kai遊録 -36ページ目

kai遊録

日本国内の城郭を回遊してます




どんどん行きましょ、小谷攻め~!


(前回はコチラ




kai遊録



kai遊録


【京極丸 説明版 要約】


「浅井氏が守護京極氏の居所として用意した曲輪」


清水谷側(西側)に枡形虎口がある大きな曲輪を附属する。


 この虎口は清水谷から上る「水ノ手」に繋がり、小谷落城時に秀吉が攻めあがった道


須賀谷側(東側)に造られた土塁は小谷城最大の規模で高さ3mほど」



城内一番の見所は“京極丸”かもしれませんキラン!

kai遊録
(小谷城内最大の)土塁


説明版には3mほどって書いてあるけど、現状では2mちょっとかな。



帯曲輪も配してあるのに、城内最大の土塁を築いたということは、


それだけ重要な曲輪なのか、防御が弱いのか・・・Me



kai遊録
土塁上から見た東側の帯曲輪





一方で西側に土塁がないのは、谷からは侵入されないとの算段だよね。

・・・が、そこから攻められてしまい、浅井家は滅亡してしまうわけです・・・・Me




その谷側に“枡形虎口”が残っていますおおおお!





kai遊録

kai遊録




ご覧ください、この枡形虎口”kai遊録





この食い違いっぷりを見つけたときの感動といったら!



これ見るためだったら、尾根だって這い伝いますよー!顔





私たちは京極丸の一番上の曲輪から、


リュック等の荷物を置いて尾根伝いに行きましたが(※マネしないでください)


京極丸の一番下の曲輪から行くことが可能です。


(案内版はありません。藪ですのでご注意ください)



私たちは荷物降ろして言ったのに、8kgもあるカメラ装備で来たカメラさん、ツワモノ過ぎます!!





秀吉軍が登ってきたという(清水谷にある)水ノ手はこんなカンジ。


kai遊録
(通行止めと書いてあります)




清水谷の屋敷付近に「登って来いや!( ̄へ  ̄ 凸)」と言わんばかりの竪堀があるのですが、


そこをスルーして、奥にある水の手から登ってきたということは、


秀吉軍は城の縄張りが分かっていたのでしょうか?

 



その竪堀は本丸の下(御局屋敷あたり)に繋がっていると思います。


kai遊録

御屋敷と丸子岩の間にある(挑発的な)竪堀





何ですか、この巨大な竪堀びっくり!



大堀切といい、小谷城は絶叫するような遺構がいっぱいです。




でも土橋が・・・(自粛





城ガール隊員が、うなぎ登りに増えて現在48名になりました!kai遊録

(TV放送前は20名くらい)



城ガール隊に入隊するためにツイッターを始めた方も何人かいらっしゃるようです。


かくいう私もそういう理由ではじめたんですけどねるん♪



では、小谷攻めレポ行きまーす!



(前回 大堀切はコチラ


kai遊録


まだここです疲れた棒人間




“大嶽城”や“福寿丸”まで行こうと思ったら、朝一で登らなきゃ時間足りませんねー。


ちなみにこの日は10時20分ころから上り始め、


中丸を見学し終えてお昼休憩をしたのが13時45分ごろですsao☆



さて、その中丸”



【中丸の説明版要約】


木の説明版


「大堀切跡の北にある曲輪で三段からなる」


「石垣は見られるが土塁は設けられていない」


虎口を左右に振り分けて攻めにくくしている」




想像図付の説明版


「南北3段から成り、最上段に刀洗池がある」


「この曲輪も基本的には石垣で固められていたと見られる」


虎口を中央に設置しているのは、中丸より上部の郭だけで、


ここより下の郭はまっすぐ突き抜けられないよう側面から入る構造



「3段構造」と「石垣で固められていた」はいいとして、


虎口の文の「ここより」の「より」は「中丸は入らないのね?」うーん…


でも像図を見る分にはさほどジグザグしてないんですけどね・・・。



kai遊録

中丸の案内板(想像図)






現地はどうなのかというと




kai遊録



スミマセン、わかりませんkai遊録




現地でしっかり説明文読まないと、こういうことになります・・・。



次回、要チェックですかく





ところで、中丸のすぐ南にはあの大堀切があるわけですが、


にもかかわらず、この曲輪には土塁を設けられていないというのは変わってますねはて?





kai遊録


あれだけの堀切を造ったということは、それだけの土が出るわけで、


その土をで曲輪の淵に土塁を造れば一石二鳥なのに。


(そういう土塁を“掻き揚げ土塁”というそうです)






この先にある京極丸や他の曲輪に持っていったのだとしたら、メンドーなことしますねぇ。


「中丸は土塁造りにして他の曲輪を石垣造りにしたほうが、楽なのにーshoko


と浅井家の領民は思ったんじゃないかな?(笑)



あれ?でも石垣を作るにしても、基盤は土なわけだから、


まず土塁を作ってから、さらに強固にするために石垣にしたんかな?はて?





ちょいと短いですが、今回はここまでバイバイ


長々と書いていますが、まだまだ続くよ小谷レポ!


(前回はコチラ




本丸の後ろには、メインディッシュといっても過言ではない――――








大 堀 切 ~kai遊録


kai遊録
大堀切(複数の写真を結合)



堀切っていうレベルじゃないですよ、コレ!びっくり!



後ろは御局屋敷跡の尾根なので、コンデジでは一枚に収められません。





私の中で『ベスト オブ 堀切』は小田原城の小峯の大堀切なのですが、


これには適わないですわ(=´;ω;`=)ニャン・・



でもでも小峯の大堀切には横矢折れがあるし、薬研堀(V字形)が美しいんですよLOVE






織田軍による小谷城攻めは、秀吉軍が京極丸に進入し、中丸と本丸を分断します。


浅井長政が自刃するのは、その4日後で、大堀切の防御力が垣間見えますおおーっ!!




※後日、資料館で聞いた話によると


「当時の暦では27日の翌日は翌月1日」で、


にらみ合いをしていたのは1日間であり、その間にお市と三姉妹を逃がしたとのことです。





ところで堀切”っていうのは尾根を掘って造るものなのですが、



不思議なことに石垣がありましたビックリマーク




kai遊録
大堀切の下の石垣(東側)




お城に詳しいフォロワーさんに聞いても「それは知りませんでした」とのコメントで、




思わず「やったーー!バンザイ」と大喜びする城ガール隊!



そして驚くディレクターさん・・・。 (笑)





想像図にも、隊員それぞれが持ってきた縄張図にも石垣が示されていませんでした。


降りられるスペースがあったということは、腰曲輪なのかもしれませんね。










次回 中丸はコチラ





おまけうしし♪


kai遊録
小峯の大堀切(小田原古城)