「汝の敵を愛せよ」 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・スウェーデンボルグ神学(新エルサレム教会 D・テーラー牧師による説教「好みと愛」より)

 

 “主は人を憎んではならないと言われます。たとえ人から憎まれ、呪われ、軽蔑され、迫害されても、憎んではならないのです。憎しみは地獄からのもので、主の愛とまっこうから対立しています。

 とは言っても、このような敵に対し、友情や愛情をもたなくてはならないと言われているのではありません。愛することと、愛情をもつこととは違います。

 新約聖書には、ギリシャ語で「愛する」に該当するコトバがありますが、「相手の幸福を願う」という意味での「愛する」と、「友情と愛情を感じる」の意味での「愛する」の二つを区別しています。

 主が『あなたがたの敵を愛しなさい』と言われるとき、「相手の幸福を願う」意味での「愛する」であって、「愛情を感じる」意味での「愛する」ではありません。主から命じられているのは、人の幸福を願うことであって、友情を感じることではありません。自分に憎しみをもっている人に愛情を感じるなど、不可能です。友情とは、心からわきあがる感情で、人間の自由にならないし、主は不可能なことを命じられるはずはありません。

 主がわたしたちに命じられていることは、かれらの幸福を願うことであって、これはだれに対してもできます。わたしたちは、人間そのものを見ないで、人間のなかにある善に注目し、その人のなかにある善を成長させていきたいと思います。これが愛です。”(P62)

 

 “ご自分の被造物を憎むなど、神にとってはとんでもないことです。たしかに『主は、あらゆることで善良です。そして、その優しいいつくしみは、あらゆる業の上に及んでいるのです。』(詩篇145・9)。

 人は神の似姿として作られていますから、人が人を憎むということも、同じようにとんでもないことなのです。好きでもないし、自分に対し憎しみを抱いている人でさえ、その人を憎むのはよくないことです。その人に愛情を感じなくても、その人の幸福を願うことはできます。

 でも、人を愛することは、主のみ力なくして不可能です。愛はすべて、主からいただかなくてはどうにもなりません。そのためにジャマを取り除くことです。ジャマになるのは好きこのみであり、自然的な情愛です。これが主の普遍的な愛を邪魔しているので、隣人に対して、愛のない態度をとり、心のドアを閉じてしまっているのです。

 敵を愛すると言っても、敵の言いなりになると言うのではありません。これは戦争のとき、敵に負けてやることが、敵を愛することだと思うのに似ています。敵を愛するとは、敵に降伏することではなく、自分の感情のなかにある嫌悪や憎悪を越えて、敵が本当に幸福になるように願い、そのために努力することです。憎しみは、地獄を呼び寄せることですから、これに加担することはできません。

 敵に対して、憎しみでもって対抗することは、その抵抗を弱めることになります。ということは、悪に抵抗するのに悪をもってすれば、悪に加担することで、抵抗することにはならないからです。主は『悪人にさからうな』と言われました。しかも悪に抵抗するには主によらなくてはなりません。主によって悪に抵抗するとき、主のスフィアに入り、善の力を生むことになります。

 わたしたちは、悪人の計画を善の力で挫折させなくてはなりません。つまり敵が善に向かうように助けます。これがその人を愛し、主を愛することになります。

 敵を愛するとは、敵と思える人を、自分の個人的な友人にすることではなく、また、かれらから友情を期待することでもありません。つまり敵を愛するということは、敵から愛されることではありません。

 これが愛の本質、主の愛の本質です。敵を愛するとは、敵の期待に反してまでも、敵の本当の幸福を思うことです。主は、主を愛していない人たちも、受け入れ、愛しておられ、ご自分の善を、悪人にまで及ぼしていこうとされます。主は悪人の不幸を最小限にとどめ、より深い悪の淵に落ち込まないように抵抗されます。地獄の最低のところでも、主はかれらが善と真理を冒涜することを止めさせて、かれらが不幸になっていくのに抵抗しておられます。”(P64~P65)

 

(「新エルサレム公教会説教集第二巻 狭い門から」(アルカナ出版)より)

 

*聖書の中にあるイエスの「汝の敵を愛せよ」という言葉は非常に有名ですが、「敵である者達の本当の幸福を願え」という意味であれば、時には厳しい態度を取ることも必要なはずです。

 

・ルドルフ・シュタイナー

 

 “……シュタイナーが『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』という長いタイトルの本の冒頭に書いていますように、魂の衛生学の第一条件は、畏敬の念を持つことだ、というのです。朝から晩まで畏敬の念を持つのではなく、一日のうち五分でもいいから、畏敬の念を実感として持てる時間を自分の中に作るのです。例えば夜、仕事が終わった後で、自分の部屋に落ち着いたときに、その一日を振り返ってみて、何か感動できる情景、例えば電車の中で小さい子供たちがとてもかわいらしい感じで座っていたところを思い出せるとすれば、その子供に心を向けるとか、シュタイナーはもっとひどいことを、というか強烈なことを言っていまして、今まで体験した中で、最も嫌らしかった人間を心の中に思い浮かべて、その人間に対して畏敬の念を持つのが一番いいと言っているのです。

 嫌な人を嫌だと思うことは誰でもできるんですけれども、そう思った瞬間に自分の魂は反感に満たされます。魂の衛生学からいうと、その魂は弱まるのですね。ぷんぷん怒れば、その分だけ魂のエネルギーを奪われるのです。ところがその嫌らしい人物に向かって、畏敬の感情を向けると、その人は魂を共感のエネルギーで満たすことができますから、嫌らしかった相手も、そういう手段の対象になったことによって、役立つ人物だったということに気づかされるのです。そこであらためてあまり反感を持たなくても済んでしまうというわけです。

 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』を読むと、それを道徳の問題のように取りちがえてしまうものですから、大抵の人は、『そんな難しいことはとてもできない』と考えてしまいます。けれどもあの本は、一日のうちの五分間やるべきことが書いてあるので、朝から晩までやれ、と書いてあるわけではないのです。道徳の問題ではなくて、魂の衛生学です。自分の魂をエネルギーで満たすにはどうしたらいいのか、ということが、あの本の「条件」の章には書いてあるのです。

 シュタイナー学校の先生も、毎日登校する前に、自分のクラスの子供全員を一人一人心の中に畏敬と愛を込めて思い浮かべることで。魂に共感のエネルギーを満たします。”

 

(高橋巌「シュタイナー教育入門 現代日本の教育への提言」(角川選書)より)

 

*正直に言って、たとえ五分間でも、自分の最も嫌な人物に畏敬の念を持つことは非常に困難です。やはり信仰なくしては無理、「人を愛することは、主のみ力なくして不可能」なのだと思います。

 

*チベット仏教には、慈悲の瞑想「トンレン」というのがあります。これは「敵の幸福を願う」ことを可能にしてくれる行法です。「トンレン」の具体的な実践方法は、ソギャル・リンポチェ著「チベットの生と死の書」(講談社)に載っています。トンレンを行じたハンセン氏病患者、難病患者が治ってしまったという話も紹介されており、魂の癒しは身体の癒しにもつながっているようです。

 

・ラーマクリシュナの教え(直弟子マヘンドラナート・グプタの回想) 

 

 “師(ラーマクリシュナ)はどんなに、注意深く万事を見ておられたことか。あるときある弟子が、1パイサで10束買えるはずのキンマの葉を6束しかもらってこなかったら、彼をしかって、「なぜだまされてすましているのか?うけとるべきものはきちんとうけとらなければいけない。余分にもらったら、ほかの人に分けてやればよいのだ。決してだまされてはいけない」とおっしゃった。

 あるとき、私は師のおともをしてパンチャバティにゆき、彼の傘をおきわすれてきた。部屋についたとき、彼はおこってこうおっしゃった。「法悦境にはいったときには、自分の着衣を身につけておくことさえできない。それでも私はそんなまちがいはしないのだよ」

 近ごろある人は、ダルマ(宗教)は外界のことがらに無関心になることだ、と考えている。しかし師はそのような態度にはがまんがおできにならなかった。彼は、「そんな無関心はタモグナ(遅鈍)の結果だ」とおっしゃった。” 

 

(日本ヴェーダーンタ協会発行「不滅の言葉」 第33巻4号より)

 

*シュリ・ラーマクリシュナは、ある不道徳な行いをしていたバラモンが、「すべてはブラフマンです。私に罪はありません」と言うのを聞き、「私はあなたのヴェーダーンタ哲学に唾を吐きかける」と答えられました。不道徳な行いや犯罪は、決して容認されません。

 

*「霊界物語」でも、宣伝使たちは、悪人といえど決して滅ぼすようなことはせず、ひたすら改心させようとします。もちろん悪を野放しにはしませんし、無抵抗主義と言いながらも正当防衛は認められています。

 

「……無抵抗主義の三五(あなない)教に入信した俺だけど正当防衛は許されてあるから……」

 

(「霊界物語」 第72巻 第5章『蛸船』より)

 

 

 

 

 

 


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