主神の神格に充たされたる預言者 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・主神(すしん)の神格に充たされたる預言者

 〔第一次大本事件の時の精神鑑定の記録(今村博士とのやり取り)〕

 

今村 お前の霊を書け

王仁 私の霊は、貴方等嗤はれるから叶はん

今村 仕方ないじゃないか

王仁 書きますわ(と言いて

    救世主の再臨 弥勒菩薩

    キリストの方で云へば メシアの神

    神道の方で云へば 神素盞嗚大神(かむすさのをのおおかみ)

    未申(ひつじさる)の金神と書く)

今村 夫れが何

王仁 弥勒菩薩再来です

今村 誰が

王仁 私が、キリスト教で言へば「メシア」かで、神道で言へば神素盞嗚大神です

今村 いつから定めたのか

王仁 私は定めやしません、神さんが言ふのであります

今村 どうして言ふのか

王仁 どうしてって、私の口を借りて言ふのであります。私は信じて居ります

今村 何時からそう言ふ事になって居るのか

王仁 明治三十一年からです

今村 何月何日

王仁 高〇山(高熊山)に行った時からです、(旧)二月十五日からです

 

(出口和明『スサノオ考』「予言と神話 出口王仁三郎と霊界物語の謎」八幡書店より)

 

 

・バハイ教の聖典「キタベ・イガン(確信の書)」より

 「『最初の太陽』と『最後の太陽』は同一であり、それは『総ての太陽』である」

 “ここで、しばらくマホメットの宗教制における同胞達の振る舞いについて考えてみよう。マホメットの蘇生の息吹により、彼らがいかにして世俗の虚栄の汚れから清められ、利己的欲望から解放され、また彼以外の総てのものから超脱させられたかをよく考えてみよ。いかにして彼らが、地上の総ての人々に抜きんでてマホメットの聖なる御前・・・それは神ご自身の御前である・・・に到達し、この世と、そこにある総てのものを投げ捨てて、栄光に満ち給う御方を顕示する者の足下に、自ら進んで、喜びを持ってその生命を犠牲にしたかを見てみよ。さて、バヤンの点(注:「バヤンの点」とはバハオラの師であった預言者バーブを意味する、1850年に〝異端者″としてタブリーズで処刑された)の同胞達が示したところに、これと全く同一の決断、節操、克己心の「再来」を見ることができよう。如何に、これらの同胞達が、主中の主に在す神の恩寵の不可思議な力により、到達しがたい栄光の最高峰に、崇高な克己自制の旗を掲げたかは、汝がその眼で見ているとおりである。これらの数々の光明は、只一つの源から発したものであり、またこれらの多くの果実は皆、一本の木に実ったものである。汝は、それぞれの間に、少しの相違も差別も認めることはできない。これは皆神の恩寵によるのである。神は自ら望み給うものに、その恩寵を授け給う。神もし許し給わば我々は、否認の地を避けて、容認の大洋に乗り出して行こう。そうすれば、総ての相反する要素から清められた眼をもって、統合性と多様性、変動性と単一性、有限性と超越、の種々の世を認めることができよう。そして神の御言葉の奥深い意味の最上にして、内奥なる聖所に向かって我々は羽ばたくことができよう。

 従って、これらの説明から次のことが明白になってきた。即ち「始めのない始め」に、一人の人物(顕示者)が宣布し信奉した大業を、「終わりの知れない終わり」に、他の人物(顕示者)が宣布し信奉しようと出現して起ちあがったとしたら、最初のものも最後のものも、両者は同一の大業の唱道者であるため、彼らは全く同一であると真に言明することができるのである。このような理由で、バヤンの点(預言者バーブ)は、神の顕示者たちを太陽にたとえられた。その太陽は「始めのない始め」から「終わりの知れない終わり」まで昇るのであるが、尚それは全く同一の太陽である。さてそこで、もし汝が、この太陽はあの太陽の「再来」であると言ったとしても、汝は真実を語っているのである。同様に、この説明から、「最初のもの」も「最後のもの」も、双方とも同一の教えを宣布するために起ちあがったのであるから、「最後」という語は、「最初のもの」に適用することができるし、「最初」という語もまた「最後のもの」に適用できることは明白となる。

 知識と確信の美酒を飲み干した人たちの眼から見れば、この論旨は全く明白なのであるが、「預言者たちの打ち止め(マホメットの称号の一つ)」という語の意味を理解し得なかったがためにこの語が自らの理解力を曇らせることを許してしまい、神の多様な恵沢の恩寵を自ら遠ざけた人が何と多くいることであろう。マホメットは自ら、「我は総ての預言者達である」と言われたではないか。我が既に述べたように、マホメットは、「我はアダム、ノア、モーゼ、そしてイエスである」と宣言されたではないか。「我は最初のアダムである」と言われた不滅の美であるマホメットは、何故また「我は最後のアダムである」とお述べになることはできぬと言えようか。同じく、彼は自らを「最初の預言者」つまり、アダムと見なされたが、同様に「預言者達の打ち止め」という語もあの聖なる美(マホメット)に正しく適用できるのである。マホメットが「最初の預言者」であれば同様に彼は、「預言者の打ち止め」でもあることは、疑いもなく明白である。”

 

      (バハオラ「ケタベ・イガン 確信の書」バハイ出版局より)

 

 

・神の化身(アヴァターラ)について 〔スワミ・ヴィヴェーカナンダ〕

 “無限であられる神がどのようにして、小さな、限られた、人間という構造をかりて化身することがおできになるのか。この質問に対して、スワミジー(ヴィヴェーカナンダ)は答えた、「そうだ、神は無限である、というのは事実だ。しかし君たちが考えているような意味でではない。君たちは自分の粗雑な観念に従って、『無限』というものを全宇宙を満たしている広大な物質的対象として理解しているのだろう。それだから、どうして神のような広大な実体がこの小さな人体に入るほど自分を縮めることができるのか、とふしぎがるのだ。実は、『神の無限性』という言葉はただ‘かれ’の無限の霊的‘本質’をさしているのであって、それは‘かれ’が人間の肉体に化身したからとて、少しも抑制されるものではない」と。”

  (「最高をめざして スワミ・ヴィラジャーナンダの法語」日本ヴェーダーンタ協会より)

 

 

・「バガヴァッド・ギーター」(ヒンドゥの聖典)より、ヴィシュヌ神の化身であるクリシュナの言葉

 

  徳がおとろえたとき

  罪悪がふえたとき

  私は肉体の姿となる

  聖なるものを救うために

  罪を破壊するために

  正義を確立するために

  私はいつの時代にもよみがえる

 

      (「バガヴァッド・ギーター」ヴェーダーンタ文庫より)