信神せねば、神は助けたくとも助けられぬ | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・艮(うしとら)の金神、国祖・国常立尊の託宣

 

 神はわけへだてはいたさぬぞよ。みな一ように守るぞよ。神はへだてはいたさぬが、人民がへだてをいたすのであるぞよ。(明治三十一年閏三月二十四日)

 

 信神のはじまりは、天地の大恩ということが分らぬと、日参をいたしても、まことのおかげはないぞよ。(明治三十一年旧十一月一日)

 

 信神はつねにせよ。信神すれば、まさかのときの杖になるぞよ。にわか信神は間にあわんぞよ。わからんうちから心得ておけば、世界に何がありだしても、そのおりは高見から見物さすなれど、世界から出てきてから神にすがりても、つねに信神がないと、この方は聞き済みいたさんぞよ。(明治三十三年旧十二月七日)

 

 人民は、神を手を合わして拝みさえすればよいと思うなれど、世の元の世界がでけたおりからの因縁がわかりてこんと、なにも知らずに有難いだけでは、こんどは、まことの神徳(おかげ)はとれんぞよ。おかげとるのは、わが心で大本のおかげはとるのざぞよ。こんどは身霊(みたま)を水晶にみがいて、筆先がわかりたら、とんだ神徳(おかげ)がとれるぞよ。(明治三十七年旧正月十四日)

 

 身魂の立替え立て直しは末代のことであるから、ちっとも容赦はでけん、待ったはないぞよ。厳しくいたすから神徳(おかげ)を十分うけておらんと、神徳(おかげ)さえありたらどんなことでも凌げるなれど、こんどは神徳(おかげ)をもろうておかんと辛いぞよ。

 神徳(おかげ)を受けるのには、これまでの心をさっぱり入れかえをいたして、みろくさまのお心になりた人民から良くしてやるぞよ。

 われは偉いと慢心いたして、神をかつおぶしにいたして、われが早う出世をいたそうというような見苦しい心の人民は、この結構な高天原(たかあまはら)へは寄せんようにいたすぞよ。

 沓島(めしま)へ御礼に参るのも、人民は思いがみなちがうから、沓島のような淋しき所に、三千年あまりも押し込められておいであそばしたお心はどういうものでありたということを、くみとれる精神の人民でありたら結構成れど、そこまでのことがなかなか汲みとれんぞよ。こんど神島へ参るのも同じことであるぞよ。

 何もわからずに参りさえすれば、すぐに神徳(おかげ)があるように思うて、われもわれもと申して参りても料簡がちがうから、あの淋しい所へ長らく落ちておられたお心のわかる身魂でないと、まことの神徳(おかげ)はいただけんぞよ。

 世界が今のように見苦しいことになりたのは、もとの天地の大神をないようにしておいて、われが神であるというような、悪に心がかえりてしもうて、したい放題の世のもち方をいたしたからであるぞよ。

 二どめの世の立替えをいたしたら、土地財物(くに)の奪(と)り合いというようなことはもういたさんから、この世がおだやかになりてみろくさまの世という世は、なした良い世であるだろと申して、皆が喜ぶようになるから、神徳(おかげ)をいただいて、このさかいの大峠をらくに越さしてもらうが結構であるぞよ。(大正五年旧九月五日)

 

      (大本祭教院「大本神諭 第一集~第五集」天声社より)

 

 

・エドガー・ケイシー・リーディング 「これは(神と人との)相互的な反応である」

 “これまでも見てきたように、主の臨在の約束に対しても、ケイシーは人間の側の働きかけが重要であると言う。この働きかけは、ただ外面的な服従を示すだけではだめで、「神を知ろうとする者は、神のいますことを信じなくてはならない。そして何よりも、そのように行動することである!」(一一五八-九。参照へブル11章9節)。また、内面的、個人的働きかけというものも、等しく強調されている。

 

 あなたにとって神はどれほど個人的な存在であろうか?あなたが望むだけ、神はあなたにとって個人的な存在となるのだ!イエスとして肉体に現れたキリストと、どれほど親密な関係であろう?あなたが望むだけ、キリストは近く、大切なものとなるのだ!……。

 あなたに愛する子供がいるとしよう。求める子供と、求めない子供のどちらに、あなたは応じるか?それはあなたが一方の子供により大きな愛情をかけているというわけではない。これは相互的な反応である!」(一一五八-九)

 

 つまり、神は我々の心からの応答を望んでおられるのであり、また信仰というものは、罰を免れんがための手段ではなく、神との深く高貴な個人的関係を得んがための道であるのだ。このような関係を結ぶために「主は、勇気を失い、失望し、将来の展望を失った者の傍に立つと約束されたのだ!」(二一五六-一)。”

 

 (リチャード・ヘンリー・ドラモント「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」たま出版より)