先にも触れましたとおり清水の港は貿易港でありまして、
これは産業の近代化以前からということですから大層な歴史を誇っているわけですね。


なにより三保 の半島を天然の防波堤にして

その中に抱え込まれるように港があるものですから船には安全だったようですし、

清水港で荷揚げされた物産は巴川を遡って駿府城下へ持ち込むことができるという。


さらには、富士川を利用した水運によって

遠く甲州の物産が清水港を経由してやりとりされたそうなのですよ。


こうした歴史ある清水港に関わる資料を集めたのがフェルケール博物館ということになりますけれど、
かつて清水港湾資料館と言っていた施設がリニューアルを気に名称変更したようです。


フェルケール博物館


「フェルケール」はドイツ語の「verkehr」(発音的にフェアケーアのが近いような…)で
「交通」を意味することから名付けられ、

それを気に海運関係だけでない資料収集展示を行うようになったのだとか。
とはいっても、ほとんど海関係ですけれど。


それにしても、清水港ばかりではないでしょうけれど、

港湾の発展拡大というのは凄いもんですね。


先に訪れた次郎長生家 ですが、親分さんの実父は海運業を営んでいたようでして、
その家というのも巴川沿いにあって当時は海は目と鼻の先だったのでしょうけれど、

今では海に出るまでに5~6分は歩くのではないかと。


その海へ続く道に「エスパルス通り」という名前が付いて、

サッカーボールのモニュメントがあったりするのは

「時代は変わった」とも「清水ならでは」とも思えるわけですが。


港湾整備という点では、岸壁はどのように作られるのかといったことも図解されていまして、
さすがに相手は海だけあって、ひとつひとつがかなりの大事業だなぁと今さらながらに思うという。


ちびまる子ちゃんランド 」も「すしミュージアム 」もいいですが、
子供の社会科見学には、実際の港と併せてこの博物館というのが打ってつけのような気がしたのですよ。


おっとそれから、博物館本来の建物の裏側に古い二階家がひっそり佇んでおりました。
「缶詰記念館」ということなんですが、なんでも昭和4年(1929年)に日本で初めて
まぐろ油漬缶詰(要するにツナ缶のこと?)を製造し、輸出したのが清水の会社であったのだとか。
その本社社屋を博物館裏に移築したのだそうですよ。


缶詰記念館


建物内には缶詰作りの器具やらが置いてあったり、
いろんな缶詰のラベルが展示してあったり(懐かしいな思えるものなどもあり)するんですが、
とまれ「清水が一番かぁ。やるもんだねえ」とまるちゃんが自慢しそうな雰囲気ではありました。

前に山岡鉄舟 のことを少しばかり探究した折にも

「行ってみようかなぁ」と思いながらそのままになってしまったのですが、
清水へ行って次郎長の史跡 を巡ったからには「やっぱり行ってみよ!」というわけで、

東京・谷中の全生庵を訪ねてみたのですね。


ところで、全生庵とはそも何ぞ?ということでありますが、
それらしくない名前ながらお寺さんなのでして、いただいた由来にはこんなふうにあります。

全生庵は、明治16年(1883年)山岡鐵舟居士が幕末明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために、富山国泰寺より越叟禅師を迎えて開山とし建立された寺です。

先に触れた咸臨丸事件で旧幕臣の亡骸を埋葬した次郎長の意気を

鉄舟は忘れていなかったということでしょうかね。
ちなみに鉄舟自身の墓所もここにあります。


ということで、それこそお墓しかないのかもしれないけれど

とにもかくにも行ってみるかと出かけたわけですが、
確かに山岡鉄舟の墓所があり、他に怪談噺で有名な落語家の三遊亭円朝のお墓、
そして「春よこい」や「叱られて」などを作曲した作曲家・弘田龍太郎のお墓がありました。


山岡鉄舟之墓



三遊亭円朝之墓


そして、一段高い丘の上からは観音様が見下ろしているという。

あんまり古い言われのない観音像でキンキラしすぎの嫌いはありますが、
まずまずのお顔つきでなによりなによりと思ったのですね、不遜にも…。


全生庵の観音様


さて、本堂の方に改めて目を向けると、ドキッとしますね。

「幽霊画入口」という文字が見えるのですよ!


幽霊画入口



そういえば、「牡丹灯篭」なんかの原作者である円朝ゆかりなだけに

「幽霊画コレクション」があるてな話を聞いたことがあったなと。

しかし、これは…怖いものが大の苦手なだけに逡巡しきりでありましたが、
ここまで来たんだからと入ってみることにいたしました。


個人的には清水(この場合は「きよみず」です)の舞台から飛び降り覚悟であります。

ところがですね、案ずるより生むがやすしですね、結果論ですね。


怖いというより、いささかユーモラスにも思える作品が結構あって、それなりに面白かったなぁと。
中には「こんな美人なら化けて出てほしい…」的なのもあって、いささか見入ってしまうところでしたが、
「反ってこういうのの方が祟られると怖い」と思い直した次第。


ちなみに全生庵のある辺りは谷中の寺町でして、そこらじゅうお寺さんだらけ。
中には、名前くらいは知っているという方のお墓やら碑があちらこちらにあるという。
訪ね歩くのも一興ではありますね。


ちなみにこれは仮名垣魯文であります。


仮名垣魯文之墓

清水の近くには絶景ポイントとして有名なところがありまして、
それが日本平と三保の松原ではなかろうかと。


いちばん最初に申し上げたとおり に、
こたび駿河、伊豆を廻る中で一度として富士の御山を目にすることができない天気だったものですから、
いくら絶景ポイントとはいえ「わざわざ行ってもなぁ…」と思ったわけですね。


しかし、日本平は見晴らしこそ勝負でありましょうけれど、

三保の松原には海がある!ということで、しばし浜辺の散歩に出かけたのでありました。


それにしても「海がある」ったって、何度も清水みなとと言っているように目の前にだって海はあるものの、
ご存知でない方もおいででしょうから(という当人からして、行って初めて知ったのですが)記しときますと、
清水港は貿易港、産業港なのですね。


日本を旅して、横浜や神戸は別としても「港」の景色で何を思うかと言えば、

漁港なんじゃなかろうかと思うのでして、
清水が漁港じゃないとは言い切れないのかもですが、

それよりも大きな貨物船が入り、ガントリークレーンが佇立(これはこれで萌えるかも…)し、
倉庫が立ち並ぶという貿易の出入口たる港は、

いささか殺伐としてあんまり旅情とは結びつかないような…。
何とはなし、コンテナの陰で良からぬ取引が行われている…てな方には似合いますけれど。


ということで、♪まつばぁらとおくぅ、きぃゆるところ~と歌われるような、
いわゆる白砂青松の日本の海を見に行こうというわけなのですよ。
(思えば、去年の今ごろも思いつきのように葉山の海 を見に行ってしまいましたなぁ…)


静鉄ジャストライン(くどいですが、バスです)に揺られること30分ほどで、

羽衣の松入り口というバス停に到着。
でもここからはまだ海はかけらも見えません。


交差点を南側に渡ってまっすぐに進んでいきますと御穂神社につきあたりますので、
「通り抜け禁止」の看板をものともせず(一応、社殿にはお参りを…)に抜けると、

やおら凄いことに!


御穂神社 神の道


両脇に松並木を従えた木道が整備されておりました。

「神の道」とのネーミングとあっては何とも畏れ多いではありませんか。


行けども行けども終わりがないかのような果てしなさを感じつつも、

やがてふいっと俗な光景が飛び込んできます。
思いっきり観光地然として居並ぶ土産物屋と駐車場…ですが、

これで羽衣の松は目前と知れるのですね。


ひとしきり登り詰めると「うぉ、海だ!」と子供のようなうれしさが込み上げてくるのですが、
それにしてもあたり一面が松ノ木だらけというのも大変なものです。


羽衣の松 二代目


正面に立派な松があって「あれだぁね、羽衣の松は」と思ったのですが、これは二代目なんだそうで、

初代はどうも痛みが激しく手厚く保護してやらねばならぬようですね。


初代 羽衣の松

まあ、外海を目の前にして立ち尽くしているわけですから、松も大変ですね。
長きに渡って防風林、防潮林の役割を果たしてきたのでありましょう。
こんなになるまでよく頑張った!と褒めてやらねばですね。


長い間、波風にさらされて…


ということころで、さあ海です。

本当は左手奥には富士の御山が見えてるはずなんですがねえ…。

辛うじて正面奥にうっすらと伊豆半島が見えてましたけど、この程度の写真ではわかりにくいでしょうねえ。


三保の松原から西伊豆を望む


このような状況ではありましたけれど、

海岸沿いに清水灯台までぶらぶら歩いてまいりました。

次の機会にこそ、富士を眺めてみたいものであります。

さすれば、きっと水戸黄門様の御一行が歩いて来るような錯覚に陥ることでありましょう。


清水灯台

先に清水といえば次郎長親分と言いましたけれど、

なるほど清水には次郎長ゆかりの場所が点在しているのですね。


そのうちでも有名どころと思われるところをいくつか巡ってみたわけでして、

まずは清水次郎長 の墓所でもあり資料館もある梅蔭禅寺を訪ねてみました。

そこには、実に立派な次郎長親分の像が立っとりました。


梅蔭禅寺 清水次郎長像


なかなか豪気な風を醸してますね。

「ま、想像ですかね」と思えば、資料館には写真があるのでして、

(幕末頃ですから、いろんな人が写真とってますものね)

確かに感じはつかんでるのかなと。Wikipediaなどにも写真、出てますね。


ただ、先の本にもありましたけれど、

元が御尋ね者の博徒ですから、なんにつけきちんとした記録がない(記録があると足がつきますから)。

そうなると人は想像力を働かすわけで、その後浪曲になったり、芝居になったりというのは

かなり想像力を働かせた結果なのだとか。


例えば、子分の石松も「森の石松」と言われるように遠州森の出身で、隻眼であったというのが

一般的な石松像でしょうけれど、ほんとうは三河の出身であって、片目であったという記録はないらしいです。

こうした想像力が生んだエピソードなりは当然次郎長親分にもあることでしょう。


侠客 次郎長之墓


生前同様に?脇には大政、小政の墓を従えてひときわ大きな墓石でありますが、

その後のエピソードの成り行きに一同「おれたちゃあ、そんなんじゃあねえよ。なぁ、おめえら」とか

言ってるかもしれんですねえ。


順番的には逆ですが、続いては生家を訪ねてみることに。


清水次郎長生家


見た目それらしくしてまして、確かにここで後の次郎長親分は生まれたのでしょうけれど、

生まれてすぐに叔父のところに養子に出されるのですよね。


次郎長の本当の名前は長五郎でして、養父が山本次郎八という名だったことから、

「次郎八んとこの長五のやつぁ、きかねぇやつで…」てなふうを経由して

「次郎長」と呼ばれるようになったそうな。

もちろん実父母との関わりが切れたわけではないにせよ、ま、そうした場所ということで。


それにしても、次郎長の生涯というか功績というか、

先の資料館よりも分かりやすく漫画ふうの展示がされているのですけれど、

「ええええ?」というような事柄があれこれ出ていたのですよ。


江戸の将軍家が駿府藩になって旧幕臣が続々駿河藩領内に集まってしまった頃、

富士の裾野を開墾して、仕事と生活の糧を生み出す一助としようという事業を次郎長が手掛ける…

この話は他でも読んだことがあって結果には成功にはいたらなかったようですけれど、

牧ノ原台地の茶畑は同様の成り立ちがあるような。


ま、これはともかくとして以下に列挙してみると、

1876年 日本で最初の英語塾を開講

1879年 国内での石油開発を援助

1880年 清水港発展の一助とすべく海運会社・静隆社を設立

1886年 東海道線の敷設に尽力し、弁当販売にも関わる(後の東海軒)


…とまあ、あれやこれやの大活躍ではありませんか。

全ては明治維新後、堅気になった次郎長の顔役としての力量が役に立ったようですね。


というところで、もう一つ訪ねた場所というのが清水港船宿記念館「末廣」というところ。


清水港船宿記念館「末廣」


この「末廣」という船宿、これが晩年の次郎長の住まいでもあり、

つまりは船宿の主人として晩年を過ごしていたのだとか。


ここまでは堅気となった次郎長を懐かしみ、清水で語り継がれるさまに触れて来ましたけれど、

どうやらそうとばかりはいえないのだなということが、ここに至って知れるところとなるのですね。


この「末廣」の建物は、創建当時の部材を使って2001年に復元されたということですが、

その2年前まではそのようなものが残されていること自体知られていなかったのだそうです。


昭和に入ってから移築されて後はいつの間にやらどことも知れぬようになったわけですが、

実は移築後に住まっていた人たちの間では、次郎長に関係のあることは伝えられていたのだとか。

それが埋もれていたのは「だって、やくざでしょ」という感覚だったようで。


これはこれで、理解できますよね。

改めて、歴史上の存在となった人物の評価の難しさを思うところでありますね。

こたび静岡県は清水から伊豆を巡るにあたっての旅の友は、

この一冊でありました。


清水次郎長――幕末維新と博徒の世界 (岩波新書)/高橋 敏


岩波新書の「清水次郎長-幕末維新と博徒の世界」であります。


旅程の中で清水はほんの一部分なのですけれど、

それでもこれまで一度も立ち寄ったことがありませんし、

(何度も言ってますが)「清水といえば…」、やっぱり次郎長だろうと。


元より日本史に疎く、戦さやら大事件やらと教科書を賑わすような出来事は何とか追っかけられても

世俗史的なところまではとんと知恵が回りかねるものですから、

清水次郎長といっても「旅ぃゆけばぁあぁ~、駿河の国にぃ~茶のかおり~」みたいな浪曲とか、

そうしたことの極めて断片的な知識しかなかったわけです。


それが本書でだいぶ「そうとも言えんぞ」と山さん的感懐を抱くようになったのですが、

それでもこれまでだったら我ながら手を伸ばすとも思われなかった世界への入り口は

前に読んだ山岡鉄舟 との関わりのあたりでしょうか。


幕末に京から攻めのぼって駿府に着陣した官軍の西郷隆盛に対して、

江戸を戦火にさらすまじと江戸城無血開城の談判を申し入れんがために勝海舟が立てた使者、

それが山岡鉄舟でありました。


ところが駿府へ近づけば近づくほどに辺りには官軍だらけとなって、幕臣としては立ち往生の状態。

そこを伝手から伝手をたどってたどりついたのが、海道一の大親分であった清水次郎長。

裏街道を十二分に知っている大親分の手引きでもって、

鉄舟は駿府に入り西郷さんとの話ができたという一幕。


ここら辺のエピソードは当然のように本書に出て来ますが、

甲州博徒の黒駒勝蔵(名前だけは知ってました)との因縁の対決の陰には

勝蔵が尊王、次郎長が佐幕をバックグラウンドとしているといったほのめかしがされますと、

そうかそうか!と思ったり。


後に幕府軍の一部は負けを認めるを潔しとせず、軍船を強奪して函館を目指す中に、

かつて太平洋を渡ってアメリカにまで航海した咸臨丸があったそうですが、

咸臨丸は荒天による破損から清水港に入ったのだとか。


かつての徳川将軍家は何とか駿府藩の一藩主として当面存続しており、

そのお膝元に逃げ込んだわけですね。

ところが、官軍にすれば逆賊でしない咸臨丸乗員は猛攻撃にあい、

清水港にはその死体が葬られもせず置き去りにされてしまったといいます。


官軍からは「逆賊の末路のみせしめ」とされ、

駿府藩にしても、今はまだ官軍の神経を逆なでするようなことは控えざるをえず、手出しができない。

そこに登場するのが次郎長親分でなのですね。


「ほとけさんになっちまったら、かたきも賊もあったもんじゃねえ」と丁重に葬ってやったのだそうな。

ここら辺りもまた幕府びいき?てな気がしないでもないですけれど、

こうした人間味を意気に感じたのが山岡鉄舟でありまして、

かつての恩も加わってか、なにくれと次郎長と懇意にしていくのですが、

この過程こそ幕府も含めて世の中を考え直した機会ともなったのでありましょうね。


維新後はすっかり足を洗った次郎長親分、

清水港の顔役として74年の生涯を全うし、畳の上で死ねたんだそうでありますよ。

時に明治26年(1893年)、どうも清水次郎長と文明開化の世が

しっくり結びつかない気がしてならないのですけれど。