静岡での仕事を終えた翌日、どうしても行ってみたいところが
あったのでそこへ向かいました。
久能山東照宮です。 徳川家康公の墓所です。
久能山東照宮を実際に自分の眼で見る機会を得て本当によかったと思いました。
どうしても日光東照宮と比較して見てしまいがちですが、それぞれの場所の
歴史があるし、その形を残すに至ったいきさつや家康公の考えを知ることで
400年近く経った今でも、風化しない家康公の熱き思いを感じます。
戦国の時代を終わらせ、安寧の世を願い、実現させた家康公。
その存在はとてつもなく大きく揺るがないものだと感じました。

これまで私は、家康公の墓所は日光東照宮だと思っていました。
広大な敷地の中に それはそれは豪華な本殿・石の間・拝殿が
一体化されたみごとな権現造りで、極彩色に彩られた たくさんの
木彫り像の装飾に眼を奪われました。
さすが、天下人ともなるとお墓も豪華なものになるのだなぁと思いながら
見たことを思い出します。

朝の8時過ぎにホテルをチェックアウトして静岡駅南口のコインロッカーに
荷物を預けて、しずてつジャストライン石田街道線、22番のバス乗り場へ
向かいました。
静岡駅南口からバスで久能山東照宮へ向かうことにしました。
駅から歩いても2時間ほどで行ける場所のようでした。

久能山東照宮へ向かうには静岡駅から東大谷まで行き、乗り換えて久能山下の
バス停で降りると私のgoogleナビが教えてくれました。

東大谷(ひがしおおや)のバス停で降りて乗り換えになるのですが、時刻表を見て
みると目的のバスに乗れるのは2時間以上後でした。ずいぶんのんびりした運行です。

私が時刻表をじーっと見ていると、停車していたバスの運転手さんが
声を掛けてくれました。
久能山東照宮は、この場所から4キロほど先になると教えてくれました。

歩くことにしました。
バスで30分近く走っているので半分以上 目的地へは近づいているはずです。
海岸沿いに行けば、きっとわかるでしょう。
のんびり、とことこと歩き出しました。


海を右手に見ながら歩きました。
左手の住宅地側には、いちご街道とか書かれた看板がいくつか立っていました。
いちごが特産品なのでしょうかね。

海岸に出られる場所があったので砂浜に出てみました。
この海岸の左手方向の先に、三保の松原があります。


(三保の松原のはちまき石の仲間)
ちょっと期待をしたのですが、この場所からは富士山は見えませんでした。
2月に三保の松原に来た時は富士山がきれいに見えました。
空を舞う天女にも出会うことが出来ました。
懐かしいな。

約1時間ほど歩くと交差点に出ました。
久能山東照宮の看板も見えました。

観光客用の駐車場やお土産屋さんがあり、その先の正面に大きな石鳥居が
見えました。
そして整然とならぶ石段が見えました。
久能山東照宮の入り口です。


歩いても歩いても石段は続きます。
案内板によると全部で1159段あるようです。 結構ありますねぇ。


(三保の松原のはちまき石の仲間)

(210段目 / 1159 を示すプレート)
久能山東照宮は駿河湾に隣接した標高216mの久能山の上にあります。
石段は延々と続きます。 しかし、段差は歩きやすい高さと幅です。
多少、息は切れますが無理なく歩ける参道です。

それにしても、ずいぶんな傾斜地に東照宮を造ったものだと思います。
日光の東照宮はほとんどが平坦地です。
この違いには、何か意味があるのでしょうか・・。

元々、この場所はお寺だったのだそうです。
推古天皇の頃(592-628)この山の麓に久能忠仁が久能寺を建立します。
後に、永禄11年(1568年)武田信玄が駿府に進出して久能寺を矢部(静岡市清水区)
に移します。(現在の鉄舟寺)
そして久能城となります。

その後、武田氏の滅亡と共にこの地は徳川の手に渡ります。

家康公は、大御所として駿府で暮らしていた頃に、この久能山は駿府城の
本丸である と考えていたそうです。
その時代、大阪(坂)城には豊臣家の復興を狙う 秀頼、淀君がいました。

西に大井川、東に富士川、北に赤石山脈、南に太平洋という土地の条件は
軍事的な視点で見ても絶好の場所です。
たとえ何者かが攻めてきても急峻な山であれば防御には最適です。

また、東海道もあるし、川もあり、海に接している駿府の地は交易の場所として
優れていると家康公は考えていたようです。
駿府を国際交易の港としての開発も考えていました。

(一ノ門 大手門跡 )
久能城へ向かう石段から見える駿河湾の景色は家康公の考える未来を描くための
巨大な屏風のように映っていたかもしれません。

家康公が駿府で亡くなったのは元和(げんな)2年4月17日(1616年)です。
亡くなる前に家康公は遺言を残していました。

(駿府城公園 家康公像)
元和(げんな)2年4月2日
本多正純・南光坊天海 (なんこうぼうてんかい)・以心崇伝(いしんすうでん)に
自らの死後の対応を指示しました。

「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、
三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に
小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」
(江戸時代初期の僧侶が記した『本光国師日記』 より)
大樹寺 :家康の父親 松平家先祖代々の菩提寺
下野 :(しもつけ)栃木のこと
勧請 :(かんじょう) 神仏の霊を他の所へ移し迎えてまつること
関八州 :(かんはっしゅう)江戸時代、関東8か国の総称
相模 (さがみ) ・武蔵 (むさし) ・安房 (あわ) ・上総 (かずさ) ・
下総 (しもうさ) ・常陸 (ひたち) ・上野 (こうずけ) ・下野 (しもつけ)
鎮守 :(ちんじゅ) その土地を抑えて、鎮めて護ること
その遺言に従い、家康公の御遺骸は久能山に埋葬されました。
不思議に思うのは通夜もせず、その日のうちに棺は久能山へ埋葬されていることです。
この日は雨が降っていたという記述もありました。

(久能城の築城時に掘られた井戸 山本勘介が掘ったと言われている)

亡くなったのは4月17日 午前中のようです。
それから遺体の処置が行われ、正装の姿で座り、四角い棺におさめられます。
駿府城から久能山へは人目を避けるように最低限の少人数で運ばれたと思います。
駿府城を出たのが午後、久能山入口へ到着するのは夕方近くになるはずです。
さらに、雨の中 険しい坂道を登らなければなりません。
松明を手にして、担ぎ手たちは大汗をかきながら重い棺を運んだかもしれません。

元和2年(1616年)5月 二代将軍秀忠公により久能山で東照社(現・久能山東照宮)が着工されます。

元和2年(1616年)7月13日、後水尾天皇 (在位1611~29)が家康の神格化を
勅許し、権現号の宣下も容認しました。

(楼門)

(東照大権現の扁額)
元和3年(1617年)2月21日 朝廷から神号「東照大権現」が宣下されます。

これにより、家康公は人から神になりました。

そして元和3年(1617年)12月 東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営されました。
山の上という地理的に条件が厳しい土地に絢爛豪華な本殿と石の間と拝殿が
一体化した権現造りの建造物が誕生しました。



(日枝神社)


(拝殿)


当時の時代の芸術・技術の粋を極めたものです。
繊細な木彫り、色使いは圧巻です。

後に日光東照宮をはじめ、日本各地に東照宮が建造されますが、この
久能山東照宮はいちばん初めに造られた最も歴史が古いものということになります。


正保2年(1645年)11月3日 朝廷から東照社に宮号「東照宮」が宣下されます。
以降、「久能山東照宮」の通称が成立しました。
東照宮:東を照らす(東方薬師瑠璃光)如来が神となって姿を表したという意味
東国・関八州を見守るという意味合いが込められている





(廟門)
拝殿・石の間・本殿の裏手に神廟があります。
廟門をくぐり、右手の石段をのぼります。


(神廟)
正面に灯籠が見えてきます。
そして、その後ろに静かにたたずむ宝塔があります。
高さ5.5m 外廻り8m の家康公の神廟です。

思っていたよりもこじんまりしているように見えました。
この宝塔の下に家康公の御遺骸が埋葬されているのか…。

神廟は西向きに造られています。
棺の中にいる家康公も正面の西を向いています。

神廟の正面に自分が立ち、宝塔を直視すると ちょうど家康公と
向き合う形になります。

家康公はこっちを見ているのだな。 私も眼をそらすまい。
しばらくの間、私はこの場所に立って宝塔を見つめていました。

東照大権現 なぜ、家康公は神になったのでしょうか…。
人として劇的な人生を送り、天下を治めました。
それだけでは物足りなかったということなのでしょうか。
自分が築いた泰平の世を今度は神として見守りたかったのでしょうか。

元和3年(1617年)3月15日
家康公の遺命に従い久能山から日光山への遷座が実行に移されます。
「日光市史」の中では、家康の御霊を乗せた神輿は元和3年3月15日に
久能山を出て4月4日に日光山の座禅院に到着、儀式を経て正式に鎮座した
とあります。
改葬の行列は、よろい兜に身を包んだ武者や、やりを抱えた兵ら総勢千人に
及んだとされています。
遺言の「勧請せよ」とは簡単に言うと神さまの引っ越しです。
神となった家康公は久能山から日光へ移りました。
この派手な霊遷(改葬)行列により、徳川幕府の威光を民と諸大名に知らしめた
ことになります。

今なお、解明されていないことがあります。
それは、家康公の御遺骸はどこにあるのか? ということです。
勧請をしたので御遺骸は日光東照宮にあるという考えが一般的でした。
本当にそうでしょうか? 勧請は神さまの引っ越しです。
御遺骸は人間であった証のもの。
神様は霊なのですから、もう御遺骸とは離れた存在になるのではないでしょうか。

これはあくまでも私の考えですが…。
日光への勧請では家康公の御遺骸は移動していないと思います。
行列で運ばれた神輿の中に入れられていたものは、亡くなった時に着ていた
衣服の一部か髪の毛、爪など 別に保存していたものではなかったのかと思います。
私なら一度埋葬した棺を掘り出して、長い時間をかけて御遺骸を移動させたいとは
思いません。
久能山東照宮、日光東照宮 神廟の内部を確認しない限り、この謎は
解明されることはありません。
解明する必要もないと思います。
神となった家康公は久能山東照宮、日光東照宮をはじめとする日本全国の
東照宮に東照大権現として祀られています。
いつでも、どこにでも存在しているのです。
家康公が神となるにあたり、事前に緻密な計算がなされていたことが
うかがえます。
その礎となっているのは風水の考え方です。
要点となる場所と場所を結ぶと、そこに意味が浮かび上がります。

久能山東照宮の神廟は西向きに造られ、棺の中の家康公も西を向いています。
この場所から西の方角には 家康の父母である松平広忠と正室・於大の方(伝通院)
は子授け祈願の参籠をしたという鳳来寺(愛知県新城市)があります。
参篭 :(さんろう)一定の期間 昼夜こもって祈願すること。おこもり。

(岡崎城 ← 鳳来寺 ← 久能山東照宮)
さらにその西に松平家の菩提寺・大樹寺(愛知県岡崎市)があり、家康 誕生の地
岡崎城があります。
故郷に眼を向けていると言われていますが、朝廷のあった京や、豊臣勢の残党を
含めて大坂(現:大阪)などの西国に睨みをきかせているという説もあります。

(江戸 → 日光東照宮)
そして、日光の場所を地理的に見ると江戸から見てほぼ真北の方向になります。
これは不動の星 北極星とを結んでいます。
北極星は古代中国では宇宙を主宰する神にあたります。
「天子南面す」の言葉通りに君主は北極星を背にして南向きに座り、神と一体となり
国を司どるとされてきました。
夜になると日光東照宮 陽明門の真上には常に北極星が見えます。
家康公は久能山で西を睨み、日光で関八州を護る権現となりました。
権現 : 天台宗の山王神道で薬師如来の神格化したもの
また、久能山東照宮と日光東照宮とを結ぶとその間に富士山があります。
富士山は不老長寿信仰の霊峰「不死」の山です。

(久能山東照宮 → 富士山 → 日光東照宮)
久能山から不死を経て日光へ結ばれる線は、あまりにも出来すぎていて
みごとです。

久能山東照宮の拝殿は南西を向いて建てられています。
その時、私たち参拝者は北東を向いて拝むことになります。
その直線上には富士山があり、さらに日光までへと向かうよう計算されています。

さすが、天下人、家康公だと思います。
普通の人が生きる地平の高さに目線はなく、果てしなく高い天からの目線で物事を
考えています。 もはや、この時点で神がかっていると感じます。
久能山東照宮とを結ぶ線は、もうひとつ存在しています。

(JR静岡駅北口 家康公像)


(JR静岡駅北口 竹千代君像)
静岡駅北口に置かれている、差配を持った家康公とちょっと離れた場所にある
竹千代君像を結び、そのまま伸ばしていくと…久能山東照宮へと結ばれます。

(静岡駅北口 家康公像 → 竹千代君像 → 久能山東照宮)
(google map上ではちょっとズレがあるような…)
この線の意味は何でしょうか。
「余を感じたければ久能山へ参れ」ということでしょうか。

家康公がなぜ自身の遺体を久能山へ埋葬してその後に、
日光へ勧請せよとしたのか…。
その理由は「家康公が人から神となる道筋を作るため」
ということになると思います。
では、久能山東照宮と日光東照宮
このふたつの場所をどう受け止めたらよいのでしょうか。
ずっと答えが出ないまま、悶々としていましたが久能山東照宮の
宮司さんのインタビューの記事でその答えを見つけることができました。
(現名誉宮司 第12代宮司 落合 偉洲(ひでくに)さん)
「久能山東照宮は、いわば墓地であり」、「日光東照宮は仏壇である」と。
確かに、日光東照宮は派手で豪華でとても贅沢な巨大な仏壇のように思えます。
そして、歩きやすく一度に多くの参拝者を招くには適した場所です。

(三保の松原 2022年2月)
家康公にとって、駿府は本当に慣れ親しんだ愛着のある土地です。
だからこそ、静かに身体を安置する場所として
久能山を選んだのではないでしょうか。


久能山東照宮の神廟から出ようとして石段を降りたのですが、廟門まで行き
もう一度引き返しました。
何か、見落としているような…気がしてならなかったからです。

今、ここから離れたら、またこの場所に来られるかどうかはわかりません。
ひょっとしたら、これが最初で最後の参拝になる可能性もあります。
かと言って、ここにずっといるわけにも行かず、どうしたものかなぁ と
思いながら、もう一度 家康公の宝塔に眼を向けていました。
周りを歩いてみたりしていると、とんでもなくうれしくなるような物を
見つけました。

鋳物で作られた燈籠のレリーフです。
なんと、ここに天女が描かれていました。(個人的には大スクープです)
燈籠の周りを天女が舞っていたのです。



刻まれた文字をみると 元和3年4月17日 とあります。
作者は 江戸鋳物師(えどいもじ)大工 椎名伊為(伊与?)とありました。

調べてみると、「天明鋳物(てんみょういもの)」と言われるもののようでした。
下野の国 佐野天明(栃木県佐野市)の土地で作られた作品、佐野の鋳物師
(いもじ)によって作られた作品を指すようです。
おそらくこれは、家康公に召し抱えられた佐野の鋳物師がこの久能山東照宮の建造の
折にも深く関わっていることを示している証だと思います。
ちなみに日光東照宮の奥宮にある家康公を祀る宝塔は天明鋳物師の椎名伊予守
(しいな いよのかみ)により制作されたものです。

灯籠に灯りがともるとき、天女はゆらめく炎に映し出され舞を披露してくれます。
ほほえんで見ている家康公の顔が思い浮かびます。
「一 富士、二 鷹、三 茄」 家康公が愛した駿府を代表するものです。
富士山、鷹狩のできる場所、おいしい なすび。

( ロープウエイで日本平へ向かいました )




日本平の巨大アンテナの下部にある展望回廊に設置されてあるベンチで
昨夜の夜にコンビニで買ったパンを食べながら家康公のことをぼんやりと
考えていました。

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
幼少期に織田家や今川家の人質となりますが、その時に培われた忍耐力や知識により
乱世を生き抜き、そして遂には 天下統一を果たしました。
倹約家・新しいものが好きといった好奇心旺盛な性格と伝えられています。
感情が豊かで人間味があふれる人だったのだろうと思います。

ずっと、ずっと、生き続けたかったのだと思います。
生きていきたくて、そのためには人としてではなく神になれば
生き続けることが出来ると考えたのかもしれません。
人として生きた御遺骸はそのまま(久能山に)安置されていますが、
不死を選んだ家康公の魂は片時も休むことなく、この国の安泰を願い
今も、これからも護り続けていくのだと思います。
食べている横で、ふっと人の気配がしたのですが…。
そばに誰かがいるわけもなく、視線をあげるとそこには天女が舞う
澄んだ駿府の空が見えていました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
※ JR静岡駅からしずてつバスで 日本平行き → 日本平下車 (およそ35分)
日本平ロープウエイ → 久能山東照宮(およそ5分)
という行き方もあります。
参照 : 久能山東照宮 Wiki
日光東照宮 Wiki
後水尾天皇 Wiki
国立公文書館 徳川家康 将軍家所蔵からみるその生涯
寺社観光地域協議会 「平和の礎を築いた男」
ニッポン旅マガジン「徳川家康の遺体はどこにある?」
公益社 偉人たちの終日 著:歴史ソムリエ 澤村栄治
静岡・浜松・伊豆 情報局
miteco. みてきてつながる しぞ〜かネット
Communication Board コラム・楼蘭抄
まっぷる トラベルガイド
現身日和(うつせみびより)家康は日本を守護するために神になった
「徳川家康の神格化」(平凡社)著:野村 玄
大阪大学大学院文学研究科准教授
日光市史 / レファレンス協同データベース
下野新聞 電子版
HP 栗崎鋳工所
HP 刀剣ワールド