☆空飛ぶ もとちくれった 出張所☆ -11ページ目

個人、公人、所有欲

pinko姉の記事にトラックバックです。
おねいちゃんの記事はこちら です。
おねいちゃんは、可愛い双子のお子さんのママです。
そんな可愛い双子ちゃんをないがしろにし、ひいては家族計画にまで口を出されることの辛さを
書かれています。
男性には理解しにくく、そして妊娠した経験のないかたにもちょっとわかりづらいかもしれませんが
そういったことに介入されることは、とても辛いことでもあるのです。
まったく同じように感じたこと、私にもあります。
少し時期の違いや形の違いもありますが、お許しください。


妊娠する、というのはかなり辛く感じる人も多いです。
と、いうのもホルモンのバランスがめちゃくちゃになり、
ずーっとエンジンがかかりっぱなしの車のようなので精神的に不安定になることが多いからです。
妊娠期に揃っていたら、安定が図れるのは、子供の父親となる人の自分への愛情と
金銭、自分と夫以外の人の過干渉がない環境、そしてホルモンバランスでしょうか。
これは大きな要因です。
妊婦時期にイヤだと思ったことを箇条書きにしてみます。

・食事内容、ライフスタイルもろくに知らないのに妊娠したというだけで
 食事の内容に口を出され、体重の増減に口を出される  
・まだ産まれてもいない、夫婦の身上を知っているわけでもないのに次の子供の話をされる
・個体によってまるで違う妊娠期の身体を全て知り尽くしているのでしょうか
 妊娠は病気じゃないのよ、とムリさせられる
・赤ちゃんのため、と妊婦の人格を無視される
・あなた一人の身体じゃないのよ、と説教される
・赤ん坊がどれだけ可愛いか、子が産まれたらどうすべきか、とうとうと語られる
・妊娠とは、出産とはこういうもの、と決め付けられる

こんなかんじでしょうか。これらは通常の状態でもあまりいわれて気分の良いものではないです。
妊娠中、ホルモンバランスが大きく崩れるタイプの人は辛さが増幅されます。
感情のふり幅が大きくなり、末端部分ではものすごい大事になっています。
私は妊娠すること、出産することをことさらすごいことだとは思いません。
極めて個人的なことですから、その神秘さも特別さも感動も、個人的なものです。
かなり個体差が出ると思うので、まったくこういうことを感じなかった、
という人もいるかもしれません。それはそれで個人的なことです。

だからみんながそうだとは言えないけれど、とても辛い期間を送る人もまたいる、ということです。
妊娠を望んだのは自分なのだから、生むことを選んだのは自分なのだから、とも思いますし
事実ではありますが、目の前に同じことを望み、同じ決断をくだしたにも関わらず、
妊娠期間をもたない存在の人間がいます。
その人と暮らしているので、頭ではわかっていても気持ちが追いつかなくなることもあります。
そこに加えてホルモンバランスです。
その楽しているように見えるパートナーの家族にこれらのことをされ、
その上そのパートナーまでもがそれを肯定するようなことは、よくあります。
そういうことを「大人」だからと思い込ませ、我慢します。
それは、うつぶせになれず、動きたいように動けず、足の爪も上手く切れず、
食べたいものは食べられず、十月十日続きます。ちゃくちゃくと積み重ねられてゆきます。
そこへ出産です。

初めてでも初めてじゃなくても、出産はやっぱり大仕事だと思います。
大の大人が、時には何ヶ月も元の通りに動けるわけではないのです。
一見、元に戻ったかのように見える人もいるし、若く体力が多少削がれても影響のない人もいますが
体力的な問題だけではなく、生理のこと、母乳のこと、ホルモンバランスのこと
これらが総合的に元へ戻ろうとするパワーは身体に大きな影響を与えます。
よく言われる「マタニティブルー」これ、妊娠期間に使われる言葉ではないのです。
出産後の状態なのです。産後鬱に目をそむけなければならない環境ではそれが増幅され
結果長い間引き摺ることも多いそうです。

出産後の私はまるで獣のようでした。
そんな獣のちょっちぷんがいやだったこと、出産後編も箇条書きにしてみます。

・子供に勝手に触れられる
   妊娠中はあなた一人の身体じゃない、と言いながら生まれたらオモチャ扱い。
   ほとんどのウィルスは手から移ること知らないのかな。
・チュウまでしようとする
   アナタは誰にでも断りなくチュウするんですか?と聞きたい。
・ミルク?母乳?と聞かれる
   人の子供を育てているわけでもないのに、何故これを聞くのでしょう。
   それがどんなにプレッシャーになっているか、説明出来ないのが悔しいです。
・風邪ひかせないで、と言われる
   好きこのんで風邪をひかせるバカはそうそういないし、私がそんなバカだと言っているのか。
・勝手に何か食べさせ(飲ませ)ようとする
   そして大抵「死にゃしないって」って言うんです。死ななくてもものには順序があるだろう。
   人間はみんながみんな同じじゃありません。
・趣味を押し付ける
   何故か人の家を自分の好みで統一しようとしたり。
   いわゆるキャラクターグッズいっぱいみたいな。もしもーし、ここは私の家ですよー。
・しつけに口出しされる
   この子のしつけが悪いとアナタが責任取るんですか?
   アナタの子供はそんなにしつけがいいんですか?
   アナタのしつけはどうなんでしょう?と30分くらい畳み掛けたい。
・成長過程に口出しする
   成長には個体差があります。みんなが全く同じ顔じゃないように過程も人それぞれです。
・母親をないがしろにする
   母親になんでも確認することくらい簡単でしょう。なんで育児が全ての家庭で同じだと
   思い込めるのか、本当に不思議。
   
私の妹の話ですが、親戚のオバチャンに愛息子を抱かれ、冗談とはいえ
「スイカ食うか?」とか言って口にスイカ当てられてブチ切れでした。
O-157とか知らないのかな。あげくオジサンはビールのグラスを口に当てて
「まあ飲めよ」と言ったそうな…。
いいからお前が飲んどけ!っていうか、なんて言うか。
出産後1年くらい冗談きかない人多いと思うけどな。しかもなんていうか嫌な冗談だよなぁ。
歩けない人に、じゃあ走れば(笑)、って言って、冗談だよ冗談(笑)っていうのと同じだと思うんだけど。

それ以外にもたくさんあります。
なんて言うのかな、子供って親、祖父母、先祖がいてこそのものだけど
子供を産むというリスクも決定も、夫婦で選んで、そしてその責を追うものですよね。
責を追うのは共に暮らし、育てている身内。
親がいれば親だし、時に祖父母だったり、色々な形があるとは思うけど
なんで子供が生まれたってだけで、共に暮らしてもいない人間が
生活に介入できると思い込んじゃうのかわかりません。

ちょっと清潔、清潔、と言うと「神経質ねぇ」とか。
神経質に育てると可哀相とか。
うちはそんなことしなくても全員立派に健康に育ったとか。
そう言われると意地悪心がむくむく頭をもたげて
あんたんちの子供はみんな無神経で健康かもしれないけど不潔だよね。と言いたくなる。
だってキッチンのシンクかびだらけだし、コップ全部曇ってるし、ネズミいるしさ。
お布団出したらネズミの糞が転がってるってどうなのかな。
それなのに、ぷんさんは始末しなよ、とか言うんだよ。不潔だから。
おい、待て。ウチの猫は完全室内飼いで、めちゃくちゃ清潔だぞ。
あんたんちドブネズミいるじゃんか。それはいいのに、何故猫がダメなんだ。
しかも、言うに事欠いて始末って、ほんとに。ぶっとばすぞ。
…はっ、すみません、取り乱しました。

遊び方や部屋での過ごし方も、危険を避けようと最大限にすると
子供は怪我して大きくなるとか、そこまでしなくても死ぬことないとか
子供は多少のとこから落ちても怪我しないとか。
なんていうかそれはラッキーなだけなのでは?といいたくなることを言われたり。
よく死にゃしない、とか言うけど絶対に絶対に死なないのか?
死んだら生き返らせてくれるのか?と言いたくなります。

人は何で死ぬかわからんつーの。
それで死なない人が何人かいたからって、その子も大丈夫だとは限らないのにね。
生死にかかわらなくたって、吐いただけでもイヤなのに。
昔の育児方法押し付ける人も多かったです。
育児は日進月歩で変わっていると聞きます。
昨日は正しかったことが今日は間違ってる、ということ育児以外にもたくさんあるのに
なんで育児だけは別!とか思うのかな。
10人子供育てたベテラン、って母としてはベテランだけど臨床数には足らないから
その道の権威みたいになんでも決め付けないでくれ!!

私にとって、とにかく言語道断なのはチュウ。
これはね~、もう本っ当にイヤ。絶対にイヤ。
ミュータンス菌だけじゃない、大人の口には常駐菌てのがあって
その常駐菌の数が決まってない子供の口にわざわざ菌を入れるようなまねしないで欲しい。
愛情表現したいなら他にもたーくさん方法あるから、そっちでしてくれ!
赤ん坊だからって、なんで無許可でチュウするんだよ。
赤ん坊にだって人権あるぞ!
この世でたった一人、この子のためだけの痛みに耐えたんだ、ある意味この子は私でもあるんだ。
私に黙ってチュウできる存在ならいざ知らず、もう…もう…気持ち悪いんだよ~~~!!

ふがふが。また取り乱してしまった…。ごめんなさい。
まあ、よく取り乱していますが、この話題には敏感になってしまいます。
なんかこういうこと書いてあるの見ると、「子供産んだからって急に何言ってんの。ふん」とか
「女ってすぐこういうこと言うよな」とか思う人、多いだろうなぁ。
でもさ、多分どこのママンも、あれこれ口出しされなければ
平和で、そして静かに子育て頑張ると思う。
獣状態な時にガサガサガサガサ周りで音させるからライオンに襲われる、みたいな感じだと思う。

ふう、もう終わり。
考えてたらイライラしてきた(笑)がうがうっ!!!
あ、この話題まだ続きます。





2006年2月3日(金)AM:10:01に上げた記事です。

すごく久しぶりの更新な気がしますが、日数でいうとそれほどでもないですね。
一時はこのままブログと、ネットライフと、さようならかと思いましたが、奇跡的に復活できました。
これもひとえに頑健なこのPCくんのおかげです。ありがとうPCくん。

久しぶりの更新の最初は妊娠出産系記事でした。
妊婦も産婦も人それぞれ違うのですが、わりと多くの妊婦・産婦さんたちが同じことを嫌だと感じるようです。
大きく言えば似た感覚は大なり小なり持っているけれど、
細かく状況や体質を考えればそれぞれ違うという感じでしょうか。
とにかく思い出すと、そのころの私は不幸でした。今の私から見ると。
自分の心にとらわれて、とても苦しかったし、異常でした。今の私から見ると。
娘は私が、私の身体の中で育て、私の血と肉をわけて、
私だけが物理的に痛い苦しい思いをして生み出したけれど
私一人がこの世のいたから生まれたわけではなく、夫や夫の両親、そのまた両親たちがいて生まれました。
分身のような気持ちを今も持っていますが、分身ではないとも知っています。
娘は娘であり、一人の人間です。それでも生んでしばらく、
私は娘を誰にも触れさせたくなかった。エゴイスティックですね。
出来る限りたくさんの人に愛され、慈しまれて欲しいと願う反面、触らせたくない。その葛藤に苦しみました。
今は少しずつ私もまた成長しています。ゆっくりと。

落ちるように眠る

ここ2日ほど、昼間の間にヒマをみつけてはシャカシャカ記事を書き
夜になったらあげようかな、なんて考えていたのですが
夜PCを立ち上げることもないままに、娘を寝かしつけながら自分も寝かしつけてしまっていました。
もうね、娘より先に寝ている始末です。
…はっ!もしや私が娘に寝かしつけられているのか(笑)
はっきり言って(まだまだ大流行中)ぐっすりです。

しかし睡眠が上手くとれない変なクセのある私は
何日か続けて朝方起こされたり、夜中に何時間も娘が寝てくれなかったりすると
その後、結構長い期間ある一定の時間しか眠れなくなってしまいます。
それが7時間だと、さほど問題なく過ぎるのですが、4時間になるとダメです。
1週間くらいで段々思考能力が低下し、本当に最優先事項のことしか出来なくなってきます。
そんなわけでここ2日、そういう一定の時間しか眠れない病です。
がたっと寝るわりに真夜中、娘に起こされてそのまま朝を迎えています。

すでに午前中に眠くてたまらなくなって、PCを立ち上げても
ブログ画面を眺めた状態のまま記憶がとぎれます。
熱いコーヒーを飲んで眠気を覚まそうとするのですが
しまいには文字が躍り始め、アバターのゴスロリさんが飛び出してきます。
そのあたりでブログはあきらめて、身体を動かす家事に切り替えます。
家事は大抵のことは午前中に終わってしまうのですが
最近そんな状態なので小分けにしています(笑)

今日は朝、早くから起きていますが、その後少し仮眠出来たので比較的元気です。
ただ、月曜に娘と二人で繁華街へ買い物に行ったのが祟って右半身がおかしいです。
特に首筋。胸筋から右手首にかけて繋がる筋が寝違えたように痛い…。ひー!
その上何故か、突然プールで激しく泳いだ後のように肺が痛い…。
なんなの?体力がおそろしいほど落ちているようで怖いです。
私は40過ぎから本格的にトライアスロンをやりたいので、今はわりと大事なときなのですが
一向に出産以降立ち直れません。どうすんだ。

総合はある意味、体力をあまり使わずいなしてやり過ごすスタイルが可能です。
相手のミスを待つというか、誘うというか。
だからそれほどキツい体力作りをしなくてもそれなりに出来ちゃうんですよね。
ただし、身体作りが基本的に出来ていないと怪我はめちゃくちゃ増えますが。
故障箇所が多くて、よく怪我する選手は短命です。
怪我でタイムロスが増えますしね。

ってそんなことはどうでもいいんだった。
20代の後半から30代前半は、本格的なスポーツは無理だろうなと考え
30代後半からでも出来る、少しキツいスポーツということでマラソンを選んだのですが
もうちょっと負荷をつけてトライアスロンでもいけるはず、と思ったのですが
こんなんじゃマラソンも相当キツいような…。
だめだめ!そんなこと考えない。出来ることを出来る限りやればそれでよし。
とりあえず今は睡眠不足解消と基礎トレで身体を作ろう…。
腹筋が落ちてるから腰痛がひどいし、後で夫にメニュー組んでもらおう。

そんなかんじで、2、3日中に記事をまとめてあげようと思っていますが
テーマは結婚、妊娠、出産、育児、です。
いつもにもまして鬱陶しいほどに長くなる予感がひしひしとします。
適当に飛ばして、丁度いい長さの記事を待ってもらうのも一つの手であります(笑)
今のところ3部か4部にわけてあげる予定ですが
迷惑ながら長さを増やし2部で終わらせることも考えています。
今のうち謝っておこう、長くてすみません。ごめんなさい。





2006年2月1日(水)PM1:46に上げた記事です。

はー、やっとウザいループから抜けたな(笑)良かったよかった。
最近、娘が比較的夜中寝てくれるので私の睡眠サイクルも整いつつあります。
やっと、整ってきたなと思ったらおたふく疑惑なわけですが。
今日はさらに腫れてる気がする。熱が高くてドキドキです。寝ていて寝息が落ち着いていると安心です。
つーか、孫くんに移ったかもしれません。
昨晩、夜中に突然「頭が痛い」と言い出し、その後嘔吐が。ひぃ!!
孫くんが倒れたらウチは崩壊する~~!という怯えを私から嗅ぎ取ったのか
孫くんは吐きまくった後、がぶがぶと水分を取り、無理やり何か食べて首にタオルを巻き
毛布に包まって、汗を出す作戦を開始。何度も夜中に着替えて汗を出し切り、見事復活。
孫くんてホントすごい。強靭な体力だ。
ていうか、おたふくが移ったというか夏風邪だよね。多分。

鬱と比較とシンパシー

鬱、という名を冠して語るには私はこの名、そしてその状態を憎みすぎている気がする。
違う、それにはたくさんの要素が複雑に絡まり、それは誰しも簡単にほどけはしないのだ、
とも思っているけれど、どうにもこうにも「私は弱い」と
そしてそれを克服しない、と決めてしまうように感じてならない。
それは鬱の人をそう思っているのではないのです。

人がそれぞれ顔も体も何もかも違うように、仮に鬱という状態があるとしても
それも全ては違うもので、私の持ったその状態と誰かの持ったその状態は似て非なるものでしかない。
私の鬱は、私の弱い心のせいだとしか、まだ認識できない、ただそれだけのことなのです。
心優しい人、私を好いてくれる人が「そうではないよ」と言ってくれたとしても
私にはそうとしか感じられない。
まだまだ、もっともっと自分の中では死ぬほどの頑張りは持ったことがない、と思っているから。
どこまで頑張れるのかはわからないし、それがいいことだとも思えない。
そしてそれが意味あることだとも思えない。
だけどやったことがなく、それがその鬱である状態に深く関わっているように感じている以上
やってもいないことを否定も出来ない。
否定したいから頑張ろうとしているのかもしれません。

今の私は鬱、という状態ではないといえると思います。
毎日の生活に困難をきたしているわけでもなく、むしろ幸せだと感じています。
それでも私は、私の中に巣食う、その黒いタールのようなべとつき
固まりかけている闇を持っています。
それを拭うことはきっと出来ない。なくすことは出来ない。

アレルギーと同じ、心地よいと思える状態を保つ
状態を悪化させないようにコントロールする術を知る、それしかないようにも思っています。
それさえ出来るなら、そんなものはあってもなくても構わないと、私は思っています。
その一端として私は内省しつづける。
それを棚卸、と呼ぶこともあり、傷をえぐると呼ぶこともあり、内省と呼ぶこともある。

内省なんて言えば程よくキレイに、そして折り合いをつけ、選んでそれをしたり
やめたり出来るように聞こえるけれど、多分それは襲い掛かってくるようなもので
好むと好まざるとに関わらず、やってきて私を打ちのめすこともあります。
いつかpinko姉が言っていた「傷口を触って余計に悪化させちゃうようにも思えるね」
という言葉、本当にその通りで、事実そういう側面は含まれています。

怖いときもある、それがものすごく痛みを伴い、それでもそのタールの淵へと誘うのです。
でもそれがどうしても必要なのではないかと思っているのもまた事実。
その淵へ行き、そのタールを見て、触れて、匂いを嗅ぐことでそれを浄化できるのでないか、
その行為そのものが浄化の役には立たなくても
それが浄化のための何かを生み出すのではないか、そう思っているのです。
それは本当にそうなのかはわからないし、いろいろな見方が出来る。
でも誰にも否定させない。
つまるところそれは私の淵であって、誰かの淵ではないのだから。
やると決めるのは自分で、やって困るのも自分、ならば好きなときにそれをして、好きなときに沈没する。

私は基本的に自己否定をもとにものを考えます。何事もすべてまずは、自分が悪い「かも」しれない。
すべての信条を疑ります。全てが間違っているのではないかというところから始めます。
そう思う理由、そうは思えない理由を一つ一つ、ためつ眇めつして検証します。
その作業にはとてつもない痛みが伴うこともある。
でもそれが他者へ向けられたときにも、ナイフになりうることは認識できる。
自分に向けたとき痛いものは他者に向けても痛いかもしれない。
それを感じることで私は他者を知らず知らずに傷つけるのを避けたいと思っています。
傷つける可能性があるとわかったうえで物は言いたい。
それでも傷つけ、その上それに気付かずのうのうと生きてしまっているけれど。

鬱の状態を経験した人が、必ずしも世間的な平均、または自分よりも幸せそうに見える人と比較して
その状態を持っているとは限らない。心に抱える痛みや暗闇は比較対象の問題ではない。
だから鬱の人に対する禁句として「あなただけじゃないのよ」「頑張れ」という言葉がタブーなのだと
私は思っている。
例え誰かが自分よりも不幸で、自分よりも大きな問題を抱え、自分よりも重度の鬱だとしても、
それが慰めになることはない。
そしてそれが励みになることもないのだと思う。
痛みは自分だけのもので、それと向き合うのも自分なのだ。

鬱は、問題があってなるものじゃない。
問題はキッカケにすぎず、鬱を引き出す原因の中に溶け込んでいるだけだ。
溶け込んでしまうから、まずその問題を取り除く、そして休む。
力を蓄えて鬱の元になる「何か」をコントロールする。
アレルギーと同じだと私は思っている。
鬱は遺伝する、と言われるのは一説によると「脳内物質」の分泌バランスが悪いというのがあるらしい。
セロトニンだったかな、それに麻薬物質、そういうものの分泌が悪いのは明らかに遺伝であるという説。
気質や性格的なものは環境が大きく関わるかもしれないけれど
病の分野はそれが大きいとすら言えないのではないかと私は思っている。

脳生理学を専門に学んだわけではないので
浅薄な知識しかないが心の病は脳と密接なかかわりがあると私は感じる。
だからといって、それが何かの助けになるほどの臨床経験があるわけでも、
専門知識があるわけでもない。それは専門家の門を叩きたい。
何故その知識を得たいと思ったかといえば、ただ選ぶ基準の一つでしかない。
私は必要な情報と知識は自分で探し、自分で選びたい。これとこれが必要だから
これとこれをどうぞ、という形で得るのは私は好きではないのだ。

ものには進み方があって、例えばスタートが1ゴールが10として10段階の手順しかないとしても、1,2,3と順当に進んでいくとは限らない。
1,9,5と進む人もいる。1と4と9を経た人に1と2と3を経た人が
「何故あなたは2と3を試さないのですか」などとどうして言えよう。
そしてそれがどこを経て、どこを経てないかなど本人にだってわからないのだろう。
それを探しているのだろう。それを知ろうとしているのだろう。
例えば「あなたはどんな風だったの?」と聞かれて「こんなだったよ」と見せる。
それを参考にすることも確かにある。
だけど「こうだった、とても効果があった、あなたもしなさい」とどうして言えよう。
それがどんなに痛みを伴うか、たった自分ひとりが経験したことが万人に効果があると、
どうして言えようか。
「こうだった、とても効果があった」それだけでいいではないかと思う。
チョイスする自由は奪いたくない。

髪がくりんくりんの人が努力すればストレートになるとは言えない。
ストレートの人がどりょくすればくりんくりんになるとは言えない。
心だってそうじゃないのか。
人にはそれぞれの限界がある。そういうと努力もしないで、という人は必ず現われる。
しかし、その努力に向き合う準備、そして計画、飛び込む勇気、それに付随する毎日の出来事、それらはみな違っていて、そしてその苦しみの形、
そして濃度もまた髪と同じくまったく別のもので他者が努力でどうこうなどとどうしてわかるのか。
走っても走ってもどんなにどんなに努力しても私はジョーダンにはなれない。

努力もしていないのに何故そんなことがわかるのか、と聞かれたなら答えよう。
身体が違う、バネが違う、性別が違う。そこからして大きな隔たりがある。
それを克服してこその努力だと言うむきもあるが、私にはそれは判断能力の欠如に見える。
それでも諦めきれず、無駄だと知りつつ努力をする人を素晴らしいと言う人もいるが、
私にはその人は自分の欲望に貪欲に見える。
好きだから諦めきれないのであって、いやいややっているわけではないと思う。
一流と呼ばれる人で「好きじゃないけど仕方なくずっとやらされて自分はここまできました」
という人は見たことがないし、いたとしても好きのかわりのメリットがまったくないとは思えない。
そのメリットがその人の人生では高いプライオリティを保っていただけのように思う。

走っても走っても、どんなにどんなに努力しても私はジョーダンにはなれない。
そんなこと当たり前だという人がなぜ心のこと、日常のこととなると
まるですぐにでも出来るかのように、やりなさい、と言うのだろう。
例え目の前で手を伸ばせば届くところにある電話が鳴っていても
届かぬ事情というものがないとは誰にもわからない。
それを言ってくれないとわからない、と何故簡単にいえるのか。
言わねばならぬことなのか。

それを言わないことがなぜ「人に甘える」こととイコールなのか、
今その人は手の届かぬ事情を考慮して、自分なりのやり方で手を伸ばす方法を考えているかもしれない。
泣き言に聞こえる「届かないよ!」という声に、ある一定のやり方を押し付けてまで答える必要はない。
泣き言に聞こえるその声は「やってやる!」という雄たけびなのかもしれない。
それを知ろうとしないのは何故か。

届かないの?届くといいね。何故届かないのかな?なるほど、どうしたら届くだろう。
自分がそうだったらどうやって手を伸ばすだろう。そのとき自分はどんな風に感じるだろう。
それをふいに通りかかった人が「こうすればとれるじゃない」と
出来ない自分に言ったらどんな気持ちになるだろう。
出来ないという事とどうやって向き合おうか。

考えることなど数限りなくある。
それを一定の条件にのみ則った形で解決することがそれほど正しく素敵なことだと私は思わない。
それが、それだけが正しく、それだけがある一定の人にのみ素敵なことだからといって
それに従って、迎合して生きることは人には課せられていない。




2006年1月30日(月)PM:4:07に上げた記事です。

出来れば、この鬱気質にも自分の力で打ち勝ちたいのです。
自分以外の鬱である人、そうではない人がどんな風に感じ、どんな評価軸を持っているかは別のことです。
この日はまとめて記事を放出したんだな。大量です。しかも軽く病んでいる感がにじみ出ています。
何か悩んでいたのでしょう。悩んでいたというか、深く考えてぐるぐるしていたのでしょう。

しつけってなぁに?

しつけ、という言葉には何だか押し付けのイメージがあります。
確かなものなど何一つない、と考えている(今現在は)私がしつけ、
と言って自分が正しいと思っていることを教えていいものかとても深く悩みます。
以前も書きましたが私は啓蒙的なことを書くのは好みません。
そして善悪も問いたくありませんし、その判断もここでは表明は出来るだけしないようにしています。
それを前提として読んでいただければとても嬉しいです。
ここに書くことは私が個人的に好んだり嫌ったり、そして個人的に仮の定義として
自分に課しているだけで、それが必要かどうかすらわかりません。

chargeupさんは記事中で食の好き嫌いを無くすように指導することが
何のために必要なのか、考えていらっしゃいます。
私は好き嫌いはさほどなかったのですが、小さい頃から小さく、標準以下のサイズの子供で、
更に食も細く、食べるのも遅かったです。
小学校のころの担任は「残してはいけない」を徹底している人で、
私は毎日みんなが掃除をはじめ、机を寄せ初めても食べ終われず、
おなかいっぱいで苦しくて食べきれない給食を前に置き、
ホコリにまみれて半べそをかきながら食べようとしてはえずいていました。
それは担任が代わるまでの2年間毎日続き、毎日連絡帳に「今日も給食が食べられませんでした。」
と書かれていることに不安を感じた母が、家でも残さず食べさせないといけないのかと考え、
家でも拷問のような食事が始まる寸前でした。
涙ながらに「私はみんなより小さいからみんなと同じには食べられない」と訴える私に、
母も冷静さを取り戻し、どんな風に迷い、考え、決断したかは知る由もないのですが、
食べる量は家では変りませんでした。

今私は新米ですが、一児の母となり、その時の母の気持ちを考えます。
「大事な時期だから」「必要になる」「きちんと育てるために」
たくさんの「絶対」のない、でも「足並みを揃えるため」のあれこれが目の前に立ちはだかります。
そのうえ本当に足並みを揃えることが良いのか悪いのかもわからない。
そしてそれは必要な場面は絶対にくることだけはわかる。
しかしそれが本当に子供のためなのか、子供は幸せなのか、迷いに迷います。

それらが必要になる場面では、本当に必要なのかにも疑問を抱きます。
特に給食を残さない、というルールには大変疑問があります。
小学生は特に体の大きさに差があるでしょうし、人には人それぞれの許容量があります。
小学4年生にして、身長170cm、体重55kgあり、卒業後相撲部屋からスカウトが来るほどだった
松澤くん(仮名)と、小学4年生にして、身長124cm、体重21kgの私が同じ量の給食が1番よいと
何故言い切ることが出来るのか。
松澤くんには足りず、私には多すぎる給食の量は誰が決めたのか。
決められたカロリーをきっちり食べることで身長や体重、健康さが横並びになるという発想なのか。

私の娘は成長が人より随分遅い面があります。
遅れているので周囲は心配し、何かしら手を打て、と促します。
私は迷います。本当に必要なのか。
この子にとって足並みを揃えるための訓練を、人に合わせることだけを目的として、
手をぐいぐいひっぱるような指導は必要なのか。
それでこの子が大きくなったときに喜ぶだろうか。
その答えは多分出ないし、どんな答えだとしてもきっと何かしらの不満や辛さは
与えてしまうのだろうと思うのです。
思うけれど、だからと言ってなりゆきに任せて「仕方ない」とは言いたくない。
だから考えます。

好き嫌いの多い偏食の子供でもいい、と私の本能は言います。
だけど偏食のまま本当にそれでよかったのだ。とも言えない以上私は考えたい。
それでも矯正しよう、とは思えません。絶対に必要なことだと思えないからです。
甘いものしか一切食べない、ある定義のものしか食べないとなれば話しはまた別ですが。

そして、こういうことを迷いながら私は思うのです。
親として自信がなく、絶対に正しいと言えない以上、どこかで自分なりの正しさ、指標を
子供に与えられるようでなければ、親として大事な部分が欠けるのではないかと。
つまり、間違っていようとも「うちではそういうルールなのよ」と決めてあげるのも
親の責任の一つなのかな、と思う迷いもあるということです。
迷ってばかりのこんな親でごめんよ、娘。でもかあちゃん頑張るから、嫌いにならないでね。


2006年1月30日(月)PM:4:06に上げた記事です。

今ひとつ詰めが甘く、まとまりがないですがこれもまた自分の問題ですね。
というかスタンスとして「集」の最大公約数的な側面を追っているのではなく
これもまた「個」の美意識の問題かもしれません。
こういう「個」の精神性を追い求めている部分を表明するのは日本では悪しきこととして
排除されるであろう側面があります。
なにしろ「共通項」を持つことでコミュニティを形成する文化が根強いので。
そのくせ「個性」をとか声高に言っちゃってどうするのでしょう。
個性を発揮しすぎれば黄色い救急車を呼ばれるか、村八分なのに。

墓の必要性

お墓って何のために必要なんでしょうね…。
そりゃ、現代で火葬した故人を埋葬しておける場所がある人ばかりではないし、
必要なこともあるのでしょう。

私は出来ることなら超高温の火で骨すら残らないほど焼いてもらうか
自分の地所があれば適当に穴を掘って埋めてもらえればいいなと思います。
仮に後々その土地が開発され、発掘に当たる人が不快にならないように
粉にしてまいてもらってもいいです。
墓参りなどしなくていいし、お経も結構。ただ時々思い出して欲しいです。

母を早くに亡くした私は、未だに母が恋しいです。
多分大人になった私と母は性格的には反りが合わず、きっと生きていたら不満たらたらで
しょっちゅうケンカしたのではないかと思います。特に育児で。
それでも母がいたらな、と思わない日はありません。

そんな母は4人姉妹の3番目です。父は3人兄姉の末っ子。
ことの発端がどんなだったかすら私は知らないのですが、母方のお墓に父の苗字も刻まれています。
つまり、ムコ養子ではないけれど、父は母方の墓に入るということになります。
となると墓守ってのが義務づけられるんですね。

そういうのって普通に生きてて普通に30代になったら知ってるものなんですかね?
親がまだ健在でも。
うちは母はもういません。父は少し前から心を閉ざしています。
ある一定の期間より前のことは一切封じられ、覚えていないことになっているようです。
以前少し触れたことがあるのですが、私の両親はほぼ駆け落ち同然で結婚しています。
家の格が合わないとかなんだとかで、両家は大変に仲が悪いです。
親戚との付き合いはほぼ皆無に等しく、母の母、祖母だけが私をそこに繋ぐ一糸のものでした。

母は突然いなくなったので、私は昔のことを詳しくは知りません。
父は昔のことを語りません。
祖母から断片的に聞いたことだけで、あれこれ推測はしますが事実は知らないことも多いです。
その祖母が昨年亡くなった際のことですが、祖母は密葬を望んでいたとかで
その子供である母の姉妹と配偶者だけが集まって様々な手配をすることになったそうです。
私は母の代わりにと呼ばれ、そこへ出席しました。
その時に言われたことです。
お墓をどうするの?と言われきょとんとする私に叔母たちが口々に言います。

「30代にもなって墓守のことも知らないなんて常識がない」
「もうちょっと先祖を敬うべき」
「墓は誰かが守らなければならない」
「責任を果たせ」

なんて言うか、我が耳を疑ったというか、控えめに言っても呆然としました。
お墓ってね…こうして守られてきているのよ。
これから先どうするか考えてみてね。
何故そんな言葉すら出てこないのか理解に苦しみます。
あなた方はそれが出来ないと放棄したんじゃないのか。
受け継いだ母が突然死んだとき長女の私は高校生です。
高校生にいつ死ぬかわからないからと墓守についてまで話をしておくのが普通なの?
墓を守ることは守るべきときが来るとわかっているなら、何故それを教えることすらしないの?
それすらしないのに何故人を責めることからでないと始まらないの?
そして何故あなた方の子供たちにはその責がないの????
そして何故墓守のことを知らずに楽しく生きているの??

私はこういう「ファミリーエゴ」的考え方は大嫌いです。反吐が出そうです。
久しぶりに私は人に罵声を浴びせ、必殺技の無意識層糾弾と理屈質問攻めを繰り出しました。
そうして言われたのが

「あなたのためを思って言ったのよ」
「思いやりがわからないの?」
「おばあちゃんのお葬式にそんなこと言うなんておばあちゃん可哀相」

もう本当に、その場に機関銃があったら乱射してたと思います。
その一瞬私は親でもなければ、誰かの妻でもなかったです。
高校生で昨日母を亡くした子供でした。

母の死んだときの記憶が私にはありません。ほとんど何も思い出せないのです。
おぼろげに意識のない母がいるICUの部屋とお医者様の言葉、待合室の重い空気。
誰もいない部屋で寝ようとしたこと。
哀しくてたまらないのにおなかが減る自分を哀しく思ったこと。
従姉妹たちと、子供だけで食事に出かけたこと。
生まれて初めて父の涙を見たこと。
猫と猫のママが来てくれたこと。
火葬場でもう2度と母に寄り添えないのだと痛感した無念さ。

本当にそれしか覚えていません。多分強烈に思い出したくないのでしょう。
現に意識の上でも思い出したくはありません。
無意識層でも思い出したくなさにブロックがかかっているのだと思いますが
あの時私は母が死んだと告げられた、まさにその時の気持ちでした。
何故なのかはわからないけれど、抑えることが出来ませんでした。

あまりの激怒ぶりに恐れをなしたのか、叔母たちは懐柔作戦に切り替えたようです。
墓をもてなかった長姉が今後墓を守りたいが、墓石の書換えにかなりの大金が必要なこと。
私の嫁ぎ先が地主で土地に墓を建てられること。
要は黙って母のお骨を持って新しく夫の実家の地所に墓建てろ、とそういう話しでした。
なんでそんな話しから、私が母を忘れてるとか、弔う意識が足りないとか
生んでもらって感謝していないとかって話しになるのかさっぱり意味がわかりません。
まあ罪悪感を植え付けるのは人をコントロールするのに1番手っ取り早いですけどね。

墓や、先祖を奉ること、時期にはお経をあげてもらい弔うこと、それを守っていくこと。
それが大事なことなのはわかります。
だけど。それは墓石が大事なんでもなければお骨が大事なんじゃない。
気持ちなんじゃないのか、と私は思う。
言ってしまえば、信仰してもいない坊さんの上げるお経って何の意味があるのか。
自然に還ることもない骨壷ってなんなのか。
いつまでも手元にお骨があるのはおかしいとか、犬猫と一緒にお墓に入るなんてありえないとか
そういうの、何故そう思うのか教えて欲しい。

信仰してしてもいないのに、そういうことだけは慣習に従うのが何故なのか私は知りたい。




2006年1月30日(月)PM:4:03に上げた記事です。

まだお墓についてぐだぐだ言っています。お墓というか、自分の先祖や親、祖父母への感謝や
弔う心、安眠を願う気持ち、それらについて自分なりの観点のみ、そしてこの先そうではない
視点について、ただ慣習に従うというのは私の中では善いことと思えないことだという感じです。
その慣習がどんな意味を持っているか、それが本当に今の自分に必要か、
死者たちが必要としているのか、自分が死者となり、子が対峙したときにはどうか
これもまた自分の中で善いかどうかの判断をしかねています。

擬人化する愛の危険と強さ

常々疑問に思っているのですが、私の動物が好き、という気持ちです。
以下に書くことは「私の」気持ちの問題であり、
慰めや、認識を改める新しい解釈を求めてのものではありません。

 動物が食べるため以外のことで、人の都合に合わせて命を粗末に扱われるのを見ると胸が痛み、怒りを覚えます。同時に我が家の猫のことを思います。彼は(←擬人化してる)メインクーンという種類の、由緒正しいと言われているコンテストで優勝経験のある父猫と、その父猫が脱走中にした、ひと時の恋の落とし子です。…脱走した血統書付きの父猫と半野良と化したミックスの母猫の子供ということです。もしも母猫が父猫の飼い主の認める、由緒正しい猫だったら、きっとめぐり合いませんでした。その時生まれた子猫たちは由緒正しくなかったので、「売られる」のではなく「もらわれ」ていきました。ぷんさん以外の仔猫たちがどこへ行ってどんな暮らしをしているかはわかりませんが、幸せだといいなぁと思います。

 ぷんさんの幸せって一体なんでしょう。愛されて、そして快適と思われる暮らしならば幸せなのか。本当にそうでしょうか。猫本来の幸せの中に「人に愛される」ことって含まれているのでしょうか。人に愛されることが必要なのは、人と生きているからで、共に生きているのに愛されないのは、私の中では確かに不幸に感じます。しかし共存の仕方にもよるのかもしれません。我が家のように、飼い殺している(不適当な発言ですが自分に対して思う気持ちです)ような共存の仕方、つまり人の生活に合わせて清潔に、管理された空間でのみ生きるということですが、こういう共存の仕方では人的な愛がなかったら互いに苦しいだけでしょう。同じ場所を同じ権利で使用する、これならば猫は特別人からの人的愛がなくても、尊重されることできっと幸せに生きられるでしょう。例えば同じ空間を使用する。排泄物があるだけで耐えられない、となれば共存しないという選択もあります。排泄の場所を動物的な感覚に一致する(より、動物の都合に寄った形で)ような形で提供するという手もあります。ゴミを漁られるのはイヤ、ならば漁られないゴミの出し方は工夫できます。汚れて汚い、ならば触らなければいい。「面倒、そんなこと猫のためにしてられない」が先に立つこともあるでしょうし、「生き物がいるのを見るのが楽しい」が先に立つこともあるでしょう。

 たくさんの関わり方の選択肢はあります。なのに何故私は飼い殺すような共存を選んだか。エゴとしか言いようがないです。清潔なふわふわの猫に必要とされ、抱きしめて撫でて、共に生活したかった。私の一私見として、猫と共に暮らすことに「癒し」はあると感じています。それを求めてもいるのですから。必要とされ、(必要とさせるような共存)好かれ、愛かどうかはわかりませんが、暖かさをもらえることは大きな癒しです。そこに自分への存在価値が見出せます。必要とされる実感は大きなものです。もちろん、それは自分が意図的に作り出しているものでもあるわけですが。しかしそこには当然ながら苦しみも生まれます。動物の怪我や病気、人の生活に合わせるのですから、生態の特徴が問題になることもあります。夜行性、爪とぎ、猫っ食い(ちまちまと何度も食べる習性)、去勢や避妊の選択、去勢や避妊をしなければ「さかり」がありますし、縄張りを示す行為として「スプレー」という行為もありますし、泣き声もかなり大きいので、困ることがあります。

それらを人と共に暮らすために、矯正されたり、手術を受けたり、しつけをされます。そんな大きな代償を支払った動物に、代わりに何をすれば帳尻が取れるのか。私には未だに迷いがあります。迷いは元からあったというより、共に生き始めて、初めて気付いたことばかりでした。ぷんさんと暮らし始めてかれこれ15年近く経ちます。年を重ね、彼が老いていくごとに迷いが深まります。迷いが深くなったとて、もう15年、今更軌道修正することすらが迷いになります。野良猫として、生まれて3日で命を落としたとしても猫の生き方として不幸せとは限りません。あくまでも私は「人の生き方」と「比較」しているだけなのです。

 こんなことがありました。田舎に住む従姉妹の家に幼いころ夏になると毎年遊びに行っていたのですが、土地柄、養豚や養鶏、食肉の牧場も多く、よく遊ぶ子の中に養豚場を営む家庭の子供がいました。ある日何人かで遊んでいたとき、汚い猫がよってきて、一人の動物嫌いな子供が「あっち行け!」と石を投げました。子供はわりと動物が好きな子が多いので、ほとんどの子供が「かわいそう!」「やめなよ!」と口々に言います。石を投げた子供は猫が怖かっただけなのかもしれません。涙目になり、段々激昂し始めました。ちょっとした言い合いになり、養豚場のうちの子供を指差して言いました。「あんたなんて動物殺しの家じゃん」みんなしんとしてしまい、黙って養豚場の子を見ています。

生まれたばかりの生き物は弱弱しく、そして愛くるしいです。赤ん坊が生きるために持つ武器は可愛らしさ、と言われますが、まさしく生きるための武器かもしれない、と思うほど私の保護欲や母性をかきたてます。目の前で弱っていったら、好き嫌いは別に何かしてあげなければ、と思う人も多いでしょう。養豚場では子豚が生まれます。子豚はやはり愛くるしく、手をかけ、世話をすると懐くそうです。(懐かせないような世話の仕方を当然するでしょうけれど)大きく育て、中には大きく育てないまま子豚として食卓に並びます。養豚場の子供は一家で仕事をしているので小さなころから、その様を見ています。

 この話には大きな違いがあり、「食べるため」と「自分の都合」という前提の違いです。ですから話の比較としては成り立たないのですが、子供だったので大差ないように感じたのです。動物を飼うことが情緒育成によいとされますが、昨今の擬人化した共存の仕方は果たして本当に良いことなのか、私にはわかりません。自然のままに生きる動物と一時を共存することはなかなか出来ないため、そういう形をとらざるを得ないのかもしれません。動物は擬人化して、とつけないずに、ただ可愛がりましょうね、と言うことが私には言えません。いじめたり、快楽のために殺したりは言語道断と思いますが、擬人化せず、弱肉強食であること、食べるために殺すことと、擬人化し愛玩動物として可愛がることの根本的な違い、共存とは飼い殺すこととは違うこと、これらをふまえた尊重が私には出来ていないから。




2006年1月30日(月)PM:4:01に上げた記事です。

動物を愛する形も、人それぞれの異なる形があり、
それはどれも正誤をつけるようなことではないと思っています。
これも、思いやりと同じく、そのこと自体の正誤を問うものでもなければ、
何が最も優れた思想かを問うものでもありません。

私はどんなにズレていて、どんなに間違っていたとしても、
私の中にある矛盾を突き止めつづけて、それを認識しながら生きていきたい。
これもまた一つの独り善がりの美意識の一つにすぎません。
それでも、私は私なりにぷんさんを愛し、ぷんさんの一生に責任を持ちたいです。
やっぱり、自分勝手だけれど、私のために長生きして欲しい。生まれてきてくれてありがとう、ぷん。

ペルソナ・ノン・グラータのちょっちぷん

私は実は男性があまり好きではありません。というととてつもない語弊があるんだけど。
うう、なんて表現すると伝わるかな~。
えーとえーと、お友達は男の人も多いです。よく遊んでいたのは男の人ばっかり。
格闘技を見るのもやるのも、もちろん男性が圧倒的に多いし
音楽方面も、聞く方は女性も同じくらいいるけれど、プレイする方は圧倒的に男性が多い。
趣味の方面は男性の棲息率が非常に高い場所が多かったのに。

その中で、ちょっちぷんは困った暴れん坊的な、小学生的な、妹的な位置を掴み
心地よく関係を育んできました。
推測するに、男性に女性として見られるのがイヤみたいなのです。
女性としてっていうより性的な対象として見られるのが耐えられないというか。
ああ…誤解を呼びそうだ…(笑)難しいな~。

自分でも気に入って選んだ服を着て外を歩いたりしているときに
通りすがりに「可愛いな」って思ってもらえたら、それはすごく嬉しいんです。
(これは女性に言われる方が実は嬉しいことなのですが)
女性として見られたくない、というわけではないのです。
ちょっちぷんを女子としてだけじゃなく、人間ちょっちぷんとして見てもらえて、
それでいて女性としても見てもらえるのは本当にありがたく、嬉しいことです。
その好き、って気持ちが、私の言う「勝手に好きでいる」ならなおのこと、その人を大切に思う。
それは私が相手を恋愛の対象として見ることが出来なくても関係を育む努力はします。
そういった気持ちを持ってもらえることはとても貴重で尊いと、個人的には感じているので。

大変な誤解を呼びそうですが「一生懸命私の好みに迎合しよう」としている姿を見ると一気にダメです。
特にその「私の好み」が本来、私が持っているものではなくて、その人の感じる「私の好み」
だったりすると、その違和感と窮屈さが、まるで押し付けられているように感じてしまうのです。
激しく不遜なことを言っているように思われるでしょうが
自分でも整理したいので率直に忌憚なく書きます。

無理難題を言っているのかもしれません。
女性として生まれ、女性としての立場を享受し、恋愛をしたこともある。
そして今の私は妻という立場でもあり、母という立場でもある。
なのに「女性」というくくりをはずして欲しいと願うことは。
こう書くと、独身主義とかフェミニストとか、思われるかもしれません。
しかもアバターはゴスロリときたもんだ。ひょっとするとレズビアンのようにも見えるかも。
そのどれでもなく、私はただのペルソナ・ノン・グラータです。

妻となり母となって最もありがたいのは、男性と女性、という関係性が
日常的には、かなり大きく排除されているということでしょうか。
中には人妻!うひょー!という方もいるでしょうけれど、まあまず出会わないし(笑)
男性と人妻、男性と子持ち、男性とおばちゃん、のように性的な対象になることが少ないです。
しかし、自分でも不思議なのは、普通に恋愛し、そして結婚していることです。
と言っても、私は夫を人としてとても尊敬しているので、結婚しても不思議ではありません。
でも子を持てたというのは、いささか矛盾してないか。
いやいや、でも前述したように人として愛され、そして女性として愛される。
それは自然に受け入れるられるのかもしれません。
そんな話をしたら「贅沢だ」と言われたことがありますが、女性としてしか見てもらえず
人として対等に向き合うことが出来ないのなら、私は結婚しないという選択肢もありだったので
とりたてて贅沢なわけではないと思いますが。多分。

それが逆だとしても結果的には上手くいくのかもしれませんが、多分、女性、という性別の上に
成り立つ関係から人と人、という関係性を育むまでの経過は、私には待てないものなのかもしれません。
こういうことがはっきりと自分の中でしてきたのは、ごく最近のことです。
以前はそんなこと考えもしなかったので、「この人なら好きになれるかな」
という推測ははずれまくっていました。そりゃ当然といえば当然です。
人と向き合うための自分の中のプライオリティがはっきりしていなかったのですから。

そんなことを考え始めたのは、社会の中に根付いた男尊女卑に出会ってからでしょうか。
男尊女卑と言ってしまうのは、現代に生きる男性に失礼かもしれません。
少なくとも割と最近まで社会は男性の場だったのですし。
何故、社会が男性の場だったのか。
きっと栄養状態や女性の身体の発育、そして多産を求む時代背景など、様々な理由があったのでしょう。
きっと昔から家事、育児より働くことの方が向いている女性はいただろうし
向いていずとも働くことが好きな人もいたのでしょう。

そんな思想が強く残る場が、社会と結婚だと思うのです。
社会では「女のくせに」とか「家で子供生んでろ」とか言われます。
結婚したら「嫁たるものの忍耐」「母たるものの義務」は、何故か決まりがあり、形を変えると
私のようにペルソナ・ノン・グラータになってしまいます。
そういう決め付けを押し付けられると反吐が出そうです。
そして、何故それが冒頭の性的対象に見られることへの嫌悪から出て来たのかといえば
極論かもしれませんが、そう言った男性至上主義と女性、という性でしか
人を見られない目が同質のものだと感じるからなのです。
それが私には「抑圧」に見える。
性的な対象として見ることが必ずしも抑圧でないのは重々承知です。
であるにも関わらず、突き詰めていくと、それが抑圧に変るラインがあるように見えるのは
私の認知が歪んでいるからかもしれません。

私の両親は仲が良く、とりたてて歪んだ家とも思えないのですが、私はこんな風に育ってしまいました

そしてさらに極端な方へ振り切りますが、女性を人として対等に扱えない男性が
もしも私を押さえつけようとし、私を暴力的な力で恐怖を受け付けたとしたら、
この執拗なまでの粘り強さと持ち前の冷酷さを駆使して、必ず破滅へと導いてやる。
絶望を味わわせたい。
当然、こんなことを考えてしまうのですから、ある程度仕返しの筋書きも作ってしまいます。
今までに培ってきた人間関係のコネクションを最大限に活用し、ああして、こうして…と
考えていると、自分の中に潜む残酷性と暴力的なまでの自己愛を感じ戦慄します。
そこから、「残酷性と暴力」というテーマにつながり、なぜ私が格闘技を愛するかという
無意識層に押し込まれていた部分に手をかけた…い…のですが。

と、この記事を足がかりに次の記事に繋ごうかと目論んでいるのですが、これじゃちょっと…(笑)
すみません、かなり偏った思想です。
そして世の男性を糾弾しようと思っているのではありません。
もちろん全ての男性がそうだとも当然思っていません。
けれど、私の中に悪魔的に、そういった男性を憎み、そして排除したがっている
火の女神ペレもまた棲息しているのです。
イーヴルとエンジェル、そしてゼウスとマースがあの手この手で
色々とペレの暴走を食い止めているので、今のところペレも自分が絶対正しいとは思っていないようです。



2006年1月30日(月)PM:3:59に上げた記事です。

どうも、藤原紀香女で好ましからざる人物ちょっちぷんです。
いえ、自分では藤原紀香女だとは全然思っていませんが。この記事ではど真ん中ですね。
多分あれですね、アドラー心理学で言うところの劣等感です。
社会は男性優位の文化があり、
男の子は男であることに誇りを持ち、女の子は女であることに劣等感を持つ。
時として男の子も去勢恐怖を持つことがあるけれど、圧倒的に女の子の持つ男性的抗議の方が多そうです。
ただこの男性的抗議(男性的役割を求める)には大いなる矛盾があり、女性的役割を拒否するわりに
女性としての得は好むと好まざるとに関わらず享受するというところです。
この辺が女性的役割をそのまま引き受ける人には「いいとこ取りしやがって」と思われるゆえんでしょう。
やっかいなのは多くが無意識層に刷り込まれたものであるということです。
ここを意識下にむりやり引き下げて矛盾を突き詰めようとすることによって、
極端に女性的役割を排除しようとすると、同性愛などに走ってしまうのだな。
ま、力への欲求として発生する「補償」としての防衛本能の一種だと思います。
こういうことをあれこれ考えて、知っていくのは楽しいです。

…おっ、この追記で残酷性と暴力性に繋がったんじゃないか?

気になることが満載だ

猫が年をバラしたので自然とちょっちぷんの年もバレたよ!
いえ、隠そうと思ってたわけじゃないのですが。
あいつ、絶対自分が年言ったらちょっちぷんの年もバレちゃうわん。とか思ってないんだよ。
「あ、そうだったそうだった。てへ」とか言うんだよ、多分。
それか、そう言った後だったら「いや、考えたけど気にしないかと思って、へへっ」とか。
あとは、「あんたもう記事で書いてると思ってた!」とか…。あんにゃろう(笑)
※後日談ですが、その話しをしたら「すぐ消すからさ、残んないよ、へへっ」だって(笑)

さて、27日はそんなジャポネッサ猫ちゃんのお誕生日。これで何度目だろう、一緒に迎えたのは。
今年も一緒に誕生会が出来るといいけど。そうそうGパンは誕生日プレゼントにあげるね(笑)
あげるね☆なんて言ってますが、ちょっちぷんの古着です。
もう毎年のことなんで何年か前からプレゼントは相殺してます。
でもねーベルギー行ったとき、猫ちゃんちょっちぷんにLVのキーホルダー買ってきてくれたんだよ。
しかも、お返しに何もあげなかったかも。ひどい友でごめんよ。
これから先も共に祝おうぞ!おめでとう!ジャポネッサ!

猫の誕生日に気になることが満載というわけではないです。
そして教育テレビの野村万斎が気になるわけでもないのです。
むしろ松たか子の兄が「カブいて 踊れ~♪」とか言って踊ってるほうが気になります。
ってそういう話しじゃなかった…。

何日かもんもんと過ごしている間、お友達のところへ訪問していると
気になる記事がぽこぽこ上がっていました。
おねいちゃんとこの妊娠、出産のこと、海風さんちのネット上の言葉のこと
それに「部分的興味」について。
ニコ丸さんちの子供の指導についてのこと。

あれこれ考えては何かしら書き付けています。
更新しなかった間もかなりたくさんのことを題材に書いてはいて、
それをある程度までまとめてはあるのですが、そのままにしちゃっています。
全部違うベクトルのようで、全てが同じところに繋がるようで、今ひとつまとまりません。うーむ。
あと、書いたら長くて嫌になるんですよね。自分で。でも削りたくはない。
私が書きたいと思ったことを削ったら、違う人の違う思考になってしまうような気がするのです。

前は色々考えずに、その時浮き出た言葉をぱっと書いていたように思うけれど
最近は熟考してしまい、結局黙っていることも多くて
だけど黙っているのはとても座りごこちの悪い感じで。
体言止が増えてしまうわけで。あ、ただの言い訳です。

そうそう、全然話しは違うのですが最近夢をしっかり残して起きることが多いです。
妊娠してからというもの、つい最近まで夢を見たことも覚えていないような眠りを得ていたせいか
年が明けてしばらくしたころからの、夢をしっかり残して起きる今の状態がしんどいです。
夢の中で、多くは一生懸命起きようとしています。
眠くて眠くてたまらないけれど、必死に目を開けようとしているのですが、目が開かず必死になります。
それが夢の中で長い間続き、やっとの思いで起きたときには現実となっていて
寝ている間、ずっと身体に力を入れていたようにぐったりしてしまいます。

そうでなくても断続的にバラバラの夢を見ているのか、何のストーリーもないけれど
印象に残る夢を起きたあともひきずってしまい、気持ちが疲れます。
別段、悪夢というかんじですらないのですが、起きたときすごく疲れているのです。
これ、絶対質の悪い睡眠&サイクルに落ちてるなーと思ってげんなりしています。
普段から睡眠が不足しているのに加えて、身体の疲れが抜けないうえに
更なる睡眠の疲労感をおぼえ、日中、家事と仕事をこなすのが精一杯になってます。

何か書こう、と思いはすれど気力が追いつかず、ぼうっと眺めてしまったり。
そんなかんじで気になることが満載なのに、こうしてどうでもいいことを
だらだらだらだら書いてるわけです(笑)
ま、猫の誕生日記念だし、いっか☆

改めて、お誕生日おめでとう!!!この歳の一年も楽しいこといっぱいありますように!
あと、人が祝いの言葉を贈ってんのに、更にそれ以上だったらいいなーとか言わないように。
バチ当たるぞ(笑)





2006年1月27日(金)PM:1:22に上げた記事です。

早いもので猫と私の付き合いも23年?になります。馬鹿みたいに長いな、オイ。
なんつーか、あいつがいるだけで落ち込んだときに少し笑ったりできます。

ちなみに最近気になっているのは「ぜんまいざむらい」と「ピーターラビット」です。
あ、あとcaperitoはビデオが欲しいです。
もちろんぜ~んぶ教育テレビの番組でございます。
おたふく疑惑がある娘ですが、最近歌って踊ることに大変な興味を持ってまして
ジャニーズのだんすぃたちが歌って踊ると大喜びです。多分顔はなんでもいいのでしょうが。
負けないように私も歌って踊っています。娘も大爆笑です。あ、いえ大喜びです。

ゴスロリちょっちぷん

ちはー!ゴスロリです!(笑)
一度やってみたかったんですが、何せ30すぎているので
外見が許してもお天道さまが許すまい。とチャレンジ出来ないのでアバターでチャレンジ(笑)
思ったよりすごいことになりました。
これ、リアルで30すぎの子持ちがやってるのがバレたら村八分かまされそうですね。
私はいいけど、子供まで一緒くたに考えられることが多い世の中、怖くて出来ません…。

なんか、色々ばーっとしまっちゃったら、いろいろ妄想させてしまったようで、いやはや。
ご心配おかけしましたです。
あ!長い文章でごちゃごちゃ面倒な方は下の方だけ読んでください。

ブログを続けていて色々なことがあります。
この世界もまた私には現実の一つで、自分なりに大切にしているつもりですが
やはり文字だけの交流の世界です。
そうそうスムーズとばかりも言えません。

きっと私が書いた言葉が誰かを傷つけたり、ムカっとさせたりもあるでしょう。
反対も然り。
でも、それは自然な流れで、実際PCのこちら側の現実とは違い
限界が割と近くにあるようにも思います。
だからかな、それほどブログでの出来事は私を大きく傷つけたりはしません。
まだ、すごく嫌な目にあっていないだけかもしれないけれど
うちはお気に入りしていただいた方、もしくは私が足繁く通うみなさんちから
いらしてくださるお友達の方しか来ません。

現在私の記事の上げ方は鎖国しているようなものですし。よそから来るわけないんだわさ。
別に鎖国しているわけではないのですが、みなさんのところに通うのでもう時間一杯な状態です。
あんまり1日のうちにPCの世界に割ける時間がないというだけのことなのですが
今ある、この形を保ちたいので、のんびりとやりたいな、と思ってのことです。
昨日、ほんの何日かぶりにコメントを入れたのですが、昼間も反映されにくいみたいだしさ~。

色々な要素があって、ブログでの時間はそれほど大きなダメージにはなりにくいのです。
逆にPCのこちら側で起きることは日常の生活に、当然ながらコミットしていて
瑣末な出来事が、じわりじわりと効いて大ダメージに変化したりします。
特に、家族単位でのこと、子供のことは自分ひとりが気に食わないからといって
切り捨てることが出来ない複雑な形をしています。

私の生まれた場所、父母、妹も大事な家族ですが、夫と娘は私が、私個人が望み手にした家族です。
私もまた変化を求められるときはあります。
私は変化が嫌いです。
かわりなく穏やかに、時に寂しく、金銭的に不安定になったとしても、
自分ひとりなら、そこそこ心地よい時間を保てます。
でも自らがそれを退けても欲しいと願ったものを手にした以上は
嫌だの何だの言う余地がないこともあります。

わかってはいるし、自分が欲しいもののためには努力だってします。
頑張る。それでもそれがストレスになることは避けようのない事実でもある。
要はそういうことがこちら側の世界で起きたとき、私はブログをする余裕もなくなる、という
ただそれだけです。
自分が生理的に、または理屈でいってもおかしい、と思っても実はそうじゃないこともある。
もしくは私は間違っているかもしれない、と考える必要が生じることもある。
そういうカオスの一つがクローズアップされることによって、次々次々
似たようなカオスを穿り出してしまうのが、私の弱いところなのでしょう。

そんなことわかったってどうにかなるもんでもないです。
資質的なものもあるし、気質もそれを支えてしまったり、
「ヒョウの模様は消えない」と言うではありませんか。
ただし、私の資質や気質は好むと好まざるとに関わらず変化しつづけています。
昨日まで考えていた答えが、今日も正しいとは限らない。
昨日までの私の思想が、今日も同じだとは限りません。
まったく反する形に変化することはきっとないと思いますが、全く同じではいない。
その小さな変化を検証しておきたいな、とよく思っています。

chargeupさんが以前言ってくれた「私が読むために、ちょっちぷんさんはブログに書く」
この言葉には、毎回この「何故上げるのか」が出てくるたびに励まされます。
結構最終的には「少なくともchargeupさんには何かを拾い出してもらえることもあるんだ」と
自分を納得させています(笑)
これ、すごく小さなことかもしれないけれど、とても大きな力になるんです。








長い文書が面倒な方はこちらだけ、どうぞ(笑)
お休みのわけはPCのこちら側の世界で、子供のことで外部からの圧力を受け
抑圧に憤り、ストレスが奥底のカオスを引きずり出して悩んでいたからです。
更に、それらの悩みやカオスが「そもそもブログに上げるのは何故なのか」というところに
繋がりやすいので、書きたいけど上げたくないような気になるようです。
と、そういうことです。
今後も多分こういうことはあるけれど、ブログでのことでこうなることはないと思います。






2006年1月26日(木)PM:2:23に上げた記事です。

ヤフーにくっついているアバターの話です。今はろけんろーる風です。
昨日pinko姉のとこ行ったら髪型がおそろで噴出しました。好み似てるんだー(笑)
ここ最近、少しブログから遠ざかっているのは身体メンテナンスをかけているからです。
いろいろと体を動かしてボディチェックしていると時間がないです。
飽きたらまた配分が変ると思います。

噂話

何故かめちゃくちゃ忙しくて2日くらいPCを立ち上げることすら出来ませんでした。

ちょっと時間が出来ても、面倒なのとたいした時間がないのとで億劫になってしまって。

でも今日たくさん記事を読ませてもらって、「か、書きたい!」と思うことがいくつか。

書きたい、でも上げたくない、いや、上げたい?…よくわからない。

いや、待て。欲求の問題ではないのだ。

書いていろいろな考えを聞かせてもらうのは楽しいです。

これも「思いやり」と同じで他者がどう思うかとか、その良し悪しや評価ではなくて

自分の中で納得の形をとっているかいないかなのですが、なかなかまとまりません。

まとまってなくても個人的な気持ちの問題なので、書いてようがいまいが

特にこれといって変りはないのですが(ここに書いてるし)

迷いがあると、ふいにぴたっと流れが止まってしまうような感じになるのです。

割とひんぱんにこうして更新を止めたりするのは、そのせいなのですが

なんとも割り切れないカオスをかかえているとイライラします。

で、しばらくすると「考えても答えが出ない!!」とイライラするのです。

ほんと、困った人です。

今は、今まで書き溜めたネガティブで重たい暗い、読むと暗澹たる気持ちになる記事を

まとめて全部一気に放出しようか迷ってます☆

※pinko姉からバトンもらったのですが、過去にやっちゃってたので加筆してTBしました。
 その記事はこちらでっす⇒http://blogs.yahoo.co.jp/chocchipun/8070835.html


再開に意欲が出てきたので、クライミングの話題に切り替えてみました。
もう次回は黙って休むことにします(笑)
こういうこと書いてあるとなんか大げさになってしまうような気もしてきた。
あと何もかもしまうと、猫ですら驚くことが判明。
猫が驚くということは、他の人はもっと驚くかもしれないから、気をつけます。

噂話、あとでまとめた記事にして記録に残そうと思ったのですが
今コピーするの忘れちゃった。どうでもいい話だからいっか☆



2006年1月18日(水)AM:9:59に上げた記事です。

記事と全然関係ないのですが(このフレーズ写し作業始めて何回目だ)娘がおたふく疑惑です。
顎下が両側腫れていますが、耳下腺はまだ腫れが見られず、判定は明日に持ち越し!
…は~、今年はアデノ(プール熱)も激流行だし、まだ水疱瘡やってないし…えーん!!
流行病をもらうのは免疫の面でも仕方ないとは思いますが、痙攣が怖くてたまりません。
頼むから熱よ高くならないでくれ!!!と真剣に祈っています。

一つだけ残っていたので、こちらではこの記事の追記に足しておくことします。

毎日さぶいですね。
今日は耳について考えました。
ヘルツでも、一定の高低のものばかりを聞いて育つと
その音域以外の音を耳がシャットアウトするらしいんです。
でね、調べたんですけど、米語ってヘルツにすると2000~13000ヘルツくらいの音域で
日本語は125~1500ヘルツくらいらしいんです。
あー、だから米語圏の人と話すと彼らは日本語を簡単に真似したりできるのかな。
もちろん、真似できない音素もあるだろうけど、日本人がまったく聞き取れないのに比べると
結構聞き取れてる気がする。だから耳慣れさせるために1日何時間も英語を聞け!
とかいう教材がひきもきらないのかも。
…。
気になった。
ついでに音素も調べてみました。
英語の音素は20
日本語の音素は44
で、この先は推測なんだけど、この音素がまたきっと被らない音が多いんだろう!きっと。
それはまたそのうち調べてみよう。そうしよう。ふむふむ。



2006年1月20日(金)PM:11:30に上げてありました。

そのうち調べてみようと思ったまま、例によってこってり忘れていました。ほほほ。