『末法について』 | 浄土宗長福寺のブログ

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埼玉県深谷市の浄土宗長福寺のブログです。おもに『今月の言葉』を毎月1日に公開します。

 今月は、『末法』について見ていきたいと思います。これまで、『輪廻』や『六道』について見てきました。今回は、これらの総括として、浄土教が広まった要因なども見ていきたいと思います。

 

末法/まっぽう

釈尊の在世から長い時間が経過したために仏教が廃すたれ、その教えは残っていても、正しく行じる者や証(さとり)を得る者のいない、荒廃した時代。仏教の三時説における三番目の時代で、法然当時や現今もこれに含まれる。三時説とは、釈尊の入滅を起点に、仏教が完全に滅びる法滅までの時間を、正法・像法・末法(正・像・末とも略す)の三段階に区切る時代区分である。釈尊の入滅の後しばらくは、釈尊が説いた通りの正しい教えに従って修行し、証果を得る者のいる正法の時代が続く。しかしその後、教と行は正しく維持されるが、証を得る者がいなくなる像法の時代、さらには教のみが残る末法の時代へと移っていき、ついには法滅に至るという。

中略

日本では『日本霊異記』がいち早く正法五百年・像法千年説に則り、延暦六年(七八七)はすでに末法であると表明している。その後平安期後半に源信の『往生要集』や最澄に仮託した『末法灯明記』が著されるに伴い、末法思想は世に広く浸透した。そこでは正法千年・像法千年説を取り、周穆王ぼくおう五二年(紀元前九四九)の仏滅説から計算して永承七年(一〇五二)を入末法の年と見なす。そして実際にその年代に至ると天変地異が続発し、また政治の中心が貴族から武士へと移る過渡期とも重なり騒乱が絶えなかった。混迷の要因は末法にあるとしてその克服が仏教に求められ、顕密仏教の活性化が叫ばれるとともに、新たな日本独自の仏教の誕生が促された。法然は『選択集』の第一章に道綽の聖浄二門判を掲げて浄土宗の立教開宗を宣言し、また第六章「末法万年に特ひとり念仏を留むる篇」に、末法の一万年のみならず法滅の後百年まで浄土門の念仏の教えは残ると説く。

【新纂・浄土宗大辞典】

 

 令和6年には、法然上人が浄土宗を開宗されて、850年となります。ちょうど、大河ドラマの『鎌倉殿の十三人』の時代に、法然上人はご活躍されました。当時は、武士が所領や名誉をかけて争い、京都をはじめ、日本全土が不安定な時代でした。庶民にとっては、源平の争いなどは本来関係のないことでありますが、それに大なり小なり巻き込まれておりました。

 そのような世の中は、仏教の『末法』であるのではないか、『末法』だからこそ、騒乱がたえないのではないかと考えられました。そんな中、比叡山と高野山における仏教の活性化をはじめ、鎌倉新仏教と言われるように新たな教えを中心に据えた仏教が誕生しました。

 浄土宗祖の法然上人も、当時の貴族中心の仏教ではなく、一般の人々でも救われる教え、末法でも人々が救われる教えを求められました。そして、その著書『選択集』にて、浄土宗の立教開宗を宣言されました。

 現在も、仏教では末法の中です。幸いにも、日本は70年ほど、戦争になっておりません。しかし、社会の変化の中で、困窮に陥ったり、様々なことに思い悩む人が少なくなったわけではありません。今一度、法然上人の教えに立ち返り、心の平安と求め、お念仏につとめていきたいものです。

合掌