沖縄の本土復帰と日の宮・幣立神宮 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “昭和四十年十一月一日、日本復帰前の沖縄から、男女三名が日の宮に来られた。中の一人が巫女で、一心に沖縄の日本への復帰を祈っていると、神武天皇の神霊が霊視して申されるには、

 《阿蘇の幣立神宮に祈願せよ!》

と啓示された。

 このことによって、三人心を合わせて、日の宮に日本復帰御祈願のため参上したことがわかった。

 翌十一月二日、一行の祈願がおごそかに行なわれた。一行はさらに三日間滞在して祈願を遂げた。その後、神武天皇の神霊鎮まる京都・平安神宮や泉湧寺などに参拝して沖縄に帰った。

 日の宮では、当時の沖縄の屋良首席に、

 「日の宮への祈願を厳修した旨」

を報告した。

 沖縄からは「十一月十九日午前十一時に御心こもる書状を受け取りましたが、その日の夜、御神示をいただきまして、翌日の午後四時半、琉球新政府へおとどけしました。二十一日の朝、首席の手にとどいたと思います」

との返信が、日の宮社家によせられた。

 『朝日年鑑』を見ると、

 昭和四十四年十一月十七日、佐藤首相厳戒の中、羽田を出発。

 同十九日から、二十一日にわたり、ニクソン米大統領と会談。終了後、次の共同声明を発表。

 「安保堅持、昭和四十七年に沖縄返還を表明」

 日・米両首脳が、共同声明で発表した沖縄返還問題は、二十一日の会談終了後であったから、沖縄の三名が、日の宮に沖縄返還の心願を籠めたという報告書が、屋良首席の手元にとどけられたその直後であったことになる。

 この事実を考えると、日の宮の御神徳の霊顕あらたかなるを如実に物語ることになるように思われる。

 沖縄の一行の代表者から、一九六九年十二月二十八日の日付で、明年四月二十七日、八両日、日の宮に御礼参りに参上するとの来信があったが、その通り実行されている。

 再び日の宮に参宮された一行は、平安神宮や八坂神社などにも参宮して帰国したが、日の宮の東御手洗の神水を奉じて帰った。そこになみなみならぬ心願の筋がうかがえるではないだろうか。

 日の宮東御手洗の神水は、沖縄各地の重要な聖地に注がれて、本土復帰の結び固めの行事が次のように行なわれている。

 

  五月一四日十三時、名護町、手水井王神

  五月一八日十五時、首里のさし傘王神

  六月一四日十五時、那覇市の天久龍宮

  六月二七日十三時、那覇市の波上宮

  六月三十日十五時、神山島の神山龍宮

 

 波上宮の祭神は、イザナギ尊など三柱が祭られている。沖縄第一の権現の宮として知られた神社である。”

 

(柞木田龍善「安徳天皇と日の宮幣立神宮」(新人物往来社)より)

 

*この本が出版された昭和62年の時点では、まだ幣立神宮(熊本県上益城郡山都町)はそれほど有名ではなく、知る人ぞ知る神社だったのですが、その後のスピリチュアル・ブームで一躍有名になり、今では全国から多くの方々が参拝に訪れるようになっています。幣立神宮から発信される情報によって、初めて日本が霊的に途轍もなく重要な国であることを知ったという方も多いと思います。

 

*阿蘇は、出口王仁三郎聖師が「瑞霊苑」と名づけられた山鹿の不動岩付近や杖立、小国など、皇道大本においても重要な経綸の地とされています。

 

*出口聖師によると「沖縄は日本の胞衣」であり、霊的にも非常に重要な場所であって、戦前に出口聖師は、沖縄の波上宮にあった「『琉』と『球』の二つの国魂石」を一時期本土のある信徒に託され、戦後その国魂石が再び沖縄の地に戻されて鎮祭されたのと時を同じくして本土への復帰が実現しました。このように沖縄の本土復帰が、日本国民の祈りに応えて正神界の多くの神々や霊団が力を行使された結果であったことは明らかです。一昨日の5月15日は、その沖縄本土復帰50周年の記念日でしたが、残念ながら、沖縄が日本であることが気にくわない者達による抗議活動があったという報道を目にしました。出口聖師は、「悪魔も最後の時には悪あがきをするもんじゃ。それに惑わされる者は餌食じゃ」と言われましたが、これからも、このような日本を壊そうとする連中の活動はあるでしょうし、さらに連中は口先では平和やSDGsなど、もっともらしいことを訴えながら(『邪神界殊に八十八派の兇徒界の妖霊は一応尤もらしき言辞を弄し』)、多くの善良な人たちを無理矢理仲間に引き込もうとするはずです。よくよく注意せねばなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 


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