今月は、一枚起請文の後半部分を見ていきます。前半部分では、南無阿弥陀仏を声に出して称える念仏を勧め、後半部分では、更に詳しく、そして、念仏者に注意も与えながら、浄土宗の教えがここに集約していることを示します。
法然上人のご法語に
ただし三心四修と申すころの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証のために両手印をもってす。
浄土宗の安心起業この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。
建暦二年正月二十三日 大師在御判
【底本『浄土宗信徒日常勤行式』・昭法全415】
訳:ただし、お念仏を称える上では三つの心構えと四つの態度が必要とされていますが、それらさえもみなことごとく、「『南無阿弥陀仏』とお称えして必ず往生するのだ」と思い定める中に、自ずと具わってくるのです。もし私が、このこと以外にお念仏の奥深い教えを知っていながら隠しているというのであれば、あらゆる衆生を救おうとするお釈迦さまや阿弥陀さまのお慈悲に背くこととなり、私自身、阿弥陀さまの本願から漏れ堕ちてしまうこととなりましょう。
お念仏のみ教えを信じる者たちは、たとえお釈迦様が生涯をかけてお説きになったみ教えをしっかり学んだとしても、自分はその一節さえも理解できない愚か者と自省し、出家とは名ばかりでただ髪を下しただけの人が、仏の教えを学んでいなくとも心の底からお念仏を称えているように、決して智慧ある者のふりをせず、ただひたすらお念仏を称えなさい。
以上のことを証明し、み仏にお誓いするために私の両の掌を印としてこの一紙に判を押します。
浄土宗における心の持ちようと行のありかたを、この一紙にすべて極めました。私、源空の存ずることには、この他に異なった理解はまったくありません。私の滅後、お念仏について邪な見解が出てくるのを防ぐために、存ずるところを記し終えました。
建暦二年正月二十三日 (法然上人の御手印)
【法然上人のご法語② 法語類編 15P 浄土宗出版局】
後半部分では、お念仏の教え、極楽往生をするための考え方を詳しく、そしてシンプルなものにしています。
まず、三心四修という、心構えと行の行い方をこれらは、南無阿弥陀仏というお念仏を称えることによって、すべて自身に身についてくるとします。そのうえで、それ以外の先学が示した教え、本当は秘密にしている教えがありのではないかという疑問に対して、お答えになります。法然上人は、自身にはまったく隠していることはなく、お念仏によって極楽往生するのだということだけであり、もし、隠しているならば、お釈迦様や阿弥陀様の教えに背くことであり、自身は極楽往生できないだろうとも言っておられます。
その上で、お念仏を信じて、お称えするものは、お釈迦様の生涯をかけて説かれた教えを学んだとしても、自身はその一部さえも理解できていないと自省して、髪をおろしただけの出家者が心から極楽往生を願い称えるお念仏のように、智慧のあるような振る舞いをせず、ただひたすらにお念仏に励みなさいと説かれます。
そして、浄土宗の教えはこれ以外になく、自身の滅後に、間違った教えが広まらないようにとこれを残されました。
さて、『一枚起請文』は、法然上人の滅後直前に、常に近くにいて仕えていた源智上人という弟子が、「法然上人の後に、弟子たちで異論が生じ、間違った教えが広まらないために」と懇願され、書き残されたものです。つまり、浄土宗の教えをいただく、浄土宗僧侶とその教えを信じる檀信徒、縁者のためのものです。
浄土宗にて、出家し、修行を行い、教師資格をいただいている僧侶は、『一枚起請文』を常に心に留め、お念仏を称え、檀信徒の皆様を接しています。
しかし、僧侶のためだけではなく、阿弥陀様の極楽浄土にお念仏によって往生させていただこうというすべての人々の指針になるものです。ぜひ、先月、今月と熟読いただき、わからないところがありましたら、浄土宗僧侶にお尋ねください。
合掌
法然上人開宗850年サイト
https://850.jodo.or.jp/overview/