☆空飛ぶ もとちくれった 出張所☆ -8ページ目

むむむむむ

一雨ごとに暖かくなりますねー。湿度が高いのが苦手な私は、雨が嫌いですが、この時期の雨はなんとなく落ち着きます。新緑に似合うからかな?雨上がりにはからっとしやすいからかな?雨が上がって、雲が晴れてきて木漏れ日としずくがキラキラしていると気持ちイイです。

そんなわけで、実はもとちくれった、しばらく更新をお休みしようか悩んでいます。ちょっと待て。まだ考えているだけです。で、お休みってのはやめるとかやめないとか、体調が悪いとか忙しいとか、悩んでるとかはまったくもって関係ありませんです。ちょっと、なんとなく窮屈になったというか、なんというか。

お休みするとしたら、このブログの記事をよそに移す作業を代わりにしようと思っています。仲良しのchargeupさんの真似をして、過去の記事にちょっとしたことを書き添えて現在に追いつくまで、更新はお休みするという形で。なんとなーく、ぼんやりと考えているだけで時々何か新しく書きたいことが出来たら書くようにしようかなぁ、とか色々考えてます。まだ何も決めてないのですが。

中途半端にお休みお休みと続くと、自分の気持ちがぼんやりしてなあなあになりやすいので、気分転換的なものとして、何かしたいなーという感じです。なんか、楽しいことを書きたいのです。ですが、何も浮かんでこないのです。適当にしたいときにすればいいじゃん、と思われるでしょうけれども出来ないんですよね~、ある程度形が決まってないとだらだらだらだらしてしまうタチなのです。

書きたくないというでもないし、全然悩んだりしてることも特別ないしこまごまとはあるけれど、それはライフワーク的なものだし。
なんでしょう。5月病かしらん。頭が疲れてるのかなー。人ごみを一日中小突かれながら歩いたような感じです。新年度で忙しいけど、それなりに平和に、いつも通り考え事をしながら生きてるだけなんだけどな。

とりあえずもうちょっと考えまーす。





2006年4月24日(月)PM:10:23に上げた記事です。

結局今に至っています。
が、楽しいことが書けるかというとそうでもない。
なんだかなぁ。
まあそのうち何か書きたくなるでしょう。

ためには人のためならず

 あなたのために、みんなのために、は本当は自分のために、が1番しっくりきます。人は、どうしようもなく違う生き物で、それは同じになることはなくたまたま、同じ「ような」ところが存在するだけ。家族のために働く、それは確かにそうかもしれない。けれど、はっきりと家族の中で口に出して取り決めたことなのか。「ぼくは家事は出来ないし、これまでのキャリアや積み重ねから行けばそれなりの額をもらえる、より多く稼ぐことを目的とするならば、僕が働くのが1番いいと思うけど、どうだろう?」なんて奥さんと、子供と、話したことなのかな。と思う。

中にはそんな「ために」を思いやりと考える人もいるだろうし、それが相互の認識に差異のないミューチャリティーならば、問題ないとも思う。ために、が人のためではなく、自分のためであるという考えは私の個人的なもので物事の善悪や正誤を問うものではない。自分と、向き合う相手の中で機能的に、心地よくいられるルールならそれはそれで、とても良いものだと思っている。私は、人は基本的に「あなたのために」という枕言葉がついた言葉にはどこか、無意識層の中で、反発や、抑圧、苦しみ、悲しみのスイッチが入るのではないかと思っている。葛藤は自分が生きて、自分が感じ、自分が体験した中で生まれ来るもので人に与えられるものではないと考えている。

 私は「あなたのために」が発動するときはプラス作用の感情が生まれているときではないことが多いと感じている。思いやりと考えたこと、役に立つと考えたこと、より良いと思う物事を提示したときに即座に受け入れられないときに発動しているように感じる。すなわち、説得材料となっていることが多い。物理的なこと、法という名のもとの善悪に関しては、一般的に正誤や善悪は、きっちり決められている。好むと好まざるとに関わらず、そうなっている。それを議論や批判、そういった説得で正していくということが必要な面は、たった一人で生きているのではない限り絶対について回る。ただし、人それぞれの感じ方、考え方、においては議論も批判も本人が望まない限りは私は必要ないと思っている。

その線引きはとても難しいから、実際に自分が困ったり、権利を侵害されていない限り、私は人を批判したり、意見を戦わせたりはしない。違うのは当たり前で、違うからといって、困ることは実際にすごくすごく少ない。私と夫は全然違う価値観、全然違う視点を軸に生きていて、そして結婚していて子供もいるけれど、違うことで困るのは育児の方針くらいだ。けれど、お互い一致しているのは、たとえ恋人であろうと夫婦であろうと親子であろうと別の生き物であり、未知の生き物である、という見解だ。

 正しいこと、善き事も違うであろう、という考え方の元に意見を出し合う。時に私は夫の言うことがばかげて聞こえたり、考慮の部分が狭いと感じてしまうことがある。けれど、それをなんとかして自分のリミッターをはずし、平等に考える。果たして本当にばかげているのか、本当に考慮の部分が狭いのか、真剣に何日も向き合う。出会ってから今現在まで4年の間、そりゃあもう何度もそんなことはあったけれど、そのどれとして本当にばかげていて、本当に考慮の部分が狭いことなどなかった。

自分が良いと思ったものをすすめることはある。例えば夫なら、私に対してトレーニング方法であるとか、思考のパターンとか
家事における手抜きの方法だとか。私が夫に対してするのは、処世術であったり、プロモーション方法であったり、より先まで予測を立てることであったりする。ただし、押し付けはしない。夫に限っては押し付けようとしても無理だし。夫はとても温厚で、物腰も柔らかく、優しい。声を荒げることは皆無に等しい。負けん気は強いし、鼻っ柱も強いけど、押しは強くないし、怒らない。仮に私が説教族のように「あなたはこうだから、だめ。こうしたほうがいいの!」と言えばうん、そうだねそうだね。本当にそう思う。わかった、今度からそうする。と受け入れ…たのかに思えるような様子だけれど、同じことを何度も何度もやる。多分。結局のところ、彼の本能や培われてきた土壌には入る余地のない余計な情報でしかないのだと思う。

 もちろん、それでいいと私は思っている。もしも私がたまに説教族の資質を発動させて押し付けがましいことをしてしまったとき
相手がそれに捻じ伏せられて、自分を曲げて私に合わせてしまったら私はいつまでもそれを後悔して、恥じて生きねばならない。
それだけじゃない、ずっと罪悪感を持つと思う。そんな生活は想像だにおそろしく、本当にぞっとする。その時は本当に相手も良いことだと、考え、組み込まれて受け入れたように見えても、きっと「押し付け」たものは絶対に受け入れられることはないのだ。

いつかその押し付けた何かは、ミューチャリティーを破壊し、一緒にいられなくなると思う。いや、いられなくなるというより、いたくなくなるのだろうと思う。それはいつかわからない。明日かもしれないし、何年後か何十年後か死ぬときかわからない。でもその何かは日々、1分1秒ごとに育っていき、心を蝕み、心を離して行く。私は絶対に夫を失いたくない。そして同じくらい、私は人のためには変れない。私は私のためだけに生きる。だから、私は夫を尊重する。人を尊重する。人を嫌ったり、人に対して異論を持ったり、意見を戦わせることが関係性を壊すと言うのではない。押し付けはあってはならない。ただそれだけだと考えている。

それでも押し付けられたら、私は理論で相手を捻じ伏せようとするだろう。納得のいくまで相手の立論を徹底的に叩き潰そうとするだろう。それで、もしかしたら相手の立論を証明してしまうのかもしれない。その時はきっと私はそれを取り出し、受け入れるためにまた考え出す。「なるほど」の先に好奇心と利得が見えたら私はそれを受け入れるかもしれない。



2006年4月23日(日)PM:5:35に上げた記事です。

さて、この時はなんでまたこんなことを書いたんだろう。しかし、記事を全て読みながら写していて思うけれど、私というのは面倒な人間だな、とつくづく思う。つくづく思うけれど、ひとたび思考や感覚のカオスを紐解こうとすれば人間なんて多かれ少なかれそういう面倒なものなのだとも思う。それを出さずに済む人もいれば、出さずには済まない人もいるだけのことなんじゃないかな、と思う。そういうことを多少は理解しているのに、人に対して心広く、優しくなれないのは何故なんだろう、と思うわけです。自分の優位性を保つために発せられる言葉や行動は、それがどんなに美しく気高い、そして尊くて憧れるものであったとしても反発したくなる。同じくやたらめったら共通意識をかざされるのもうんざりする。「これは素晴らしいこと!ね!みんな!そうだよね!さあそこに向かって走ろうよ!素晴らしい明日のために!」風の匂いをかぐと、本当に、もう本当にうんざりする。うるせーな、一人でやれよ、とか思ってしまう。共通意識を持ち、共同体として生きることには美しく尊い面は絶対的にあるとは思っている。日本はそういった文化が根強い。だけどそれをなんとなく罪悪感を感じさせて植え付けるようなのは好きではないということです。

ご飯がないならパンを食べればいいのよ

 ご飯とパン、どっちかを選べという状況には時たまめぐり合うけれど、この先どちらか片方しか食べてはならぬ、という状況にはきっと出会うことはないとは思います。たまに、どちらが好きですか?と聞かれることもあります。そんなとき、私はそこまで真剣に考えなくても…というくらい真剣に考えます。そういうことは、個人的にとてもよくあります。そこまで突き詰めなくても…とか、そんなに深く悩まないでも…とか。お題は問わずにそういうことはあるので、きっと、それが楽しいのだろうなぁと思います。それかどちらかを選ぶこと自体が難しいので余計に真剣になってしまう、とか。白玉すら命をかけないと選べません。

 さてさて、私はパンが大好きです。しかし、その大好きは本当に大好きなのか。大好きの度合いを考えると、一日一食はパンを食べたいくらいの大好きです。毎食毎食ずっとパンを食べたい大好きではありません。…ということは厳密には大好き、という言葉を使うのはおかしいかもしれません。(これは使っている人に対して思うのではなく、自分が使うに当たっての考察です)

ちょっとした雑談をしているとき、自分の嗜好についての話になって、それを話半ばで「あっ知ってる~」と横取りした挙句、「あたし○○大好きなんだよね~」「あたしはさ~」と毎回「それ知ってる~」「それさ~」と話を横取りしたうえにキャッチボールさせてくれずに会話を締められてしまうと、軽くムカついてしまいます。あくまでも問題は「毎回・話し半ば」というところです。会話の乗っ取り屋の人と話すのは楽しくありません。あんまり真剣に話を聞いていなければいいだけのことかもしれませんが、それが毎回毎回だとその人がいるときに会話をするのが嫌になります。そんなに大好きなら、最初から自分でその話をすりゃあいいのに。そういうことを考えてしまうと世間話というか、何気ない会話というのは面倒で不愉快なもんだな、と思います。猫と話しているときにそういう風になったら「うるさい、黙れ」とか「まず聞けよ」と言って奪い返すんだけどね(゚∀゚)

 そんな気持ちを持ってしまうことも多いので、自分の大好き度にも結構色々考えます。海外旅行をしたときに、私の場合1番恋しいのは「ご飯」です。特に、毎食炭水化物がイモ類かパン(小麦の食べ物)しかないと、ご飯が食べたくてたまりません。ではライスを、と食べてみると、日本のおコメではないので、水分量や味も違います。パラパラのおコメも美味しいけれど、私にとっての主食であるご飯は、やっぱり日本で炊いた、日本のお米です。だからといって、日本が世界一とは私は口が裂けても言いませんが。世界一は自分にとって世界一であれば、他者にとっての世界一とは被らないほうが何かと良いです。

一日に一度はお米を食べたい。てことはご飯とパン、どちらが好きかというジャッジは同点?ていうか、ジャッジするポイントが摂りたい回数なのですな。私の場合。味、のみで考えると、パンは塩を使っていたり、バターを使っていたりする場合はパンの勝利です。無塩、無バター、無卵、と考えた場合は、ご飯です。3無パンはあまり好きではないです。パン屋さんで、パンの焼ける匂いを嗅ぐとフラフラと入って、つい買ってしまいます。お水の美味しい地域で、取れたばかりのお米を、好みの水加減で炊いたばかりのご飯はとても美味しい。その時その時で食べたい、と感じる気持ちは別として、トータルバランスで考えても引き分けです。

 じゃ何故、ご飯大好き、とはあまり言わないのに、パン大好きと言うのか。私の認識では「ご飯」というものがより密着していて、言わば空気のような親のようなものなのかもしれません。パンは密着度が低いから、わざわざつけているのかな。密着度が低い、とはいえ、私が生まれ育った家では、母がパン好きなため、ご飯とパンの比率は同じくらいだったと記憶しています。自分が幼いころの離乳食の記録にも、よくパン粥が記載されていたし。

学校給食を入れたら、やっぱりご飯率の方が高いか。パンの歴史が浅いせいなのか。結論を言えばそんなことはどうでもいいのですが、パンが好き、というのをわざわざ強調する形の表現にするのは何故なんだろう、と漠然と考えます。考えては途中で忘れてしまっているわけですが。ああ、今は美味しいパンがとっても食べたい…。





2006年4月23日(日)PM:1:05に上げた記事です。

むちゃくちゃ中途半端に終わったのでヤフーでは非公開です(笑)どちらがより好きかという選択はものがなんであれ、結構難しいです。大好きの定義が自分の中では結構はっきりしているので、自分が大好きなものに対して同じ人に年がら年中、闇雲に「あたしも大好き」と言われると心の狭い未成熟な私は「うそつけコノヤロー」と密かに思ってしまったりします。ただ単に私の「大好き」とその人の「大好き」の定義が違うだけなんでしょうけれど。ああ、この根っからシュマーク層的発想、どうにかならないものかしら。我ながら嫌気がさしつつ、今も「うそつけコノヤロー」と思うこともあります。

新年度は大忙し

赤川次郎風のタイトルにしてみました。

昨日書いた記事で、新年度に入りとても忙しいことを書こうと思ったのですが、私が書く文章にありがちな、一つの記事に2つの主テーマが入るというのにまたしてもなってしまうので、やめてみました。ありがち、というか今現在は、確信的な部分はあるのですが、意識していないときからそうでした。かなり初期に気付きはしたのですが、あれこれ考えて、そこから確信的に続けていくことにしました。

 たまに、きちんと一つのテーマに絞り、長文を書くとこれまた違っておもしろいです。長文て、何かがフィットしないとなかなか読めないですよね。斜め読みになるのも頷けます。そんな長文を、多分一読しただけで真意を読み取り、そこから更なる何かを引っ張り出してもらえたり、ということがあるのでやめられません。テーマを分けて書いた文章にいただくコメントからいろいろ考えます。それを分析していくのが、とても興味深く、勉強になります。…もう仕事はしていないので、勉強しなくてもいいんだけど(笑)

 そんなわけで、今日も2個目のお題へ移ります。冒頭とタイトルで触れたように、新年度になりものすごく忙しいです。主に娘のことでなのですが、夫のことでも結構忙しいです。娘は早生まれなので今年2歳になったばかりですが、今年3歳を迎える子供たちと同学年です。早生まれの女の子は成長が遅いと、たまに聞きますが、娘も若干遅め、部分的にはとっても遅めです。そのことについては色々色々考えますが、鬱々と悩んだりはしていません。

成長面に遅れのない子供たち同様、今の娘の状態に必要なことを必要なタイミングで与えたい。そこだけ慎重に、あとは娘を無理やり手を引っ張って成長させないように気をつけています。で、夫と何度も相談し、今最も娘の興味がある分野に関わる時間を増やしたい、という結論を出しました。そこで昨年度末から検討し、調べ、考慮し、今年度は週に1度ずつ、絵画とリトミックに通うことにしました。習い事、というカテゴリではなく、好きなことに没頭できる空間、という感覚の教室を探し一切の指導カリキュラムのないところを選びました。

何度か見学し、実際に親子で行ってみましたが、なかなか楽しいです。娘も、強制が一切ないので、ご機嫌でめちゃくちゃ楽しそうでした。リトミックの方は厳密にはリトミック、というより身体の動かし方を楽しんで覚えることが目的で、そこに音楽的要素がいくつか組み込まれているというかんじです。今は主に感覚遊びに近いことを娘が好むので、トランポリンや超広いボールプール、上り下りが好きにできるサーキットのようなものを好きなようにさせています。かなり楽しいらしく、午前中、2時間ほど遊ぶのですが、時間いっぱい遊んで昼食を摂ると即寝してしまうほどです。

絵画の方も、描き方、姿勢、描く対象、色の勉強等一切ありません。部屋の真中に大きなパレットがいくつかあり、部屋の端っこに洗面台が並び、色とりどりの様々な大きさの筆が置かれていて、部屋の四方は全て紙で覆われていて高低様々なキャンパス風の台が置かれています。何をどう使い、何をどう描いてもよく、床も紙が張られている部分があります。そこに全身を覆うタイプのスモックを着た子供たちが放牧されており、好きなことをしています。手や足に絵の具をつけて、ペタペタしたり、大きな子は色とりどりの魚を描いたりしていました。娘は気に入った色の筆を手に、研究に余念がありません。気が済むまで観察し終わると、低めのキャンパスに様々なマークを描いている私のもとへやってきて色んな色で描いた絵を塗りつぶして楽しそうです。とほほ。

 そんな感じで、新年度は週に2度、予定が出来ました。それに伴って、私の仕事の形態にも変化が生じて、てんやわんやです。風邪ひいてるしー。ハナタレは治ってきましたが、湿った汚い咳が治りません。げほげほ。感染予防にはならないという説もあるマスクですが、人に移すリスクは軽減するそうなので家でもマスク着用中です。怪すぃ…。そして何故か昨晩から頭痛が…。何故だー!ここ最近流行っている風邪の特徴は湿った痰のからむ咳、鼻水、微熱、が長めに続くのとぶり返しだそうで、ぶり返し気味なのかしら。いやだわ。

そんな中夫だけは一日わーっと熱を出して、わーっと長時間寝たら翌日は元気一杯で、ぶり返すこともなく通常運営しております。やっぱ体力あるなー。免疫も強そうだし。いいな。そんな新年度を過ごしているちょっちぷんでした。明日は夫の新年度のことを書こう。





2006年4月19日(水)PM:0:07に上げた記事です。

また適当に明日は○○書こう~♪なんて言っていますが、確か記憶によるとこれも書いていません。ううーむ。その時は書きたかったんだけど、次の日になると書きたくなくなったりしてるのかしらん。どうでもいいけど、よく風邪をひいている自分が非常に気になります。まずい。これはまずいです。歳をとったということなのか。いや、多分きちんとした生活してないからですね。いかん、もう30代も半ばになってきて段々中年の身体になっていくのに、ちゃんと整えよう。年取って今までのように動けなくなったら嫌だ。まだまだトライアスロンもやりたいし、フルも走りたい。元気なばーさんになりたい。


と試しに改行の仕方を変えてみたりしました。これでもやっぱり3カラムはよみづらいか。どれどれ。

もとちくれったが悪いのか

んちゃ!ちょっちぷんだっちゃ!オラに元気玉をくれ!

すみません、ちょっと忙しかったのでおかしさが倍増しました。
ブログのタイトル、正しくは「空飛ぶもとちくれった」ですが
最近、ちょっと手を加えるのに凝っています。
深い意味もなければ、タイトルを変更しようと思っているわけでもなく、一言メッセージで
近況報告しようという意図もないのですが、結果的にそんな感じですね。
一応、基本形は崩さずに手を加える形なのがこだわりです。

って、どうでもいいですね。
毎回一度非公開で記事を上げるため、新規のお客様は皆無に等しい、このへっぽこブログの履歴に
3月辺りから、新しいお客様がぽつりぽつり訪れてくださいます。
基本的に履歴は、お気に入りがわりに使っています。
偶然いらしていただいた方のブログに履歴を辿ってご訪問することはほとんどないのですが
何ヶ月も新規のお客様が来なかったのに、ここ1ヶ月ほど立て続けにいらしているので
お邪魔してみました。本当にご訪問しただけですが。

私が頻繁にお邪魔しているお友達のところからいらしてくださった、と思っていたのですが
どうも違うケースの方が圧倒的に多いようです。
ブログのテーマというか中心記事を拝見すると、「車」「バイク」「自転車」系のことが書いてあります。
…うーむ。一体どういうことだろう。
あ、そうか。「もとちくれった」か…。
ブログ紹介文、というのを1番始めに書いたのですが、普段ゲスブに表示されているので
自分でもめったに見ないため、忘れていましたが、そこにもとちくれったの意味を書いていました。

もとちくれった、とはイタリア語でオートバイの意味で、自転車はびちくれった、というそうだ。

そんなことを書いていました。これもかな。
バイクとか自転車で検索するとこの辺りがひっかかりそうです。
記事にはそっち系はないし。トルネードベイビーのことは書きましたがママチャリだし。
来ていただくのも申し訳ないです。全然関係なくて。
そこでまず紹介文を変更。
その次に…。タイトルどうしようかな。
変えるのはいいけれど、もとちくれったという単語は大好きです。
可愛い音で、初めて知ったイタリア語だし。使ったことないけどさ。

うーん、うーん。と迷っているうちに手を加えることになり、今に至ります。
こんなに安定感のないタイトルもどうかと思うのですが。
まあ、多分検索以外でいらしていただく方はいないので、タイトルがどうでもいいっちゃいいですが。
いっそ、「自転車、バイクと関係ありませんが、タイトルは空飛ぶもとちくれったです」
というタイトルにしようかしら。
両側の星をはずせば2文字減るし。そういう問題か?
うーん。ちょっと時間をかけて考えよう。





2006年4月18日(火)AM:10:53に上げた記事です。

結局ほとんどそのままです。
今もよくこのことについて考えるのですが、最近はそれ系でいらしてくださる方もいないし
訪問者とか履歴とか出さなければ気にならないことに遅まきながら気付いたので、まーいいか。

しかし昨日はまた暑さが戻って、そう早く秋が来るなんてことないんだなぁと哀しく思っていましたが
今日はこれまた涼しいです。素敵です。
私は夏なんて大嫌いなので、とっとと終わって欲しいです。
ていうか夏なんてなくてもいい。でも四季のある日本という国は美しいとは思います。
ちょっとした身勝手な願望です。
秋よ、早くおいで。そのしんとした、澄み渡る空気が呼ぶ木枯らしで舞わせておくれ。

花風邪

はい。風邪引いてました。
お返事できなくて、遅くなってしまい、ごめんなさい。
久しぶりに熱を出して、だるくてだるくて寝込んでしまいました。
といっても、家事育児に休暇なし。
普段、一人で自分のために使える時間を寝込んで過ごしました。

大分回復したので、さっき再度、病院へ行って薬を追加してもらい一安心。
休み前は行っておかないと週末後悔するので、踏ん張って行ってきました。
鼻水って何でできているんでしょう?
何故に後から後から出てくるんでしょう?
体内にある何らかの水分が、免疫の作用で菌を排出するために搾り取られているのかな。
不思議なことに母乳と同じように、出せば出すほど量も増えます。

そしてちゃんと出せば出すほど後半黄色くなって粘着力が増しますね。
久しぶりに自分の青っ洟見ました。すみませんビロウな話で。
ん?ビロウって下のことだけに使うんだっけ?まいっか。
大人が引く風邪は子供には、あまり移らないのに、子供の風邪は確実にもらうのも不思議です。
まあ子供は咳やくしゃみを手で抑えたり、マスクしたり、横向いてしたりしないし
咳き込んで吐くし、鼻水なすりつけるし、移るのも無理はないかもしれない。

頭痛が結構ひどくて、目を使うとひどくなるので本も読めず、テレビも見られず
うつらうつら考え事をして過ごしました。
考え事も良し悪しで、特に今答えが必要なく、そして普段からぐるぐる思考の中で
こねくりまわしているだけのことを考えていると、だんだん眠くなって寝てしまうのですが
実際問題として、悩んでいたり、できれば進む方向性や、一貫性を求むようなことを考えると
目が冴えてしまい、不安になったりして寝てられないですね。
過去のことを清算しようとするのもご法度です。

過去にあった、昇華できない経験のことは思い出すと哀しいやら腹立たしいやらで
涙が出たり、ムカムカが治まらずイライラを家族に向けてしまったりするので危険です。
じゃあいつならいいのかって話しですが、いつでも良くはなくて
比較的、元気で、楽しく、余裕があり、心配ごとがないときにスパーリングしながら
もしくは走りながら考えるのが一番良いようです。私の場合は。
身体を動かしながらする考え事は好むと好まざるとに関わらず
どこかで考えることが出来なくなる瞬間が訪れます。

そこがポイントです。
考えられなくならないとふんぎりがつかず、いつまでも忸怩たる思いを
ガムのようにくちゃくちゃと噛んで心を自傷してしまいます。
しかし、身体を動かしながらだと、物理的な身体の辛さのほうへ
かってにシフトされてしまい、考えられなくなってくるので良いです。
しかも終わった後はある種の達成感と疲労感でいっぱいになる(まで続ける)ので
思い出そうにも思い出せないような感じになります。

私は健全な身体に健全な魂が宿るなどというおためごかしは1mmたりとも信じませんが
私のような精神構造の人間は、同時に起きたのでない限りは脳みそが勝手に
身体的な辛さの方を克服しようとするようなので、身体は積極的に動かします。
努力が嫌いなのに、スポーツが意外と好きなのはそのせいなのかしらん。
ある種の排出行為としてのスポーツはかかせません。

悩んでいる人に「スポーツで発散できます」とは死んでも言えませんし
スポーツが万能とはまったく思っていません。
向き不向きもさることながら、好き嫌いは重要です。
嫌いなのに、○○のために頑張る、なんてしないほうがましです。私は。
頑張るのは頑張りたいこと、好きなこと、楽しいことだけ頑張ればよいのです。私は。
さほど好きでもないのに頑張るのは「頑張っている自分」が好きだから、は良いです。好きです。
そういうときは素直に「誉めてー」と言うことにしています。
頑張っている自分が好き!あたいかっこいい?輝いてる?全てYESで答えて!
と強要します。意外と楽しいです。被害者は主に夫です。たまに妹です。

なんていうか欲求は素直に認めるのが私にとっては重要です。
自分が望んでいることを、誰にでも告げる必要はないけれど、自分だけは知っていることは重要です。
知らないと、どこかで自分が他者に与える以上を望んでしまう気がするのです。
与える以上を望むことは悪いこととは思いませんし、人それぞれですが
要求を「いやだよ」と断られたときに怒るのはよくない。

あ、そうだ。次はフレーズの比較を書こうっと。
これはいいけど、これはやだ。ってやつ。
フレーズだけか、私からしたら内容もちがってくることなのかは書いてみてから考えます。






2006年4月14日(金)PM:1:57に上げた記事です。

ここでも○○を書こう、とか言っています。
もうすぐ記事を写しきるのですが、終わったら今度は最初からコメントを付け足していく作業をしようと思っています。
コメントも全部写してみようかな、と。
んでもってその時にこそ書こうとしていたことをまとめようと思っています。
最初はそれが大きな目的の一つだったのに、途中で忘れてしまい、またしても放置気味なので。


ううーむ。もんちっちにしてみたくてスキンを変えたけどやっぱり3カラムは厳しいです。
うう…見づらい…。だめだな。

ことばとものがたり

はりねずみ話に、たくさんの感想をありがとうございました。とても嬉しかったです。
あのお話は、ふと思いついたセンテンスと単語だけを元にテーマをはめて書きました。
「ママ・ヘッジホッグが威厳たっぷりに腰に手を当てる」というのと「ヘッジホッグ」でした。

あのお話を書いて、コメントを読ませていただいていて思ったのです。
ものがたりってすごいなー、って。
だってね、多分あれを普段私は、疑問と諸説の見解、そして現時点での結論、思うこと、
それらを、「私の言葉」で書いているけれど、そうして書いた文章だったら
あんなに色々感じたことを教えてはもらえなかったと思うのです。

それってすごいことだな、と思ったのです。
多分この先も普段、私はいつもの通りこうして長い、回りくどいことを書き連ねると思います。
時々、ああして、ふと生まれたセンテンスや、音の響きが気にいった言葉が何らかの形を持ったら
またお話も書きたいけれど、毎回お話仕立てには出来たとしてもしないと思うのです。
それらをふまえて私がどちらか、という話ではないのですが
ノベリスティックな人とジャーナリスティックな人、というのを以前考えたのですが
元の職場で、外国の方なのですが、わりと有名なジャーナリストの方とお仕事をしたことがあります。
その方との雑談の中で聞いたことなのですが

ジャーナリストは考えることで出来ている。考えられない人はジャーナリストには向いていない。
ジャーナリストに必要なのは、与えられた「何か」例えば思想であったり
嗜好であったり、単語であったり、だけど、その「何か」がなんであっても書けること。
そしてそれよりも大切なのは「決まった字数と決まった日程」で
読むに値するものを書けなければならない、ということです。

と言っていました。その方の考える「ジャーナリスト」の見解ですが、
それを聞いて、ジャーナリストという仕事は食事の支度にも似ているなぁと思いました。
主婦と違うのは、彼らはいつか、その資質を持っていたとしても、使わずに済むようになることです。
そうした連続性を求められ、持久力を求められ、それに結果を残していくことにより
そういったルーティンの制限は減り、(ある程度)好きなときに、(ある程度)好きなテーマで
自由に書ける場所も獲得できるということです。

ただ、そこに行き着くまでの「与えられた字数内、与えられた期限内で与えられたテーマ」を
読むに値する形に変えていく作業というのは、とてつもなく大変だなぁと思ったわけです。
特に前2つは本当に大変なことだと思うのです。
それが「何度か」ならなんとか出来ても、連続性のあるそれらは本当に厳しいだろうなと思うのです。
人間は好きなこと、やりたいこと、望むもののためになら頑張れるし、豊かな視点も持てますが
「与えられた」という枠の中で形を作るというのは本当に大変だと思うのです。
ジャーナリズム1本で食べて行けるまでには、サラリーマンでなければいけない時間もあり
サラリーマンは「暗黙の了解」がやたら多く、最も必要そうな自由な発想が許されない面も多そうです。

ジャーナリストだけでなく、ノベリストにも言えることですし、何らかの形で
思想や自己を表現する人はみなそうかもしれません。
感受性が豊かで、更に視点を複数持つことも要求されます。
ここには私は一つ、複雑というか「奇跡」的なものが含まれていると考えているのですが
視点を複数持たなかったとしても、隠された視点、というものを持っている人がいます。
そういう方の描く世界観やジャーナリズムは独特、かつ斬新で、エモーショナルだと思うのです。

「隠された視点」は誰でも一つか二つは持っていると思いますが
いくつもいくつも持っている人、が極まれにいると思うのです。
そういった才能が発掘されて、羽ばたいている姿を見ると真剣に圧倒されます。
絶対的な違いを感じ、羨ましいとすら思わないのです。
ただただ、賞賛するだけです。発信されたものを考えることはしますけど。

私は興味の優先順位もかなりはっきりしていて、知りたいことは多々あれど
それの優先順位が低いものに関してはかなりヌルく接しています。
このジャーナリズムやノベリズムに関しても、主観的で決して深く洞察してのことでもないし
かなりヌルいこと言っていますが、これを深く考え、きちんとした文献を調べ、
事実に基づいて、その上で自分なりの見方をしたいかというと、そうでもないのです。
このくらいでいいや~、って。

これ、この件に関してきちんとしたそういう手順をふみ、深く考えている人が読んだら
ふざけんなー!と思うかもしれません。それはごめんなさい。
もし怒られたら、きちんと改めよう。←このへんが本当にヌルい
多かれ少なかれ、人は自分が興味があり、それらへの知識欲が湧けば深く考えるし
興味がなければ、さほど深く考えなかったりなのでしょう。
興味がなくてもいつか、何かが繋がって、そこから考え始めるかもしれないし
置かれた環境によって必要になれば考えると思うのです。
時々、人を「考えが浅い、ヌルい人間」と嘲笑う人もいるけど
部分的に切り取ってそういう評価を下すのも結構ヌルい考えのような気もします。
ヌルい部分とヌルくない部分は誰にでもあるし。
あ、これは「ヌルい」という単語に対しての考察ではないですよ。
ただ、興味のある分野が違うだけで嘲笑の対象とすることへの考察です。

まあ、私のことは、なんていうかバカがぼんやり生きてんな、と生ぬるく見守ってください。
バカはバカなりに、転んだり、ひっかかったり、笑われたりして気付けば、それなりに学びますから。

…てなんでそんなに卑屈なんだ。
最初と最後でえらい違いだな。しかも段々うさんくさいかんじになってきたよ。
…ま、いっか~!ばち~ん☆

【ちょっちぷん】[壊][脳みそ風邪っぴき][終わり]






2006年4月10日(月)PM:0:50に上げた記事です。

物語ってのは本当にすごいな~と、心から思います。

語り継がれてゆくところも、いつの時代にもマッチングしていくところも

何故か分析され、あーでもないこーでもないと推測されゆくことも含めて最強だなと思うのです。

言語化された情報がいつまでも老若男女問わずに求められるというその在り方は怖いくらい美しく感じます。

はっ!今気付いたけど横にモンチッチのスキンがある…。

すごいはりねずみのはなし

ヘッジとホッグは、どちらが「よりすごい」はりねずみになれるか競争をしていました。

ヘッジが「ぼくは石みたいに固くて、石みたいに転がって攻撃できるよ」と石のように丸まって言います。

ホッグは「ぼくは針みたいにとんがって、針みたいに刺して攻撃できるもん」と言って毛をさかだてています。

ヘッジとホッグは次々に何かになりました。

ヘッジが「木になったつもり!」

ホッグが「ぼくは山だよ!」

ヘッジが「山より海さ!海になったつもり!」

ホッグは「海なんて、水じゃないか、僕は大火事だよ!」

ヘッジは「火は水に弱いんだよ!海のほうがすごいよ!」

ホッグは「水なんて沸騰したら消えてなくなっちゃうじゃないか!」

ヘッジとホッグは考えました。何が1番すごいんだろう??

ヘッジは「ぼくは神様がすごいと思う」

ホッグは「神様なんて見たことないよ!」

とうとうヘッジとホッグは毛の針をふうっとさかだててけんかをはじめてしまいました。

ヘッジが言います「なんだよ!神様は見えないんだからしようがないじゃないか!」

ホッグも言います「見えないものがいるのか誰にわかるんだよう!」

ぼかすかなぐりあい、とっくみあい、お互いの毛の針が無数に突き刺さります。

ヘッジが大きな声で言います「あれもだめこれもだめ、ってじゃあ何がすごいんだよ!」

ホッグだって言います「ぼくにだってわからないよ」

それを見た、ママ・ヘッジホッグはたっぷりしたエプロンで手を拭いて、すうっと息を吸い込みながら、

威厳たっぷりに腰に手をあてると、大きくよく通る声で言いました。

「おまえたち。おまえたちが知ってるのは世界のほんの少しなの。

「つもり」になって何もかも知っていると思ってはいけません。

時を切り取ってそこだけを考えてはだめ。まずは自分がどういうものになりたいのか理由も考えなさい。

考えたら、本当になれるかどうかかんがえなさい。

そのときはなりたい理由と、なるための努力を秤にかけなさい。

なりたい理由と、なるための努力、勝った順に順位をつけなさい。それが優先順位というの。

できたら、もう一度なりたいか、今度は自分に問うのよ。

さ、その話は今日はおしまい!さあさあ!おやつの時間ですよ!」

ヘッジとホッグは、本当はよくわからなかったけれど、大きくうなづき

のしり、のしりとテーブルに向かうママ・ヘッジホッグの後を転がるように追いかけました。

ヘッジとホッグは、糖蜜とたっぷりのバターがぬられた焼きたてのホットケーキが

テーブルに並んでいるのを見て、何もかも忘れ、大喜びです。

ヘッジが言います「ママ・ヘッジホッグの作ったホットケーキが1番おいしいね」

ホッグも言います「そうだね、1番だ!」

二人は仲良く、ママ・ヘッジホッグの作ったホットケーキを、いーっぱいたべました。

あ、ヘッジとホッグ!水蜜のお茶もわすれないでね。のどにつまるから!




おしまい





2006年4月6日(木)AM:10:54に上げた記事です。

むしょうにジャスミンティーが飲みたいです。最近あんまり見かけません。
数日前、とある漫画を読んで号泣しました。
泣くという行為はすごいカタルシスがありますね。号泣、がポイントです。
しくしく泣くと後でまた辛くなったりしますが、声を上げて幼子のように泣き喚くと
バカバカしさとともに少し毒が抜けるように感じます。
そして声が涸れて涙が底をついて来るとジャスミンティーが飲みたくなります。
ひとときの涼しい日が終わりました。

白くて重くてサクサクのヤツ

どうやら映像に今ひとつ興味がないちょっちぷんです。
写真とか映画とか、さほど見ないのです。
絵は好きなんだけどなぁ。…現実逃避か?(笑)
いや、絵の写実派は好きですよ。

という前置きが何故あるのかというと。
日曜日、レアチーズケーキを作ったのです。
firoswi兄さんとこで、先日チーズケーキにまつわるいい話の記事 を読んでいたら
猛烈に食べたくなってしまったので、いっぱい食べようと思って作りました(笑)
かなり美味しかったのです。トップスに負けてない、と自画自賛。
で、それを写真に撮らなかったから、なんで撮らなかったのか自問してみたところ冒頭の文章が生まれました。

そんなキッカケと、カッタウェイさんちで映画の話の記事 を読んで思い出したのが
私は生まれてから今日まで、映画館に足を運んだのは5回しかないということ。
コメントでカッタウェイさんに「内訳が気になります」とおっしゃっていただいたのですが
どれも自分で選んで行ったのですらなくて、ジャンルもめちゃくちゃです。

南極物語(もう2度と見たくない)
仔猫物語(あの、チャトランという茶トラの猫が出てたやつです)
ドラえもん(どの映画だったか忘れちゃった…)
ホットショット(チャーリー・シーンが出てたことしか覚えてない…)
ハリー・ポッター(1番最初の)

です。前3つはおばあちゃんに連れて行ってもらったのです。
ホットショットはデート中何もすることがなく映画でも見ようと、その時の彼が選んだのです。
他に良さそうなのがなかったらしいのですが、全く興味のないタイプで私はぐっすり寝てしまいました(笑)
ハリー・ポッターは以前勤めていた会社の顧問のおじいちゃまが恥ずかしくて一人で見に行けない、と
私をカモフラージュに連れて行ってくれました。

私はテレビもろくに見ないし、写真も全然撮らないし、写真展とかも特別行きたいと思わないし
映画館にいたっては知らない人が近くにいるので落ち着かないし、です。
美しい写真を見れば感動するし、映画もビデオでは何本もまとめて見ますし
本で気に入ったものは映画になっているかチェックもしますが
あくまで偶然出会ったか、本や活字からの興味です。
不思議なものです。字で書いてあったら読みふけるのに。なんでだろう。

自分で選んで観るのは、昔の洋画が多いです。
差別問題がテーマのものとか、心理描写が複雑なものが好きです。
それとやっぱりファンタジー。
動物の実写ものは実はあまり好きではありません。
CGものはいいんだけど。あと子供が主役のものもあんまり好きじゃないな。
親子の心理的な違いが出るものは結構好きです。
アニメも結構好き。あくまでファンタジー系が。

好みは結構あるのに、あんまり好きではないというのが不思議です。
視覚が自分にとって影響が大きいからでしょうか。
百聞は一見にしかず、と言いますが、確かに聞くより見る方が早いことも多いからな~。
ま、より活字が好きなんだろう。ってどうでもいいか。
チーズケーキだよ、問題は。
燃費の悪い夫は、軽く半分くらいは一人で食べました。
美味しくてたくさん食べたいんだけど、たくさんは食べられないジレンマに苦しみつつ食べて満足。
もうしばらく作らないと思います。

お菓子を作る工程を楽しめないちょっちぷんでありました。
優雅じゃないなー。
いいの、優雅よりやんちゃがスキ。子犬のワルツを地でいくのです。いつまでもいつまでも。
そうしていつか意地悪ばあさんみたいにインラインスケートでも履いて街を闊歩するんだー。
そのためには身体を鍛えないとね。
トライアスロンどころでなく、娘を抱いて一日歩いたらくらくらしました。
身体はそれぞれのスポーツにより使うところが違うからねーはっはっはー…(笑)

なんか何書いてるかわからなくなってきた!←いつものこと
なーんかなーんか、ここ数日書く意欲が湧かない、ちょっちぷんでありました。





2006年4月4日(火)PM:0:51に上げた記事です。

予想通り、これ以降全然作りたいと思っていません(笑)
暑いから食べたいと思っていないせいもあるかも。

いつか娘とアイアンマンレースにも出場したいものです。
暑くてジャージを着ただけで倒れそうになっている今は全然無理!とも思うのだけれど。

娘がもう少し大きくなったらもっと朝早く走りたいんだけど、今はどうしても午前中がやっとだ。
ていうか夏はプールで体力作りしたほうがいいよな、多分。
知り合いは、この真夏の炎天下にどでかいリュックを背負って汐溜めから府中まで走っているらしい…。
死んじゃうよ…。

桜を愛でる

やっと通常運営に戻り、幾日か連日で何かごちゃごちゃ書きましたが
何故か急に、ネタはあれどもいざ書こうとすると「………ま、いいか」と書く気がそがれてしまいます。
特に疲れてもいないし、悩んでもいないし、これといって理由が思い当たりません。
春だからかな。今日はなんか、書くぞ。

昨日、お花見に出かけました。
どの天気予報でも、日曜は天気が崩れる、満開で見ごろは土曜、と言っていたので
すごい混雑を予想しながらも、買い物がてら出かけてきました。
まあ当然のことながら、人がいっぱい。
某駅では改札口から出るのに列を作るほどの大混雑。

駅員さんが声を嗄らしながら「○○口においでのお客様はこちらにお並びくださぁ~い!!」
と、音の割れた拡声器で怒鳴りながら駆けずり回っていました。お疲れ様です。
私たち家族は、もっとも空いている出口にまわり、のんびりと歩きました。
どこも人でいっぱいで、娘の手を引いて歩くのが怖いです。
歩きたいさかりの娘は、だっこは断固拒否!
なるべく空いた道を選びながら、ぶらぶらして、家から出ると
「お腹すいた」とのたまう夫がまたしてもうるさいので早速食事。
さっき朝ご飯食べたじゃんか!と言うと
「だってもう2時間たってるよ」だって。
きさまは2時間で給食の出る小学校にでも通っていたのか。
と言いたくなり、言った。

「そんなわけないじゃん(笑)」だって…。

さすが孫悟空。とりあえず、何か食べさせてあげねば。
娘は、たくさんの人がうじゃうじゃするのが楽しい様子。
きゃっきゃっと笑っている。
お腹が満たされて、ちょこっと買い物もし、公園の方へ。
本当に満開でした。
桜は1本残らず満開、人も満開。いや、満員。

歩く公園の道、上の空間はまるで桃源郷、薄桃色の雲に花吹雪が舞い、くらくらするような美しさ。
片や下の空間は酒池肉林。欲望のままに飲み食いし、声を限りにしゃべる人。あとゴミ。
…うーん、全然贅沢じゃないか(笑)

ゴミと酔っ払いと、ブルーシートとカラオケと人。

おじさんは木に登り、道で眠りこける顔が赤紫の若者。
ミニスカートを穿いていることを忘れ、あぐらをかくギャル。
道行く、うら若き乙女に大声でがなりたてるおじさん。
バイオリンを演奏しているおばさま。

日はまんべくなく射して、暖かいとは言え、薄ら寒い風も吹くなか宴会は終わることなく続いていました。
おそろしいほどの人出、そして数時間後にはみな酔っ払いって、公園全体もお酒の匂い。
お酒の飲めないちょっちぷんたちは、上の天国と下の天国を交互に眺めて楽しみました。
娘は主に下の天国がとってもとっても楽しかったようで、酔っ払いのおじさんを
じっと見ては、きゃっきゃっと大笑いでした。

小さい子供を含む家族連れには、お花見は向いていませんでした。
酔っ払ったおじさんばっかり見てるし。
屋台で何か買って食べるのを楽しみにしていたのですが、直前に食事をしてしまい
お腹いっぱいで、何も食べたくありませんでした。がっくし。
今度はお弁当持って、平日にピクニックがてらお花見も出来たらいいな。

さてさて、今週はそんな日が予定に組まれるかどうか。
どこへ、何をしに行くとしても、とにかく夫の腹だけは満たしておかなければ。





2006年4月2日(日)PM:2:54に上げた記事です。

外ではセミが最後の熱戦を繰り広げています。
ほんの少し秋っぽい日が何日かあっただけで、少し癒されます。秋が好きだ。
しかし桜は本当に美しい花だなぁと思います。
桜だけでなく、自然は多分じっと見つめているとじわじわとその美しさで魅了するもののように思えますが。
でもやっぱり桜は私にとって格別の花であり、樹です。美しくて力強く、それでいてはかない。
切ない生を感じます。