両国界隈散歩 の番外編みたいな感じですが、

以前から一度訪ねてみたいところが浅草橋にありまして、
平日の午後1時から4時までしか開いていないということからなかなか行けずにいたのですね。


浅草橋といっても隅田川べりに近いものですから、
両国まで来ていれば隅田川を渡って目と鼻の先ということで足を伸ばしたというわけなのですよ。

両国橋


まずは両国橋を通って隅田川越えでありますけれど、実は昔から気になっていたのですが、

この地球儀みたいな代物はいったい何を表しているのでしょう。
まあ、単なるデザインなのやもしれませぬが。

神田川が隅田川に注ぎ込む


ただ、橋の上には柱も何もない造りになってますので眺めはいい…

といってもさほどの眺めではありませんけれど、
差し当たり向こう岸には神田川の合流点が見えています。

両国橋より東京スカイツリーを望む


そして、振り返るとまたしても東京スカイツリーが…(だんだん有り難味がなくなってきますよね)。
それにしても、のろのろ台風が過ぎたばかりの頃でしたので、

実に空が妖しげで隅田川もコーヒー牛乳になってました。


渡り終えたら。右折して先ほど見えた神田川の最下流の橋に向かいますが、この橋が柳橋。
往時の賑わいほどではないにしても、今でも船宿が並んで昔を偲ばせるところはあろうかと。

柳橋から神田川


…ということで、柳橋を過ぎてそのまま進み、

JRの高架にぶつかったところの右手角に目的地はありました。


いったいどこを目指しておるのか、さも焦らしているかのようですが、
実はいささか期待外れだったものですから言い出しにくくて…。

とまれ、たどりついたところというのは「日本文具資料館」でありました。


何とはなし文房具ってわくわくさせられるところがある(誰もがそうではないですね…)といいますか、
さぞやいろんな文房具が展示されておろうなぁと思ったわけです。


確かにいろいろはあったんですけれど、古いもの中心で、しかも歴史的な!というより
中途半端に古いものがかなり雑然とおいてあったりするものですから、
あたかもハードオフのジャンク品コーナーを覗いているような印象でして。


「ほぉ!」と思ったのは、徳川家康の鉛筆と伊達政宗 の鉛筆でしょうか。
いずれもレプリカですけれど、「鉛筆、使ってたのかぁ…」とは思うわけです。
もちろん、今現在普通に使われている鉛筆とは似つかぬものですけれど。


取り分け伊達政宗の鉛筆とされるものは、もしかすると国産第1号かもしれないのだとか。
怖いもの知らずというか、反って東北にいたからこそというか、
さすがに独自の対外貿易を望んだ伊達政宗らしく、
海外からもたらされた鉛筆も領内で作ってしまおうという新し物好きなところが出たのかどうか。


まあ、いろいろ出かけてみる中には当たりもあればそうでないのもあるということで…。

開港された下田には、ペリーもハリス も当然のことながら海からやってくるわけですね。

ということでこれを追体験?(規模がやたらちっちゃいですが)するために、
下田港の湾内めぐり遊覧船乗り場を目指したのでありました。
途中、下田港から遥か太平洋を見据えておりましたよ、坂本龍馬像も。

龍馬志之像@下田港


ところで、この下田港めぐりの遊覧船、箱根 の海賊船に対抗して?
凝った見た目を持っているのでして、こんな外観をしています。

遊覧船サスケハナ号


船体中央の外輪部分に「SUSQUEHANNA」と書かれているとおり、
黒船と呼ばれたペリー艦隊の旗艦サスケハナ号を模してあるという。


とはいえ、本物の「USS Susquehanna」は2,450トンであるのに対して、
こちらの方は127トンとかなり小ぶり、ま、遊覧船ですから。


それはともかく、このサスケハナ号の船名には
日本人漁師佐助とその許嫁お花の哀しい物語がある…はずもなく、
ペンシルバニア州を流れるサスケハナという川の名前から取られたそうでなのですね。
ちなみに、ネイティブ・アメリカン の言葉で「広く深い川」の意であるとか。


とまれ、カタカナにしてしまうと、どうも日本語の語感的に

「たった四杯で夜の寝られぬ」黒船とはイメージが合わない気がしないでもない…。


出航してしばし後、下田の街の方を振り返るとこんな具合。

サスケハナ号から下田の町を望む


いかにも伊豆の港らしく、すぐ後に山々がひしめいておりますね。
こうした山並みの眺めは、おそらくはペリーやハリスが湾内に船を進めていった時に見えたものと
さほど変わっていないのではなかろうかと思ったりするわけです。


そして、遊覧船とはいえ、港内をしっかと守る防波堤の外にでますと、
いかにも外洋に出たな!という気持ちの高ぶりも少々感じることができるという。


下田港から外洋へ出てみれば


とまあ、一瞬なりともペリーやハリスになったかのような疑似体験をすることができた後は
下田駅に出て荷物を預け、町なかを散策と思っていたのですが、
駅に到着して、そこに見たものは?!

伊豆急 黒船電車


ぬぁんと伊豆急が誇る「黒船電車」ではありませんか!
JRの特急踊り子号なんぞに比べると格段に快適な車内にも関わらず、普通列車でサーチャージも不要。
何しろ海側に面した座席は固定的に海の方を向いて配置(その分、座席数は少ない)してあるという、
完全に眺望優先型車両なのですよ。


しかも下田・熱海間は差し当たり一日二往復しかしていないとなれば、
これまた「ここで会ったが百年目」とばかり、乗るしかないわけです。


下田の史跡めぐりも捨てがたいが、黒船電車も捨てがたい。
最後はまもなく発車のタイミングに釣られ、

遊覧船に続いて二度目の黒船乗船(乗車)となったのでありました。

黒船電車プレート


ということで、期せずして一気に熱海に出ることにしましたけれど、
車窓からの風景をご覧くださいませな。

黒船電車から大島を望む


写真では大海原に浮かぶ伊豆大島が見えるのみですが、
実際には初島、大島、利島、新島、そして式根島や神津島まで見えてたんじゃないですかね。
もう太平洋ひとりじめです。


黒船電車に揺られつつこの唐突な旅程変更のその後を頭の中で考えておりましたが、
熱海に着いたらも一つ美術館に寄るか…と決意して、眺望に身を委ねるのでありました。

すったもんだの騒動の挙句、1854年に結ばれた日米和親条約によって開港された下田。
その2年後に在日米国総領事としてタウンゼント・ハリスは下田に着任、
玉泉寺に総領事館を開設するのですね。


伊豆急下田駅から南側に広がる下田市街には

黒船、開国、ぺリー、ハリスに纏わるあれこれがあるのですけれど、
この玉泉寺はいささか離れたところにありまして、下田港を挟んで市街地とは向こうとこっちの関係。


いったい何故ここに?と思いますが、
和親条約に付随する下田条約によって米国人が来航した際の休息所に玉泉寺があてられたのだとか。
やっぱり最初は恐る恐るの感が、この微妙な距離に現れたのでしょうかね…。


ということで、宿から程遠からぬ場所に玉泉寺があったものですから、
市街地はさておき、ぶらぶら歩きで行ってみたのですね。ハリス記念館もそこにあります。


小さな山の斜面にあるお寺さんで、少々の石段を登り切るとやおら大きな碑が建っていました。


米国総領事館旗掲揚之地 碑


そして記念館はもとより、境内のそこここに

200年余りの鎖国の後に開港場となった下田ならでは史跡が見られるわけなのですね。


ディアナ号乗組員の墓所

例えばこれは、ロシア使節プチャーチン提督の船であったディアナ号乗組員の墓所でして、

なんでも安政の大地震 による津波で大破したディアナ号は、

修理のために西伊豆・戸田へ回航途中、沈んでしまったのだとか。

そのときの犠牲者がロシアから遠く離れたこの地に葬られているという。


黒船(ペリー艦隊)乗組員の墓所


一方こちらは、ペリー艦隊、いわゆる黒船乗組員の墓所。

日本への航海途上や下田について亡くなった乗組員(中には雷のときにマストから転落死とか)を

埋葬したということで、日本で最初の外人墓地なんだそうですよ。


と、またお墓ばかりではなんですから、変わったものもご覧いただこうかと。

米国総領事ハリスにはここ玉泉寺が執務室であり、また住まいでもあったわけですが、

慣れぬ異国での生活には苦労があったようで、とりわけ食生活には難儀をしたらしい。


日本最初の屠殺場の跡


看板を読まないと「いったいここが何だってつうの?」という場所ですけれど、

看板にいわく「日本最初の屠殺場の跡(屠牛木)」とあります。


国木田独歩 に「牛肉と馬鈴薯」なんつう小説もありますように、

明治に入ると牛肉を食べることも一般化するのかもしれませんが、

江戸期に(全く食べられてなかったわけではなさそうなものの)牛肉を食すのが

普通のことでなかったと窺い知ることができますね。


ハリスは「あ~あ、ビフテキ食いてえなぁ」と思ったところが、大騒ぎ。

写真に見える木に繋いで牛を屠ったところ、村人たちは「屠牛木」と語り継いでしまうのですから。

ただ下田ではいざしらず、国内でも牛肉を食べていた地域(?)もあったとなれば、

「日本最初」は眉唾ものですね。


牛肉と同様にハリスが望んだものに、牛乳があります。

牛乳もまた当時の日本には馴染みないものだったのでしょうねえ。

こっちもまたこんなふうに碑(牛乳の碑)ができてしまうのですなぁ。


牛乳の碑


それにつけても、異文化コミュニケーションの難しさを偲ばせる玉泉寺ではありました。

江戸東京博物館 まで出かけるついでですので、
どうせなら両国の界隈を歩いてみるかと思ったのですね。


多少の下調べをしたところ、このところの興味の赴くところに関わるところやら
そうでなくとも「ほぉ~」と思うものやらいろいろ発見できそうだなということで、いざ出発!


両国国技館は幟旗だらけ


両国といえば国技館というわけで、駅前からしてにぎやかなようす。
(と言っても、個人的には蔵前国技館という方に馴染む感がありますが…)


両国駅前の力士像


妙に色鮮やかな幟旗がはたはたしてますし、駅から京葉道路に抜ける道々にはこんなものも。
ちゃんこ鍋屋もあちこちに見えて、相当に相撲色が強いなぁと。


さりながら、今回は相撲は措いといて国技館の前をすすっと過ぎて北へ歩くことしばし。
オフィス・ビルの片隅にその碑はありました。


舟橋聖一生誕記念碑


「舟橋聖一生誕記念碑」とあります。
花の生涯 」を先ごろ読んだばかりでありますので、何となく偶然の出会いとも思えぬような…。


と、その碑から通りを一つ渡りますと、旧安田庭園の入り口。
元禄期に笠間藩主だった本庄宗資によって築造された庭園で、
明治以降安田財閥の所有となってこの名があるのだそうですが、結構こぢんまりしてるなぁと。
庭園の池越しに国技館を臨むとこんな具合。


旧安田庭園から国技館


真ん中の上の方に、何やら四角な物体がありますが、それが国技館の屋根のてっぺん。

さて方向を変えてみますと、さすがに東京スカイツリーが近いこと。


旧安田庭園から東京スカイツリー


庭園を斜めに横切って入り口から北東方向に抜ければ、その先は横網町公園になります。
両国だということも手伝って、これを「よこづな」と勘違いされる方がいますが「よこあみ」なんですよね。
公園とは言いながら、真ん中には大きな御堂がどお~んと。


東京都慰霊堂


いったい何ぞ?と思いますが、

何でも元は関東大震災で亡くなられた58,000名に及ぶ方々の遺骨を納め、
後には東京大空襲での死者の遺骨も併せて安置されている「東京都慰霊堂」というものだとか。
このようなところにこのようなものが…下町エリアで育ったわりには全く知りませんでした。


復興記念館


隣接する復興記念館で震災による焼け跡から掘り出され、

高熱のためにひしゃげた品々の展示も見てきましたが、
下町の住宅密集地だっただけにこの近隣の被害たるや凄まじいものがあったのですね。


さて、横網町公園からは清澄通りを南下しまして、途中東に分かれる「北斎通り」なる看板に

「こっち方面の葛飾北斎ゆかりはまた別の機会に」とつぶやきつつ、
電車のガードをくぐって京葉道路も渡って右折、本所警察の脇を裏通りに入っていくと、

両国公園に出るのですよ。


さきほどの横網町公園より格段に小さい、いわゆる町中の公園といったところ。
この南東角近いところに、またひとつ碑があるわけです。


「勝海舟生誕之地」碑


「勝海舟生誕之地」ということで、山岡鉄舟 経由清水次郎長 という絡みになりますけれど、

「花の生涯」を書いた舟橋聖一さんちとさほど遠からぬ場所というのが、
何やら開国に向けた進取の気性を感じたりしますですねえ。


ところで、両国公園の西隣は両国小学校ですけれど、芥川龍之介 が通った学校ということから、
敷地の北西角には「杜子春」の一節を刻んだ文学碑がありました。


芥川龍之介文学碑


芥川関連で言えば、京葉道路沿いにも「芥川龍之介生育の地」という場所がありましすけれど、
碑や何かは無く案内板だけというのがいささか寂しいところかと。


芥川文学碑からは南に、そして最初の路地を西(右手)へ折れると

「おお、なまこ壁 !」が見えるのですね。ここが何と!?吉良上野介の邸跡だそうな。


吉良邸跡


本来はこのあたり一体2,500坪余りの大きな敷地だったそうですが、

今では実にひっそりとしていて、うっかりすると見落としかねないような場所ですね。


井伊直弼が薩長閥による明治史観で国賊と刷り込まれたように、

吉良上野介も「忠臣蔵」あるが故に常に悪者視されることになりますけれど、

果たして本当の本当にはどうだったのでしょうねえ。
ちなみに領国であった三河の吉良では名君ともされているようですが…。


さて両国ぶらぶら歩きのおしまいは、また京葉道路に戻って西へしばし。
回向院に寄ってみました。


両国回向院


元は明暦の大火で亡くなった無縁仏の供養のためにできたものですけれど、
海難事故などの供養塔なども数多く建てられておりました。


もちろん普通にお墓もあるのですが、著名人?ということでは鼠小僧次郎吉の墓があるのでして、
先日土肥金山 のところで千両箱をひょいと担ぐ鼠小僧じゃああるまいし…みたいなことを書いたばかりでは
「ここで会ったが百年目」的な印象でありますよ。


鼠小僧次郎吉之墓


それにしても実在の人物だったのですねえ…。
って、結局両国界隈歩きも「墓まいらー」になってしまいました。

東京・両国の江戸東京博物館で開催中の特別展「東京の交通100年博」を見てきたのですね。


東京の交通100年博@江戸東京博物館


しばらく前にふとつけたTVで都電の歴史みたいなことを扱っていて、
そぉらもう懐かしうて懐かしうて!だったわけです。
考えてみれば、本展の関連企画番組だったようですが、まんまと乗せられたという次第。


展示は何とまあ鉄道馬車(もちろん模型ですが)の時代から始まるわけですけれど、
鉄道馬車をもって近代交通の始まりとするのかどうかは判然としないものの、
これが明治元年には開業していたといいますから、まさに象徴的なことではありましょうね。


確かに交通機関として馬を使うことはあったとはいえ、
あくまで単騎か、はたまた荷車を引かせるかくらいなものでしたでしょうから、
いちどきに多くの人の乗せて運ぶ公共交通なるものは、鉄道馬車をもって嚆矢とするのでしょう。


ただ待てよと。
明治元年が近代公共交通の始まりならば、100年どころではないわけです。
特別展タイトルでうっかりしてしまうところですけれど、
100年というのはあくまで東京都交通局(前身の東京市電気局も含めて)の創業100年のことで、
展示はその前史から始まるわけですね。


鉄道馬車に続いていよいよ路面電車が登場しますが、
(ちなみにここでは、いわゆる鉄道、後の国鉄につながるあたりはあんまり詳しく扱われません)
あえて路面電車という言い方をしたのは、ここでもやはり
鉄道網の延伸と同様に民間主導で起こったようなところがあるようだからでして、
やがて東京市電にまとまっていくという。


まあ、この辺の古い市電、バスのあたり

個人的にはあくまで歴史的な受け止め方で「ふ~ん」と思うばかり。
ただ、初めてのバス営業はまだ線路の出来てなかった笹塚・新宿間で

京王が始めたというのは「へえ~」でしたけど。


そんな展示の後に俄然目を輝かせてしまうのは、

やはり都電として馴染みのある車両が登場するところからでしょうか。


都電荒川線の車両



屋外展示に都電車両があって、乗り込めるようになってましたけれど、
そうそうこんな板張りの内装だったんだよなあと。


しかも、ご丁寧なことに都電車両の外には「三丁目の夕日」の撮影セットの街並みが置いてあるという。
凝ったことをしてくれるじゃあないですか。


「三丁目の夕日」の撮影セット

そんな展示物の中に、当時の都電の回数券を見つければ「おおお!使った、使った!」と思い出しますし、
当時の子供なら一度は触ったことがあるであろう電車ごっこセットに入っている
おもちゃの切符やら車掌さんの穴あけ鋏やらホイッスルやらを見れば、
「くわぁ!こんなものが、のこっとるのかくぁ!」といささか落ち着きを失う状況に。


子供の頃住んでいた傍を葛西橋~須田町間を走る都電29系統が走っていて、
都電が走る姿はとても日常に馴染んでいたものですから、ついつい。


それが廃止になるときには

「自動車の邪魔になるから」というのが理由と聞かされたように思うのですけれど、
今回、上野駅前で車に取り巻かれて立ち往生する都電の写真を見て、

改めて止むを得なかったのかなぁと思ったり。


さりながら、やはり展示の中に

東京都交通局がまとめた「都電は廃止すべきでない」とする建白書(とは、言いすぎか)があって、
やっぱり残す方法はあったんじゃあなかろうかと複雑な思いがしたのですね。


ノスタルジーを言われればそれまでのところもありますけれど、
日本の他の町でも世界のいろんな都市でも路面電車が大活躍しているところはたくさんありますものね。


確かに東京の交通量は多いのかもですが、根っこのところからいえば、
そもそも都市計画的に成功しているとは言えない町ですから、やっぱり仕方がなかったのかなぁとも。
う~む。


おっと「東京の交通100博」ですから、

都バスのことも都営地下鉄のこともあれこれ展示されていたのですけれど、
とにもかくにも都電の話になってしまいました…。


あっ!都バスのことをひとつだけ。
今のグリーン基調の車体色になる前に、昭和56年ごろだったようですが、
一度赤と黄になったことがあるんですよね(って、見て思い出したんですが)。


あれ、かっこ悪かったなぁと。
見事に短い期間で消えてしまいました。めでたし、めでたし。