先月まで、なぜ浄土思想、極楽往生を願う人が多くなったのか、話してまいりました。今月は、法然上人の教えの根本であります、『一枚起請文』を二月にわたってみていきたいと思います。
法然上人のご法語に
唐土我朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す他には別の仔細候わず。
【底本『浄土宗信徒日常勤行式』・昭法全415】
訳:私(法然)の説いてきたお念仏は、み仏の教えを深く学んだ中国や日本の高僧方が理解して説かれてきた、静めた心でみ仏のお姿を想い描く観念の念仏ではありません。また、み仏の教えを学びとり、お念仏の意味合いを深く理解した上で称えるお念仏でもありません。阿弥陀仏の極楽浄土へ往生を遂げるためには、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とお称えするのです。一点の疑いもなく「必ず極楽浄土へ往生するのだ」と思い定めてお称えするほかには、何の子細もありません。
【法然上人のご法語② 法語類編 14P 浄土宗出版局】
令和6年に、法然上人が浄土宗を開宗されて、850年となります。『一枚起請文』は、浄土宗の教えの根本であり、これ以外ありえないものです。
まず、それまで、中国や日本、当時の比叡山や南都仏教で行われていた、『観想』の念仏とは違うお念仏であると示します。また、学問として仏教を修めて、その意味を深く理解して称えるお念仏でもないとされます。
そして、法然上人のお念仏は、阿弥陀様の極楽浄土へ往生するために、ただ一心に、ひたすら「南無阿弥陀仏」とお称えするのです。ただ、心に極楽往生だけを願い、そのほかのことを考えず、お念仏をお称え続けるこれだけなのです。
私たちは、智慧、知識欲があります。お念仏とは何か、中国のお念仏はどんなものか、『観想』のお念仏はどんなものか、どうしたら行うことができるのか。それらを知りたくなるかもしれません。しかし、仏様の教えを正しく理解し、正しく行うことは困難です。私たちが一生をかけて修めようとしても困難を極めるでしょう。
法然上人は、自身で修め、極めていくお念仏ではなく、極楽浄土を創り、極楽浄土の主である阿弥陀様に頼ることを勧めます。つまり、ただ一心に、阿弥陀様のお誓い、『南無阿弥陀仏』を称える人を必ず極楽浄土へ救いとることを信じて、お念仏をお称えることが最も大事であり、それ以外は、阿弥陀様のお誓いでないので取り入れませんでした。
来月は、『一枚起請文』の後半部分についてお話します。どうぞ、法然上人のお言葉をかみしめ、お念仏に励みましょう。
合掌
法然上人開宗850年サイト
https://850.jodo.or.jp/overview/