自分の幸せを追求してみたらどうだろう
恋愛相談を受けます。
最近はさすがに少なくなりましたが、以前は何故なのかまったくわかりませんがしょっちゅう恋愛相談をされていました。
なんで、私を相談相手に選んだの?と聞きたいけれど余計なやっかいごとに発展しそうで聞けませんでした。
私は恋愛至上主義っぽくもないし、別段恋愛の数が多くもありません。
好きです、と言ってくれる人が私の求める人であった試しはありません。哀しいことに。
私は人を好きになるには時間がかかる、というかある一定の情報量が必要だと思っているので
(思っているというか、経験上そうであろうと推測しているというかんじ)
一目見て好きになることは、私にはありえないし、美々しければよいとも思えません。
外見の美しさにはうるさいですが、外見の美しさが愛の対象かというと違います。
愛の対象が美しいほうが良いかといえば、それも別にそうとも思いません。
生理的に受け付けない外見でなければ、問題にはなりません。
私は愛の対象に、求めるものがかなりハッキリしているのです。
そしてそれこそが、思い、思われることへの最大のポイントであると思ってはいます。
ただ、それが万人に有効かは全くわかりません。
となると、あんまり話を聞く以外に、何か役に立てるとは思えないのですが
そう告げても、どうしたらいい?と聞かれます。
1番相談の中で多いのが、相手が自分を好きなのかわからない。というものなのですが
これのどこが問題なのかいまひとつわかりません。
わからない、という言い方は、あるいは意地が悪い言い方かもしれません。
悩んでも仕方のないことだと思っているということです。
相手が自分を好きかわからないから、連絡が取れない。
相手が自分を好きかわからないから、何も言えない。
相手が自分を好きかわからないから、冷たくしてしまう。
これらは「相手に好かれていないのに自分だけが好きでいるのが嫌」ということなのでしょうか。
結構、いいな、と思う男性に会った。
相手が自分に興味があるのかわからないから、アプローチできない。
意気投合し、相手がなんとなく自分に興味があるようで自分も気になる。
だけど、その後相手から何のアプローチもないため、なんとかしたいが自分からはしたくない。
しょっちゅう、二人で会うのだが、いまひとつ進展がない、自分を好きなのかわからないからそこから先に進めない。
付き合っているけれど、いつも相手が自分を重んじてくれない。
そのことを匂わすと、茶化されて、茶化し返し、ケンカになる。
どれも、私には悩みとなることではありません。
というより、そういう状況に落ち入ったことがありません。
なぜならば私はとても自分に素直だから。
相手が私を好きだろうが、どうだろうが、自分が相手を求めていれば、それに従った言動を取るだけです。
恋はかけひき、と言いますが、私はゲームを求めてはいませんし、スリルも高揚感も
ときめきも、演じることも求めてはいません。
ただ、好きになり、ただ知りたいだけです。
知ってみたら、それ以上求めるものがない場合もあります。
モテる、自分の容姿や雰囲気の良さなどから一方的に相手が自分を求める、という形を望むのと
自分が愛されたいと願う相手の気持ちがわからず悩むのとはまったく違うと思うけれど
それが一緒の人も多いような気もします。
上に出てきた、恋愛相談を時間をかけて話し、突き詰めていくと
まず、自分は「好きになられた」という立場でありたい。
そして、望まれたから応えたという形を求める。
自分の要求は、推測して欲しい、という欲求。
のような感じになっていきます。
それは恋愛の相談というよりは、モテたいというだけなのではないかと思うのですが
そのモテたいという感覚を持つこと自体が、変にプライドを刺激するのか怒る人もいるし
「違う!!」としか言わない人もいます。
質問する⇒答える⇒さらに質問する⇒答える、と延々繰り返して行き着いたと思ったけど
違う!といわれると、悩みます。
結局は私のことではないので、それが何故なのかは本人にしかわからないし
私はそれがわからなければ、どうしたらいいのかは出てこないと思っているので、堂堂巡りになります。
モテたい、とは別の「自分が上の立場でないとだめ」という感覚はやっぱり以前にも書いた
「惚れたほうが負け」みたいな恋愛ヒエラルキー理論なのでしょうか。
別に好きになって、「すきー!だいすきー!」と言ったからって
何を負ける必要があるのか、全くわかりません。
振られたらカッコ悪い、も別にカッコ悪くないじゃん、と思います。
外見の好みも、求めるものも、千差万別で、その通りの組み合わせでめぐり合えることなど
生きている間に1度あればいいくらい、低い確率ではないかと思うのです。
一生に一度あるかないかなんだから、相手があなたじゃないんだよね、と言ったからって
恥ずかしくもなんともないと思うのです。
とはいえ、人を好きだと感じるのは理屈ではない部分が大きいと思うので
その相手に「あなたの求めることには応じられない」と言われるのは哀しいことです。
恥ずかしくはないけれど、哀しいです。
人によっては「じゃあ求めるのをやめて、別なものにします」
「あなたの求めるものを私も持つ努力をします」と言う人もいて、
変化することで、その形を変える場合もあるだろうし、それがその人にとって苦痛でないなら
それはそれで、良いのではないかと思うのです。長いスパンで考えて苦痛でないならば。
私は人間はそんなに簡単に変るものではないと思っているので
よっぽど強く相手を求めつづけない限り、変化したと思っても
愛され始めたときから、それが苦痛の元になるのではないかと思ってしまいますが
中にはそれで一生幸せに暮らせる人もきっと沢山いるのでしょう。見たことないけど。
私の求めるものとは、その上記の変化を求められないこと、というのが最も強いのです。
私は変わりたいと思った部分や、成長していくカーブは意識せずに自ら持ちたいのです。
いつのまにか少しずつ緩やかに変化したいのです。
強要され、小突き回されて変化したくはない。
私と夫だって、価値観は違うし、生活サイクルも違う、プライオリティも違えば
嗜好も違う、道徳観だって違いますから、ケンカもよくします。
理解はしますが、受け入れられるかられないかは半々です。
受け入れられないところがあるからと言って、共に生きていけなくはありません。
日々、暮らしていれば、受け入れられないことが困るときもあります。
それはもう徹底的に話し合い、我が家の場合、結論としてはどちらがよりこだわっているかに焦点は絞られます。
そうでなければ生きてゆけないほどの負担を持つほうに合わせる。
もしも妥協点があるなら、徹底してそこを検討し、徹底して変えてゆく。
でも、ある程度の理解が進んでいれば、さほど受け入れられなくて困ることはありません。
精神的に負担になることは最初から、どんなにもめても話はします。
思ったことが言えないというのは、とても辛いことだと思うのです。
自分以外の人との生活、というのは、家族を含めて、小さな支配が生まれやすく
誰も気付かない小さな支配は、本当の気持ちを押し殺させます。
「こう言ったら、傷つくから言えない」
「これを言ったら嫌われる」
「こうしたら愛されない」
でも、そうやって押し殺させてしまった気持ちはどうなるのでしょう。
茨のようにぎゅうぎゅうと締め付けて、どんどん窮屈に、どんどん息苦しくするでしょう。
人はいつまでもその苦しさに耐え切れはしないと思うのです。
どこかで壊れてしまう。
なら、ケンカしたって最後に呪縛されない方法を探した方がいいじゃないか、と思うわけです。
ただ、闇雲にケンカや本音を話すことを薦めるということではありません。
人にはそれぞれに、人を受け入れる心の範囲があると思うので。
だからこそ思うわけです。
人に求めるものは自分で出来なければ、受け入れられることはない。と。
自分が好きになってもいない相手に「あいつが好きになればいいじゃん」と言っても
それはまず滅多にないことでしょう。
よっぽど容姿が美しい、とか一緒にいてメリットがあればそういうこともあるでしょうし
ゲーム的恋愛にはそういうこともあるとは思うけれど、
相手の心や関心を、長い間向けて欲しいときには、それはないと思うのです。
私が求めるのは、自分も相手も、そのままでいられること。
共にいることで、へんに変化(変な言葉だ)をする必要のない人と生きていきたかったのです。
好きになる、という感情が何を求めているか、それは人それぞれでしょう。
私は、そういう形だった。
それを知ることが出来たのは、本当に良かったと思います。
それを知らなければ、好きになったと勘違いすることも多かったのではないかと思うのです。
そして、曲げる辛さや、曲げさせる辛さに悩んで、苦しんだと思います。
私の持論は、人はそのまま受け入れてもらうことを望んでいる、というものです。
それが究極の望みだと思うのです。
だから、ぴたっと合う形にめぐり合えなければ結婚なんてする価値がないと考えていたのです。
私が恋愛相談で言えるのはそれだけです。
かなり独断と偏見にまみれた私見を披露してごめんなさい。
もう恋愛相談という形で、私がどうして幸せなのかと問い詰められるのにうんざりしたので吐き出しました。
どうして幸せなのかと言われてもわからない。というか幸せだと感じるのと実際に幸せかは別なのではないか。
私は、社会的に認められている立場や、姿形の美しさや、たくさんの金銭、高い知性、
同調する意見や追従してもらうこと、同じ趣味や、同じ目線は求めていない。
ただそれだけなのです。
夫が格闘家という、社会的地位の低い、長く続けられない職業であることや、
高い学歴や、高い知性がない(ように見える)からといって、彼を貶めるのはやめてくれ。
私にとって、夫は世界一なんだ。
つりあうかつりあわないか、なんて考えたこともないけど
どちらかといえば、孫悟空として生きられる夫を縛っているのは私であって
つりあわないとすれば、私の方だ。
2006年3月31日(金)PM:0:44に上げた記事です。
まあ幸せかどうかなんて人それぞれ、腹イッパイでうとうと昼寝するロバと
便秘でなやんでいる大金持ちのゾウムシくらい全然違うってこった。
小さな小さな支配のなかで
いついかなるときも笑顔絶やさず、海よりも広い心を持ち、閉じた口は動かざること山の如し
マグマに届くほどの深さの忍耐力と、全ての楽を捨てねばならない。
それが母の姿と世間は言う。
子を産むという喜びは、すぐさま後悔や、苦行にとって変り。
笑顔は作られたものになり、心を殺す。
自由な愛の形はゆがめられ、画一的な形に変化を求められる。
感情は小さな小さな四角い箱に鍵をかけてしまわれ、あけてはならぬと言い渡される。
そしてその愛を注ぐものを公共へと差し出せと迫られる。
一人ではいけない、一人では出来ぬ、一人では歪むと言われながらゆがめられてゆく。
一人ではいけない、一人では出来ぬ、一人では歪む。
なのに
いついかなるときも笑顔絶やさず、海よりも広い心を持ち、動かざること山の如し
マグマに届くほどの深さの忍耐力と、全ての楽を捨てねばならない。
それは母その人のみに課せられる。
愛を注がれるものは、その母を見て育つ。
苦しみ、悲しんで、責められている母を見て、同じ戒律を育てていく。
母たるもの、
いついかなるときも笑顔絶やさず、海よりも広い心を持ち、動かざること山の如し
マグマに届くほどの深さの忍耐力と、全ての楽を捨てねばならない。
そんな矛盾は母以外にとっては矛盾ですらない。
当たり前で、一般的で、普通、という答え。
そうして押し付けられた画一的な母親像は悲しみを生み出す。
生み出し、行われた悲しみは、全てが母の責なのだ。
いついかなるときも笑顔絶やさず、海よりも広い心を持ち、動かざること山の如し
マグマに届くほどの深さの忍耐力と、全ての楽を捨てねばならない。
そう生きられない母は、責められて然るべきなのだ。
時に闘う母がいる、そうではないと声をあげ、そうではないと訴える。
そして愛を注ぐべきものが成長し、自己の声をあげるとき、それが否定される。
どこからも否定され、どこからも愛は注がれず、どこにも救いはない。
母は崩壊してゆく。
いついかなるときも笑顔絶やさず、海よりも広い心を持ち、動かざること山の如し
マグマに届くほどの深さの忍耐力と、全ての楽を捨てねばならない。
それが出来ねば母として認められず、
いついかなるときも笑顔絶やさず、海よりも広い心を持ち、動かざること山の如し
マグマに届くほどの深さの忍耐力と、全ての楽を捨てねばならない。
それが出来れば、否定できない親を持つ、愛を注ぐべきものは歪んでしまう。
母とはかくあるべし、とそれでも言うのだろうか。
2006年3月30日(木)AM:10:08に上げた記事です。
私が世間から感じる「母親像」の押し付けのイメージです。
母親ってこういうものよね、と言っているのでもなければ
母親ってこう思われてだけいて本当につらい、と言っているわけでもありません。
ほんの一端に感じた、ほんの一面のイメージです。
私は母親という存在は特別なものを持っているわけでも、無償の愛を持っているわけでも
ましてや明確なビジョンがあってそういった存在になるわけではないということもまた知っています。
(そうではない人もいることは私でも想像できます一応)
くまの子と娘
児童書が好きだと以前書きましたが、特に好きなシリーズが何冊かありまして。
その中の一つに「パディントンベア」シリーズがあります。
初めて読んだのは小学校3年生の時だったかなぁ。
パディントンが可愛くて可愛くて、うちにもこんなクマがいたらいいのに、と
それはそれはしつこく思っていました。
小学生の時に持っていたパディントンの本は既にぼろぼろになり
現在は新しく購入した、ぴかぴかの本しかありませんが、娘を産んでから、改めて読み直しました。
私は手持ちの気に入っている本を繰り返し繰り返し読む習性があるので
大抵の本は定期的に読み直しているのですが、このシリーズは読み返すのが実に10年ぶりくらいでした。
この前読み返したのは二十歳の時だったと記憶しています。
絵本や児童書が好きな私は、子供が生まれるとわかると、読み聞かせや
子供自身に贈りたい本を選ぶため、こどもの本の専門店や
こどもの本を選ぶ仕事をしている友人に会い、記憶を紐解きながら、次々と選出し始めました。
既にかなり膨大な数になってしまいましたが、いくつか娘に見せてやると…反応薄っ!!!(笑)
子供の好む本とは違うようです。
いや、うちの娘の好む本ではないのかな。
娘は鮮やかな色合いの絵を好みます。
まだ小さいので、ストーリーよりも音の響きや、色合いに惹かれるようです。
まあ、そのうち読むでしょう。読まなくても私が読むからいいのですが。
パディントンの本は、児童書で高学年向けらしいので、手にするのはまだまだ先ですが
気に入ってくれるたら、色々な話をしよう、と今から楽しみにしています。
さて、そんなパディントンですが、あんなに家にいたらと願っていたクマの子供ですが…
今、読み返すと、はっきり言ってかなり大変なクマの子供でした。
好奇心旺盛で義理堅く、食いしん坊で早とちり、若干自分を過大評価している節があります。
○○をしたら、○○になり、○○に損害を与え、自分が叱られる。
そんな筋書きは彼の中にはほとんどありません。
○○をしたい、成功したら喜ばれる、やってみよう。です。
○○、をし始めて困難に合い、初めて「やべぇ!失敗したら怒られる!」が生まれ
それが生まれると、一気にやる気を失います。
正直、シリーズものを改めて全て読んで「うへぇ!」と思ったのですが
それって本来の子供の姿なのかなぁ、とも思います。
いつの間にかオバサンになって忘れてしまいましたが。
人の顔色を窺い、先を予見して、いい子でいるのは大人にとっては都合のいい子供だけど
窮屈なのだろうな、と思います。
人は結構幼いうちから、家族以外の他者と関わり合わざるを得ない場所で生きていかねばなりません。
そこで衝突しないで、上手に生きていけるように、と願う気持ちは私にすらありますが
本当はパディントンのように、好きなように、したいと思うことをして
失敗したら、謝って、罪を負ったら償って、何よりも欲求を求めて生きていけたら
そっちの方が満足もより豊かなのではないかとも思うわけです。
パディントンはあんまり謝りませんけど(笑)
縁あってパディントンはブラウンさん一家にお世話になるのですが、
ブラウンさん一家にパディントンは感謝をし、愛情を持っています。
しかし、このパディントンは親友である、商店街で骨董店を営むグルーバーさんの方が
近しい存在として感じているようです。
このグルーバーさん、ただものではありません。
人間の常識に当てはめず、クマであることを尊重し、守らねば困ったことになることを
丁寧に、クマであることを否定することなく教え、さらには影となり日向となり
パディントンに友としての愛情を注ぎます。
そんなグルーバーさんへのパディントンの愛情は、やはり特別だと感じます。
天真爛漫なパディントンは結構こずるいこともするのですが、やっぱり愛すべきクマでした。
面倒な、望みもしない約束事や思いもしない誉め言葉を使う社交辞令や、
結果的には嘘となる建前を使うのが、一般的で正しいこととする人と過ごすよりは
ちょっと困ったことも多いし、付き合うのは多少やっかいなパディントンですが
彼と一緒に過ごすほうが随分と楽しく、そして充足感と安心感を得られます。
そして信頼できると感じるのです。
本当のことを告げられる、告げさせてくれる、告げてもらえる信頼感は何者にも変え難いです。
楽に付き合えることだけが愛を注ぐ条件にはならないと実感します。
価値観も違う、暗黒の地ペルーでクマとして生まれ、クマとして育ち、人間社会で生きていく
パディントンには人間社会は理解不能で、さぞかしおかしな生き難い世界でしょう。
人間社会しか知らない私から見てもパディントンは変っているし、パディントンと生きるのは
毎日が大騒ぎで、時として後始末に追われ大変でしょう。
それでも、感じたことを押し殺し、まるで感じていないように振る舞い
当の本人に告げることはなくとも、どこかから伝わる場所では告げるなんて
面倒くさく、回りくどい、なんでも自分で出来、生活面では面倒のないひとと生きるより
私はパディントンと生きる方がいいな、と思います。
できれば、グルーバーさんとして、共に生きられたらいいな。
パディントンベアは、どこか娘に似ていて、他クマとは思えないです。
娘は「雨降りくまの子」という歌が子守唄ですし、唯一持っているぬいぐるみはクマですし
クマの絵にはとても反応するので、もしかしたら前世は困ったクマの子供だったのかもしれません(笑)
愛すべきパデエタン・フォオエバアです。
2006年3月28日(火)AM:10:24に上げた記事です。
娘の持っている唯一のくまのぬいぐるみは、生まれてすぐ某ヒーローズのアイドル選手(笑)にもらったもので
今でも大のお気に入りです。毎日片手に持って、熱烈なチュウをかましています。
この記事を書いた後、何故か立て続けにぬいぐるみ、しかもくまばかりをもらいました。
そしてあれこれ探索しているうちに、ちょっちぷんが小さいころ大事にしていたモンチッチも出てきました。
モンチッチは年月が経っているので、小汚く、一応手入れはしましたが、ガラス戸棚に封印しました。
しかし懐かしいなぁ、モンチッチ。モンチッチって名前も可愛い。モンキッキじゃなくて本当に良かった(笑)
モンキッキは可愛くない。
ここ数日、あんまり更新が進んでいないのですが、ちょっと気分が落ち込んでいます。
私にとって生きてきた中で最も重大なことを知り、哀しいのか切ないのか、
自分でもどんな気持ちなのかわかりません。
でもふと気付くと泣いていたりします。泣くようなことじゃない、と言い聞かせつつ。
複雑すぎて言葉にしたくない。そんなわけで、もう2、3日更新もちょこちょこ進めようと思います。
桜前線と義母
突然やってきました(笑)
週末は妹が甥っ子を連れて泊まりに来ることがあるのですが
土曜に来て大抵2泊して、月曜日に帰っていきます。
この春から甥っ子も集団生活が始まるため、今週は1泊で帰るね、なんて言っていたら。
土曜の夕方、義母からメールが。
「明日1晩泊めてください!^^」
びっくり。
義母は仕事で日本中を飛びまわっているのですが、普段、我が家に来るときは
かなり早い段階で予定が立っていて、突然遊びに来ることはめったにありません。
と、言うか、初めての出来事。
もちろん、いいですよ。とお返事。
日曜の昼過ぎに妹と甥っ子が帰り、夕方に義母が着いて
娘は少々混乱気味。
声のトーンがやわらかく、無理強いをしない義母なので
娘もわりと早くに慣れたようで、お気に入りのスタッキングカップで一緒に遊びました。
私が「ちょうだいな」と手を出しても絶対に渡してくれないのに、義母には自ら「はい」と渡す娘。
義母も喜んで、娘も満足そうでした。良かったね。
週末は桜もそんなには咲くまいと思っていたのですが
突然の来訪を遂げた義母に負けずに、桜も随分咲いています。
日当たりのよい場所の桜はもうほぼ満開。
桜はすぐに散ってしまうから、あまり縁起が良くない、とかも聞きますが
長い長い間、たくさんの人に愛でられ、毎年毎年、満開を心待ちにされる桜。
私は、どちらかといえば大ぶりな花が好きなのですが、桜は大好きです。
たおやかで、力強く、美しい花びらを持つ桜を見るのが毎年とても楽しみです。
残念ながら週末はばたばたしてしまい、ゆっくりお花見は出来なかったのですが
窓から見える公園の桜は、もう満開です。
もう少し暖かくなったら、胡弓のおじいさんもまた来るかしら。
今年もあの、郷愁を呼び起こす胡弓の音色が聞けるかと思うと、それも楽しみです。
そんな、お客様てんこもりの週末を過ごした娘は興奮したのか
夜中にぱっちり目を覚まし、いつもの夜中遊びを繰り広げたのでした…。
義母が寝ているところへ行ってスタッキングカップを顔にコツン(笑)
私が義母ならブチ切れです(笑)いや、我慢するけどさ。
夜中に起こされても義母はやさしく相手をしてくれ、娘はご満悦でした。
すみません、お義母さん、娘が隣から出て行ったことに全く気付かなかったのです。
まさか、そんなことをしていようとは。
ふと、隣にいないのに気付き、軽くパニックになりました(笑)
義母と遊ぶ娘を見つけ、仕方なく付き合いましたが、ママンは猛烈に眠いです。
さきほど、出張先へと出かける義母を駅まで送りました。
これから埼玉へ、一旦地元へ戻り、山口、宮崎と飛ぶそうで
「おいしいもの送るからね!^^」と
元気いっぱいで旅立っていく義母を見送る、全然元気じゃないちょっちぷんでありました。
お義母さん、ちょっちぷんは「ゆべし」が好きです。
すげー眠い。
しかし、天気が良くて気持ちがいいですね。
2006年3月27日(月)AM:11:49に上げた記事です。
ついこの間も割と突然遊びに来ると言っていたのですが、あいにく娘の高熱時だったので
やめておくね♪とそのまま帰ってしまいました。
今は実の娘、つまり夫の妹が姪ッ子を連れて帰国していて、こっそり義母宅にステイしているのでるんるん♪とメールが来ました。
義父と離婚しているので我が子の結婚式にも出られず、表立って婿や嫁の実家に挨拶も出来ず
孫が生まれてもおおっぴらに可愛がることも出来ず寂しそうです。
しかし超ポジティブな義母は、自分が行動することによってどんどん足りないものを補っています。
可愛いくパワフルで素敵な義母です。
母、という概念では決して見ることは出来ませんが、年上の良い先輩という感じです。
むかでになりたい?
久しぶりに大好きネタです。
服飾品のことを何度か書いたことがありますが、今日は一度も触れていないけど大好きなものの話です。
それは靴下。
ちょっちぷんは靴下が大好きです。買い物に行くと必ずチェックします。
着るものは見ないことも多いのですが、靴下だけは見ます。
娘のオモチャや、自分の本、夫のスポーツ用品などを見にいっても必ず見ます。
私の靴下コレクションを見ると、ほとんどの人がぎょっとするほどの量があります。
100足は絶対下っていないと思います。そして増えつづけています。
量、質共に充実していると自分では大満足しています。
1足百円やそれ以下のバーゲン品から1足ウン万円の超高級靴下まで。
靴下だけは値段に糸目をつけず、とにかく気にいったものを買います。
履く(靴下にストッキングやタイツを含むときもこの履くでいいのかしらん…)ときは
その日履きたい靴下に合わせて服を選びます。
と、いうのも私が選ぶ靴下は無難な靴下が少ないので合わせる服を選ぶのです。
日常に着ている服は靴下を思い浮かべて買うくらいです。
数があるので、大抵合わないことはないのですが、ついお気に入りの靴下に合わせようとします。
今1番のお気に入りは3足千円で購入した、蛍光グリーンの綿の靴下なのですが
私の普段着、というか部屋着というか、日常着はスポーツテイストが強いので
ばっちり合ってご満悦です。むふ。
お気に入りとはいえ、毎日色々な靴下を履きたいので
時々、何故足が2本なんだろうと思います。いえ、2本でいいんですが…。
むかではいっぺんに何足も靴下が履けるけれど、靴を合わせるのが大変そうです。
しかも全部の靴下に合う服を選ぶのも非常に難しそうです。
いや、むかでは靴下も靴も履かないし服も着ないけどさ。
どの靴下もまんべくなく履こうとするのですが、高級な靴下はすぐにダメになってしまいます。
ウン千円、ウン万円もしたのにドロボー!!と思いますが、最近気付きました。
高級な靴下に見合う生活をしていないからだと。
帯に合うもので、帯よりも格の落ちるものを合わせる着物のごとく
きっと高級な靴下には、それに見合った靴、そして生活が必要なのでしょう。
どこにでもスニーカーで、自転車に乗って行ったりしてはいけないのです。
そして子供を追い掛け回したりしてはいけないのです。
高級な靴下は、優雅に過ごさねばならないのです。…むりぽ。
自分の生活には綿の靴下で、スポーツブランドなどの1足千円くらいのものが1番合っているようです。
しっかりした生地としっかりしたゴムが使われた靴下は中途半端な丈でもずり落ちません。
肌は割と頑丈なちょっちぷんですが、何故かナイロンものや、ラメが入っている靴下を履くと
締め付ける場所がかいかいになって、赤く腫れます。
初めてそうなったとき、その赤い腫れの形が、ちびまる子ちゃんに出てくる永沢くんに
そっくりだったので、それ以来、そやつは「ナガサワ(仮名)」と呼ばれています。
初めは引っ掻き傷のようにぷくっとふくれて、ほんのり赤いだけなのですが
時間が経つにつれ、だんだん色が強くなり、内出血しているかのようになります。
そして徐々に中心部は元に戻り、腫れもひくのですが、周りが
筋彫りした刺青のように、濃い赤で縁取られてしまいます。
大きさは大体小指の第一関節まで分くらいなのですが、複数できると怖いです。
それが嫌で最近はナイロン混は履かないようになってしまいました。
気に入っているものがたくさんあるのに…。
中でも、お気に入りはショッキングピンクのストッキング仕立ての蛇柄の靴下と
ベージュのレース地にマルチカラーのドットがついた足首以下ソックスと
オレンジ地のサイケ柄ソックス、そしてまるで刺青のように鯉が描かれた肌色のストッキングです。
なかなか濃ゆい靴下たちで、もともと合わせる服をかなり選ぶため出番は少なかったのですが
特に1番最後のストッキングなんて、サイドが編み上げのジーンズに合わせていたため
今となっては出番皆無です。
合わせられる服もあるのですが、かいかいになりそうで履けません。
いったい、どうしてくれるんですか。この膨大な靴下たちを。
とりあえず、季節ごとに並べ方を変えたりして目で楽しんでいますが
出来たら一度、一気に全部履いてみたいものです。
そんな靴下大好きちょっちぷんの今日の靴下はマルチカラーの糸で編んだ
綿ニットのカラフルな1品です。可愛いー。
服はVANSのちょっと凝ったスウェットパンツにオシュコシュビゴッシュ(キッズサイズ)の
赤と紺のジップアップ、インはオリジナルTシャツ(自分たちの結婚式の引き出物)です。
FILAのグレー地に赤と紺のランダムボーダーの靴下と迷ったのですが
そっちは無難なのでやめました(なんでだよ)
気に入った靴下を履いていると気分が沈まない気がして良いですね。
(でも綿ニットの靴下はよく下がる…)
2006年3月23日(木)AM:10:02に上げた記事です。
ちなみに今日の靴下はメッシュ地でマンダリンオレンジの足首以下丈です。
黒スパッツに七分袖の裾がバルーンになったスゥエット地の黒×グレーの膝下丈ボーダーワンピです。
そしてあくびちゃんヘアに黒ブチの眼鏡。
やっぱり靴下から選びました。
春の逢瀬
あのね、あれから 本当に少しずつだけど
あの時言ってたことが 本当に少しだけど わかってきた気がするよ
もう 声も 口癖も クセや その姿も
ほとんど思い出せないけど でもいつも思い出す
抱きしめられて 心から安心できたこと
怒られて 哀しくて哀しくて 泣いたこと
理想の私に なろうとして 必死だったこと
わかってもらえなくて 苦しかったこと
私が流させた涙のこと
あのね 私、結婚したんだよ
もう 報告したよね
ね 夫のことどう思う?
私にぴったりでしょう?
良い子でしょう?
私には もったいないかもしれないよ
それでね 私、子供も産んだんだよ
それも もう言ったよね
ね この子 可愛いでしょう?
そっくりだと思わない?
目なんかそっくり
気性もちょっと似てるような気がするよ
気が強くて 頑固なの
夫の家族は 夫に似てるって言うけど
でも私は 本当は誰に似てるか知ってる
抱っこして欲しかったな
お年玉あげて欲しかったよ
出産して 1番に抱きしめて欲しかった
お宮参りも 百日のお祝いも 初節句も
一緒にしたかった
どうして
あのね、時々 一人でいると
私 子供を産んだりして良かったのかなって思うの
私 結婚してよかったのかなって思うの
私のためには 私 結婚してよかった
子供も授かって嬉しかった
だけど
私以外の人にとって それが何かを 亡くすことに繋がっていないのかな
もし そうだったら
私は どうすればいいのかな
きっと 何も 出来ないよね
時々 本当に
本当に たった一人
自分だけのために 生きたいと 心から思う
誰の声も 誰の姿も 誰の悲しみも 誰の苦しみも 見ないで
自分だけが 心安らかになりたいと
暴力的なほどに 思うの
相変わらず 小さなころのまま
あのとき 私が誰かの子供でいられたときが 終わった
急いで 大人になって いろんなものを
持たずに 大人になって
今 一人で大きくなったような顔で 生きてる
会いたいな おかあさん
私 今も おかあさんのこどもだよね?
2006年3月22日(木)AM:11:18に上げた記事です。
自分と母の親子間の状態が客観的にどうなのかは、わかりません。
誰と違っていても良いし、変だと言われてもおかしいと言われてもかまいません。
どんな風に見えても知ったことではありません。
ただ、私という人間にとって母は特別な存在で、特別強く求めているだけです。
それが愛情かどうかはどうでもいい。この気持ちに去来する思いだけが真実だ。
娘からどんな母親だと感じられても良い。私は娘の母親だ。
そして私はどんな娘であろうとも娘を大切に、そしていとおしく思いつづける。
ブログ頭
ども。またしてもちょっぴりご無沙汰しております。
年度末なせいもあり、芽吹く時期でもあり、ばたばたしてました。
日常生活でさほど重要というほどでもないけれど、はずせない用事などが山積みになり
ゆっくり一人でパソコンに向かう時間がないときは
ほとんどパソコンに触れないまま、何日も過ぎてしまいます。
いや、メールチェックはしてた(笑)忘れてた。
ブログに記事を書くときは、頭の柔軟体操をして、元になる思想をもんで
関連のある、現時点で事実と確認されていることを調べたり、そこから発生する思考との
繋がりを確認したり、書いて手直ししたりします。
調べものや、ある程度の方向性なんかは、普段もよくヒマを見つけてはいじくりまわしているので
いざ、記事を書く段階ではそれほどやることはありませんが
思ったことを、その思考のある程度の範囲まで収めようとすると文章を書くのに
小一時間かかります。
それ以外に、その思考について、書きたいか書きたくないか、
そして今、明文化したいのかしたくないのか。それは毎回考えます。
突き詰めて考えたいことは、1つではなく、常に複数あり
さらには根本部分で全てが繋がっているため、時折全てに思考を網羅させようとするあまり
情報や、自分の方向性などが、その時の精神状態によってこんがらがってしまう事もあります。
よくカオスってる、と言うのはそんな状態なのですが…
…という、長い前置きでしたが
こうしてばたばたとしているためのお休み期間は、そういうのとは違って
ただただ、用をこなしていくことに没頭します。
考えるのは、その時に必要な実務に即したことだけ。そして家庭のことだけです。
いかに負担なく、いつも通りに生活できるかを最優先事項として頭を使います。
こういう期間を過ごした後、自分の心の内部を思考するのはちょっと難しいです。
難しいというのか、切り替えが上手く出来ないのか。
こうしてキーボードを打ちながら、普段は色んなことを頭の中で、ある程度まとめてあるのですが
そういう時期の後、つまり今みたいなときは打ちながら考えているような感じです。
タイトルにはブログ頭、としましたが、日常生活における脳の使い方と
思考や思想の部分を明文化し、一定期間の間一つの定義として使用するための脳の使い方とは
全然違うのだな、と改めて思うわけであります。
特に、例えば子供の健康や、家庭単位での近未来のヴィジョンに暗雲的因子が
発生したりすると、とみにチェンジ機能が劣り、なかなかうまく切り替えられません。
いや、今は暗雲たちこめているわけではないのですが。
心配ごとがあると、そんなもんなのでしょうね。
今週からまた通常運営に戻すべく過ごせそうですが、祝日や週末がはさまると
なかなか難しいです。
なぜならば、休みの日は子供を中心に全てが動くため、母ちょっちぷんは
なかなか一人になれないのであります。
私は一人で過ごす時間を愛していますが、今は娘と過ごす時間も同じくらい愛しているのです。
もちろん、それは苦しい時間だったりもするのですが、そこを含めてなお愛すべき時間です。
だけど、ブログに綴られる、もう一人のちょっちぷんを育てるのも愛しているのです。
また、今日から楽しい時を過ごしたいと思う、ちょっちぷんであります。
春ですね。ちょっちぷんの頭も充分春です。花が咲いてきました。がくっ。
2006年3月20日(月)PM:8:01に上げた記事です。
今年に入ってから、あれこれと何かあるたびに休むようになりました。
段々と頭の中にある率直なまでの感想や疑問を口にすることの
危うさに付随する面倒さを真っ先に考えるようになったのか。
大げさな言い方だけれど、苦楽は表裏一体だなと思う今日この頃。
いやー、本当に暑いです。
春来たりなば
画像は、庭で日向ぼっこを楽しむ、夫と娘です(笑)どっちもオスだ、を含めて突っ込みは禁止します。
※画像は写すにあたり添付しませんでした
えーと、いろいろありまして、家にあまりいられませんで。
今週、早ければ木曜日、遅くても金曜には戻れそうです。
今日の晩と、明日はところどころ戻る予定なのですが、予定が立たず困ります。
ところで、本音と建前を「それが大人」とか「自分が我慢すれば回りは平和になる」とか言って
巧妙に使い分ける人の多くが「嘘つきは嫌い」と言うのは何故だろう。
湾曲表現と、反対の意味で使う建前は別のものだと思うんだけどな。
もともとはどちらも含むのかもしれないけど。ここにも思いやりと言う名の「アレ」がいる。
人が人を気にするのは何故なんだろう。
好意や、愛情の対価を求めてしまうのはわかる気がする。
だけど「それは違う」「私はこう思う」を声高に叫びたくなるのは何故なんだろう。
違いを知りたくなるのはわかる。だけど違いを排除したくなったり、憎くなったりするのは何故?
どうして人は人を見下したがるんだろう。
何故、上と下でないと立場が保てないんだろう。年功序列ってなんだ?
敬えない人格の年寄りを敬えって、どういう意味????
どうして私は、小さな子がギャルっぽい格好や、大人のミニチュア版みたいな格好をするのが
嫌いなんだろう。そしてママファッションてなんだ?
どうしてママがパンクスだと「変な人」扱いなんだろう。
サイドが編み上げのジーンズにチェックのフリルシャツを着て鋲打ちベルトに
ウェスタンハットを被り、派手なウェスタンブーツを履いても
親である資質には関係ないような気がする。不潔なのは嫌だけど。
そんな格好も好きなのに、子供がそれを着るのはあんまり素敵くない、と思うのは何故か。
注:私はパンクスではありませんが、そういう格好は大好きです。
ちなみにその後出てくる具体的なコーディネートは、以前私がしたことのあるカッコウです。
…あ、独り言です。
あんまり日があいてしまうと、書きたいと思っていたことを忘れ
書こうという意欲が湧くほど、世間に目を向けられていないのもあり、ぼーっとしてしまいます。
なので独り言として書いておきます。そのうちまた書くと思いますので
この上については本記事を書いたときにでもコメントください(笑)
当分は、こちら側の世界が落ち着かず、こんな感じのペースになりそうです。
冬の間、毎日暖かくなる日を考えて、楽しみにしていました。
一雨、一雨気温が上がって、いつの間にか春が来て、厚い上着を薄手の上着に替えて
穏やかな晴天の日は外で、少し埃っぽい春の匂いを嗅ぎ、目を細めよう。
漠然と想像しては楽しみにしていたけれど、なかなか「春!!!」とまでは
追いつかないような陽気で、くさくさです。
なんて言うほど春が好きなわけでもないのですが(笑)
段々と暖かくはなっているものの、暖かくなったと思ったら
思いもかけない用事が、次から次へと立て続けに発生して、最近胃が痛いです。
あんなにストレスのたまるお勤め状態を、何年も続けてきたのに
ほんの少し世間と離れ、自宅で家族とばかり過ごしていたら
あっと言う間に「対世間」用の防具と武器を無くしてしまったような感じです。
目はくもる、感は鈍る、物は知らない、知っていたものは忘れる。
もともとヌルく生きていくのが大好きなちょっちぷんは
ヌルくない日常や、ヌルくない自分を作り上げても、あっと言う間に忘れてしまうようです。
もう闘うのは嫌だなぁ。ヌルい、って変な言葉だなぁ。なんて言うか安い感じがする。
いっそ、2ちゃん用語かなんかのほうがまだ潔いような。むりぽ、とか可愛いから好きです。
最近2ちゃんを覗くひまもないので、新たな用語は全然知らなくてつまりません。
やっぱり…山にでもこもろうかしら。
2006年3月13日(月)PM:4:25に上げた記事です。
春はあけぼの…
春が近づいてくると心がざわめくようです。っていうか一年中ざわめいているとも言いますが。
のんびりのんびりやっていくぞ、と時々声に出して確認しながら今日も生きています。
春は来る
2006年3月7日(木)PM:3:37に上げた記事です。
試しに画像を付けてみました。夢の島植物園の入り口にあった花です。
とてもキレイでした。
もしも叶うなら
はっきり言って(まだ流行ってます)めちゃめちゃワクワクしました。
生きている間にもしも実現可能なら…。私だったら何だろう???
かなり真剣に考えちゃいました。ほぼ一日このネタで楽しめました。ありがとう、兄さん。
そんなちょっちぷんが「もしも叶うことなら」と考えていること。いくつかあります。
名前を直訳すると聖家族贖罪教会とか。
1882年にビリャール・イロザーノ(ガウディの先生だったような…)が設計をはじめ、
83年にガウディが引き継ぎ、1891年(92年ともある)から現在まで工事中であり、
完成までにあと100年から200年かかると言われているそうな。
足掛け3世紀?と初めて知ったときはびっくりしたけれど、このサグラダファミリアのすぐ近くにある
カテドラル教会は建立に400年以上かかっているとか。
ガウディが着工してから死ぬまでに目にした塔は18本のうちのたった1本、
現在は8本がほぼ完成しているそうです。
正面ドームが予定される場所には現在とてつもなく大きな石が無造作に鎮座ましましています。
聖堂の東側正面のみがガウディの手によって完成されたものです。
西側に位置する受難のファサードはガウディの構想、スケールとは全く違うものになっているとか。
ラテン十字型のバリシカ形式と呼ばれる形である。
中央の聖堂は、最も高さのあるドームを囲んで、それよりも少し低いドームが4本立つことになっていて
それらが5身廊となる。そしてそこから3方向に分かれる袖廊を介して東側に生誕のファサード
西側に受難のファサード、南側に栄光のファサードが出来、それぞれが双塔を計4本ずつ持つ。」
となっていました。そこで疑問が。
5身廊でしょ、で3方向に分かれる袖廊でしょ、その3方向にそれぞれ双塔を4本ずつでしょ?
計算したら17本しか塔ないじゃん。うーむ。どういうことだろう。
…どうも何か私が勘違いしているらしい。
見たいものです。
かといって、じゃあそれまで長生きさせてあげようと神様が言ったとしても、
今33歳であと200年生きたら233歳になってしまう。
そこまで生きた化石として生きるのは結構辛いものがあるような気がする…。
猫以上の大きさになると動物ですら牝はこの島に入れないそうな。
獣姦とかあるからなのでしょうね。ここの島のことを考えるたびに独善的なジェンダー論に
結果を求めてしまいそうになります。
なんと言っても女性として生まれたがために踏めない土地があるなんて納得し難いです。
宗教性を重んじればバチあたりなことを言っているのでしょうが。
とはいえ、乱暴なフェミニスト論を振りかざし、女人禁制を無くそう!!と言いたいわけではなし。
そういうのとは違うんだよなぁ。なんだろう…。
自分でも今ひとつよくわかっていないけれど、なんとなくロマンを求めているようにも思う。
入れないから入ってみたい。
ただし、それを持ち出してそのルールを覆せ、と言いたくはない。
…そう言えば、あったあった。女人禁制。
土俵。
でも土俵が禁制なのは「女性が不浄」という意味不明な理由があって、その不浄って言い草には
正直カチーンだし、じゃあおまえらどこから生まれてきたんだと問いたくもなります。
もともと宗教的な場の女人禁制って、女性は入っちゃだめー、じゃなくて
女性を見て色に溺れる未熟な修行僧に「女性を見なくて済む場所」を作ってやってるっていう
意味があるので、そういう背景をもっときちんと知らずに「むきーっ」となってはいけませんね。
でもアトス島には入ってみたい。願うくらいは、まあいいでしょう。我ながら可愛いもんだ。
あ、そうだ。思い出した。その昔マリア・カラスが絶頂期にアトスに入ったら
修行僧が大歓声で出迎えた、って話聞いたけど本当なのかしらん。
マリア・カラスだけずるーい!ちょっちぷんも迎えてくれろー!
アトス島は神秘性があるのでしょうね。
女には女の冒険心が渦巻いているのでしょう。ぐるぐる。
いつぞやは私も長い髪にスパイラルパーマをあてて、サイババ風のロングヘアだったこともあります。
相当自分では気にいって、鮮やかなオレンジ色のチュニックまで手に入れて皮の編み上げサンダルと
ロールアップジーンズで「プチサイババ」気分を味わったり。
サイババを知ったのは、多分そのころ。実際にテレビ出演もしていたような。
私の友人には旅行好き、というか失踪好き、というか放浪好きな人が多く、その8割が
最終的に行き着くのがインドな気がします。
インドにはミッシングパーソンの張り紙が、いたるところに貼り付けられているとか。
インドに自分探しに行って、帰ってこなくなっちゃうみたいです。
ほとんど考えたことがありません。そこに定義を見出すことには興味ないのです。
私は普段いわゆる超常現象については特に語りもしないし、それを信じる、信じないの
二分法では考えられない。
意識化にあるだけでも、ほんの少し自分の心の内側を探れば、信じる、信じない、
信じたい、信じたくない、わからない、考えたくないなど様々なものがあるからなのだけれど
サイババにまつわる逸話の数々を実際に目にしたこともなければ、直接サイババと何度も面識のある
人から聞いたこともない。
それと同じように会ったこともない人だけど、サイババは詐欺師でトリックスターだと言うひともいる。
サイババにまつわる逸話は荒唐無稽に聞こえるし、胡散臭く感じるのも事実。
あまりにもそれを「本当だよ」と口に出されるとうんざりもする。
否定する気にもなれない。
真偽のいくつかは口で説明することすら敵わないこともあると考えている。
世界には人間が計り知れないことが満ち満ちている。
さらにそう思っていながらも、サイババの言葉として知ったたくさんのことが
すっと体感できるわけでもない。
体感できないのだから、純粋にただそれらを「そういうものだ」とすることもできない。
そんな私が実際にサイババに出会ったとき、心の奥底で、無意識と意識の狭間で
意識と外界の狭間で何を感じるのか、私は知りたい。
私は知っているのか、信じているのか。
世の全てを、今まで得たものを「知っている」のか「信じている」のか。
全ては確率的事象で、確率的存在だ。
長い時を経て常識はしばしば覆る。
私はサイババのすることの真偽や、サイババの存在を確認したいわけではないのです。
もしも、どこかで何かに触れたとき「絶対的な何か」への邂逅があるのなら
それを望んでいるということです。
実際には1番、2番は実現不可能であろうと思いますが、何がどうなるかはわかりません。
特に2番目などはマリア・カラスは実現しているのだし(笑)
まあ、願うのは特に誰かに迷惑をかけるでなし、願うことにします。
3番目は、どんな場面であろうとも肉眼で存在を「見る」ことは望み、そして行動することで
向かっていけば叶うでしょうけれど、実際に目の前で触れて、話すことも含めて
望みが叶うとは限りません。
兄さんの記事の主旨と少し変って、物理的には叶わないであろうことをあげてみました。
物理的な欲を書くと欲張りだから書ききれないかもしれないと思ったもので…(笑)
行ってみたい、見てみたい、触れてみたい、やってみたいことは数知れず。
それを一つだけにするとしたら…。
今は日本でもダチョウのファームがあるそうなので、これはいつか実現できるような気もします。
楽しみっ。
2006年3月3日(金)PM:0:06に上げた記事です。
何だよ「プチサイババ」って(笑)
この時以来、スパイラルパーマはおろか、パーマ自体あてていません(あてて…笑)
子供がいると何かと時間をくうので、私的優先順位で行くと
自分の身なりにかける時間を削るのが1番負担がないので、簡単にどこへでも行けるような
アレンジの利く髪型は必須アイテムです。
なので最近はクセを活かして、たっっぷり梳いて、思い切りレイヤーを入れて
トップと1番長いところの差を結構出した髪形になっています。とても楽です。
クセが出ても良し、テンションをかけて真っ直ぐぽくしても良し、まとめてよし、帽子も良しのマルチヘアです。
自分の身なりを構うのも好きなので、時間のあるときには少し時間をかけて楽しんでいます。
