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ちょこボラ!しよう

「ちょこボラ」とは、「ちょこっとボランティアする」こと。今すぐ簡単にはじめられる「ちょこボラ」の数々を紹介します。

遅ればせながら、河瀬直美監督作品『玄牝』を観てまいりました。

本作品の舞台は、愛知県岡崎市にある産院・吉村医院。
ここでは、妊婦たちが家事や炊事をこなしながら、
医院に併設された古民家で共同生活を送っています。

木々の生い茂る豊かな環境では、
「水も空気もさぞかしおいしいにちがいない」とは思うものの、
タイムスリップしたかのような重厚な古民家や、
薪割りやぞうきんがけに精を出す妊婦さんたちのすがたは、
一見すると、特殊な思想にもとづいた何らかのコミュニティのようにも感じられます。
「閉鎖的でいや~な感じ」はさほど受けませんでしたが、
そこはかとない「敷居の高さ」は、否めない。
出産に「こだわり」を求める人や、
「自然分娩」に対して思い入れの強い女性がやってくるのだろうか?
あるいは、現代文明に否定的な人々が集うているのだろうか?
だとしたら、ちょっとひいてしまうなあ……。
正直にいうと、はじめのうちはそんな先入観もありました。

しかし、登場する妊婦さんたちの言葉を聞くうちに、
みんなが「こだわり」などという表面的なものではなく、
きわめてシンプルな出産を求めてにここを訪れたということが、
しみいるように理解することができます。
「自然分娩」を求めてやってくるというより、
しばしば病院で行なわれる「不自然な分娩」に対して、
違和感や不信感を抱いてやってきていることもわかります。

たとえば、

「第一子を出産したときに、病院で陣痛促進剤を打たれ、
吸引をされ、お腹を圧された。自分のことが大事で、
子どもをかわいいと思えなかった」

「病院はこわい。照明もにおいも分娩台も、
何だかこわくて落ち着かない」

たしかに、病院には緊張を強いる雰囲気があります。
「母子の生命を最優先」にするがために、
快・不快をおざなりにした「最善」の処置がとられることもあります。
「陣痛促進剤も吸引も、命を救うがための当然の処置」
という見方を否定するわけではありませんが、
処置の過程で妊婦に過剰な不安や恐怖を与えることは、
決して「しかたがない」ですまされることではない。

「母子の生命を救う」ということだけでなく、
「出産という行為がいかに繊細なものであるか」ということを、
私たちはあらためて考え直してみる必要があるのかもしれません。

じつをいうと、私自身、助産院での出産でした。
「病院はイヤ。助産院がいい」と考えていたわけではなく、
たまたま、近所に住んでいた出産したばかりの女性に
「いい助産院があるよ」
と教えてもらい足を運んだのがきっかけ。
吉村医院のような「古民家」ではありませんでしたが、
昭和の昔なつかしい「おばあちゃんの家」といったたたずまいの助産院です。

分娩する部屋は畳と床ばり。
小さな庭と縁側があって、
ときどき近所のネコちゃんたちがのぞきにやってくる。

陣痛のあいだ「う~ん、う~ん」と唸りながら畳の上でゴロゴロしたり、
かけつけた義母に「ラクにしてな」と腰をマッサージしてもらったり、
「徹夜続きでくたびれた~」と言いながら医院長がそばで添い寝してくれたり、
(医院長はもちろん女性です)
いざ分娩のとき、
「楽な姿勢をとっていいよ。音楽をかけようか?」
と助産婦さんが声をかけて和ませてくれたり。

出産をコワいとも苦痛だとも思わず、
むしろ幸せな体験で何度でも妊娠・出産したいとさえ思えたのは、
おそらくこの助産院で、リラックスして出産することができたおかげ。
その後の子育てが楽しくてしかたがなかったのも、
この助産院で出産したからではないかとすら感じられるほどです。

これはおそらく、「助産院で自然分娩」をしたからではなく、
家族や周囲からの支えを得て、
そこはかとない「祝福」に包まれて出産ができたからではないか。
この映画をみて、もう10年も前にさかのぼる自分自身の出産が、
今さらながらに思い出されます。

この映画では、死産してしまった妊婦さんや、
出産をひかえた妻を残して夫が家出してしまうというシーンも登場します。

もちろん、どちらも本物、実話。
作り物ではない、圧倒的な重みがあります。

「赤ちゃんをかき出さず、できるだけ自然に下りてくるのを待ちたい」
死産を告白した女性がつぶやく場面は、
本人の姿は映らず声だけが流れていましたが、
声の背後には、その場にいた人々の声にならない共感、
深い悲しみに満ちた静寂がありました。

病院ではかなえられることのない「死を悼む、静謐で厳かな共感」が、
吉村医院にはたしかにあるのかもしれません。












夕方からの勉強会。
寒いし、暗いし、テンション下がるな~ダウン

……なぁんて、思わずヨワネをはいてしまいましたが、
勉強会の第二回目も、がんばって勉強してきましたゾ電車

この日は「印刷や出版の歴史」から始まり、
日本の出版流通システムや、
電子書籍を含めた最近の書籍事情について学びました。

たとえば日本の出版の大きな特徴。それは、

1.再販制度
2.委託制度

1の再販制度は、カンタンにいえば、
小売店(書店)は作り手(出版社)が定めた「定価」で販売せよ、というルール。
通常の品物は小売店が任意に価格を設定することができますが、
本やCDなどは出版社が定めた「定価」で販売するのが基本。
「この本は定価じゃ売れそうにないから、
値段を大幅に下げて叩き売りしてしまえ!」
とならないのは、この再販制度があるおかげです。

2の委託制度は、小売店(書店)が版元(出版社)に返品できるというルール。
本は通常、出版社→取次店→書店というルートで出回りますが、
「この本、仕入れてみたけどどうも売れそうにないな」
と書店さんが判断した場合、3カ月以内であれば、
出版社に返品することができます。
この制度のせいで、
「売るための努力」よりも「売れそうにないなら返してしまえ」
という風潮が強まっているともいわれますが、
そうはいっても売れるものを仕入れないことには商売成り立たないのだから、
いたしかたないですよね。……いたしかたない。

つまり、編集者やライターにとってだいじなのは、
「売れそうにないから返してしまえ」
と思われないような本をつくること。あるいは、
「売りがいがある!」
と感じてもらえるような本をつくること。

「儲かりゃイイ」ということとはちがうのですが、
一目見て、手に取って開いてみて、

「何だかワクワクする!」
「これ、いいネ!」

と感じてもらえるものを目指すべき。
重要なのは、
「読んでくれる人のことを考える」
ということなのですよね。女の子男の子




















陰鬱な北国の冬。
身も心も滅入りそうな灰色の街。
映画『海炭市叙景』は、
そんな「わびしさ」「むなしさ」に包まれた架空の都市で展開されます。

全編をつうじて、太陽のあたたかさを感じられるシーンはいっさいなし。
冒頭で登場する元旦の日の出のシーンさえ、どこかしら寒々しく感じられます。
この作品は最初から最後まで、
これでもかというくらい「凍てついている」のです。

しかし、にもかかわらず、なんだろう、このなつかしいかんじ。
私は北国の生まれではないけれど、
この凍てついた作品になつかしいぬくもりを感じずにはいられません。
どんよりと曇った空、重く冷たい空気に、
やるせなくも落ち着きを感じてしまう。
日本の気候風土と何かしら関係があるのでしょうか?

展開される物語もたいへんに陰鬱です。

仕事を解雇されて絶望する兄妹。
宅地開発のなかで立ち退きを迫られる老婆。
冷えきった家庭で一人孤独に悩むプラネタリウムの職員。
仕事も家庭もうまくいかず暴力的にふるまう若社長。
寂れゆく故郷にも自分の人生にも希望を見いだせずにいる若い男。

みな悩み絶望し、思い通りにいかない人生を抱え、往生しているばかり。
「きっといいこともあるさ」という救いもいっさいみられません。
ここまで救いがない映画というのもめずらしい。
あまりの救いのなさに
「クラくてやだなあ。こういうのは好きじゃないよ」
と目を背けたい感想をもつ人も少なくないかもしれません。

でも。

この映画には、そんな救いのない現実をていねいに掬いとり、
突き放すことなく見守る「視線」を感じます。
絶望しているか否かにかかわらず、
いっしょうけんめいに生きよう、生きていきたいと願っている人ならば必ず共感を抱くであろう、
「それでも人は生きていくのだ」というメッセージを受け取ることができます。
そう、はかなげに見える物語の奥には、
「そうやって生きていく君が、たしかにここにいるではないか」
というはげましのようなものが感じられるのです。

救いがないシーンやエピソードばかりなのに、
なぜそんなはげましが感じられるのか?

それはおそらく、この作品にやどっている「リアリティ」です。
『海炭市叙景』は、作品の舞台のモデルとなった街・函館の市民たちの協力なくしてはあり得なかった映画だといいます。エキストラとして数多くの市民が参加しているだけでなく、プロの役者たちにまじって素人の人も重要な役を演じています。素人役者さんのなかには、「え? 本当に素人なの?」という存在感を放っている人もいる。「この映画だけのために役者になった役者さん」が何人かいるのです。これは、考えてみればたいへんにぜいたく、きわめて新鮮な現象ではないでしょうか。

素人が参加すれば作品の質が落ちるのではないか、と思うかもしれませんが、
この作品ではむしろ函館市民の参加によって、
ノンフィクションのようなリアリティが生み出されています。
そのリアリティが、作品にあたたかい魂を吹き込んでいるのです。

リアリティを与えているのは素人の役者さんの存在だけではありません。
市内を走る古めかしい市電、寂れたプラネタリウム、
決して美人とはいえないスナックの女の人たち、
飾り気も素っ気もないプロパンガス事務所、
小さなブラウン管テレビとこたつが置かれた雑然とした室内。
スクリーンに映しだされるこれでもかというほどの匂いたつ生活臭が、
この救いのない物語に力強さを与えているのです。

作品では谷村美月、小林薫、南果歩、加瀬亮、村上淳など有名な役者さんが出演していますが、
彼らも、地元の人みたいになっています。いい意味で存在感を消しています。
おそらく、こういう映画で芝居を演じるのはもっともむずかしいはず。
ヘンに目立てば、作品の流れをこわしてしまう。
さりとて印象に残らなければ役者としての意味がない。
本物の役者さんというのは、こういう映画でこそ才能を発揮するものなのかもしれません。

泣いて笑って多いに感動したい。
映画にそういうものを求める人にはおすすめできませんが、
これはおそらく、世界に通用するすばらしい映画です。
DVDではなく、映画館に足を運んで見るべき映画です。
観賞後の余韻をだいじにしたい映画です。
こういう映画をつくってくれた製作者のみなさん、
そして函館市民のみなさんに心からありがとうを言いたいです。

……でも、ひとつだけ、ごめんなさい。
映画もすばらしかったけれど、
ごめんなさい、作品の「原作」にはかないませんでした。

佐藤泰志が書いた小説『海炭市叙景』。
たぶん、ここ十数年のなかで、個人的にはベストワンです。
次回は、小説『海炭市叙景』の話をしたいと思います。









今週から、出版関連のセミナー(勉強会)に参加しはじめました。メモ
これまでは手探りと自己流、ほとんど勢いだけででお仕事をしてきましたが、
今後の人生を充実させるためにも、
ここらでちょっと立ち止まって、
自分が経験したこと、試行錯誤してきたことをまとめてみようかなと。

昨日の教室では、「そもそも本とはなにか」ということについて考えました。
歴史をふりかえれば、紙でできた巻物状のものからはじまって冊子のかたちへ。
そして現在では、紙を使用しない電子書籍が登場しました。

電子書籍はとてもお手軽。
紙のほんより安いし、持ち歩くのも便利。
まだ購入したことはありませんが、
音楽や映像をリンクできる「リッチコンテンツ」もあると聞けば、
本の可能性が広がることを、期待せずにはいられません。

でも、その一方でまだまだ紙の本に強い愛着を感じるのも事実。
おはずかしながら、私は本好きな子どもではありませんでしたが、
本の「匂い」が大好きでした。
新しい教科書を配られると、本文に顔をちかづけて匂いをかぎ、
「ああ~いい匂い。憂鬱な新学期の唯一の楽しみ」音譜
と思っていました。
本を傷つけないようにと、ごていねいに紙とビニールを使ったお手製のカバーもつけていました。
書き込みをするのもページを折るのもぜったいにイヤだったので、
教科書は1年たっても新品同様の美しさ。
私にとって教科書や本は勉強をするものではなくきれいに保存しておくものだったのです。

本の担う重要な役割のひとつに、「情報を伝える」ことがあげられます。
本は匂いをかいだりきれいに保存しておくためのものではなく、
そこに書かれた文章、文章を介して伝えられる情報を吸収するもの。
本とは本来、そういうものだといわれます。

「書き込んだり、折ったりして使ってこその本。きれいに扱うなど言語道断!」

そんな専門家の意見を参考に、思いきり本にラインや書き込みなどしてみると、
なるほど、これも悪くない。
本を食べているような、まさに吸収しているような一体感をおぼえます。
そこに書かれていることが自分のものになっていく。
心のなかが満たされているような気持ちになります。

でも、それはそれとして、やっぱり本はていねいに扱いたい。
本のもつ質感や手触りをそこはかとなく楽しみたい。
手に入れた本は捨てたくないし古本に出すのもなんかイヤ。
意味のない執着かもしれませんが、
本に対するこういう感覚って、
電子書籍にはない紙の本ならではの魅力ですよね。

今後、電子書籍の発達に伴って紙の本は少なくなるでしょう。
10万部、100万部のベストセラーのほとんどは電子書籍のみになると思います。
紙の本はせいぜい数千部程度のものに限られてくると私は考えていますが、
この「数千部程度の紙の本」はきっと末永く生き残っていくはず。

匂いをかいでページを捲る。

役立つ情報を運ぶのではなく、
温もりという価値をもたらすものとしての紙の本は、
決してなくなることはないと思うのです。本








あけましておめでとうございます!
ちょこボラ情報や体験談をゆるゆると発信しております本ブログを、
今年もどうかよろしくお願いいたします。

鏡餅


お正月休みに、一冊の本を読みました。
ALSという難病をテーマにしたノンフィクション。
大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した話題作です。

本書は、ALSを患った女性とその娘さんの闘病の記録ですが、
心にもっとも刻まれたのは闘病生活そのものよりも、
本書前半部で描かれる母に対する娘の葛藤。

「家族に迷惑をかけるよりも美しく死んでゆきたい」
と語っていた母親が、病が悪化するにつれて
「どんな状態になっても生きていたい」
と本音をあらわにし、生への飽くなき執着を見せるようになっていく。

著者である娘は、悩みとまどいながらも、
愛してやまない母の望みにこたえるべく、
自分の夫や子どもよりも母の世話を優先し、
母との闘病生活に身を投じる。

これは壮絶なる親子愛か、はたまた呪縛か。

「母と子どものどちらかを選べ」
といわれたら、迷わず子どもをとる自分ですが、
著者の選択を愚かであるとは思いません。
共感できるか否かは別として、
闘病をつうじて著者自身が人生をつかみとってゆくさまは、
人間の強さ、底力を感じさせてくれるからです。

『逝かない体』、一読をおすすめしたい一冊です。本

逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズケアをひらく)/川口 有美子

¥2,100
Amazon.co.jp

昨夜はと~っても寒いイブでしたね。雪

娘が寝入ったあと、ツリーにかけられた大きな靴下にプレゼントを投入。
娘を起こさないよう注意しながら、そ~っと静かに床に入りました。

それにしても、さすがに10歳ともなると、サンタの存在に疑問を抱くらしい。
今月に入ってからというもの、
「サンタさんって、家族じゃないの?」
「サンタさんはママやパパだって、そう言ってる子もいるよ」
など、スルドイ質問を何度も投げかけられました。

しかし……

「そうなのだっ! サンタはじつはこの私だったのだ!
サンタさんなんて、この世にはいないのだ!」ビックリマーク


などと言うわけにもいかず、
「サンタさんは、ママとパパなの?」
と聞かれるたび、
「まさか。そんなわけないじゃん」
とごまかし通してきました。
でも、これもいつまで通用することか……。
お子さんをおもちのみなさんは、
この「サンタ問題」をどうやって解決しているのでしょう?プレゼント

ちなみに、苦し紛れの思いつきでしたが、
真実を知りたがる娘に、最終的にはこう伝えました。

私「そろそろ、サンタさんは来なくなるかもしれないよ」
娘「ええ! どうして? なんで?」
私「サンタさんが誰で、どこから来るのかを知りたがるようになったということは、
もう、あなたがこれまでのような“子ども”ではないってことでしょ。
サンタさんは、“サンタを素直に信じる子ども”にプレゼントをもってきてくれるものなんだよ」
娘「……」
私「サンタさんって、そういうものなのかも」
娘「そっか……」

納得したような、でも、どこかさみしそうな顔。
こうやって、ちょっとずつ大人になるのかな。
と思っていたら、

「プレゼントもらえなくなるのはヤダ!
私はやっぱりサンタさんを信じる!」

おやおやおや~~~。
やっぱり、まだまだ子どもちゃんですか……。合格
もうしばらく、サンタをめぐる攻防は続きそうです。クリスマスツリー

日本は「教育のガラパゴス」。
「ペーパー重視」はもはや日本と韓国だけ。

そんな「目からウロコ」な教育の現状を、
高木展郎教授がアツく語っておられました。メラメラ

暗記を主とする「点数重視」の受験から、
自分で考え導き出した答えを伝える「コミュニケーション重視」の受験へ。
文科省中教育審議会は、そうした方針に拠って、
新たな学習指導要領を施行するとのこと。
「三択から選ぶ」のが得意な日本式を、
「自分の言葉で記述する」の得意な欧米式へと、
教育の方法を大きく変えて行こうというわけですね。

教授によれば、
「勉強しなさい」
「100点をめざしなさい」
と尻たたきをするのではなく、
ふだんの日常会話のなかで
「それって何? 説明してみて」
「どうしてかな? 理由を考えてみようよ」
という会話を親子で積み重ねて行くことが、
子どもの学力を向上させる一番の近道とのこと。
何でもかんでも「理詰め」はよくないけれど、
地頭をよくするには、
楽しく深い親子の会話が必要不可欠なのですね。星

ちなみに、わが家ではここのところ親子で「消去算」「年齢算」を猛勉強中。
「わからないから教えて」
と娘にいわれ「どれどれ」と問題に取り組んでみたのですが、
……むむむ、むずかしいショック!
「えーと、ここが、こうだから、こうなって」

教えるというより、ともに頭を悩ませて答えを出した。という感じ。とほほほほほ。得意げ

でも、もしかすると、勉強そのものよりもこうした取り組みじたいが、
子どもの学力向上につながるのかもしれないですね。







12月4日。「茅ケ崎ピースウォーク」に参加してみました。

この催しは『茅ヶ崎市・九条の会』のみなさんが主催。
「軍事費の予算は福祉や教育に使って」
「辺野古に基地はいらない」
などの呼びかけをおだやかにコールしながら歩く、
いわば平和的なデモ行進です。走る人

参加者は20名前後でシニアが中心。
「おばあちゃんに誘われて参加した」という母子が一組いらっしゃいましたが、
小学生の娘を連れて参加した私は異色の存在。
主催スタッフの方からは「よく来てくれたね~」と喜んでいただけたようです。ニコニコ

茅ケ崎ピースウォークは比較的小規模な行進ですが、
警察の方数名に付き添われ、
基本車道を歩くというかたちでスタートしました。
幟を掲げ、大きな垂れ幕をみんなで持って歩く。
う~ん、これはなかなかデモっぽい。目


先頭を歩く女性がスピーカーでコールを連呼しながら、
一行はコースをゆっくりと歩きます。
「軍事費の予算は福祉や教育に使って~」
「辺野古に基地はいらな~い」
ぞろぞろと歩く我々を、道行く人々が振返ります。
うさんくさそうに見ている人もいましたが、
さすがにヤジを飛ばすような人はいません。
いっしょに歩く人もいるかな?と期待しましたが、
みな、基本的に他人事。
そんななかで、一組の老夫婦が大きく手をふりながら、
「がんばって! 私も戦争反対!」
と叫んでいたのが印象的でした。

日本人はこういう活動に対してひどく無関心。
まさにその通りだなあと痛感しましたが、
少なくとも、何人かの心のなかにちょっとしたタネをまくことはできたはず。
何も知らずにつき合わされた娘は、
「はずかしいよ~」
といやがっていましたが、
「世界平和に貢献したんだよ」
というと、わずかに満足してくれたようです。クローバー

こうして「歩いて」みると、
これまで見えなかったものが見えてくる気がする。
運動不足の解消にもなったし、
これからも「歩く社会貢献活動」に参加してみたいと思います。走る人




午後1時半に中央公園に集合。

$ちょこボラ!しよう-ピースウォーク2

垂れ幕はスタッフのみなさんのお手製です。

$ちょこボラ!しよう-ピースウォーク3


おまわりさんもごくろうさまです。信号機

$ちょこボラ!しよう-ピースウォーク1
11月18日、ちよだボランティアセンターで
「プチボラ」を紹介する講演会をやらせていただきました!
夕方からの遅い開始時間にも関わらずお集りくださったみなさま、
ありがとうございました!満月

講演会の後半では、生物多様性について考える「折り紙プロジェクト」を実施。
みなさんに折り紙をお配りして折り紙を折っていただき、
そこに10年後の未来に対する夢を書いてもらいました。
折り紙はデジカメで撮影してプロジェクトのウェブサイトに投稿。
近日中に、画像がアップされる予定、楽しみですニコニコ





$ちょこボラ!しよう-折り紙

※折り紙プロジェクトへの投稿は12月12日までとのこと。
もちろん、家族や個人での参加もできますので、
みなさんもぜひ、参加してみてくださいね音譜
先日の日曜日、「あしながPウォーク10」に参加してきました!走る人

「あしながPウォーク10」は、国内外の遺児を支援するためのチャリティ(フィランソロピー)ウォーク。毎年秋、全国各地で開催され、約80のコースを一万人以上が歩きます。参加費500円で、誰でも参加することができるんですよ。ニコニコ

私が参加したのは、地元にいちばん近い神奈川県鎌倉コース。

「10キロウォークに初挑戦だ!」メラメラ

と意気込んで参加したのですが、
なんと、当日になってオバマ大統領が鎌倉に遊びにくることになり、
地元県警から「イベントを中止するように!」と言い渡されてしまったのです。
ああああ~がっくし………。しょぼん

しかし、主催者の方が
「それでは集まってくれた300人近い参加者に申し訳ない」
とがんばって交渉をしてくださり、

・通常掲げている横断幕はなし
・参加者が身につけるゼッケンもなし
・コース途中の目印もなし
・10キロを4キロに縮小する
・(かたちの上では)イベントとしてではなく個人として歩くこと

という条件のもとでウォーキングが実施されました。
(主催者のみなさん、本当にご苦労様でした!)

というわけで、鎌倉海浜公園からスタートして一の鳥居、二の鳥居をすぎ、
鶴岡八幡宮~小町通とがんばって歩いていったのですが、
メチャメチャ運動不足! 折り返し地点にあたる鶴岡八幡宮あたりで早くも疲れが……。
途中でいっしょに歩いてくださったスタッフの学生さんたちによれば、

「鎌倉の10キロコースは山登りのような険しい坂道があるので、
はじめての方にはかなりキツいかも…」

自分にとっては、10キロが4キロになったのは不幸中の幸いだった?
もうちょっと体力をつけて、来年こそは10キロに挑戦してみよう。

ちなみに、ウォーキングの途中でお土産物を買ったりお参りする人もちらほら。
「歩き切ることに意義がある!」というような体育会系のイベントではないので、
とっても気軽に参加できます。
みなさんもぜひ、地元で開催されるPウォークに参加してみてはいかが?晴れ
(別コースで参加した方がいらしたら、ぜひ様子を教えてくださいね)


$ちょこボラ!しよう-Pウォーク

観光客で大にぎわいだった鶴岡八幡宮。
あしながスタッフの大学生さんたちに
活動について教えてもらいながら、
ウォーキングを楽しんでまいりました音譜