浄土宗長福寺のブログ

浄土宗長福寺のブログ

埼玉県深谷市の浄土宗長福寺のブログです。おもに『今月の言葉』を毎月1日に公開します。

 今月は、中国の『大聖竹林寺記』の一部、普賢菩薩と文殊菩薩の話についてお話します。

 

法然上人の御法語に

大聖竹林寺の記にいわく、五台山竹林寺の大講堂の中にして、普賢・文殊東西に対座して、もろもろの衆生のために、妙法をときたもうとき、法照禅師ひざまづきて、文殊にといたてまつりき。未来悪世の凡夫、いずれの法をおこないてか、ながく三界をいでて、浄土にうまるることをうべきと。文殊こたえてのたまわく、往生浄土のはかり事、弥陀の名号にすぎたるはなく、頓証菩薩の道、ただ称念の一門にあり。これによりて釈迦一代の聖教にほむるところ、みな弥陀にあり、いかにいわんや未来悪世の凡夫をやと、こたえたまえり。かのごときの要文等、智者たちのおしえをみても、なお信心なくして、ありがたき人界をうけて、ゆきやすき浄土にいらざらん事、後悔なにごとかこれにしかんや。

【念仏大意・昭法全410】

 

訳:『大聖竹林寺記』に次のようなことが記されています。

「中国の五台山にある竹林寺の大講堂の中で、普賢菩薩と文殊菩薩とが東西に対面してお座りになられ、多くの衆生のために、妙なる教えをお説きになられていた。その時、法照禅師が跪いて、文殊菩薩に次のように質問なされた。『将来、悪事がはびこる世に生きる凡夫は、いかなる行を修めれば、永遠に迷いの世界を離れて極楽浄土に往生することが叶うでしょうか』と。文殊菩薩は次のようにお答えになった。『浄土へ往生するための行いとしては、阿弥陀仏の名号を称えるよりも優れたものはない。速やかに覚りを得る道にしても、ただ南無阿弥陀仏と称える教えが一つあるのみである。故に釈尊が生涯に説かれたあらゆる経典において讃えられているのも、皆、阿弥陀仏に関するものである。まして悪事のはびこる未来の世に生きる凡夫のこと、なおさら念仏すべきであろう』とお答えになられた」と。このような大切な伝承や高僧方のお示しを見るにつけ、いまだに極楽浄土を願う信心が発らず、万が一にも授かり難い人の身を受けたにもかかわらず、往生を遂げやすい浄土に往生しないというのであれば、これ以上の後悔が他にありましょうか。

【法然上人のご法語② 法語類編 145P 浄土宗出版局】

 

 中国の五台山は、文殊菩薩の聖地として知られています。その中の竹林寺というお寺でのことです。普賢菩薩と文殊菩薩が人々に説法していました。そこに、法照禅師が進み出て、文殊菩薩にお聞きになられました。未来において、悪事がはびこる時代が参りましょう。その時、迷いの世界である現世を抜け出し、極楽浄土へ往生することができるのでしょうかと。

 文殊菩薩は次のようにお答えになりました。極楽往生に、阿弥陀仏のお名前を称えるより勝れた行はない。お釈迦さまが説かれたあらゆる経典においても、阿弥陀仏を讃美している。悪事のはびこる世界の人々はなおさらお念仏すべきである。

 法然上人はこの箇所をあげ、古来からの伝承や高僧の残した教えを見るに、阿弥陀様のお名前を称えることは、私たちにとってかけがえのない教えであり、極楽往生のための大事である。これを見聞きしたのに行わないのは、これ以上の後悔はないとされました。

 時に、私たちは古い先人の知恵や見解、経験を劣ったものと考えがちです。確かに、昔はインターネットもスマホもなかったかもしれません。量子物理学などもありませんでした。

 しかし、先人の発見、智恵と経験が、様々な形で伝えられ、それを活用できているからこそ、今の技術があるのではないでしょうか。

 世の中が便利になり、悪事は減ったでしょうか。私たちは自由な時間が増え、人間らしく暮らすことが出来ているでしょうか。

 デジタルな世界が増えてまいりましたが、結局、人間である私たちはアナログな生身の体のままです。

 どうぞ、今、お念仏に出会ったことを大事に思い、お念仏を称えましょう。未来に後悔しないためにも。

合掌

 今月は、極楽往生が必ずなされるということとの五つの証明について見ていきたいと思います。

 

法然上人の御法語に

五つの決定を以て往生すと云う事。

一つには弥陀本願決定なり、二つには釈迦所説決定なり、三つには諸仏証誠決定なり、四つには善導教釈決定なり、五つには我等信心決定なり。此の義を以ての故に往生決定なり。

【三心料簡および御法語・昭法全452】

 

訳:五つのゆるぎない事実によって往生する、ということについて。

 一つには阿弥陀さまが凡夫を救おうと誓われた本願が成就されているという事実、二つにはお釈迦さまが説かれた教えが真実であるという事実、三つには阿弥陀さまの本願をあらゆる仏さまが証明されているという事実、四つには善導大師のご解釈が正しいという事実、五つには私たちの信心が確固たること。これが五つの事実によって往生は定まるのです。

【法然上人のご法語② 法語類編 132P 浄土宗出版局】

 

 法然上人は、五つの事実、証明によって、極楽往生が間違いないと説かれました。一つには、阿弥陀さまが人々を救おうと誓われた本願が成就しているということ。二つには、お釈迦さまが説かれた教えであり、その教えは真実であること。三つには、阿弥陀さまの本願をあらゆる仏が正しいと証明していること。四つには、中国の善導大師の解釈、阿弥陀さまの教えを正しく理解され、後世に残されていること。五つには、私たちの信じる心、お念仏を称え、必ず極楽浄土へ往生するのだという確固たる思いがあること。

 これらの五つの事実、証明をもって、極楽往生というのは間違いがないとされたのです。私たちは、日々の生活の中で確固たる自信、確信をもって、お念仏をお称えしていきたいものです。先に極楽往生されたご先祖様も、皆様がお念仏を称え、日々の生活を明るく、正しく過ごすことを祈り、見守ってくれます。

 

合掌

 今月は、阿弥陀様の救い、極楽往生というのが、身分などによらないのかについて、法然上人のご法語を見ていきたいと思います。

 

法然上人の御法語に

自身の罪悪をうたがいて往生を不定に思わんは、大きなるあやまりなり。さればとて、不思議なる道理を心えんがためなり。されば念仏往生の義を、ふかくもかたくも申さん人は、つやつや本願の義をしらざる人と心うべし。源空が身も検校別当どもが位にてぞ往生はせんずる、もとの法然房にては往生はえせじ。さればとしごろならいあつめたる智慧は往生のためには要にもたつべからず。されどもならいたりしかいには、かくのごとくしりたればはかりなき事なり。

【禅勝房伝説の詞・昭法全462】

 

訳:自分の犯してきた罪悪を懸念して、往生は叶わないだろうと思うのは大きな間違いです。だからといって、投げやりになって悪く振る舞ってよいというわけではありません。(なぜなら、自らを見据えることで)阿弥陀さまの本願という救いの手は誠に広く、そして(こんな私さえも救って下さる)不思議な道理であることに目覚めるからなのです。ですから、念仏往生の教えを奥深くて難解なものであると説く人は、まったく本願の真意を知らない人とお心得なさい。

(そうした人たちに言わせれば)検校や別当という高い位についてこそ往生は叶うのであって、この源空の身も、ただの法然房という一介の僧では往生できないということになります。(本願に救われるの)ですから、長年学び積んできた智慧とて往生のためには何の役にも立ちません。しかし、学んできた結果、このように気付いたならば、並々ならぬことです。

【法然上人のご法語② 法語類編 121P 浄土宗出版局】

 

 この世で生きていくことは大変なことです。時に間違いをしてしまうこともあるでしょう。だからと言って、極楽往生が叶わないと思うのは大きな間違いです。だからといって、投げやりとなり、悪く振る舞い、間違いを重ねるのも良くありませんと、法然上人はお説きになられます。そして、自身を省みてこそ、阿弥陀さまの本願という救いの手が大きく、その不思議な道理に気が付くことができるのですとします。

 当時から、お念仏の教えは簡単で、学や位の低い人のためのものであるという人がいました。しかし、その人たちは、阿弥陀さまの本願の真意、思いを知らない人だとされます。

 もし、身分の高い人しか往生できないのであれば、一介の僧である法然、私も往生できないことになるだろう。長年、仏法を学んできた智慧にしても、極楽往生のためには直接的には何の役にも立たないのです。しかし、仏法を学ぶことにより、お念仏が阿弥陀さまの本願であり、お念仏こそが極楽往生のために一番の大事であると気づいたのであれば、素晴らしいことですとお説きになられました。

 

 現代を生きる私たちも間違いをしてしまうことがあるでしょう。しかし、そのことを省みて、少罪でもしないようにしようと努めれば、極楽往生に障りはありません。

 また、身分や学についても、極楽往生においては関係ありません。ただ、お念仏をお称えし、阿弥陀さまを頼り、極楽往生を願うことが大事なのです。しかし、だからといって、仏法を学ぶことがまったく意味がないというわけではありません。学んだからこそ、阿弥陀さまの教え、お誓いが素晴らしいものだと気づき、よりお念仏に励むことが出来るのであれば、それもすばらしいことなのです。

 このブログもそうですが、各寺の門前の掲示板、本堂などにおかれている冊子など、阿弥陀さまの教えを記したものがございます。また、各和尚さんの法話などもあると思います。ぜひ、ご自身のお念仏の励みとなるものと捉え、ご活用いただければと思います。

 

合掌