラ、いるかな? そりゃ、いるでしょう…
オーストラリアのことを書いて「思い込み」ってことでもって思い出したのですけれど、
シューベルトの交響曲第7番ロ短調、俗に言う未完成交響曲に関してであります。

そもそもいつの間に変わったのか(って、研究が進んだからでしょうけれど)、
どうしても「未完成」は交響曲第8番と言ってもらわないと「しっくりこないのだけんね」と思うのですが、
これはもはやオールド・エイジの郷愁みたいなものかもですね。

もそっとオールド・エイジになると「ドヴォルザーク新世界は、5番シンフォニーではなかったか?」
てなことになりましょうけれど…。

とまあ、そうした番号のことが言いたかったのではなくしてですね、
実はこの曲の拍子のことなのですよ。

第1楽章はアレグロ・モデラートの4分の3拍子、スコアにもしっかり書いてあります。
重々しい序奏部分は、確かに3拍子だとはっきり分かるのですけれど、
細かい刻みにのって第1主題が始まると、もういけません!
どうあっても8分の6拍子の二つ振りとしか思えず、いっかな3拍子ではとれない…。

まあ、お聴きになってみてください。



…とは言ったものの、どうです?
何の疑問もなく、3拍子でしたですか?

そうだとしても、個人的には
とにもかくにも感覚的に3拍子を拒絶してるかのところがあっていかんともしがたい。
とまで考えると、最初に言った「思い込み」ともちと違いましたね。

でも、そうしたことを思い出したついででありますので、
この際、映画の「未完成交響楽」を見ようと思ったのでありました。

昔々にTVで見たきりで、ずいぶんと久しぶりに見ましたけれど、
ところどころ笑っちゃう場面もあり、いやあ、面白い映画だ!と。

未完成交響楽 [DVD]/ハンス・ヤーライ,マルタ・エッゲルト,ルイーゼ・ウルリッヒ


シューベルトの音楽を少々(少々でOKです、個人的にも少々ですから)ご存知なら
お楽しみいただけるのはもちろん、そうでなとも
どなたがご覧になっても面白いと思っていただけるのではないかと。

「未完成交響曲」は何故、未完成に終わったか…。
おそらくはまったく史実に基づかない自由な発想で物語を紡いだものでしょうけれど、
その謎(?!)に触れてはつまらなくなりますから、直接的にストーリーを語らず、
断片的な備忘に留めておくとしましょう。

まず、冒頭は質屋の場面。
シューベルトが貧乏だったことから出てくるのでしょうけれど、
次々やってくるお客の中にギターを質入れする人物が現れるのですね。

質屋の窓口の中と外を仕切る磨りガラス越しに
質入れに来た人物のシルエットが浮かぶのですが、
このシルエットたるや、もう笑っちゃうくらい「おお、シューベルト!」ではありませんか。

この映画が「未完成交響楽」というシューベルトを描いたものだと知らずに、
例えばスニーク・プレビューで見たとしてもやっぱり
「おお、シューベルト!」と思いますよ。

食うためにと、学校の教師(恐らくは臨時雇い)で算数を教えているシューベルト。
(掛け算九九をドイツ語でどう言うかがよく分かります)
そんなときにも、一旦楽想が湧くや、授業そっちのけで作曲してしまうんですね。

ところが、とんでないわんぱく揃いに見えたクラスの子供たちが、
黒板に書きなぐった音符でもってやおらきれいなハーモニーを聴かせるという。
ウィーン少年合唱団を使ったというのはここか!と思ったわけですよ。

シューベルトの才能を噂に聴いた宮廷楽長が公爵夫人の夜会に招き、
訪ねた館はガラスを多用したアール・デコ調だったり、
(本来は19世紀初頭の設定なはずですが…)
ゲーテを知らないというシューベルト(そんなこたぁなかろう!)に
質屋の娘がくたびれたゲーテの詩集を渡すと、
まず開いたページに「野ばら」が載っていたり…と、
いろんな意味でお楽しみ満載。

1933年のドイツ・オーストリア共同制作の作品。
おっとりしてた時代なんだなぁと思うも、
1933年といえばヒトラーが政権を取った年でもあるかと思うと、
いささか複雑な心地にもなりますけれど、
この年くらいはまだ穏便だったのですかね。

差し挟まれた麦畑に風がそよぐシーンは、
やがて来る暗雲を全く予期せぬ爽やかが感じられたりするのでありました。

どうしても断片的な知識でもって「思い込み」をしてしまうことはあるのでして、
例えば「オーストラリアはイギリス植民地時代、流刑地だったのだぁね」ということなどもそのひとつ。


確かに流刑囚も送られたものの、実際には開拓の使命を帯びた総督以下の人々がいて、
流刑囚たちはその労働力と考えられていたということらしい。
(またこうした形で流刑囚をイギリスが送り出した先はオーストリアに限らないそうな)


とまあ、唐突にオーストラリアの話を始めましたけれど、
この間行った奈良の話を何となく続けているうちに「夏の臨時休業(第2弾)」が迫っておりまして、
その行き先がシドニーだものですから、例によってちと予習をと平凡社新書の一冊
「オーストラリア物語」を読んでみたわけです。


オーストラリア物語―歴史と日豪交流10話 (平凡社新書)/遠藤 雅子


1770年にイギリスのキャプテン、ジェームズ・クックの一行が

オーストラリアを発見したところから始まって、イギリス植民地時代の様子、

そして近世に至っては日豪の交流を軸に歴史を辿っていく流れになっていますけれど、
日豪交流史の一端に触れられているのは「著者が日本人だから」ということでは必ずしもなくって、
ちょっとした発見が契機になったのだとか。


その発見といいますのは

「オーストラリアを初めて訪れた日本人は山田長政かもしれない」

と記された講演原稿だそうなのですよ。


他ではこうした記述に行き会うことはなく、

あいにくその講演の講師は亡くなっていてこの仮説をどこから導いて
きたのかも皆目分からないながら、好奇心をくすぐられたことは間違いなさそうです。
著者ならずとも「おお!そんなことが?…う~む、あるかもしれんなあ…」と思ってみたりしますし。


だいたい日本とオーストラリアは赤道を挟んで北と南に対称的な位置にあって、
しかもその間にはどっぷり太平洋という状況ですから、遠いよなぁと思いますよね。


ところが、日本列島から南西方向には点々と島が連なり、

沖縄を経て台湾に至るとその南はフィリピン諸島となり、
ボルネオ、セレベス(スラウェシ)を経由して東に回ればニューギニアであって、

オーストラリアの北端はもはや目と鼻の先というふうになります。


もちろん、サイコロを転がして双六のコマを進めるように簡単な行程ではないにせよ、
やおら太平洋に漕ぎ出して…というふうに考えなければ茫洋たる海の果てというわけでもないのだなと。


先に触れた山田長政(1590年頃~1630年)は朱印船でタイに渡ったということですけれど、
東南アジアのエリアでは島伝いに渡って歩くような移動は当時からあってでしょうし、
長政がオーストラリアに行ったかどうかはともかく、長政の時代にオーストラリアに到達した日本人が
いても不思議はないのかなと改めて思ったりしたのでした。


ところでヨーロッパ諸国はとうに大航海時代を迎えていたわけですから、

島伝い云々といったことなしにそれこそおもむろに大洋に船出していったわけでして、

クックもまた「未知の南方大陸」発見を目指して南半球を航海して回っており、

そこで辿り着いたところの一つがオーストラリアであったと。


北半球の人間からすれば豪州北端が「近い」となりますし、
だいたい先住するアボリジニの人たちのご先祖は東南アジアあたりなどから北端を経て
内陸部に入っていったとも言われているようですが、

クックはいきなり大洋の中から現れ出でて大陸の東側に到達するという。

でもって、北端の土地と地続き地面かどうかなんてわからなかったみたいです。


ちなみに上陸地点は今のシドニーの中心街からやや南、

ボタニー湾でありますが、ボタニー(botany)は植物学の意。
クックの船に同乗していた博物学者らが

ヨーロッパ人には珍しい植物をたくさん採取したところから名付けられたそうです。


ついでに、シドニーという都市名はクック上陸の18年後、

労働力としての流刑囚をひきつれてやってきた初代総督のアーサー・フィリップが

その当時のイギリスの国務大臣シドニー卿にあやかって命名したそうな。


ところで、シドニーを含む地域はニュー・サウス・ウェールズ州となってますけれど、
オーストラリアという名称のない当時はニュー・サウス・ウェールズこそが

イギリス植民地としての名称で、1901年の連邦化に伴ってオーストラリアが正式国名となったのだそうです。


…とまあ知らないことだらけだものですから、

聞きかじり(読みかじり)をつらつら並べてしまいましたけれど、
オーストラリアの歴史としてはヨーロッパから見て「発見された」ところから一歩も出ていない…。
また、折りを見て違う局面を記しておくとしましょうかね。

もはや遠い目をして思い出さなければならないほどの昔になってしまいましたが、
小学校の修学旅行では(当時の定番ですが)京都・奈良を訪れたのですね。

(↑中学校の間違いでした…ははは)


その時に法隆寺 も東大寺も見学に行きましたけれど、

なんとはなしいちばん印象深いのは薬師寺でして、
それは何故かと言いますと「工事中だったから」という理由ともならない理由。


名物管長であった高田好胤さんがぶち上げたらしい白鳳伽藍修復の大事業。
おそらくはその当時、まさに金堂を修復中だったのではないかと思うわけです。


周囲に足場を組まれて、シートが掛かって…

と、どこまでが本当の記憶か分からなくなってますが、
それはそれでやっぱり印象深いことだったかなと。


その薬師寺に何十年ぶりかで訪れたところ、「あらま!すっかりきれいになってぇ」という感じ。
西塔も金堂も講堂もあって、なかなかにかっちりとした威容を誇っているではありませんか。
(回廊はあれでおしまいなのかな…)


それでもやっぱり、長い年月の間孤高を保ってきた東塔が見せる重厚さに比べると、
新築なったばかりの西塔は「何か軽いよねぇ~」の印象を拭えないという。
徒に有難がるのもなんですが、それでも歴史の重みってあるよなぁと思うわけです。


とまれ、そんなふうにかなり体裁の整った感のある薬師寺ですけれど、
白鳳伽藍のちょいと北側に玄奘三蔵院伽藍というのが出来ていたのですね。
この場所に元々(かつて修学旅行で訪ねた頃に)何か施設があったのかは知る由もないですが、
たぶん新しい施設なのではなかろうかと。


薬師寺の建物のあれこれは再建されねばならなかった経緯があったように

いろいろ御難(とりわけ1528年の兵火)に遭遇したものの、
御本尊の薬師三尊像は幾多の困難を乗り越え、今や国宝として金堂に鎮座ましましており、

再興なった大伽藍と併せてたっぷり大寺としての風格を漂わせているいるわけです。
(またまた仏像を「鑑賞」してしまってますが、この薬師如来像はいいお顔でらっしゃいますねえ)


が、ここに登場する玄奘三蔵院伽藍。
そこには大唐西域壁画殿という建物がありまして、
先年お亡くなりになられた日本画家の平山郁夫 さんによる壁画がびっしりと飾られている…
というより、この壁画のためにこの建物があると言ってよいのでしょう、きっと。


長安の都からシルクロード伝いに灼熱の砂漠や峻険な山々を越えて仏典を求めた玄奘三蔵が
通ったであろうそこここを十三枚の画にしたものですから、

玄奘三蔵院との言いもなるほどではあります。


それぞれが大作であって、それはそれで見事なものなのですけれど、
ふと思い立ってみますと「こりゃ、やっぱり美術館?」と思わざるを得ないところなわけですね。


もしかすると白鳳伽藍の再建と同様に、
こちらの新館(?)も写経勧進などを通しての浄財によって成ったものかもしれませんけれど、
薬師寺はいったいどこへ向かっているのだろう…などと考えたり。


言葉が適切ではありませんけれど、
もしかして「仏教のテーマパーク」を目指しているのではとも思ったりするのですよ。


素晴らしい建物、伝統の仏像、新たな壁画と見て楽しむ(?)ばかりか、
写経といったアトラクションも取り揃えてご用意してます、と。


元来檀家さんのいないお寺ということですのでいったいどうやって運営されているのかと思うわけでして、

薬師如来のあらたかな霊験でもって広く世の人々に信仰を集めることにより成り立っているのやもですが、
その路線を推し進めて今ふうにアレンジすると出てくる答えがこれだったということでしょうか。


ついでに言えば、講堂にある国宝の仏足石は奈良国立博物館へ、
東院堂の聖観世音菩薩立像は岐阜の博物館へそれぞれ貸し出されて、
あるべき場所にはレプリカが置かれていました。


美術館の世界で貸したり借りたりは相身互いであるとすれば、
そのうちに大きなお寺さんでも「全国仏像名品展」なんつう展覧会が開催されたりして…。


こうしたことは必ずしも薬師寺ばかりのことではないでしょうし、

ちと揶揄が過ぎたようではありますけれど、
どうもここへ来てまたしても礼拝か鑑賞かの渦に巻き込まれんばかりになってしまうという。


改めて薬師如来像を(本来のあるべき行動として)拝することで、

そのみずかきのある御手にすくい上げていただき、
もやもやを打ち払ってもらいたいところでありますよ。

(あれこれ考えずに薬師寺を見て回ると、感心が先だってしまうだけにジレンマは大きい?…)

そういうえば見たことなかったなぁと、まるで戻り梅雨のような雨もやいの休日に
3時間強の長尺映画「レッズ」を見てみたのですね。


レッズ 劇場公開25周年 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]/ウォーレン・べイティ、ダイアン・キートン,エドワード・ハーマン,イエールジ・コジンスキー


「世界を震撼させた十日間」というロシア革命に取材した著作で有名なジョン・リード

(劇中ではもっぱらジャック)を主人公にウォーレン・ベイティが制作・主演した作品であります。


アメリカが第一次世界大戦に参戦するかどうかを巡る議論が喧しい中、
末端の労働者は過酷な環境に置かれて、これを組合に大同団結させるオルグ活動が盛んに行われた時代。


戦争さえも資本家にとっては金儲けのタネでしかなく、
「どれほど犠牲がでようと知ったこっちゃない、要するに儲かればいい」ということを説いて、
兵士の使い捨ても労働者の使い捨ての同様だとばかりに、「参戦反対、革命を!」という声が
アメリカにもあったのですね。


やがて、1917年にロシアがいち早く社会主義革命を成し遂げるや、
世界中の同志はコミンテルンに結集し、世界革命を目指すわけですけれど、
ジャーナリストとしての正義感に燃えていたジャック・リードはだんだんと労働者をけしかけんばかりに
革命の最前線に立つことになっていきます。


自分の理想とすること、「これがいいんだ」と思うこと、それを突き詰めて考えるあまり、
もはや冷静なものの見方というのができなくなっていく様を見るのは苦しいですね。
リードにとって「よかれ」と思っていることが「本当に?」と思えてしまうのですから。


資本家が労働者を搾取する、これはよろしくない。
労働者の意見が取り入れられるようにしよう、それはそうだろうと。
なれば敵対勢力を打倒せねばならん、そうかもしれない…
それには多少の?犠牲は止むを得ん、ちょっと待てよっと。


フランス大革命もその後の革命も、武力を背景にしなければ達成できないものであったとはいえ、
そうせざるをえない時代でもあったわけですよね(と、それ自体肯定できるかどうかは別として)。


そんな歴史の後に訪れた1917年のロシア革命。
弱者なればこそ強者に立ち向かうのに、武力を持ってしなければ如何ともしがたいとはいえ、
政権を握っても「未だ基盤、磐石ならず」と敵対勢力を排除していきます。


そして、落ち着いて考えればとうに強者の側に立ってしまっても
「革命の完遂のためには致し方なし」とばかりに引き続き武力行使がなくなることはない…。
この守りに入らざるを得ないところが、非常に痛い。


この部分だけみれば打倒された旧体制と変わるところがないわけですし。

かつてベンサムは「最大多数の最大幸福」と言いましたけれど、
地球上の全員が等しく幸福であるという状況は(理想ではあっても)およそ現実的でないとすれば、
この言い方にもまた「しゃーないね」感がないではない。


でも、これは上から目線でマクロ的に見て弱者切捨ての論理にしてはまずいのではないかと。

あくまで個々の幸せ感がベースになって、それが寄り集まるから「おお、多くの人が幸せなんだね」、
あながち今の政治の舵取りが間違ってはいないのだねと。

(ベンサムの趣旨も本来的には後者のはず)


ところが、革命を主導する側はどうも上から目線ですね。
人々の幸福の実現のためにあるはずの革命が、「革命」のためなら犠牲はやむなしになりますから。
そもそも「革命だぁ!」と言わざるを得なかった本来の理由を忘れちゃったんでしょうか。
フランス革命後のロベスピエールたちもそうなら、ロシア革命の主導者たちも。


今になって考えてみると、痛いほど歴史の教訓が身についてますから
(もっとも日本の場合は国民性もあるかもですが)
端から何をしたって変わらないという諦め感がありますね。


そしてまた「変わる瞬間」というのは確かにあるとは思っているものの、
変わった後の「長続きしなさ」、結局おんなじじゃん!どころかもっと悪くなってる…
みたいなことを歴史から学んでしまってるのではないかと。


映画を見ながら、疑うことなくいたってシンプルに「理想に燃える」姿は何やら麗しくも思いつつ、
単なるノスタルジーだろうなぁとも思ったりするのでありました。


思うところは、一人一人が、
取り分け今のご時勢で「勝ち組」と言われてたり、言われるべく頑張っちゃってる人たちが
「待てよ」と考えることが現代版革命かなと。

改めて「最大多数の最大幸福」は個々の人が最大幸福感を共有できることだと思えば、
何かしら世の中も変わりそうな気がするのですけれど…。