西伊豆の松崎
から南伊豆の下田へとバスで抜ける山あいの街道沿い、
何の変哲もない田舎町のバス停で途中下車します。
特段何かがあるようにも思わなれいような、田んぼと畑と人家とがモザイクをなす辺りを歩いていると、
自分の郷里に帰っていくとしたら、さもこんなふうなのかもしれんなぁと思ったりしたのですね。
舗装はされているものの、全くといっていいほど車通りのない上り坂をえっちらおっちら越して、
バス停から歩くこと15分、そんなよもやの場所に上原近代美術館はありました。
下田の方に近代絵画のコレクションを持つ美術館があると知ったのはもうずいぶんと前のことですけれど、
ようやく着たなぁの感覚は、ゲッティ・センター
にたどり着いたときのよう…といっては大げさですので、
まあ、京都の大山崎山荘美術館
にたどり着いたときのようとくらいにしときましょうか。
上原近代美術館は、その名のとおり大正製薬の上原さんの個人コレクションを公開する器でありまして、
訪れたときには「近代における古典表現-ルノワール、ドラン、ピカソらのクラシック」というタイトルで
コレクション展が開催されておりました。
リーフレットによれば「セザンヌ
、ルノワール
、マティス
、ピカソ
などの西洋近代絵画のほか、
梅原龍三郎、安井曾太郎、須田国太郎、河合玉堂、伊東深水 など日本の絵画」その他の
コレクションの中から様々なテーマを設けて作品を入れ替えて展示しているそうな。
コロー
らしさがとてもはっきりして好感の持てる「サン・カテリナ・レ・ザラスの洗濯場」(1871年)ですとか、
マティスの「鏡の前に立つ白いガウンを着た裸婦」(1937年)などなど素敵な作品がありましたけれど、
洋画、日本画含めて日本人作家の作品に注目!という内容ではなかったかと。今回展はですけれど。
伊東深水の「縫い針」(1960年頃)に見る細い糸とほつれ毛の醸す情緒は深いなぁと思いますし、
香月泰男の「撫子」は仕上げ途中の壁のようなゴツゴツした背景に描かれた
一輪の撫子がとにもかくにも健気で健気で。
しかしながら、一番の注目は
洋画の須田国太郎作「烈日下の鳳凰堂」(1936年)ではなかったかと思うのですね。
常々日本らしきものを描いた油彩画には「何か違う感」を抱き続けているわけですけれど、
本作も鳳凰堂と題されているからには宇治の平等院であって日本っぽいもの以外の何ものでもないわけです。
にもかかわらず、あたかもモネが描くところの大聖堂よろしく何とも大胆な筆致故に
タイトルを見ずに絵を眺めれば堅牢な石造建築物と見紛うばかり(とは、言い過ぎかもですが)。
全くもって個人的な感想ではありますが、平等院鳳凰堂を巧く描いているかどうかということよりも
絵画としての迫力にまず捉えられる点で、
先に言ったような「日本らしきもの」云々はすっ飛んでしまうのですよ。
という具合に何点かの作品に惹きつけられもしましたので、
おそらくは展示内容も変わればまた別の見ものもあろうと思われるところではあります。
が、如何せん展示点数が少なすぎるのではないかと。
比べるならばニューオータニ美術館
よりほんのちょっと多いかなという感じですから、
都心に出たついでにちょこっと寄れて「ああ、最高の時間潰しだった」というならいざ知らず、
はるばる出かけて行って「これだけ…」とは贅沢な言い分とは知りつつも、拍子抜けの感もありという。
ま、併設の上原仏教美術館とそれに(何か関わりがあるのかはよく分かりませんが)
やはり隣にある達磨大師とを巡るつもりで行けば、
その甲斐もあったということになるのかもしれませんねえ。












