江戸東京博物館
まで出かけるついでですので、
どうせなら両国の界隈を歩いてみるかと思ったのですね。
多少の下調べをしたところ、このところの興味の赴くところに関わるところやら
そうでなくとも「ほぉ~」と思うものやらいろいろ発見できそうだなということで、いざ出発!
両国といえば国技館というわけで、駅前からしてにぎやかなようす。
(と言っても、個人的には蔵前国技館という方に馴染む感がありますが…)
妙に色鮮やかな幟旗がはたはたしてますし、駅から京葉道路に抜ける道々にはこんなものも。
ちゃんこ鍋屋もあちこちに見えて、相当に相撲色が強いなぁと。
さりながら、今回は相撲は措いといて国技館の前をすすっと過ぎて北へ歩くことしばし。
オフィス・ビルの片隅にその碑はありました。
「舟橋聖一生誕記念碑」とあります。
「花の生涯
」を先ごろ読んだばかりでありますので、何となく偶然の出会いとも思えぬような…。
と、その碑から通りを一つ渡りますと、旧安田庭園の入り口。
元禄期に笠間藩主だった本庄宗資によって築造された庭園で、
明治以降安田財閥の所有となってこの名があるのだそうですが、結構こぢんまりしてるなぁと。
庭園の池越しに国技館を臨むとこんな具合。
真ん中の上の方に、何やら四角な物体がありますが、それが国技館の屋根のてっぺん。
さて方向を変えてみますと、さすがに東京スカイツリーが近いこと。
庭園を斜めに横切って入り口から北東方向に抜ければ、その先は横網町公園になります。
両国だということも手伝って、これを「よこづな」と勘違いされる方がいますが「よこあみ」なんですよね。
公園とは言いながら、真ん中には大きな御堂がどお~んと。
いったい何ぞ?と思いますが、
何でも元は関東大震災で亡くなられた58,000名に及ぶ方々の遺骨を納め、
後には東京大空襲での死者の遺骨も併せて安置されている「東京都慰霊堂」というものだとか。
このようなところにこのようなものが…下町エリアで育ったわりには全く知りませんでした。
隣接する復興記念館で震災による焼け跡から掘り出され、
高熱のためにひしゃげた品々の展示も見てきましたが、
下町の住宅密集地だっただけにこの近隣の被害たるや凄まじいものがあったのですね。
さて、横網町公園からは清澄通りを南下しまして、途中東に分かれる「北斎通り」なる看板に
「こっち方面の葛飾北斎ゆかりはまた別の機会に」とつぶやきつつ、
電車のガードをくぐって京葉道路も渡って右折、本所警察の脇を裏通りに入っていくと、
両国公園に出るのですよ。
さきほどの横網町公園より格段に小さい、いわゆる町中の公園といったところ。
この南東角近いところに、またひとつ碑があるわけです。
「勝海舟生誕之地」ということで、山岡鉄舟
経由清水次郎長
という絡みになりますけれど、
「花の生涯」を書いた舟橋聖一さんちとさほど遠からぬ場所というのが、
何やら開国に向けた進取の気性を感じたりしますですねえ。
ところで、両国公園の西隣は両国小学校ですけれど、芥川龍之介
が通った学校ということから、
敷地の北西角には「杜子春」の一節を刻んだ文学碑がありました。
芥川関連で言えば、京葉道路沿いにも「芥川龍之介生育の地」という場所がありましすけれど、
碑や何かは無く案内板だけというのがいささか寂しいところかと。
芥川文学碑からは南に、そして最初の路地を西(右手)へ折れると
「おお、なまこ壁 !」が見えるのですね。ここが何と!?吉良上野介の邸跡だそうな。
本来はこのあたり一体2,500坪余りの大きな敷地だったそうですが、
今では実にひっそりとしていて、うっかりすると見落としかねないような場所ですね。
井伊直弼が薩長閥による明治史観で国賊と刷り込まれたように、
吉良上野介も「忠臣蔵」あるが故に常に悪者視されることになりますけれど、
果たして本当の本当にはどうだったのでしょうねえ。
ちなみに領国であった三河の吉良では名君ともされているようですが…。
さて両国ぶらぶら歩きのおしまいは、また京葉道路に戻って西へしばし。
回向院に寄ってみました。
元は明暦の大火で亡くなった無縁仏の供養のためにできたものですけれど、
海難事故などの供養塔なども数多く建てられておりました。
もちろん普通にお墓もあるのですが、著名人?ということでは鼠小僧次郎吉の墓があるのでして、
先日土肥金山
のところで千両箱をひょいと担ぐ鼠小僧じゃああるまいし…みたいなことを書いたばかりでは
「ここで会ったが百年目」的な印象でありますよ。
それにしても実在の人物だったのですねえ…。
って、結局両国界隈歩きも「墓まいらー」になってしまいました。











