神が人となる (宗教の進化) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

*「キリスト」(ホフマン画)

・ルドルフ・シュタイナー

 

 “人々は今日、「神智学はあらゆる宗教のなかに単一の真理の核心を探求すべきだ。あらゆる宗教が同じものを含んでいるから」と、安易に言います。そのように言う人は、抽象的に同一のものを探すために諸宗教を比較しているだけであり、進化の原理を何も理解していません。世界は徒(いたずら)に進化しているのではありません。

 それぞれの宗教のなかに真理が含まれている、というのは本当です。しかし、宗教はある形態からつぎの形態へと発展していくことによって進化していくのです。

 深く探求すれば、キリスト教の教義が他の宗教のなかにも見出されます。キリスト教は新しい教えを何ももたらしませんでした。キリスト教において本質的なものは、教えのなかにはないのです。

 キリスト教以前の宗教の創始者たちを取り上げてみましょう。彼らにとっては、彼らが教えた内容が大事です。それらの創始者たちが無名のままであっても、彼らが教えたことは残るでしょう。それで十分なのです。

 キリスト=イエスの場合は、ちがいます。彼の場合、彼が物質的身体に宿って地上に生きたことが重要なのです。彼の教えを信じることではなく、彼の人格を信じることが決定的に重要なのです。彼は、死すべき者たちの長子です。「あなたは、私のように感じるのか。私が感じるように、あなたも考えるのか。私が欲するように、あなたは欲するのか」と、人々は問うことができます。”

 

(ルドルフ・シュタイナー「黙示録的な現代」(風濤社)より)

*ルドルフ・シュタイナーは、「たんに多神教的に神々に向かい合うだけでは、太古の意識状態に先祖帰りするだけで終わってしまい、今までの進化は無駄になってしまう。一神教的な思考力をいささかも失うことなく、神々に向かい合う必要があるのである。」とも述べています。仏教がキリスト教の影響を受け、大乗仏教へと進化したことは、多くの学者によって指摘されていますが、では日本神道はキリスト教の霊性と接触することによって、どのような形態へと進化すべきなのか。私は「霊界物語」がその答えだと思います。

 

・「霊界物語 第七二巻」より、ヨリコ姫と高姫の問答
 

高姫(たかひめ)(こぶし)(にぎ)りつつ 雄猛(をたけ)びなして(たち)(あが)

ヨリコの(ひめ)(ねめ)つけて (こゑ)調子(てうし)もいと(あら)

面上(めんじやう)(しゆ)をば(そそ)ぎつつ (おうぎ)パチパチ(たく)()

『これこれヨリコの女帝(によてい)さま これから直接(ちよくせつ)問答(もんだふ)

天地(てんち)(もと)(つく)りたる 大根本(だいこんぽん)根本(こんぽん)

生神(いきがみ)(さま)()如何(いか)に』 ()へばヨリコは(ゑみ)(たた)

如何(いか)なる難題(なんだい)ならむかと (おも)へばそんな(こと)ですか

天地(てんち)(もと)無終(むしう)無始(むし) 無限(むげん)絶対(ぜつたい)永劫(えいごふ)

(しづ)まり()ます(くに)(おや) 国常立(くにとこたち)(かみ)(さま)

(この)一柱(ひとはしら)(かみ)おきて (ほか)(まこと)(かみ)はない

如何(いかが)御座(ござ)高姫(たかひめ)』と (かほ)さしのぞけば高姫(たかひめ)

フフンと(わら)(はな)(さき)

高『(なん)(わか)らぬ神司(かむつかさ) あきれて(もの)()へませぬ

大慈(だいじ)大悲(だいひ)(かみ)(さま)は 天下(てんか)万民(ばんみん)(ことごと)

安養(あんやう)浄土(じやうど)(すく)はむと (こころ)をくばりたまひつつ

底津(そこつ)岩根(いはね)()をかくし 時節(じせつ)()つて種々(いろいろ)

 艱難(かんなん)苦労(くろう)のそのあげく いよいよミロクの大神(おほかみ)

ここに(あら)はれましますぞ その(かみ)(さま)生宮(いきみや)

どこに御座(ござ)るかヨリコさま すつかり()てて(くだ)さんせ

もしも(わたし)()けたなら 現在(げんざい)(まへ)さまの()(まへ)

(いき)たり()んだりして()せる』 ()へばヨリコは嘲笑(あざわら)

ヨリ『貴女(あなた)(おほ)せは(ちが)ひます (かみ)御書(みふみ)調(しら)ぶれば

(この)()(はじ)めと()(かみ) 国常立(くにとこたち)大神(おほかみ)

(その)()(もも)神々(かみがみ) (みな)エンゼルの(また)御名(みな)

これより(ほか)にありませぬ』 ()へば高姫(たかひめ)グツと()

高『ホヽヽヽヽヽホヽヽヽヽ これや面白(おもしろ)面白(おもしろ)

三五教(あななひけう)盲神(めくらがみ) こんな(こと)をば(えら)さうに

()人々(ひとびと)()(むか)ひ (まこと)しやかに(をし)へるのか

国常立(くにとこたち)大神(おほかみ)が もしも(この)(くに)御座(ござ)るなら

(わたし)(まへ)()(まゐ)れ それが出来(でき)ない(こと)なれば

空想(くうさう)理想(りさう)(かみ)でせう (この)高姫(たかひめ)()(かみ)

()きた肉体(にくたい)()ちながら ()きて(はたら)(いき)ながら

(ひと)(たす)くる(かみ)ですよ その(かみ)(さま)はどこにある

それを()らして(もら)ひたい』 ()へばヨリコは()(わら)

ヨリ肉体(にくたい)もつてます(かみ) 産土山(うぶすなやま)聖場(せいぢやう)

千木(ちぎ)(たか)()りてはおはします (かむ)素盞嗚(すさのを)大御神(おほみかみ)

三千(さんぜん)世界(せかい)太柱(ふとばしら) これより(ほか)にはありませぬ

貴女(あなた)(まも)るウラナイの お(みち)(かみ)何神(なにがみ)

(しつか)(わたし)()らねども (たい)した(かみ)では御座(ござ)るまい』

 

*スサノヲを祀る神社は全国各地に多数存在していますが、どこも単なる八百万の神々の一人として祀っているだけです。出口王仁三郎聖師は、スサノヲの主神、贖い主、そして救世神としての神格を明らかにされましたが、これはとてつもなく重要なことだと思います。最近は神社参拝を趣味とされる方もたくさんいらっしゃいますが、もしスサノオを祀る神社を参拝されたときは、「神素盞嗚大神(かむすさのおのほかみ)守りたまへ幸(さき)はへたまへ」と奉唱され、素尊をその真の神格において礼拝されると、さぞお喜びになられるだろうと思います。

 

・贖罪の神

 

 “ここに八百万の神謀り玉ひて、再び天照大御神を岩戸より出(いだ)し奉(まつ)り、速素戔嗚尊に千倉の置戸の罪を負わせて、足の生爪を抜き取り、胸毛(むなひげ)を抜きなど、種々の苦しみを負わせて流し奉れり。これぞ速素戔嗚尊が天津罪を我身一つに償い玉ひて、天津国の御霊を救われしなり。

 実にこの神は瑞(みづ)の御霊(みたま)にして、天地八百万の罪ある御霊の救い主なりし也。読む者、心すべし。

 速素戔嗚尊は、天津罪、国津罪を残らず我身に引き受けて、世界の人の罪を償い玉ふ瑞の御霊なれば、天地の在らん限りの重き罪咎を、我身に引き受けて、涙を流して足の爪まで抜かれ、血潮を流し玉ひて、世界の罪人、我々の遠(と)つ御親(みおや)の罪の代わり玉ひし御方なることを忘れるべからず。今の世の神道者は、悟り浅くして、直ちに速素戔嗚尊を悪しくみなすは、誠に恐れ多き事共なり。

 かくの如く天地の罪の救い主なれば、再びこの天が下に降りまして、瑞の御霊なる茂頴(しげかい:当時の王仁三郎の号の一つ)の身を宮となして、あまねく世界を救わんとなし玉える也。

 素戔嗚尊の救いの御霊の再び現れ玉いしは、天帝の深き御心にして、この世の立替えのために、万の事を任せて、天降し玉えるなり。人民の重き罪咎も、速素戔嗚尊の御名の徳によりて、天照大御神より宜しきに宣(の)り直し給うぞ、尊きの至りなり。

 限りなき栄えと命と喜びを得んことを願う者は、瑞の御霊を信仰すべし。

 限りなき苦しみ、病、患い、まが事を救われんことを願わば、瑞の御霊を厚く信仰すべし。”

 

(「出口王仁三郎著作集 第一巻」 『御霊魂のことわけ』より)

 

 

・キリスト教と日本文化

 “幼児洗礼を授けてもらった私は、とくにこれといった問題もなく大学時代を迎えることとなった。大学二年の私は、以前から関心のあった「日本文化とは何か」、「日本人の思惟方法とは」というテーマが、いくらか客観的にわかってくるようになると、「日本文化ないし日本人の思惟方法とキリスト教」という問題で悩み始めた。
 今日に至るまで、一般に日本文化に対してキリスト教が真に対決したことはないと思う。当時の私は、日本文化を受け入れるとキリスト教的には生きていけない、また逆に、キリストに倣った行動をとれば日本文化とことごとくぶつからざるを得ないので、テルトリアヌスやタティアノスのように、「日本文化をまったく無視すべきではないか」などと真剣に考えるようになった。
 ところで私は他方において、信仰が潜在的に植え付けられている点についてははっきりと自覚していた。そして、自分の信仰が、自分の学問に、さらに大きく言えば、日本の社会に役立つものであるのかどうか、いろいろ思いめぐらしていた。手当たり次第に本を読んでみたし、その道の第一線の人にも手紙を書いていろいろ教えを受けた。またアレクサンドリアのクレメンス(1~2世紀)のように、師を求めて諸外国を飛び回るわけにはいかなかったが、国内では、日本人・外国人を問わず、自分の師を求めてあちこち訪ね回った。
 そして、蒸し暑い夏の夕方、私は東京の三畳の間借り部屋で、「これだ!」というものを体験したのである。後でわかったことであるが、クレメンスの回心告白と一致していた。「〈みことば〉は人となって、わたしたちのうちに宿った」ことによって、絶対者はわれわれ一人一人すべてと、また個々のすべての文化と、すでに一致しておられるのである。
 日本文化にも、すでにロゴスの種子が蒔かれているのだ。そのことはクレメンスも語っているように、ギリシャ人にはギリシャ人的に、シナ人にはシナ人的に、そして日本人には日本人的にすでに知られているのだ。さらに、巡礼の旅の体験を通してクレメンスも述べていることではあるが、信仰が主体的に文化と関わることによってこそ、信仰が自己の意味内容を認識するものだと見なしたのである。“(久山宗彦:法政大学教授(比較宗教学))


(久山宗彦「ナイル河畔の聖家族」(フットワーク出版)より)

 

 

・エドガー・ケイシー述 『キリストの再臨』より

 

 “主なるキリストは、ご自分が教えを述べた土地では決して受け入れられませんでした。主は、パレスチナ・エジプト・インド・ペルシャ・中国・日本……少なくとも以上のすべての土地で教えを垂れました。”

 

(ヒュー・リン・ケイシー「E・ケイシー ライブラリー 精神革命ガイドブック」(たま出版)より)

*ケイシー自身がこのように語っているということは、もしかしたらイエス・キリストは、過去世で日本に生まれたことがあったのかもしれません。

 

・スウェーデンボルグ (「主なる神の神人性」について)

 “人々は救い主イエス・キリストなる神を信じなければならない、即ち、彼に対する信仰を持たなければならないのは、これは見えない神がその中に在すところの神に対する信仰であるからである。何故なら、人でありまた神である見える神に対する信仰は人の受け入れ得るものであるからである。
 純粋に霊的なものは実際人間に入りはするが受け入れられない。単に自然的な信仰または霊的本質を欠いた信仰は信仰ではなく単なる確信あるいは知識に過ぎない。確信は外的には信仰のように見えるけれども、内的には霊性を欠いているゆえ、その内には救うものは少しも存在しない。これが主の人間性の神性を否定する凡ての者の信仰である。見えない神に対する信仰は盲目である。それは人間の心はその神を見ないからである。このような信仰の光は霊的自然的なものでない為、偽りの光である。この光によって見られる物は凡て錯覚に過ぎず、外面的なものが真実なものとして誤認されるのである。
 しかし、救い主に在す主なる神に対する信仰はこれと異なっている。彼は神と人であるゆえ、思考によってこれに近づき、これを見ることが出来るのである。かかる信仰は不確定なものではなく、一定の対象をもち、一度受け入れられた時、止まるのは、人はその一度眺めた皇帝あるいは王の姿を思い浮かべることが出来るさまに似ている。“

 “救い主に在す主なる神に近づかなくてはならない。人間は外の道より超ゆるべきでないということは、父なる神に近づくべきでないことを意味する。それは彼は目に見えず、近づき得ず、また彼との結合も在り得ないからである。それゆえ彼御自ら、単に人間が救われんがために、世に来たり、自らを目に見える者となし、これに近づき得る者となし、これと交わることのできる者と為し給うたのである。”

 “前の教会は主として創造者なる神に対する信仰であり、贖罪者と救い主に対する信仰ではない。しかし新しい教会の信仰は創造者であり、贖罪者であり、救い主である一人の神に対する信仰である。


(イマヌエル・スエデンボルグ「真の基督教」(静思社)より)

 

 

・パラマハンサ・ヨガナンダ

 

*今日は冬至の日で、明後日はクリスマスイブです。パラマハンサ・ヨガナンダ師は、クリスマスの時季の一日すべてを瞑想と、キリストとの霊交に捧げてイエス・キリストの生誕を祝う習慣を確立するよう求められました。各地のSRFでは、クリスマス終日瞑想会を実施し、クリスマスを霊的にお祝いしています。

“私の願いは、あなたがたがそれぞれ内なるキリスト意識を経験し、その聖なる意識でほかの人たちすべてのクリスマスを祝福してくださることです。そのとき、われわれはもう死によって互いに引き離されることはなくなり、生死を超えてだれとでも一緒に、いつも天の父とこの日を祝うことになるでしょう。SRFは、『真のキリストに対する信仰』という決して消えることのない火をともしました。それはこの地上を新たな光で照らすとともに、セルフ・リアリゼーション(真の自己を自覚する)という聖なる炎で戦争や悲劇を焼き尽くすのに役立つでしょう。――パラマハンサ・ヨガナンダ”

 

“われわれ人間の意識が聖なる意識に目覚めるためには、キリストについての限定的で型にはまった考え方から脱却しなければなりません。私にとって、クリスマスといえば、霊的な崇高さが思い浮かびます。つまり、キリストとはすべての創造物に内在する知的意識であり、われわれの心はキリストの祭壇であると悟ることなのです。

 この季節には、エーテルの中にいる天使たちもクリスマスを祝います。クリスマス初日には、聖なる無限の光が地上に輝き、この神聖な時期には毎年、エーテルがその光で満たされます。瞑想の中でキリストを礼拝することこそが真のクリスマスの祭典なのです。

 自己の内に存在する全能の神の恩寵を知覚するためには、深く瞑想するしかありません。体の動きを止め、感覚器官から脳へとエネルギーを引き上げ、心臓を落ち着かせなさい。キリストはあなたのハートに来られます。あなたはそこに無限のキリストの聖なる喜びを感じるでしょう。

 キリストは瞑想の喜びです。静寂の最も深まった時間にあなたが感じるものは、キリストの知覚です。私は、あなたがこのキリスト意識を毎日、毎時間、自分の心に招き入れるよう望みます。

 キリストがあなた自身の意識の中に復活されますように!これが、今日あなたに贈る、私の謙虚な祈りです。そして、皆さんにこの特別な祝福を贈ります。クリスマス・シーズンに深く瞑想するなら、あなたはキリストのご存在を感じるでしょう。

 

(SRFのHP 『パラマハンサ・ヨガナンダ――クリスマス・シーズンにキリスト意識を感じるために瞑想する』より)

 

 

 

 

 

 


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