追悼 坂東竹三郎 | 有限会社宮岡博英事務所のブログ

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坂東竹三郎が2022年6月17日に亡くなりました。満で89歳。

8月4日が誕生日でしたからもう一歩で90歳でした。

2017年9月に戸外で転倒してから、体調にミソがついて本調子じゃない状態が続きましたが、

致命的な悪さではなく、元気にはしていたのでびっくりです。

電話で話すと例のはっきりした声で7月の松竹座も出る予定だったので残念です。

人前に出たのは今年3月31日に「松尾芸能賞功労賞受賞記念の集い」で

『瞼の母』の朗読とお客様との一問一答。やはりお客様と接する時の竹三郎の気持ちの盛り上がり

は格別でした。だいぶやつれておりましたが、お越しのお客様はあの笑顔に接していただいたことと思います。

僅かばかりですがご報恩が出来たと思います。その時の写真がこれ。

以下、思い出を書き散らします。ただただ感謝あるのみ。

 

徹底したビジネス感覚

自主公演をあれだけ打ちながら「赤字を出したことがない!」という敏腕。

歌舞伎をビジネスとしてシビアに捉えているからこそ、「良い芝居」「良い演技」が出来る訳です。

出演している興行のチケット代金を常に考えること。そして自分がそのウチの幾ら分を占めているのかを考えろ。

それだけお客様に負担を掛けていると考えなければいけない。

そして小道具を粗末にしてはいけない。また小道具のコストを知っておくことが大事。

そうすれば、自分で興行を打つ時の計算に役立つし、小道具が芝居にどれだけのコストを占めているかが

理解できる。小道具を粗末にして取り換えやらで余計なコストが膨らむと、

いずれは自分の給金のカットにも繋がると考えた方が良い。

明治座での『女團七』の再演時(2014年11月)、殺し場で竹三郎が草履を天井高くまで放り投げたので

凄い迫力ですねと言ったら「草履が泥で汚れないように遠くに放ったんだ」と事も無げに言われた。

【2014年11月1日明治座、『女團七』の再演。義平次婆おとらが扮する局六浦】

 

辣腕のプロデューサー

歌舞伎の自主公演をあれだけの回数行った歌舞伎俳優は竹三郎しかいない。

最も大事なことは「演目の選定」。普段出ないが面白い演目を探し出す。

お客様は面白い芝居、珍しい出し物に飢えている!

安易にチケットをたくさん売ってくれる人を配役したりということはしない。

昔は入場税というのがあったから、刷ったチケットを持って行って先に申告納税する必要もあった。

こんな面倒な時代から自主公演をやっていたのだ。

「来てよかった」だけでなく「来てよかった、儲かった!」とお客様に思っていただくような芝居をやらなきゃいけない!

 

「竹三郎の会」は傘寿記念で打止め(『女團七』と『四谷怪談』2013年8月、国立文楽劇場)と宣言していたが

米寿(88歳)記念でやる気は存分にあった。残念なことに米寿近くに体調がおかしくなり

実現しなかった。それでも2020年の8月はコッソリ自ら会場を抑えていて執念を見せた。

この会でやりたかったのは『心中宵庚申』。自分は意地悪ばあさんの義母に回って、心中する夫婦を

「菊五郎、仁左衛門という配役はどうや」とニンマリしていた。

まだ、竹三郎の腹の中の考えとは言えどもこれは観たかった。

【お岩さんのお墓参り2013年2月14日】

 

交渉の達人

結果として最後となった「竹三郎の会」(2013年8月、国立文楽劇場)で『四谷怪談』は

出し物として早々に決まった。問題は伊右衛門役で、やはり仁左衛門さんに出てもらいたかった。

最初からお願いしてもダメだろうということで、「挨拶だけでもお願いできないか?」と相談したところ、

「伊右衛門で出ても良い」。ラッキー!夢の競演が実現したのはご存じの通り。

もしダメだった場合に竹三郎が想定していた人は内緒。

 

そしてもう一本が『女團七』という自分がやったこともない芝居を自主公演に出す度胸の凄さ。

自分が女團七をせずに、現猿之助さんに主役を願って自分は婆に回る。

見事に受けてたってくださった猿之助さんの見事な女團七。

殺し場のセリフを大事にした粘っこいコンビネーションには感激しました。

竹三郎の読みはあたって、翌年の明治座で本興行に乗ったのでした。

 

【竹三郎の会速報版チラシ2013年】

 

 

時代物(丸本物)に強い!

忠臣蔵『六段目』のおかや、『引窓』の母お幸、『すし屋』の弥左衛門と母おくら。

これらは極めつけの当たり役だが、世話場と言えども台詞回しはリアリズムで処理しきれない

時代な言い回しがしばしば要求される。

おかやで言えば勘平を責め立てる「ずったずったに斬りさいなんでも」。”ずったずった”の

音をスタッカート気味に強調して言う。

強さとリズムが増して、おかやの怒りと勘平を殺しかねないまでの圧力が嫌というほどお客に伝わる。

これだけ怒るから、勘平絶命時のおかやの悔恨が生きるのである。やはり仁左衛門さんとの共演に指を屈したい。

 

お幸だと有名な「濡髪の長五郎、召捕った」。このレチタティーヴォ的な台詞回し。

この役では、自分の存在が複雑な人間関係を生み出したことへの苦渋が明確であった。

 

弥左衛門だと「血を吐くほどの悲しみを常に持ってはなぜくれぬ」。明らかに語順がオカシイ台詞だが、

これは音を整えることを優先して作者は書いたのであろう。こう言う箇所を心憎い程に見事にこなした。

弥左衛門は、2009年夏の巡業で初演。そして最後となった。勿論仁左衛門さんの権太との親子。

この親子がすれ違いながらも最後は心の和合を見せる最高の舞台となった。

何度見たことか、色んな地方に向かったものだ。

そしてこの弥左衛門を褒めるとあんまりいい顔をしなかった。「わしは女形だ」という自負であったが

しつこく褒めた。「私は女形だから、女形っぽくならんようにならんように気を付けながらやっている、それが

却って良いのかも」。そして「女形というのは芝居が派手になってしまうもんだ」と成程。

 

「大阪の役者だから義太夫ものが出来なくちゃダメ。徹底して古い文楽のテープを聞く」

『酒屋』の茜屋半兵衛、『帯屋』の義母、『堀川』の母、『野崎村』の後家。

これらも時代に決めるところが実に巧かった。

 

人たらし

東京出演時には築地のホテルに泊まることが多く、ここは煮炊きが出来るので自炊を楽しんだ。

マメなひとなので、家事が苦にならなかった。周辺の八百屋さんと仲良くなって大量にオマケしてもらって

新橋演舞場の楽屋廊下にその野菜が「所帯持ちのかたはお持ち帰りください」の貼紙とともに並んでいた時は

驚いた。

浅草のある天ぷら屋でも、滅多に行かない筈なのに、なぜかお馴染みで大量にオマケで天ぷらが追加されたことがある。

大阪の真ん中の生まれ故に、少年時代から芝居、演芸に親しんだ。なぜか道頓堀の劇場には行かなかったので

「中村魁車さんは観てへんのよ」とのこと。アシベ劇場(千日前歌舞伎座=現ビックカメラの向かいにあった劇場)

はお馴染みで、歌舞伎と演芸が交互に番組に組まれていたりした。「切符買って入ったことないで」とニヤニヤ。

【2014年10月12日のトークショーで】

映画時代

尾上笹太郎時代に東映映画に出演していた時期の話は意図的にしたがらなかった。

トークショーなどで、事前にそれには触れるなと釘を刺されたことがあってビビった。

東映のニューフェイスというのはそんなに扱いが良くなく、スターになるには「契約者」という扱いで入らないと駄目だとの

ことだった。千恵蔵さんの『血槍富士』にも出演しているそうだが、何度見てもわからない。

ひばり・橋蔵の『笛吹若武者』での若き公家は煌めくような美貌である。

その他最初の師匠である嵐雛助の主演映画『田之助紅』(1947年大映)にも

可愛い嵐雛正(当時の芸名)は出演。タイトルにもクレジットされている。

この映画はプリントがなくニュープリントしてもらったので、これを竹三郎と一緒に観る会というのも考えていたのだが実現しなかった。

 

ヒロポン

若き日に流行った時代があった!上方歌舞伎の大幹部某氏が昼夜芝居を車輪にやって夜通し麻雀をやっても

まだ元気凛凛で「一体どうなっているのか?」という話になり聞いたらヒロポン。

「当時は薬局で売っていたからね」、「ビタミンや!と言われて先輩に打たれた」と。

しかし映画に顔を出していた時期で、鏡に映るの自分を見たら頬がコケていて怖くなってやめた。

「皮下注射だから止められた。静注(静脈注射)だったら止められない」

止められなかったのが静注の中村紫香(中村霞仙氏の子息)。

【昭和41年の坂東薪車(後の竹三郎)】

 

伝説の「竹三郎の会」(2013年8月国立文楽劇場)のプログラム

若干在庫がございます。送料込みで1100円で頒布します。

メール、電話にて承ります。ご住所をお知らせください。

先にお送りしますので、到着次第のお振込みをお願いします。

 

朝顔の絵も竹三郎筆。絵も巧かった!

 

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