先月に引き続き、法然上人が比叡山や南都仏教に対して、出した書状・『登山状』について、名文と言われているので読んでみたいと思います。
法然上人の御法語に
いたずらにあかしくらして、やみなんこそかなしけれ、あるいは金谷(きんこく)の花をもてあそびて、遅々たる春の日をむなしくくらし、あるいは南楼(なんろう)に月をあざけりて縵々(まんまん)たる秋の夜をいたずらにあかす。あるいは千里の雲にはせて、山のかせぎをとりてとしをおくり、あるいは万里(ばんり)のなみにうかびて、うみのいろくずをとりて日をかさね、あるいは厳寒にこおりをしのぎて世路(せいろ)をわたり、あるいは炎天にあせをのごいて利養(りよう)をもとめ、あるいは妻子眷属(さいしけんぞく)に纏(まと)われて、恩愛(おんない)のきずなきりがたし、あるいは執敵怨類(しゅくてきおんるい)にあいて、瞋恚(しんに)のほむらやむ事なし。惣じてかくのごとして、昼夜朝暮(ちゅうやちょうぼ)、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、時としてやむ事なし。ただほしきままに、あくまで三途八難(さんずはちなん)の業をかさぬ。しかればある文には、一人一日の中に、八億四千の念あり、念念の中の所作、皆是三途の業といえり。かくのごとくして、昨日もいたずらにくれぬ、今日も又むなしくあけぬ。いまいくたびかくらし、いくたびかあかさんとする。
【登山状・昭法全417】
訳:(受け難い人としての生を受け、遭い難い仏教に出会えたのに)ただなんとなく日々を送り続けることこそ悲しいことです。ある人は庭園に咲きほこる見事な花を愛でては、春のうららをぼんやりと過ごし、ある人は楼閣から名月を楽しんでは秋の夜長をうつろに過ごしてしまいます。ある人は遠くにかかる雲のあたりまで鹿を求め山を巡って年月を送り、ある人は万里の彼方の波にまで魚を求め海を渡って月日を費やしています。ある人は厳寒に氷の中に分け入っては世間をわたり、ある人は炎天下の中に汗を拭きながら富を貪っています。ある人は妻や子、兄弟親戚に頼られて親族の情を断ち切れず、ある人は敵や怨みに思う人に出会い、怒りの炎は消えることがありません。
およそこのように、人は昼も夜も四六時中、いついかなる場合も、一瞬たりともそうした状況から抜け出せないでいるものなのです。ただむやみやたらに、三途に堕ちたり、八難の境涯に生まれる行いを重ねているのです。ですから、ある経文には「人は一日の間に、八億四千もの思いが湧き起こり、その一つ一つがみな、三途に堕ちる行いである」と説かれています。こんなわけですから昨日もなんとなく終わってしまい、今日もまたぼんやりと過ごしてしまったのです。これから先、どれほどこうして暮らし明かしてゆくことでありましょうか。
【法然上人のご法語② 法語類編 30P 浄土宗出版局】
この部分では、私たちの日々の生活について、言及されています。風流を楽しむ人々の例えから始まり、富と求め奔走する人、家族親族の情を離れられず、また恨みつらみを重ね、心が燃え盛っている人まで、様々な人々の生き方をあげます。そして、そうしたものから抜け出せず、六道で言う地獄に落ちてしまうような行いを重ねてしまっているとされます。
古来よりの言い回し、巧みな言葉を用いて、仏教と言う貴い仏様の教えを知りながらも、なんとなく一日一日を過ごしてしまい、これからもそのような日々を安易に選んでしまうことを嘆かれています。
私たちの心は強くはありません。時に安易な、楽な方向に流されやすいものです。また、一時の楽しみ、快楽のために心を燃やし、後には虚しさを感じることもあるでしょう。
法然上人だけでなく、仏教ではこういった過ごし方を戒めるものが多くあります。それは、私たち人間の生は短く、心は弱く、何かを成し難いからだと思われます。
浄土宗、お念仏の教えを知っている皆様におかれましては、そんな世の中、私たち自身でありますが、身をできる限り律し、一遍でも多くのお念仏を日々お称え出来るようにしていきたいものでございます。
合掌