新年おめでとうごいます。
今月は、勢観房(せいかんぼう)源智上人(げんちしょうにんにん)についてお話いたします。
法然上人行状絵図にいわく、
勢観房源智は、備中守の平師盛朝臣の子で、小松の内大臣〔重盛公〕の孫である。平家反乱の後、世間の目を避けて、母親がこの子を人知れず育てていたが、建久六年(一一九五)十三歳の時、法然上人の弟子とした。上人はこの子をさらに慈鎮和尚慈円の弟子として預けられた。そこで慈鎮和尚の所に赴き、出家を遂げたのである。その後さほどの年月を経ずに上人の草庵に帰ってきて、常に付き従い使えること前後十八年間に及び、上人が勢観房を憐みかばうことは他の弟子と異なり、浄土の教えを説き示し、円頓戒はこの人を後継者として伝授された。これによって上人の仏具・本尊・房舎・聖教などすべてを相続されたのである。
【【現代語訳】法然上人行状絵図・462ページ】
源智上人の生まれは、平家、重盛公の孫でした。そのため、源平の合戦の後、生きていくことが難しくなりました。そのため、法然上人に預けられました。この当時、出家し仏門に入るということは、時の権力でさえ手出しが難しく、自身の栄華を望むことができなくなりますが、生きながらえることができました。
その後、源智上人は、比叡山の慈円和尚の元へ預けられ、出家をしました。この時期、僧侶は国家資格であり、戒壇院が設けられている寺院で受戒する必要がありました。出家後、さほど年月を経ずに、法然上人の元に戻ります。そして、法然上人がご往生されるまで、常に傍にいてお仕えしました。また、法然上人も、源智上人を大事にし、自身の用いていた仏具・本尊・経文などを授けられました。そして、法然上人が最後に残された『一枚起請文』を残していただくように頼まれたのも、源智上人です。
近年、滋賀県の玉桂寺の阿弥陀如来像から、数万人の名が記された結縁交名が見つかりました。これまで、法然上人ご往生の後も、静かに過ごされていると思われていました。しかし、結縁交名が見つかり、源智上人が精力的にお念仏の教えを広めようと活動されていたことが判明しました。
法然上人の教えを信じ、平家の血筋でありながらも、精力的な活動をされたことは素晴らしいことです。私たちも、源智上人を見習い、法然上人の教えを信じ、お念仏に励んでいきましょう。ちょうど、令和6年には、法然上人開宗850年となります。
どうぞ、お念仏を日々の生活の中に取り入れ、毎日少しずつでもお称えしてきましょう。
合掌
法然上人開宗850年サイト
https://850.jodo.or.jp/overview/