リトル・リチャード:アイ・アム・エヴリシング('24年3月Tジョイ梅田) | Que amor con amor se paga

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原題名:Little Richard: I Am Everything

エルヴィスも、ビートルズも、ローリング・ストーンズも、ジェームス・ブラウンも彼から始まった

シャウトも、ステージの上で暴れるのも、上着脱いで投げ捨てるのもリトル・リチャードが元祖だったのだから驚き。

生誕90年以上経ち認められた『ロックンロールの元祖』リトル・リチャードのドキュメンタリー

認められるの遅すぎ(涙)

ロックンロールのアイコンたちを、リトル・リチャードが、どうやって才能を見出し世に送り出したのか、
何故彼はその恩恵にあやかれなかったのか。

字幕監修を手掛けたピーター・バラカンさんでさえ知らなかった、リトル・リチャードの生い立ちや苦悩を、生前のフィルム、関係者、親族へのインタブーで綴る。

予告編はこちら、あらすじいってみる。



リトル・リチャードこと、本名リチャード・ウェイン・ペニマンは、ジョージア州メイコンで12人兄弟の1人として生まれた。

厳格なキリスト教バブテスト系の家系に生まれたリチャードの祖父は牧師。
父親チャールズは昼間は宣教師、夜はナイトクラブで白人相手に密造酒を作り生計を立てていた。

『オヤジは7人息子が欲しかったんだ。なのにオレはゲイだ。右足が3インチ短い出来損ないだと思われ疎まれた。』と明かすリチャード。
公民権運動すら起こっていなかった時代にゲイをカミングアウト。


リチャードが、歌を始めたのはきっかけは、兄弟の中で目立ちたかったから。
幼い頃のリチャードは教会で歌を披露。
家に帰ればわんぱく振りを発揮。
ピアノを肘テツでガンガン叩いて、宣教師の父親に、つまみ出される始末。

独学のピアノは見様見真似。
立ったままピアノを弾き、左手でブギウギ、右手で打楽器風に弾くのはティナ・ターナーの暴力夫・アイク・ターナーの真似なんだそうで。



中学に入ると地元の学校でマーチングバンドでサキソフォンを弾き、コンサート会場でコーラ売りのバイトをしていた。
自身のライブ前にリチャードの歌声を聴いた 歌手・シスター・ロゼッタ・サープは、リチャードにパフォーマーになるように推した。
リチャード14歳の春。彼は家を出た。

思春期のリチャードはメディスンショー(南北戦争後に、アフリカ系の人々がアヤシイ薬売り行商に同行して歌や踊りをする見世物)
や、ミンストレル・ショー(白人が黒塗りして劇や歌のショーをする)に参加。
リトル・リチャードと名乗るようになったのはこの頃。
1950年にバスター・ブラウンズ・オーケストラに参加し、団長のブラウンズに命名されたことがきっかけだった。

ショーでドサ周りをするのが当たり前だった時代、リチャードがレコーディングを行うきっかけになったのが、'40年代にジャンプ・ブルースで名前をあげたビリー・ライト。



当時二十歳前のリチャードにとって、ゲイを公表し、メイクをして、ジェルで髪をセットし、舞台に立つ姿が認められるライトの存在は大きかった。
リチャードは、ライトのつてで、ライトが地元のDJに紹介したのを契機にリチャードはラジオ局での録音を行い、そこからRCAビクターと契約して51年の“Taxi Blues”でレコード・デビューを果たす。
エルヴィス・プレスリーより先にレコードデビューしたものの、派手さはなくシングル4枚が不発。

同社を離れ54年に'51年に友人のギリシャ系ミュージシャン・ジョニー・オーティスの推薦でピーコック・レコードから数枚のシングルを出したものの泣かず飛ばず。

諦めず自身のバンド、アップセッターズを結成。
レコード各社にデモテープを送り続け、スペシャリティ・レコードからデビュー。



がっ!デビュー作の『トゥッティ・フルッティ』。
元々の歌詞がヤバくて(涙)、これじゃぁラジオで流せないから、clean upしないといけないというトンデモな羽目に。
後のテレビのインタブーでリチャード自身が元々の歌詞に対して『(地上波で流れたら)オフクロにバレたらヤバい!聞かせられねぇ!』とヌカし、リライトして貰った歌詞をみて『オフクロ!オレの曲がヒットしたゼ!』になるのだから(涙)

…歌詞の内容を『無害』に書き直すということは『白人にパクられやすくなる』ということに、気づいていなかったリチャード。

この頃のミュージシャンあるあるで、レコードの著作権、印税について、いい加減な契約を結んでいたのか

エルヴィス・プレスリー、パット・ブーンなど、後世に残るミュージシャンに曲をパクられてしまった。



ショービジネスの世界に疎かったリチャードは、白人アーティストが台頭する頃になると、時代に取り残されるようになっていくのだが…

以下ネタバレです



この写真『エルヴィス』に出てくるリトル・リチャード。
左が演じたアルトン・メイソン、右が本人。
プレスリー演じたオースティン・バトラーより似てると話題になった、ヴィトンのモデル。

リチャードは、自分が発掘したアーティスト?
『ジェームス・ブラウン』などほぼ全員に『レコードを刷れ!ショーよりこれからはレコードの時代だ!』とアドバイスしまくっていたのですね。
自分自身を消耗品の様に消費するな。セルフプロデュースしてブランディングして、きっちり売れと。

自分自身は、ほぼ消耗品状態(滂沱)
いいよいいよオレのことなんざ状態。
彼自身心のどこかに『人に良くしていれば恩恵があるだろう』と楽観的な考えで居たと思うのです。

でもショービジネスはシビアで
レコードの印税や著作権について、彼が無知だったのが災いし、あれだけ売れたのに、

印税や著作権料はほぼ貰ってない

…リチャードが発掘したアーティストも、誰もそんな所まで面倒みる人は居なかった…というオチ。

51年にレコードデブー→数年間売れず→55年にヒット
ライブをすれば人種関係なく若者熱狂。パンツがステージに投げ込まれるのは、エルヴィスのライブが初めてじゃなかった件について…という騒動。

人気絶頂の1957年に、突如引退宣言してしまうリチャード。

…映画では、何故引退したのかサラ~っと流されちゃってるんすが、一度引退した理由+復帰した理由が、それかっ?という理由。

彼は人気絶頂の'57年に初の海外ツアー(豪州ツアー)を決行。
その時、空に火の玉が空を横切るのを目の当たりにしたそうな。火の玉ってのは、ソ連の人工衛星スプトーニクが大気圏に突入しただけの話なんすが、
何故かリチャードは『神のお告げだ、悔い改めよと』と捉え、音楽活動をやめた…らしい。
モノの捉え方も人それぞれなんだろうと思うけど、
新聞読んでいたら、こんな考えしなかったとか、思ってしまう。

勘違いからはじまって、その日からガラっと変わったリチャードは、毎朝セットしていた髪もメイクもやめ、どこにでも居る 普通のアフリカ系の牧師志望の学生に。

アラバマ州にあるセブンデイアドベンチストのアフリカ系大学・オークウッド大で神学を専攻。
かつての同級生は、そりゃーリトル・リチャードって誰よ?って感じで。
まさか自分たちの大学に入学してきた若者が世間のお騒がせアーティストと同一人物と思わない。

『たった一回の結婚歴』もこの時あリ、お相手のアーネスティン・キャンベルさんは、真摯な牧師さんだと思っていたというのだから、どんだけ??という。

牧師になりゴスペルを歌い、聖書の販売で生計をたてていこうとしたリチャードなのだけど、そうは問屋が卸さない。
今までのハデな生活から抜け出せるわけもなく、アイデンティティが揺らぐこともない。

この頃にコカインに手を出してしまい、先立つものがないという事情もあり、キャンベルさんと協議離婚。
'60年代初頭から、ショービジネスの世界に復帰することに。

パット・ブーンにパクられない様に、キーを上げピッチも早くした『のっぽのサリー』
誰もパクらんだろうと構えていたら、時が経ちビートルズにパクられ代表作になっていた。

しかもビートルズ4人、パクった自覚ゼロで『リチャードカッコよ杉!合いたい!』感を出している。



'62年10月にリバプールのエンパイアシアターでビートルズが公演を行った時の写真。
リチャードは

全くの新人4人組なんだが、合いたいって言ってる4人組がいる

…とマネージャーか事務所から聞かされ、ホイホイと写真撮った一枚なんだそうな。
それがこの歴史的写真。

初めて会ったとき、畏敬のあまり硬直してしまった(ジョン・レノン)

歌で叫ぶのはリチャードの影響さ(ポール・マッカートニー)




若い頃、前座として出演し、舞台袖からリチャードのパフォーマンスを何十回と観ていたローリング・ストーンズ

ロックンロールはリチャードが始めた(ミック・ジャガー)

ビリー・ポーターは、彼がいなかったら今の私は居ないとまで言い切る。

その後も時代をリードする様々なアーティスト、パフォーマーに影響を与えたものの、リチャードの手元には何も入ってこない。

こんな話ってありなのか、とドキュメンタリーを観ながら考えた。
知らないものが搾取される一方のショービジネス。

アーティストたちに曲を提供どころか、スタイルもパクられまくり、リスペクトすらされない。
そりゃぁ恨みつらみ一言言いたくなるだろうなぁと。
この動画の後、受賞したアーティストの歌を歌い、会場をさらにザワつかせたリチャード。



彼が所属していたレコード会社を買い取ったのがマイケル・ジャクソンなんすが、後にマイケルはリチャードに『自伝書かない?』って話を持ち掛けているんすね。印税フトコロに入るから。
リチャードはスネて断っちゃった。

バブルの頃に来日公演予定してたらしいんすが、全くチケットが売れず、おじゃんになったらしい。
あの頃は全然違うアーティスト売れてたから、どうだったんだろう??

'97年にアメリカン・ミュージック・アワードの功労賞受賞。

グラミーならなかったけど、人生最初で最後の賞となったリチャードの動画がこちら。



晩年は人工股関節を入れるほど足腰が弱り、杖をつかないと歩けなくなったらしく、'13年に引退。

'20年に87歳でガンで亡くなったのですが、亡くなる直前の動画がこちら。
亡くなる直前はシャウトするのでもなく神に祈りなさいと唱えるリチャード。
犬猿の仲だった親とは売れてから連絡を取っていたそうな。



本人は破天荒に生きたのだけど、関係者はどう思っていたんだろうなぁ(しんみり)

ゲイの代表者になるとショービジネスに乗り込んでいったのに、ある日突然『悔い改めますので自分はゲイではありません』なんて言われたら、マイノリティの人たちは、 裏切られたと感じただろうし。

晩年のインタブーで、貴方が欲しかったモノやコトは何ですか、とアンカーマンに聞かれて『愛』だと答えたリチャード。

才能があったにも関わらず、リチャードが正当に評価されないのは、今の世の中にも通じる課題ではないでしょうか。

才能ほどほどでも、世渡り上手な人は、お金儲けできるだろうし、才能や思いやりがあっても、世渡り上手じゃなかったり、破天荒だったり、マイノリティであれば、 正当な評価をされない。

そんな現実に目をむけた作品になっていたと思います。



上映1週目のサービスデーに観に行ったら、あっさり貰えた、上映特典。

この手の上映得点、コロナ前は封切り3日間(金~日)で、なくなった→テンバイヤーがネットで売るのが日常茶飯事だったのに。

今回の映画、コアなオジサマファンしか観ないドキュメンタリーだったからか、

客の8割が70前のおじさま(滝汗)

…少ない客のうち、後の2割??
ブログ主、美容関係や音楽関係と思われるお兄さん数人しかいない、いやはや女性皆無。

梅田ブルグ7から、Tジョイに改名して久々に金払って行ったディアモールにある、この映画館。

ブルグ7の時は、ロビーに椅子沢山あったし、チラシも沢山置いてあったのに、どうしたんだぁ~(唖然茫然)
経費削減か??

このビルのテナント事態もショボくなってるし、映画館の存亡そのものも危なくなってるんすが…近くにあったマルビルが消えたから人の流れが変わった…てのも大きいかもしれない(涙)
今どきわざわざ映画の為にディアモールまで行こうって人いないもんな、へぇ。