駿豆紀行の話の中では

どうも清水次郎長 はじめ幕末維新に関わることばかりが出てきてしまう感がありますので、

ちと目先を変えて、違う時代を扱った本を読んでみたのですね。


時は応仁の大乱を経てなお火種のくすぶり続ける頃。

八代将軍義政が隠居した後、ころころと移り変わる足利将軍の権威はすっかり陰りを見せ始めておりました。


領地の国人の争乱や一揆の収拾に追われ、またその中で暗に陽に守護大名どうしの駆け引きが展開、

やがて登場する戦国の世を代表する歴史上の代表選手たちに、その舞台を用意するのでありました。


そんな最中、細川管領家にあって権謀術数の限りを尽くした人物。

応仁の乱で東軍大将を務めた細川勝元の嫡男、政元。

足利将軍も日野富子も、ひしめく守護大名たちも手玉にとって「半将軍」とまで呼ばれたそうな。

この細川政元の一代記が、真保裕一さんの小説「天魔ゆく空」というわけです。


天魔ゆく空/真保 裕一


手にとった元はといえばさる書評にあった紹介文なのでして、こんなふうであります。

室町幕府の将軍の首をすげ替え、比叡山延暦寺の焼き討ちや一揆の殲滅などで圧倒的な力を誇示したものの、家臣の反逆にあって殺されてしまった武将、と言えば誰しもが織田信長のことだと思うだろう。

だが、その信長の七十年余も前に、同じような歩みを示した戦国武将が存在した。

こんなふうに言われてしまうと、「どれどれぇ~」と思ってしまったわけなのですよ。

歴史上、細川政元は「希代の変人」とされるのが常であるらしいのですが、

変人扱いされるあれこれの奇行には実は深い意味があったのだとして、

作者はただならぬ策謀の人・政元を作り上げているという。

なかなかに「作り込んだなぁ」と思わせてくれる話になってますね。


ただ、この小説の筋立てのせいばかりではなかろうとは思いますが、

(というのも、そもそも政元が今の今まで一般的には埋もれた人物だったわけですし)

どうしても織田信長 と比べて、行うことのポリシーが明確でないというか、

必ずしも一貫性があるようにも思えないというか…。


信長が掲げた「天下布武」はある種、天下人宣言みたいなものでもありますけれど、

政元の言う「細川のため」は、そうは言いながら実は「策士、策に溺れる」過程を

楽しんでるんじゃないかと思えてしまうところがあります。

まあ、出自の複雑さがバックボーンとして大きく影響しているにしても。


面白くテンポよく読ませてもらったものの、こうした部分があるからでしょうか、

いま一つスカッとしない幕切れに向かってしまうのは致しかたなしですかね。


ということで、またひとつ日本史の中で分かりにくい時代に関する知恵を

つけてもらったのでありました。


そういえばこの時代、関東は関東で勝手な争乱を繰り返し、

ほどなく太田道灌 やら伊勢新九郎 やらの出番になってきますが、

鎌倉に入ろうとして入れず、伊豆に留まった堀越公方がいた時代ということであれば、

昨今の伊豆の旅話とも全く縁なしとは言えずかな…と思ったりもするところではあります。

伊豆での目的地のひとつは土肥からバスで1時間ほど南へ下った松崎にあるのですが、
土肥に寄ったのもこれまた縁でありますから、「土肥といえばここしかない!?」という
「土肥金山」に立ち寄ってみることにしたのですね。


土肥金山


歴史的にはおそらくそれなりの由緒(?)があろうところなはずですが、
もはや史跡というよりはすっかり「娯楽の殿堂」的なアトラクション施設となっておりました。
それでも「見て知ってやってみる」という三拍子には、それなりの面白さもあるものですね。


まずは金鉱坑道の一部を整備した観光坑道による坑内めぐりでありますね。
支柱を立てたり、採掘したり、坑道に空気を送ったり…といった作業風景を模した人形が
ところどころに置かれているのはよくあるパターンでありますけれど、
暗がりでふいに出くわすと結構肝を冷やすのですね(って、子供くらいかな・・・)。


坑内作業をする人形…


冷やすといえば、そもそも坑道の入り口に近づいただけでかなりの冷風が吹き渡っているのでして、
富士山の方に富岳風穴やら鳴沢氷穴といった天然の冷蔵庫があることは知ってましたけれど、
さほど地中にもぐるでもなく、基本的には平坦な道であるのにこれだけの冷気があるのはどうしたことでしょう。
想像力の逞しい向きなら「よもや、落盤で無くなった方々の怨念が…」、んなこたぁ、ありませんでしょうけど。


お次は資料館でありまして、金鉱採掘に関するあれこれを解説してくれていたりするわけですが、
もっぱら観光客の目を引いていたのは巨大金塊などの展示コーナーでしょうか。


世界一の巨大金塊



なんでもギネスブックに登録された世界一の巨大金塊だそうで、

重さは250kg、時価にしておよそ12億円だそうで。

まあ金額はともかく、重さの方でいうと金というのは重いものですなぁと改めて。


いわゆる金の延べ棒を試しに持ってみたり、

はたまた江戸時代の千両箱を持ち上げてみるということができるようになってますけど、いやあ重い重い!


千両箱を持ち上げるには足腰ふんばって…


鼠小僧じゃあありませんが、お江戸を荒らしまわる盗賊が千両箱を肩に担いでひらりと屋根に飛び乗り、
タタタタタと屋根伝いに遁走する…なんつうことはまず出来っこないということがよぉく分かりました。


さて、見て知っての後はやってみるコーナーでありますが、砂金採り体験というわけです。
温泉の水槽の中に砂がしいてあり、その中から砂金を掬いだそうというものですね。


「一獲千金のチャンス!さぁ、砂金がたくさん見つかればあなたも大金持ちに!」ということではなくって、
砂金採集の作業を体験するのが趣旨であって、水を含んだ砂は重いもので、

掬い上げては篩いをかけての繰り返しはなかなかに重労働であったなと思うのですね。


とはいえ、重労働を体験してお終いではインセンティブがありませんから、
係りの方が4つある水槽に順繰り砂金を撒いていますから、

多少は砂金が採れるようになってはおるわけです。


制限時間30分で平均的に6粒ほど(といっても、すっごく小さいのですよ)らしいですが、
何十粒と発見して名人として名前の張り出されている例も(なんだか大食い店のようですが)。


そんな中で、欲のない者は篩い方がいい加減なせいか(単に要領が悪いともいいますが)、
ほとんど見つからない者もいるわけです(って、自分のことですが…)。


ま、そこんところは昔の人が金を採集するのにえらく苦労していたのだなということが
分かりましたからいいんですけどね。
おっと、ところでこの土肥の金鉱ですが、昭和40年代まで採掘されてたと知って、
これがいちばん驚いたことかもしれませんね。


ところでところで、先に乗った駿河湾フェリー

なんだって清水と土肥を結んでいるのだろうと思ったのですが、
勝手な想像ながらもしかして…土肥で算出した金を貿易港である清水に運んだのが始まりなのでは・・・。
ま、調べれば分かることでしょうけれど、少々そんな夢のある想像にとどめておくとしましょかね。

さすがにもうそろそろいい頃合いだろうとでかけたのが、
東京・六本木の国立新美術館で開催している「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 」展でありました。


9月5日の会期終了に向けて駆け込み的な人たちもいるかなとは思ったものの、
やっぱり見ておくかと思ったわけです。


ワシントン・ナショナル・ギャラリー展@国立新美術館


開場間際には入り口に行列が出来ていたものですから、それだけで深い吐息をついてしまうという。
さりながら(意を決して?)入ってみますと、入り口近辺こそ人だかりになっていましたけれど、
さらりと流して先へ進むとガラガラの状態。いやあ、うれしい限りでありました。


そして、時間が経つにつれてどんどん込み合う館内を行きつ戻りつしながら見ていたところ、
1.印象派の誕生まで
2.印象派
3.紙の上の印象派
4.ポスト印象派以降
というパート分けの中で、人の滞留はもっぱら1と2に甚だしいことに気付いたのですね。
つくづく印象派 人気の根強さを感じるという。


というところで、本展で個人的に「ビビビッ!」と来た3点に触れておこうかと。

会期終了間際で今さらの感もありますが、京都巡回展を心待ちの方もおいででしょうし。


ポール・セザンヌ「赤いチョッキの少年」

さて、1点目はセザンヌ の「赤いチョッキの少年」(1888-1890年)。
セザンヌの影響が
ピカソ ブラック によって始まるキュビスムを用意したことは

今さら触れるまでもないことですけれど、
これほどはっきりと「繋がっていく過程」を感じさせられたことはあまりないのですね。


もちろん静物画のあれこれや、サント・ヴィクトワールと共に描かれる古城の矩形などからも
キュビスムへの道を感じたりしないではないのですが、
この絵は誰が見てもタイトルどおりに赤いチョッキを着た少年を描いたことが明らかなほどに

はっきりした具象画ながら、ピカソが香る、ブラックが香る、

はたまたキュビスムが香り立ってきてるのではないかと。


写実的な肖像画をキュビスム風絵画に変換していくソフトウェアがあったとしたら(既にあるかもですが…)、
幾段階かを経てキュビスム風に辿り着くまでのかなり早い段階で止めると

こんな感じになるのだろうなぁと思ったわけです。


理屈では説明しにくいですし、元々セザンヌのタッチがそういう雰囲気だとも言えますけれど。

セザンヌだけで長くなってきてますから、さっさと進みますがお次はスーラへ。


ジョルジュ・スーラ「ノルマンディのポール=アン=ベッサンの海景」


「ノルマンディのポール=アン=ベッサンの海景」(1888年)という作品です。


シニャックに比べると見る機会の少ないスーラの絵。
その取り分け細かな
点描 故に動的な印象が拭い去られて

ストップモーションに見えてしまうことにもなりますが、
この絵は海の景色を描いて、その点描の個性を逆手に利用したとも言えるかなと思うわけです。


海は本来的に動的なものであって、例えば写実的にどう波を描くかなどといった点で、
たくさんの画家が苦労して、工夫を重ねてきましたよね。

北斎しかり、クールベ しかりと、挙げていったらキリがないくらい…。


そしてどんなに凪いでいたとしても、やはり海は確実に動きを伴っている。

ところがスーラの絵は見事に止まっていますね。
自然のありようとは異なって、凪いだ海が鏡のように静かな水面になることはあり得ないのですが、
人の受け止め方感じ方、印象としてはあるわけです。
スーラにはそれを絵にして見せることができるのですねえ。


最後にも一つ。ロートレックの「カルメン・ゴーダン」(1885年)です。


アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック「カルメン・ゴーダン


どうしてもポスターなどのグラフィカルな仕事に目が向くロートレック でして、
それらの作品は確かに強い引力を持っているやに思うわけですが、
「女の人を描くといつも口がとんがってるのかな」とは早すぎる思い込みであるわけです。


この横を向いて表情もはっきりしない女性の小さな肖像。
憂いの放射といいますか、この女性が何を思っているのだろうかということを

否が応でも考えてしまいますよね。
ロートレックの「絵ぢから」を改めて感じずにはいられませんですねえ。


ということで、ワシントン・ナショナル・ギャラリーから来た80数点のうちから、

ほんの少しだけ、3点だけに触れました。
3つともが印象派の範疇に無い作品とは我ながら個性の反映と思いますが、
もしかするとやっぱり印象派好きというわけではなさそうだと、今さらながら…。

駿豆紀行と言いながらいったいどんだけ清水に長逗留してるんだぁと我ながら思うのですが、
実際のところは次郎長ではありませんが清水では一宿一飯(実際には三飯ですが)の恩義に

預かったのみでして、清水を離れていよいよ伊豆へと向かう旅路になるわけです。


移動に使ったのは、清水港と西伊豆の土肥港とを結ぶ駿河湾フェリー。
この海を渡っていくというのが、清水であれこれ見てきたところと実にぴったりくる最適の移動手段と
一人悦に入っておるのでありますよ。


フェリーの乗り場であるマリン・ターミナルへの道すがら、また次郎長関連の碑がありました。

次郎長宅跡之碑


「次郎長宅跡」と彫られていますが、先に訪れた船宿「末廣」 は元々この地にあったのだとか。
ここだったら海はもう目の前ですから、なるほどなあと思ったわけです。

清水港


さりながら今の清水港はこんなぐあいですから、次郎長もびっくりというか、
もしかすると幕末明治と比べての発展ぶりには目を細めるやもしれませぬが。
と言ってるうちに(?)、土肥からフェリーが戻ってきました。


駿河湾フェリー


前方のハッチを開けて、胴体に積んできた車をせっせと吐き出しています。
吐き出し終わると、乗船開始ということに。


これまた本来であれば、というより天気がよければですが、

駿河湾を横断しながら富士山を拝めるはずながら、

晴れてはいても低い雲がたぁくさんあって如何ともしがたい状態。


船内ではキートン山田の声とまるちゃんのお姉ちゃんの声であれこれ案内してくれるのを聞きながら

ぼんやりと海を眺めているうちにすっかり自分が舟を漕いでしまったらしく、
気付いたときには到着!となっておりました。


土肥港到着


三保の松原で見たのと反対に、今度は海の向こうが清水の方なのでしょうね。
それにしても、荷揚げのクレーンが林立する清水港とは打って変わってのどかな土肥港のようす。

土肥港から清水方向を望む


振り返るとすぐに山が迫っているのが伊豆らしい特徴でしょうけれど、
ずいぶん変わったモニュメントですよね。
これほど巨大な「ぐわし!」には出会ったことがありません。
(と、分かる人にしか分からないひと言)

土肥港の巨大ぐわし!


…ということで、伊豆の駆け足旅の幕開きでございまする。

山岡鉄舟 ゆかりの全生庵 を訪ねた折りに、ちょうど昼飯どきになったものですから

何かしら食べ物屋でもないかなと思ったところにうまいこと登場した蕎麦屋さん。

谷中 そば慶喜


かなりしっかりとした腰のある蕎麦を食して

「これもまた江戸っ子っぽいふうかな」と思ったものですが、
まさかと思いつつご主人に徳川将軍家との関わりを訪ねてみたのですね。
何しろ店の名前が「そば慶喜」でありますから。


まあ予想通りに全く関係なかったのですけれど、肖ったといえば肖ったようで、
「ほら、だってそこにお墓があるじゃない」と。


言われてみれば、徳川慶喜の墓所のある谷中霊園はもそっと歩けば辿り着けるところ。
これも何かの縁でありましょうから、やっぱり覗いていくかと思ったわけです。


まずは管理事務所に寄って案内図はないかと訪ねると、
「あります…が、園内整備の寄附をお願いしておりまして…」と沈黙する担当者。
なんだか妙な圧力を感じさせるくらいなら、売ってる方がよほどすっきりするのにと思ったり。


まあ、とにかく管理をしている東京都公園協会が選定した?

著名人の墓碑76箇所が記された地図を入手しましたが、
確かに名前は聞いたことはあるものの、わざわざ訪ねてみたいと思う墓所があまりないなぁと。


それでもあわよくば肖って…といくつか参ってみましたが、

やけに広い区画を使う方々はしっかり柵で囲われて
近寄れないようになってまして、そうした一つがこちらです。

ニコライ大主教之墓


無理無理写真とったりしてしまってますが、正教会のニコライ大主教のお墓でして、
先ごろジョサイア・コンドル がらみでニコライ堂 を訪ねたものですから、御礼方々お参りに。

とまれ、こうした霊園の宗教を問わず受け入れるところがわかりますよね。


そして、またしっかり閉ざされた一角ながら葵の紋所が目立つこの場所。

徳川慶喜の墓所は閉ざされて…


幕府瓦解の後は駿府に移っていた徳川慶喜ですけれど、
明治35年(1902年)には公爵となり、貴族院議員にもなったそうでして、
東京に衣替えした江戸の町に戻っていたのかもしれませんですね。そして谷中に眠るという。
それにしても何と大層なお墓であることか。円墳まがいですものね。

徳川慶喜之墓


渋沢栄一の墓所も大きな区画になっておりましたが、
これもまたがっちり錠がおりた木立の中に(外からはよく見えない状態で)静かに眠っておられるようです。


小さめながら個性がある墓石となりますと、画家の横山大観 あたりかと。

横山大観之墓


まあ、墓石に強烈個性を出すのが良いのかどうかは分かりませんけれど、
あんまり主張しないで(といっても本人の趣味でないかもですが)ひっそりしておられる方々もいますね。

宮城道雄之墓


円地文子之墓


鳩山一郎之墓


上から作曲家の宮城道雄、小説家の円地文子、そしてついでに政治家の鳩山一郎といった方々。
どうぞ安らかにお休みください。


他にも地図を頼りにいくつか探してみたのですけれど、
多摩霊園雑司ヶ谷霊園 に比べてどうも見つけ難いなぁという印象があります。


かなり区画ははっきりしているものの、

どうも外縁部がいびつな土地ならではの分かり難いさがあるのかもです。


と、なんだかこうしたことを書いていると、いっぱしの「墓まいらー」のようですよね。
先に多摩霊園も雑司ヶ谷も行っているし、

こうなって来ると後は青山とか小平とかあちこちにも行かねばとなりますが、
まあ何かのついでと考える時点で「墓まいらー」失格でありますね。